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夫は愛人をかばって事故に遭い、記憶を失った。けれど、彼の記憶は、私をいちばん愛していたあの年で止まっていた

作者: 熾星
掲載日:2026/09/18



慧が飲みすぎたと聞いて、胃薬を持って迎えに行った私は、そこで成瀬真梨香と指を絡め合って座る彼を見つけた。


 私に気づいても、慧は真梨香の手を離さなかった。


「ずっと言わなきゃとは思ってた。俺、真梨香と付き合ってる」


 言葉が出なかった。


「悪いのは俺だ。真梨香には何もしないでくれ」


 慧はわずかに間を置いた。


「離婚のことは、弁護士を通して話そう」


 否定されることも、言い訳されることも覚悟していた。一時の迷いだったと言われるかもしれないとも思っていた。


 けれど、こんなに静かに認められるとは思わなかった。


 その後、慧は自分で車を運転し、真梨香を空港まで送る途中で事故に遭った。


 目を覚ました慧は、ここ十年ほどのことを忘れていた。


 彼の記憶は、十年前で止まっていた。


 まだ、私を誰よりも愛していた頃だった。



1



 慧が事故に遭ったと聞いたとき、私は自宅で篠原奈緒と倉本亜希とトランプをしていた。


 ここしばらく、まともに眠れていなかった。同じような夢を何晩も見ていて、何かに追われている気がするのに、振り返るとその正体だけが見えない。


「最近、ずっと胸騒ぎがするの」


 手札を伏せ、眉間を押さえた。


「夢って、本当に何かの前触れだったりするのかな」


 奈緒と亜希が顔を見合わせた。


「疲れてるだけじゃない?」


「離婚のことをちゃんと片づけたら、むしろ眠れるようになるかもよ」


 離婚を考えたのは、これが初めてではなかった。


 ただ、湊斗はまだ幼い。慧との関係がどれだけ冷え切っていても、大人の事情を子どもに背負わせたくないという気持ちだけは、ずっと変わらなかった。


 この数年、慧が家に帰ることはほとんどなかった。同じ屋根の下にいても会話すらないような夫婦になっていたけれど、それでも形の上ではまだ家族だった。


 もう少し待とう。


 湊斗がもう少し大きくなれば、きっと今よりは傷つかずに済む。


 そうやって何度も自分に言い聞かせていた。


 家のことを手伝ってくれている野々村さんが淹れた温かいお茶を一口飲んだところで、玄関のほうから慌ただしい声が聞こえた。


 ほどなくして、朝倉クリエイティブ株式会社で社長秘書をしている小野寺遼が、息を切らしてリビングに入ってきた。


「奥様、社長が事故に遭いました」


 カップを持つ手が止まった。


「今、病院です。一時は意識もなくて……まだ検査が続いています」


「今日は社用車で空港に行く予定だったんじゃなかったの?」


 小野寺の表情が曇った。


 私は彼を見る。


「そのまま話して」


 しばらく迷った末、小野寺は口を開いた。


「本来は運転手付きの社用車で向かう予定でした。ただ、成瀬さんが二人で行きたいとおっしゃったそうで……社長がご自身で運転を」


 その先は、聞かなくても分かった。


「真梨香は?」


「大きな怪我はありません。事故の瞬間、社長が庇ったそうです」


「そう」


 私はもう一度カードを手に取った。


「なら、真梨香に付き添ってもらえばいいんじゃない?」


 小野寺が目を見開いた。


「奥様は、病院へは……」


「私が行って何をするの?」


 カードを一枚、テーブルに出した。


「そばにいてほしい人なら、もういるでしょう」



2



 その夜も雨が降った。


 若い頃の慧を夢に見たのは、ずいぶん久しぶりだった。


 夢の中の彼は、まだ朝倉クリエイティブ株式会社の社長ではなかった。今のように、周囲が彼の顔色をうかがうような立場でもない。


 父方の家では居場所がなく、星凪市の郊外で祖母と暮らしていた少年。


 それが、あの頃の朝倉慧だった。


 祖母の家は、私の家のすぐ隣にあった。


 真夏のいちばん暑い時期になると、慧は自転車で街の反対側まで走り、旧商店街にある和菓子屋のいちご大福を買ってきてくれた。


「澪ー! 下りてこいよ!」


 二階のベランダから覗くと、十七、八歳の慧が木陰に立っていた。


 額には汗が浮かんでいるのに、手にした紙袋だけは得意げに高く掲げていた。


「最後の一箱! 一時間近く並んだんだからな」


「ばかじゃないの? こんな暑い日に、わざわざあんな遠くまで行ったの?」


 慧は顔を上げて笑った。


「だって、澪が好きだろ」


 真夏の光を映した目が、眩しいほど明るかった。


「澪が好きなものなら、買ってきたいじゃん」


 何年も経ったある晩、私はパーティーの席で、ふとその和菓子屋のことを思い出した。


 店はとうに閉まっていた。


「ねえ。昔、商店街にいちご大福のお店があったの覚えてる? 角にあったところ」


 慧はスマートフォンから一瞬だけ顔を上げた。


「いちご大福?」


「そう。昔、よく並んで買ってくれたでしょう」


 慧はどこか面倒そうに眉を寄せた。


「澪、もう子どもじゃないんだからさ」


 それだけ言うと、すぐに画面へ視線を戻した。


 言いたいことは分かった。


 私はもう三十代で、母親でもある。慧に付き添ってパーティーへ出るときは、その場にふさわしい服を選び、取引先の名前を覚え、笑うべきところで笑い、黙るべきところでは黙っていた。


