05 リコリス王の噂
怒涛の展開で頭から飛んでいたけれど、宮子はいまこの世界にひとりなのだ。
エリーという味方はいるものの、彼女は諸悪の根源であるミレーネ様の侍女。
本当の意味で宮子の気持ちを理解してはくれないだろう。
きっと可哀想とも思っていないはずだ。
もしかしたら宮子は、この先二度と家族や友達に会えないかもしれないのに。
悲しいことに心配してくれる恋人はいないけど。
それにしても会社なんかはどうなるんだろう。
ずっと行かなかったら自動的にクビ扱いだろうか。
今まで考えなかったことがふしぎなくらい、そんなことを滔々と考えた。
「エリー」
「はい、ミヤコ様」
「ミレーネ様がわたしになり変わったってことは、つまり彼女が更科宮子になったってこと?」
「ええ、そうですわね」
「この世界と同じようにわたしの世界でも、ミレーネ様をみんなが更科宮子だって認識するの?」
「はい、そうなります」
「そっか」
「どうされました?」
「ううん、なんでもないわ」
更科宮子という存在が消えてしまうことはないと知り、ほんの少しだけほっとした。
自分が生きていた場所で、自分が生まれてこなかったことになるなんてぞっとしないから。
「ミレーネ様はきちんと更科宮子をやれているかしら」
「ミヤコ様をずっと見ていたミレーネ様ですもの。大丈夫ですわ」
「…そう。…ん?」
「ミヤコ様?」
「そういえばわたしはどうしてここの言葉がわかるの。これも魔法ってやつ?」
「ああ、そうですわね。それもミレーネ様の魔法です。ですからミヤコ様はこちらの書物も読めると思います。ただしこの世界の情報だけはわたしに聞いていただかなければいけませんが」
「情報か。そうだね、教えてもらわないと。嫁ぎ先の国王陛下の名前もわからない王妃なんておかしいもの」
「申し訳ございません。まさかリコリス王がこんなに早くいらっしゃるとは思ってもみなかったもので」
エリーは申し訳なさそうな顔をして、話し始めた。
「リコリス国はカヤラン国三つ分の大きさを誇る、この世界で最も人口が多く、最も栄えている大国です。リコリス国王陛下、ヴィルヘルム=ヴィラ=リコリス様は、前国王陛下であったお父上が逝去された二年前に即位されました。お母上は存命ですが前国王陛下がお亡くなりになってからはすっかり塞ぎ込むようになってしまい、ずっと離れに籠っておいでです。前王妃様はヴィルヘルム=ヴィラ=リコリス様のことをひどく嫌っておりますから、リコリス国王が即位したことが許せなかったのでしょう」
「どうして嫌っているの?」
「リコリス国王は、前国王陛下が男の御子をなかなか身籠らない前王妃様に困り果て、妾との間に作ってしまった御子だからです。例え妾の子とはいえ王の血筋の者。リコリス国王が御長子となられました。そしてその一年後、皮肉にも前王妃様が男の御子をお産みになったのです。当然前王妃様はご自分がお産みになった次子の、ルーウェン=フォン=リコリス様がリコリス王になることを望みましたが、それは叶わぬことでした。王家では長子を差し置き次子が跡を継ぐことなど無理な話ですから。前王妃様はリコリス王が前国王陛下を亡き者にしたのだと、リコリス王に凶器を向けたこともあったそうです。これは、ただの噂ですが」
自慢ではないが俺は今まで誰も愛したことがない。
哀しむでもなく淡々と言っていたヴィルを思い出した。
「…家族仲が悪いのね。弟さんとも良くはないの?」
「はい。これも噂の範疇ですが、ルーウェン様もリコリス王を憎んでいるという話です」
「…そう。ヴィルは二人兄弟なの?」
「いいえ。末子にシア=ファウ=リコリス様がいらっしゃいます。リコリス王とルーウェン様の妹君です。シア様は兄君たちのことを嫌ってはいないようなのですが、リコリス王はシア様のことも愛してはいないようです」
「そんなに事細やかに噂がカヤランにも伝わっているの…」
宮子が呟くとエリーは焦ったようにいいえと首を振る。
「ミレーネ様の旦那様になられる方だからと、ミレーネ様のお父上がお調べになったのです。ご家族仲が悪いことなどは周知の事実ですが、リコリス王が妾の子であるという話は城の上層部の者と、カヤラン国でもカヤラン国王陛下でありミレーネ様のお父上であられる、ブレドルフ=カヤラン様と、カヤラン国第一王子でありミレーネ様の兄上であられる、レオナルド=カヤラン様、そしてカヤラン国第三王女ミレーネ=カヤラン様、ミレーネ様の侍女のわたししか預かり知らぬところです」
それを聞き安心する。そして、疑問を覚える。
ミレーネ様は、リコリス王を支えようという気持ちはなかったのだろうか。
ミレーネ様の幸せは結婚ではないとエリーは言っていたけれど、それにしたって。
エリーを見れば、エリーはなぜか優しい顔で宮子のことを見つめていた。
「エリー?」
「ミヤコ様は何故ご自分がミレーネ様に選ばれたかわからないでしょう。けれどわたしは少しわかるような気がします。本来ならばあなた様と全く関係のないリコリス王のために、ミヤコ様はそのようなお顔をされる。きっとそれが一番の理由だったのでしょう」
どういう意味なのだろう。
なんだかその視線がむず痒くて話題を変える。
あまり褒められ慣れていないのだから仕方ない。
「…エリー、ミレーネ様の家族のことも聞いてもいい?一度に全部覚えきれるかはわからないけど、ヴィルも言っていた愛されて育ったミレーネ様のことを知りたいわ」
「はい。喜んで」
それからその日はエリーと色々な話をした。
ミレーネ様のお父さんはお母さんのヒルダに頭が上がらないとか。
第一王子のレオナルドはもちろん、第二王子のアルフは妹であるミレーネを溺愛していて、二人ともいまだに結婚していないとか。
第一王女のクリスティアと第二王女のナタリエはすでにそれぞれ領主の家に嫁いでおり、クリスティアには二人の子供がいるとか。
兄弟たちは最初はリコリス王との結婚にはこぞって反対していたとか。
ヴィルの噂とは真逆のミレーネ様。
こんなにも愛されていたのに、どうしてこの世界を出ていってしまったのだろう。
考えても彼女の気持ちなんてわかるわけがないのに、疑問が口をついて出そうになる。
家族に、エリーに、二度と会えなくても彼女は後悔しない?
完璧だから?
聞けば聞くほどミレーネ様のことがよくわからなくなる。
宮子がうーんと唸っていると、エリーが、いけないわ!と大袈裟に声を上げた。
「もうこんな時間ですわ。ミヤコ様、お化粧しないと!あら、嫌ですわ、わたしったらミヤコ様にお食事を運ぶのも忘れて、すっかり話に夢中になってしまって!」
言われて初めてお腹が空いているような気がしてくるから不思議だ。
おろおろするエリーに、この世界の時間軸がよくわからないので、もうすぐ食事の時間ならヴィルと一緒でいいと告げると、エリーはぴたりと静止した。
「い、いけませんわ。リコリス王はとても食事のマナーにおうるさい方なんです。リコリスとカヤランは国の大きさだけでなく、食事の仕方も違うことをすっかり失念しておりました」
「え、でも、夫婦になるのに別に食事をするなんて」
「別に普通のことだろう」
少し前に聞いた声にぎょっとして振り返ると、ヴィルがふんぞり返るように立っていた。
そして宮子の視線に気付き、ああ、と薄く笑う。
「すまん。ノックを忘れていたな」
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