四文字の封印
……緊張するなぁ。
鰯雲が秋空をたゆたう日曜日、午後。わたしはみかづき公園の時計台の下に佇んでいた。九月も中旬、昼間でも日陰にいれば暑さもほとんど感じない。すべり台の下の日陰には、黒い野良猫が一匹、しっぽだけ日向に出してまどろんでいる。
そんな近所の公園の平和を観察しながら、わたしが何をしているかというと待ち合わせだ。それも、十八年間生きて初めてできた恋人との。
猫かわいいなぁ、とか、雲が綺麗だなぁ、とか、そんなどうでもいいことを冷静に考えているかたわら、これからやってくるであろう恋人の姿を想像して、どうしようもない緊張と高揚に動揺を隠せない。ふと、時計台の後ろの花壇に咲いたコスモスの花言葉が『乙女の愛情』『乙女の真心』だというのを思い出す。自分は乙女とは程遠い人間だと思っていたが、この心情はまさしく、少女漫画に出てくる乙女そのものじゃないか。
そうだ、わたしは乙女だったんだ。
きのうだって、着て行く服に一時間近く頭を悩ませた。今までおしゃれに無頓着だったことを悔い、手元の数少ない雑誌をかき集めてどんなファッションが男子にウケるのかを、それこそテスト勉強なんて比にならないくらい研究した。「こんなこと考えるがらじゃないわ」なんて言いつつ、クローゼットとドレッサーを何度も行き来していたのは事実だ。
あまり背の高いほうでない彼氏を思い、ヒールを履くか履かないかで悩んで、母親にそれとなく聞いてみたりもした。
化粧は濃いほうがいいのか薄いほうがいいのか、もしくはしないほうが好みなのか、つけまつげはつけるべきなのか。自分の顔を鏡越しに凝視して、ため息をついたのなんて一回や二回じゃない。
だいたい、会って最初に何と言えばよいのだ。 「おはよう」? 「こんにちは」? 同級生にこんにちはって普通言うか? それにもし話題が尽きてしまったらどうするんだ。恋人同士の沈黙は、美しくて心地良い……なんて、それが嘘だったらどうしよう。
恋をしたことによって、自分の新たな一面を見つけてしまった。ショックというか意外というか、そんな自分に少しだけ戸惑ってしまう。
だけど、がらにもなくおしゃれをした自分は、世界で一番かわいいと思う。
自惚れではなく、事実として。
穏やかな秋の風景は、恋する乙女の心情とは程遠い。
恋をした女の子がどうしてかわいくなるのか、わたしはずっと不思議だった。
彼氏ができた友達が彼氏のことを楽しそうにしゃべるのも、彼女にいいところを見せるために部活に一層励むその彼氏も。デートのたびに着て行く服に悩み、悩みながらも幸せそうに頬を緩める姿も。わたしにはどれもが眩しくて、不思議だった。
だけど今、その謎が解けた。
大切な人、とはまだいかないけれど、心の底から好きになったひとができて初めて、わたしは恋を知った。
好きな人が大好きな人になり、大好きな人はやがて愛しい人になる。しかし、愛しい人と大切な人とは、ただイコールで結び付けるには雑すぎた。愛しい人が大切で、大切な人は愛おしい。その数式は見事な必要十分条件なのだ。
大切な人の先に何があるのか、わたしはまだ知らないけれど。――
本当はすごく嫌だった。デートなんてしたくなかった。
制服以外で会うのは初めてで、服ださいな、とか思われたらどうしようって。緊張して上手く話せなかったら、つまんないやつだと思われちゃうって。
学校の外には、学校にはないものが当然あって、それはものすごく恐ろしい。普段はしないようなこと、できないようなことが、簡単にできてしまう。ということは、それだけ恥をかくリスクも高まるわけで、それはなんとしてでも避けなければならない。
そんな理由で、今まではずっと外で会うのを断っていた。嫌われるよりも、会わないほうが楽だったのだ。少なくとも、わたしはそれで納得していた。
だけど初めて、『会いたい』がそれに勝ってしまった。
会いたい――
たった四文字のこの言葉。だけど現実では滅多に口にすることのない言葉。わたしはその四文字にかけていた、重い封印を解いたのだ。
時計の針が二時をさす直前、公園の入り口に人影が見えた。紺色のシャツにカーキ色のズボンを身につけた人影は、徐々にわたしに近づいてくる。
「おはよう」
「もう二時だけど」
「じゃあ、こんにちは」
「うん。こんにちは」
彼はふわりと微笑んで、わたしの隣に立った。
「おしゃれしてきたんだね。すごく似合ってるよ」