 十七、八歳の少女に許されていた我がままや甘えも、いつの間にか過去に置いてこなければならないものになっていた。


 今の私に求められているのは、きちんとした妻でいることだった。


 真夏の日差しの下を走ってまで、いちご大福を買ってきてもらうようなことを期待する年齢ではない。


 昔の慧は、そんなことを言わなかった。


 後ろから私を抱き締め、肩に顎を乗せながら、よくくだらない話をした。


「俺たち、じいちゃんとばあちゃんになっても一緒にいような」


「私が歩けなくなったら?」


「じゃあ、俺もゆっくり歩く」


「髪が真っ白になっても?」


「一緒に白くなればいいだろ」


 いつだって本気で言っていた。


 あの頃の私たちは、そんな日々がこの先も当たり前に続くと思っていた。


 目を覚ますと、枕が少し濡れていた。


 暗い部屋の中で、私はしばらく動けなかった。


 もう何も期待していないつもりだった。それでも、あれほどまっすぐ愛された記憶だけは、恋が終わったからといって一緒に消えてはくれない。



3



 数日後、小野寺からもう一度連絡が来た。


 慧の意識は戻っていた。


 身体の状態もひとまず安定している。ただ、事故前の十年ほどの記憶が大きく抜けているらしい。


「目を覚ましてから、ずっと奥様のことを聞いています」


 電話口で、小野寺が声を落とした。


「覚えている人の中でも、奥様の記憶がいちばん鮮明なようです」


 私は黙って聞いていた。


「それと……成瀬さんのことは、まったく覚えていません」


 真梨香はこの数日、ずっと病院にいたらしい。


 けれど慧にとっては、何度顔を合わせても知らない女でしかなかった。


「奥様、一度病院へ来ていただけませんか」


 私は行くつもりがなかった。


 その会話を、学校から帰ってきた湊斗が聞くまでは。


 ランドセルを背負ったまま、リビングの入口に立っていた。


 この数年、父子が一緒に過ごした時間は数えるほどしかない。


 それでも湊斗がもっと幼かった頃、慧がこの子を心から可愛がっていた時期も確かにあった。


「お父さんのところ、行ってみる?」


 湊斗はしばらく考えた。


「……行く」


 結局、私は湊斗を連れて病院へ向かった。


 病室には慧しかいなかった。


 ベッドに寄りかかっていた彼は、ドアのところに立つ私を見つけた瞬間、目を大きくした。


「澪?」


 次の瞬間には、身体を起こしていた。


 あんなふうに私を見て喜ぶ慧を見るのは、いったい何年ぶりだろう。


 何かを思い出したように、ベッド脇の棚から紙箱を取り出した。


「やっと来た」


 箱は丁寧に扱われていて、角ひとつ潰れていなかった。


 店の名前を見て、私は数秒固まった。


 星凪市で評判のいちご大福の店だった。


「俺、今は外に出してもらえないから、小野寺に頼んだんだ。食べてみて」


 慧の目が、昔みたいに輝いていた。


「本当は自分で並びたかったんだけど、看護師さんに止められてさ。退院したら今度は俺が買いに行く」


 紙箱を見つめた。


「私が来なかった間、毎日買わせてたの?」


 慧は当然のように頷いた。


「いつ来るか分からなかったから。来たのにないの、嫌だろ」


 若い頃の慧は、私を怒らせるたびに好きなものを買ってきた。


 その癖だけは、十年前の彼の中に残っていたらしい。


 けれど、記憶をなくす前の慧は、私が何を好きだったかを聞こうとすらしなくなっていた。


 急にひどく疲れた。


「慧。私、もう十八歳じゃないよ」


 慧がきょとんとした。


「それが何?」


 本気で分からないらしい。


