第三章 (一)
ベッドから滑り落ちる本の音で、メリンダは目を覚ました。
目の前にある見慣れた自分の部屋に安堵をうかべる。いつの間にか、眠ってしまったようだ。
震える唇からため息がこぼれ出る。
両手の指先で瞼を強く抑え、全身に冷たい汗が出ているのを感じていた。
悪夢の事が、瞼に焼きつく。以前にも見る夢だった。
ロンドンに戻ってからも、また見るようになっていた。いつから見るようになったのかさえ、思い出せない。「ただの夢…。」自分に語りかけ、震える体をベッドから起こし、見慣れた部屋の中を見渡した。
サイドテーブルのろうそくが弱々しい灯りになっているのが目に留まった。悪夢から逃れるために本を読んでいたのだが、今夜も同じ夢を見るのには変わりがなかった。
メリンダは体をベッドから静かに下りると、床に落ちた本を拾い上げ、部屋の窓に厚く閉じられたカーテンの隙間から見える夜の闇に目を凝らした。
今夜の月は、夢と同じく赤く見えるようだった。
結局、メリンダは目を覚ました後再び眠ることができず、ベッドの中で本の続きを読み、朝を迎えたのだった。
窓から差し込む光は、ようやく明るくなった程度だったが、ランダムア・ハウスの使用人たちは、まだベッドの中に違いない。もしかしたら、執事のハワードや厨房のメアリーなら、もう起きだしているかもしれない。
メリンダは寝間着にガウンをはおり、厨房に向かうため部屋を静かに抜け出した。裏階段から厨房に入ると、メアリーの厨房はもう火が入っていた。鍋にも、湯鍋にも、湯気が立ち上がっていた。美味しそうな匂いが鼻に付くほどだ。
「おはよう、メアリー。とても、美味しそうないい匂いがするわ。」メリンダは、背を向けて火釜の前にいるメアリーに声を掛けた。殆ど、眠れずベッドで過ごしていたメリンダは、かなり朝食が待ちきれなくなっていた。
「おはようございます、お嬢さま。どうされたのですか?朝食には、まだ早いお時間だとおもいますが。」メアリーは、スープの鍋をかきまぜながら振り返った。
「早く目が覚めてしまい、少し喉が渇いたの。お腹も、ちょっと空いてて…」メリンダは、お腹の事は少し恥ずかしかったが、メアリーは昔からランダムア家の厨房を任された料理人なので、それほど恥ずかしくは思わなかった。
「お望みなら、今お茶をお入れ致しますね。スコーンの残りで宜しければありますが、召し上がりますか?」
「もちろん、頂くわ。」メリンダは、メアリーの頬にキスをした。
「お嬢さま、はしたないですよ!レディは、そういう振る舞いはおひかえになった方がよろしいですよ。」メアリーは、メリンダに微笑みながら、両手の拳を腰にあてて言った。
メリンダは、くすくす笑いながら気にする素振りもせず、厨房で使用人たちが使うテーブルの椅子に腰を下ろし、メアリーの入れる紅茶を待っていた。
「サムは?」厨房を見渡しながら、メアリーの息子が居ないことに気が付いた。
メアリーの息子は、まだ年は十三だったが母親の厨房や厩舎の馬の手伝いをしていた。一人っ子のメリンダは、幼い頃サムを引き連れ、一緒に遊んで過ごしていた。友達と言うより、弟と同じだった。
「サムは今朝、厩舎の手伝いに行っています。旦那様のお使いに出ていたロバートさんが暇を頂いたので、その代わりにサムが馬たちを見ているのです。」
メリンダの座るテーブルに紅茶とスコーンをのせたトレイを置きながら言った。
「まあ、使いだなんて。何があったのかしら。お父様が病を患ってから、わたし家の事もお父様の事も凄く心配でたまらないの。わたしが結婚をして、お父様を安心出来るようにしたいと思っているほどですもの。」メリンダは、深く息をついた。
「大丈夫ですとも、旦那様のお体は少しずつ良くなりますよ。」メアリーは母親のように、メリンダを見つめていた。
メリンダは今年十八の年を迎えた。自ら、ランダムア公爵令嬢として、社交界へ出ることを決めていたのだ。公爵家の資産は、領地からの僅かな管理利益しかなかった。数年前に父の公爵が投資に失敗し、銀行にはお金が殆ど残っていない状況だった。このことは、伯父のサーマス卿から聞いていた。
伯父の付き添いで裕福な夫を探し、わたしが公爵家の財務を立て直さなければならない。父が、床に伏せてから長い月日が過ぎ、母はわたしが幼い頃に亡くなったと聞かされていた。幼い思い出は、優しい父との思い出ばかりだった。わたしが公爵家を、なんとか立て直さなければ。
美味しい紅茶と少し硬くなったスコーンで、お腹を満たされたメリンダは、メアリーにお礼を言って厨房を後にし、来た時と同じ裏階段を使ってニ階にある自分の部屋へと戻った。
それでも、メイドのリリアが仕度を手伝いに来るまでは時間がある為、自分で先に身だしなみと身支度を済ませることにした。
メリンダ自身、コルセットや腰当てなどと言う体の締め付ける物は嫌いだった。本来なら、社交界にデビューする前から美しく着飾り、大きく見せる所は大きく見せ、細く見せる所はそれ以上に細く見せるのは、知っていた。でも、その時になるまでは、どうでも良いことだと思っていた。メリンダの体型は小柄の方だったが、大きく見せる所は小さく、細く見せる所のウエストは本当に細かった。それでも、亡くなった母に似て、髪の色はブロンドで腰まで長く瞳は淡い緑色をしていた。社交界のレディの様に、美しい白い肌ではないが、健康的な金色の肌をしていた。
幼い頃から田舎の領地で過ごすことが多かった。弟代わりのサムを連れて池で釣りをしたり、川や野原を走り回って過していた。もちろん、動物も馬も大好きだった。
最近は、年頃になるにつれメアリーに「レディらしく。」と、言われるため、それらしく振る舞ってはいるが。そんなメリンダが、裕福な夫を見つける為に社交界へ出ることは父は知らない。メリンダの秘密でいたのだった。