08 突然のホームシック
ぱたりと手の甲に滴が落ちる。ヴィルが歪んで見える。
慌ててぐいぐい涙を拭い、宮子は笑ってみせた。
「あ、はははは。だ、騙されたね、ヴィル」
「なに?」
「涙は女の武器、だから、騙されちゃだめだよ。女はこうやって男の人の前で突然泣いて、誘惑したりするんだから。女嫌いで有名なヴィルもわたしなんかが泣いたくらいで動揺するんだね」
「ふざけるな」
ヴィルは不機嫌を露わにしてガタンと席を立つ。
そのまま怒って部屋を退室するのだろうと思っていたら、ヴィルは怒った顔のまま宮子の前に立った。
「きゃ!」
そして乱暴に宮子の腕を掴んで立たされる。
「な、なに?」
「ら、乱暴はおやめくださいませ!」
「侍女は下がれ」
思わず駆け寄ってきたエリーにぴしゃりと言い放ち、ヴィルはドアを指差す。
出ていろということだ。
エリーは唇を噛み一礼をすると、さっと身を翻した。
国王陛下に逆らうことはできない。
エリーが出ていったのを確認し、ヴィルは宮子に向き直る。
真剣なまなざしに、初めて彼を恐いと思った。
「何故泣いた」
「…ヴィルをからかっただけ」
「嘘を吐くな。ミレーネ嬢。俺は恋をしたことがないと言ったが、経験がないわけではない。女はよく泣く生き物だと承知している。だがあのように突然泣くのは解せぬな。俺の妻になるというのならばくだらない嘘は吐くな。お前が俺を誘惑だと。出来るわけがないだろう。何故泣いた、正直に言え」
「…嫌だと言ったら?」
「許さない。言え。理解できないことは嫌いだ」
「…手を離して。そうしたら話すから」
「話せば離してやろう」
ヴィルはそう言ったけれど、少しだけ掴む力を緩めてくれた。
本当に変に律儀な王様だ。
「わ、笑わないでね」
「聞いてから決める」
「ほ、ホームシックになったの」
「ホームシックとは」
「ひとりでここに突然来て、不安になったの。家族がいなくて寂しくなったから、泣いたの。ヴィルが怒ったからじゃなくて、誘惑とかじゃもちろんなくて、ただ本当に心細くなったから、それだけ!ほら、話したわよ!手を離して!」
今度は嘘を吐かずに言った。
ホームシックという言葉に偽りはない。
もちろんそれはカヤランの家族ではなく、日本にいる本当の家族が恋しくてだけど。
嘘なんて言っていないのに、ヴィルの手は離れていかない。
もしかして呆れているんだろうか。
一人暮らしを始めて四年。
もう一人の生活には慣れたと思っていたのに、こんなに寂しくなるなんて思わなかった。
お父さん、お母さん、弟、妹。
最後に会ったのはいつだろう、確か元旦に里帰りしてから会っていない。
「聞いても俺には理解できない」
「だから離してくれないの?」
「いや、どうだろうな。よくわからない」
「そう…」
「ミレーネ、俺といるのは嫌いか」
「え?」
「俺は、ミレーネが俺と一緒にいるのが嫌で泣いたのかと思ったのだ」
「なんで?」
「よく言われてきたからだ。父からは表情が乏しいと、母からは愛想がないと、弟からは顔も見たくないと、妹からは緊張すると。みな、俺といると息が詰まるらしい。お前もそうなのかと思った」
「…………」
恐い顔のヴィルはどこへやら、捨てられた子犬みたいな男の子が目の前にいる。
どうしよう。やっぱり、かわいいかも。
国王陛下にこんなことしていいんだろうかと思いながら、宮子はヴィルに掴まれていないほうの手で、ヴィルの腕を掴んだ。
驚いたのかヴィルの肩が少し跳ねる。
「ヴィルのこと息が詰まるなんて思ってない。別に嫌で泣いたわけじゃないから。ヴィルのせいで泣いたのは申し訳ない事実だけど」
「なんだと。やはり俺が嫌いと言っているじゃないか」
「笑えることに安心したの。やっと緊張の糸が切れたから泣けた」
「お、お前は、俺といて緊張するどころか、緊張が切れたと…?」
「うん。ありがとう、ヴィル」
ヴィルが目を見開いたまま一歩後ずさる。
手を掴まれて、自分でも掴んでいるので一緒に一歩移動すると、離せ、と怒られた。
言われたとおり離したけどヴィルが掴んだままなので距離は変わらない。
「離れろ」
「ヴィルが離してくれないと無理だけど」
「あ、ああ。そうだな、悪かった。痛くなかったか」
「大丈夫。ちゃんと力を緩めてくれたでしょう」
ご飯、続き食べようかと誘ったけどヴィルは緩くかぶりを振った。
この人のどこが無表情なんだろう。
「ミレーネ、お前は家に帰りたいか。それとも俺の隣にいるのか」
行かないでと目が訴えている。
家には帰りたい。けれど宮子に帰るすべはない。
だからいつか帰れるその日までは、
「ヴィルと一緒にいる」
「ああ」
「帰りたいって言っても許さないでしょう」
ヴィルはふっと笑った。
「ああ、そうだ」