「髪が真っ白になって、歯がなくなっても、食べたいなら買ってくるけど」


 何も返せなかった。


 そのとき、私の後ろから湊斗が姿を見せた。


 慧はそこでようやく息子の存在に気づいた。


 父と子が、しばらく無言で見つめ合った。


「……俺と澪の子?」


 湊斗は答えなかった。


 それでも、慧の表情はゆっくりと柔らかくなった。


「こっち、おいで」


 大福を一つ持ち上げる。


「これ、食べるか?」


 湊斗がためらいながら近づいた。


 ちょうど箱を開いたとき、病室のドアが勢いよく開いた。


 真梨香だった。


 早足で入ってくるなり、テーブルの上の箱を払い落とした。


 ほとんどの大福が床へ転がった。


 湊斗の手の中にあった一つだけが残った。


「澪さん、今さら何しに来たんですか?」


 真梨香は慧のベッドの前へ回り込み、赤くなった目で私を睨んだ。


「慧が記憶をなくしたからって、取り戻しに来たんですか?」


 思わず笑いそうになった。


 取り戻す。


 妻が夫の見舞いに来ただけで、いつからそんな話になったのだろう。


 口を開くより先に、慧の表情が変わった。


「誰?」


 真梨香が固まった。


「慧……」


「そう呼ばないでくれる?」


 露骨に嫌そうな顔をした。


「何度も言ってるけど、俺はあんたを知らない。なんで突然入ってきて、俺の妻に怒鳴ってるんだよ」


 真梨香の顔から血の気が引いた。


「忘れてるだけよ。思い出したら、そんな言い方したこと後悔するから」


「じゃあ、思い出したときに考える」


 慧はナースコールを押した。


「今は出ていって」


 結局、真梨香は小野寺に連れられて病室を出た。


 静けさが戻ると、慧は慌てたように私を見た。


「澪、あの人の話、気にしないで。俺、本当に知らないから」


 返事の代わりに、湊斗のそばへしゃがんだ。


「もう帰る?」


 湊斗は小さく頷いた。


 病室を出たあと、湊斗の手に残っていた大福を一口だけ分けてもらった。


 皮は少し硬くなっていて、記憶の中の味とは違っていた。


 半月後、慧が退院することになった。


 その少し前、小野寺から連絡があり、真梨香が家に置いてある慧の私物を取りに来たいと言っていると聞いた。


 服や日用品を巡ってまで争う気力は残っていなかった。


 好きに持っていけばいいと思い、家へ入れた。


 真梨香は慧のシャツを畳みながら、わざとらしくため息をついた。


「私、澪さんが羨ましいです。何もしないで家にいられるんですもん」


 きれいに畳んだシャツをスーツケースへ入れる。


「私は会社のこともあるし、慧の身の回りのことも全部やらないといけなくて。あの人、結構私に頼るんですよ」


 私は黙って彼女を見ていた。


 真梨香は、若い頃の私に少し似ていた。


 特に、自分が愛されていると信じて疑わず、少しくらいの我がままなら許されると思っているところが。


 荷物を詰め終えた真梨香は、玄関まで行ったところで振り返った。


「澪さん」


 その目には、なぜか憐れむような色まで浮かんでいた。


「私だったら、ここまでされたらとっくに離婚してます。そっちのほうが、まだ自分を惨めにしなくて済むでしょう?」


 小さく笑った。


「不倫してる側が、妻に夫婦の体面を教えるんだ」


 真梨香は気を悪くするどころか、むしろ楽しそうに笑った。


「澪さん、知らないんですか」


 私の顔を見ながら続けた。


「慧、ずっと前から顧問弁護士に離婚の相談をしてましたよ」


 手が止まった。


「秘書室じゃ、知ってる人もいると思います」


 私の反応が気に入ったらしい。


