ユアン・スウ教授
柔和そうな笑顔を浮かべた老人だった。
着古した茶色いジャケットに、同色のズボン。あまり身なりには拘らない感じの人だった。
「おお、ケイちゃんかい。オシャレをしているから分からなかったよ。チャットでは下着に白衣だからねぇ」
「……お前は普段、何て格好で動き回ってるんだ」
ケイの通訳に、僕はたまらず突っ込んだ。例によってここからの老人の台詞は全て、ケイの通訳である。
「外ではないぞ。室内じゃ」
「室内でも、せめて人前に出る時ぐらいもうちょっとマシな格好しろよ!?」
「そちらの御仁は?」
老人の視線が、僕に向けられた。
「うむ。旅の同行者で名前を相馬ススムという」
ケイの言葉に、ふむふむと得心がいったように、老人が頷いた。
「ほう……という事は、ケイちゃんの名前、あれは同姓同名ではなく本人だったという事かな?」
「うむ」
「っておい、ばらしちゃダメだろ!?」
たまらず僕は、ケイの口を手で押さえようとした。
「これにはちと事情があるのじゃ」
「そうなのかい?」
老人が首を傾げるのに対し、僕は肯定するしかない。
「え、ええ、まあ……」
「簡単に説明するのじゃ」
という訳で、ケイが本当に簡単に説明した。
……いやまあ、説明時間が一分程度だったから、それも推測に過ぎないけど、ともあれ老人は納得してくれたようだ。
「ふむ……大人げないと言えば大人げないが、だからこそ若い時にしか出来ぬ暴挙かもしれないねぇ」
という台詞からも、僕の事情についてはちゃんとケイは話してくれたらしい。
「だ、黙っていてくれますか?」
「いいよ。僕も追われている身だから」
ニコニコと、相変わらず笑顔で老人が言う。
「ぬ? どういう事なのじゃ?」
「ちょっとね」
「ってケイ。その人も紹介してくれないか? お前だけ知ってるってのも、何だかこっちの尻の据わりが悪いよ」
いい加減、僕も地の文で老人老人連呼するのも、飽きてきたというのもある。
「ああ、この人はユアン・スウ。物理学の教授じゃ」
「へえ……はじめまして、先生」
頭を下げ……かけ、手を差し出した。
「よろしく」
スウ教授がその手を握り返してくれた。
と、そんな様子をケイが複雑な顔で見ていた。
「ん? 何で変な顔してるんだ?」
まさか、仲間はずれにされたとか感じている訳じゃあるまいし。
「や、教授はネーブル物理学賞受賞者なのじゃが、知らぬのかの? それなりに知名度はあると思うのじゃが」
「ネ、ネーブル賞!?」
って事は、物理学や化学の世界的な権威じゃないか。
「ああ、そういうモノも前に受けたかな。そんな事はいいよ」
「あ、あの……」
「うん?」
「記念に、サインお願い出来ますか?」
僕はポケットから手帳と万年筆を取り出した。
「うん、いいよ」
サラサラと、あっさりスウ教授はサインをしてくれた。いい人だ。
そしてそれを見て、ケイがからかってきた。
「ミーハーじゃのう」
「っさいなぁ。こんな機会、二度とないかもしれないだろ?」
「妾のサインはいらぬのか?」
「何でお前のサインがいるんだよ……」
「ねえ、ススム君。この、僕の隣のサインだけど」
「ああ、そっちはさっきまで世話になってた、アーサー・ペンドラゴンさんって人のサインです」
バスの中で、記念に書いてもらっていたのだ。
だ、だから、別にミーハーだからとか、そういう事だけでスウ教授にサインを求めた訳でもないのだ。
「ふーん……」
「何か気になるのかや?」
「いやぁ……ちょっと達筆だなぁと思ってね」
はい、とスウ教授は手帳を閉じると、僕に返してくれた。
「君達はその、何だ、ここに来たのは結婚するつもりかね?」
「じゃから違うと言うに。ほぼ完全になりゆきなのじゃ。そもそもそれを言えば、教授こそ何故ここにいるのじゃ。確か失踪していたのではなかったのかや?」
「ああ、それね」
「おい待て」
相変わらず、すごい話題をサラッと流す二人なので、僕としてはブレーキを掛けるのに苦労する。
「今、おいと言ったかや?」
「それはいいから。何か今、トンデモナイ事言わなかったか? この人、失踪してたって?」
「妾達も失踪では、当事者じゃぞ?」
「そうだけど!」
僕らの失踪と、世界的な物理学者の失踪では、レベルが違うと思う。
「それに、ユアン・スウ失踪事件はニュースにもなったのじゃ。何故に驚くのかや?」
そのレベルが違う失踪を知らなかった僕は、思わず目を逸らした。
「……や、だって外国の教授の失踪事件なんて、国内じゃそんなに詳しくやらないし」
多分、ニュース自体は目にしたはずだけど、単純に覚えていなかったのは間違いない。
「うむ、とにかく行方不明になっておったのじゃ」
「うん、ちょっと拉致されててねえ」
「またサラッとトンデモナイ事通訳しやがったな!? 誤訳じゃないだろな!? 自分で消えたんじゃなくって、それ誘拐じゃねえか!?」
「誤訳じゃないよ。ええとねぇ、二人とも青羽教って知ってるかな?」
何だか今日一日で、その名前をよく耳にするようになった気がする。
「青羽教って……昼間、幹部が捕まったって言う、あれ?」
「そう、それ。その事件のドサクサで、僕も逃げ出してきたんだよ。危ない所だった」
それはそれで、普通にある疑問が沸いてしまう。
「って警察に保護されればよかったんじゃ……」
「警察の中にも青羽教のスパイいるからね。誰を信じていいか分からなかったから、この教会に飛び込んだんだよ。……いや、正確にはちょっと違うかな。青羽教の支部を壊して僕達を助けてくれた人が、ここに逃げるといいって教えてくれたんだよ」
「え、警察のがさ入れとかじゃなくて……?」
「それは、後の話。支部に襲撃があってね、その騒ぎが大きくなって、警察が来たの。その時にはもう、幹部の人達はその人にやっつけられちゃったんだけどね」
「……さっきから、単独の人間が襲撃したような表現じゃが、間違っておらぬよの?」
そういえば、その人達じゃなくてその人、とケイも通訳してくれている。
「ああうん。ほらゲームのさ、無双系って奴? あれ知ってる? そんな感じでこー、剣や銃持って襲いかかる青羽教信者達をバッタバッタと棒術で倒しちゃっててね。ありゃあすごかったよ。アクション映画みたいだった」
僕は思わず、ケイを見た。
「……この爺さん、どこまで本当の事を言ってるんだ?」
「……ホラ吹きという話は聞いた事がないのじゃ。それよりも別の疑問が出てるのじゃ」
「何だい? 拉致した人の事は話したよね? どういう経緯だったかとか、聞きたいのかい?」
「詳しく聞いてると、夜が明けてしまうのじゃ。でも、さっき僕達と拉致された側も複数形だったのが、気になるの」
「ああうん。僕とかねえ、ネーブル賞ならあれだ、あの彼女、園咲リオンちゃん。太照の人だから、ケイちゃんには僕より馴染みがあるでしょ?」
「何と、リオンもいたのかや!?」
その名前は僕でも覚えていた。
何せ、たった一年前物理学賞を受賞したばかりの、物理学者だ。
「なあ、何かこんな教会で話してていいのこの話題!? すごく大ごとっぽいんですけど!?」