「かわいそう」


 その瞬間、玄関の向こうから低い声がした。


「誰が、かわいそうだって?」



4



 慧は、本当に記憶を失っていた。


 記憶が残っているのは、まだ私たちがいちばん仲のよかった頃までだった。


 その頃の彼は、会社を完全に自分のものにしていたわけでもなく、周りが何でも慧の希望に合わせるのが当然という男でもなかった。


 まして、目の前で誰かが私を侮辱するのを黙って見ていられるような人ではなかった。


 真梨香が何か言い返す前に、マンションの警備員を呼んだ。


「もうここには来ないで」


 真梨香が泣きながら慧を見た。


「慧、いつか全部思い出すから」


「そうなったら、そのとき俺が考えるよ」


 慧の表情は冷たかった。


「今は帰って」


 真梨香が連れ出されたあと、彼は私に振り返った。


 それまでの冷たい顔が嘘みたいに緩んだ。


「澪」


 少し迷ったあと、信じられないものを確かめるように聞いた。


「俺、本当に……澪と結婚できたの?」


 声に、十代の少年のような不安と期待が混じっていた。


 私は頷いた。


「うん」


 慧の顔が、ぱっと明るくなった。


 退院したばかりなのも忘れたように、急に私を抱き上げる。


「本当に?」


「慧!」


 思わず彼の肩につかまった。


 慧は声を上げて笑った。


「俺、澪と結婚できたんだ」


 隠そうともしない喜び方に、一瞬だけ時間が十年前へ戻ったような気がした。


 しばらくのあいだ、慧は私を抱いたまま、信じられないほどたくさん喋っていた。


 やがて、ふと黙った。


「澪」


「なに?」


「入院してから連絡しようと思ったんだけど、俺のスマホに澪の番号が入ってなかった。LINEもないし、写真だってほとんど残ってない」


 眉間に皺が寄った。


 私はすぐには答えられなかった。


 若い頃の慧は、私の写真ばかり撮っていた。


 笑っているときも、怒っているときも、何かを食べているときも、寝ているときも。


 起きたばかりで髪がぐしゃぐしゃでも、彼は平気でカメラを向けた。


「変なの撮らないでよ」


 スマートフォンを奪おうとすると、背の高い慧はわざと腕を上げた。


「俺の澪は、どんな顔でも可愛いから」


 けれど、その写真を消していったのも、事故に遭う前の慧だった。


 私は視線を落とした。


「子どもっぽいと思ったんじゃない?」


「誰が?」


 すぐに聞き返された。


 少し笑った。


「もう若くないんだから、昔みたいなことはやめたらって言われたこともあるよ」


 慧の表情がゆっくり険しくなる。


「誰に?」


 私はただ、彼を見返した。


 答えは言わなかった。



5



 真梨香が会社に入ったばかりの頃、慧はよく彼女の愚痴を言っていた。


 まだ新人だった。


 ある晩、帰宅した慧はネクタイを緩めながら、呆れたように言った。


「今の新人って、あんなに危なっかしいの? 資料を届けに行かせたら会議室を間違えるし、来客用のコーヒーを運んだらこぼしかけるし」


 そのまま後ろから私を抱いた。


「やっぱ澪はすごいよな」


 私は笑った。


「新卒ならそんなものじゃない? 慣れればちゃんとできるようになるよ」


「澪は最初から違った」


 顎を私の肩に乗せた。


「俺が会社始めたばっかりの頃なんて、澪が客先回ってくれたり、資料まとめてくれたり、一緒に頭下げてくれなかったら、もっとひどいことになってた」


 あの頃は、本当に苦しかった。


 会社を作ったばかりの慧には、ほとんど何もなかった。


 私には肩書きこそなかったけれど、できることは何でも手伝った。資料を作り、客先へついて行き、相手に頭を下げ、夜中まで作業する慧の横で雑務を片づけた。


 最初の大きな取引を取るため、二人で何社も回った。


 いちばん苦しかった頃には、投資家が手を引き、共同で仕事をしていた相手に資金を持ち逃げされ、事務所の家賃すら危うくなった。


 当時住んでいた部屋も狭かった。


 冬に暖房が壊れたときは、家中の毛布や布団をベッドに積み上げて眠った。


 そんな時期だから、慧にとって百貨店の高価なアクセサリーなど手が届くものではなかった。


 それでも私の誕生日になると、小さな箱を差し出した。


 中には、シンプルな銀の指輪が入っていた。


「こんな時に買わなくてもいいのに」


 文句を言う私の指に、慧は笑いながらリングをはめた。


「そのうち、もっといいの買うから」


 私は冗談半分に小指を差し出した。


「じゃあ約束破ったら、針千本だからね」


 慧も小指を絡めた。


「いいよ。千本でも一万本でも飲む」


 その頃は、ただのじゃれ合いだった。


 何年も経ってから思い出すと、まるで違う響きを持つようになるなんて考えたこともなかった。


 真梨香の名前を、慧の口から頻繁に聞くようになったのは、彼女が入社して二年目の頃だった。


 最初は、失敗ばかりするけれど妙に素直な子だと言っていた。


 しばらくすると、覚えるのは早いとも言い始めた。


 そしてある日、何気ない顔で笑った。


「澪、あの子ってさ……若い頃の澪にちょっと似てない?」


 その頃から、真梨香の名前が会話に出る回数は増えていった。


 代わりに、慧が家にいる時間は減った。


「湊斗もまだ小さいし、澪は家にいていいよ。会社のことは俺がやるから」


 そう言われ、私は少しずつ仕事から離れた。


 子どもが生まれれば、夫婦の役割も変わる。


 あの頃の私は、それだけのことだと思っていた。


 けれど、そのうち慧が一か月に何度家で夕食を食べたのかさえ、数えられるようになった。


 出張が増えた。


 帰宅は遅くなった。


 メッセージを送っても、一日中返事がないことも珍しくなくなった。


 ある日、慧が好きだった煮込み料理を作り、会社まで持っていった。


 社長室のドアが少し開いていた。


 真梨香が慧の机のそばに立っていた。


 二人の距離は近かった。


 真梨香が何かを話し、慧は顔を少し傾けて聞いていた。


 その顔に浮かんだ笑みを、私は知っていた。


 昔、私の話を聞いていた頃と同じだった。


 ドアをノックした。


 慧が顔を上げた。


 さっきまでの笑顔が消えた。


「どうしたの、急に」


 何か説明してくれるのを待った。


 けれど慧は、私が持っている保温バッグに視線を落としただけだった。


 疲れたように息を吐く。


「澪、もう二十歳じゃないんだから。こんなことでいちいち勘ぐるの、やめてくれない?」


 それからだった。


 目をそらしていたものが、少しずつ輪郭を持ちはじめた。


 私は、何も持たなかった頃から慧のそばにいた。


 だからこそ、彼が私を裏切るなんて本気で想像したことがなかった。


 いちばん貧しかった冬は、お湯を使うことすら惜しかった。


 私は冷たい水に触れると手が荒れやすかったから、慧は水仕事を全部引き受けた。真冬には手の甲が赤く裂けることもあった。


「いつか金持ちになったら、澪にはこんな暮らし二度とさせないから」


 あの頃の慧は、本気でそう言った。


 そして実際、金はできた。


 狭い賃貸から広い家へ移った。


 仕事をもらうために頭を下げていた慧は、今では取引先のほうから面会を求められる立場になっていた。


 けれど、私を二度と苦労させないと言った人は、いつしか自分のいちばん惨めだった時代を知っている私から目をそらすようになっていた。


 失った記憶の中に、今の慧はそのすべてを置いてきている。


「誰が澪にそんなこと言ったんだよ」


 彼はまだ、私に言った。


「誰が、澪のこと年取ったなんて言った?」


「間違ってはいないよ」


 鼻の奥がつんとした。


「私、もう十八歳じゃないから」


 慧が慌てた。


「澪、泣くなよ」


 手首をつかまれた。


「誰かに何かされた? 言ってよ」


 私はそっと手を抜いた。


「今日はちょっと疲れた」


 慧を見る。


「会社に行くなら行けばいいし、真梨香のところに行きたいなら、それでもいいよ」


 慧は動かなかった。


 長い沈黙のあと、急に立ち上がった。


「この何年か、誰かが澪を傷つけたの?」


 目の縁が赤くなっていた。


「誰?」


 私は教えなかった。


 慧はそのまま玄関へ向かった。


「澪が言わないなら、自分で調べる」


 背中を見送った。


「そうして、慧」


 知りたいなら、自分の目で見ればいい。


 この十年に何があったのか。


 会社の記録も、メールも、予定表も、私の言葉よりずっと詳しく残っている。



6



 その日は朝から落ち着かなかった。


 下校時刻を過ぎても、湊斗が帰ってこない。


 迎えに出ようと上着を取ったところで、スマートフォンが鳴った。


 担任の先生だった。


「朝倉湊斗くんのお母さまでいらっしゃいますか。学校で少しトラブルがありまして……湊斗くんがお友達と揉めてしまったので、一度いらしていただけますか」


 学校へ着くと、湊斗は先生のそばに立っていた。


 目は赤く、頬には擦り傷があった。制服にも土や草がついている。


 反対側には、湊斗より少し幼く見える男の子がいた。


 その顔を見た瞬間、足が止まった。真梨香のSNSで何度も見たことのある子だった。特に目元が、子どもの頃の慧によく似ていた。


 私は湊斗の前にしゃがんだ。


「湊斗、何があったの?」


 唇をきつく結び、答えようとしなかった。


 代わりに、向こうの男の子が口を開いた。


「こいつが先に殴った」


 先生が眉を寄せた。


「律くん、さっきはそう言ってなかったでしょう」


 成瀬律が俯いた。


 先生は私を見る。


「近くにいた先生と子どもたちからも話を聞きました。最初に律くんが湊斗くんに嫌なことを言って、そのあと先に押したようです。湊斗くんは、それからやり返しています」


 私は律へ視線を向けた。


 すると、彼は急に顔を上げた。


「だって、俺、嘘ついてないし」


 湊斗を睨む。


「お前の父さん、お前たちのこといらないんだろ」


 湊斗の手が拳になる。


「うちのママのほうが好きなんだから」


「黙れ!」


 湊斗が飛びかかった。


 二人が床に転がり、私は先生と一緒になって引き離した。


 そのとき、廊下から真梨香の声がした。


「律!」


 飛び込んできた真梨香が、律を抱き寄せる。


 私を見るなり、顔つきが変わった。


「澪さん、何してるんですか」


 先生が説明しようとした。


「成瀬さん、こちらで双方から話を聞いていまして、最初に律くんが――」


「何か言ったとしても、こんな怪我をさせていいんですか?」


 真梨香の目にすぐ涙が浮かんだ。


「大人のことに、子どもまで巻き込むんですか?」


 私は彼女を見る。


 急に、全部がひどく馬鹿らしく思えた。


「それは、先にあなたの息子さんに聞いたほうがいいんじゃない?」


 真梨香が唇を噛んだ。


「慧が今、記憶をなくしてるからって、勝ったと思わないでくださいね」


「勝ったと思ったことなんて、一度もないよ」


 袖が引かれた。


 湊斗が私の隣で俯いていた。


 小さな手だけが、制服の袖を強く握っている。


 本当なら、もっと普通のことで悩んでいていい年齢だ。


 なのにこの子は、ずっと前から大人の顔色を見ることを覚えてしまった。


 私はずっと、離婚しないことが湊斗を守ることだと思っていた。


 けれど、父親が自分たちを捨てたのかどうかさえ聞けずにいる息子を見ていると、自分がいったい何を守ってきたのか分からなくなった。


 湊斗を連れて帰ろうとしたとき、真梨香が入口を見て顔を明るくした。


「慧!」


 慧が息を切らして入ってきた。


 学校から連絡を受けたのだろう。


 真梨香は律を抱えたまま、すぐに慧のほうへ向かった。


「慧、律が湊斗くんに怪我させられたの」


 涙がこぼれた。


「大人のことがあるからって、澪さんまで子どもにこんなことさせるなんて――」


 そう言いながら、自然に慧の胸へ寄りかかろうとした。


 慧は驚いたように大きく後ろへ下がった。


 支えを失った真梨香が、慌てて向きを変える。


 足をひねり、そのまま床に尻もちをついた。


 慧は明らかにほっとしていた。


 そして真っ先に私を見た。


「澪、今のは俺、何もしてないからな」


 そんなことを必死に弁解する姿に、一瞬言葉が出なかった。


 慧はすぐ先生へ向き直った。


「先生、何があったんですか」


 担任が事情を簡単に説明した。


 話を聞き終えた慧の顔から、表情が消えた。


「先に嫌なことを言って、手を出したのが律くんなら、まず律くんが謝るべきですよね」


 真梨香が信じられないという顔をした。


 律も固まった。


 次の瞬間、わっと泣き出す。


「お父さんなんか嫌い!」


 職員室が静まり返った。


「僕とママが一番大事だって言ってたじゃん!」


 慧の顔から、さっと血の気が引いた。


 目の前の子どもを見たあと、ゆっくり真梨香へ視線を移す。


 身体が固まっていた。


 何を聞かされたのか、すぐには理解できないようだった。


 真梨香が手を伸ばす。


 慧は避けた。


「触らないで」


 私はもう、何も説明する気になれなかった。


 慧が知りたいと思えば、自分で調べられる。


 今さら私が一つずつ教えてやることではなかった。


「顧問弁護士に、ずっと前から離婚の相談をしてたんでしょう」


 慧が私を見る。


「会社に戻れば、分かるよ」


 湊斗の手を取った。


「残りは、自分で調べて」



7



 学校を出た頃には、もう街灯がつき始めていた。


 私も湊斗も、ずいぶん疲れ切っていた。


 手をつないでゆっくり歩く。街灯の下で伸びる二人の影を見ていると、いつの間にか、靴紐を結んでやらなければならなかった子が私の肩近くまで大きくなっていたことに気づいた。


 途中にあったアイスクリーム屋の前で足を止めた。


「食べる?」


 湊斗は足元を見たまま、少しして頷いた。


 バニラを二つ買った。


 家の近くまで来たとき、湊斗が私の手を引いた。


「お母さん」


「なに?」


「お父さんって、あの人のこと忘れてるから、僕たちの味方したの?」


 しばらく返事ができなかった。


「たぶんね」


 湊斗はアイスを見つめながら、もう一度聞いた。


「じゃあ、全部思い出したら……また僕たちのこと、いらなくなる?」


 足が止まった。


 私はずっと、離婚しないことがこの子を守ることだと信じていた。


 けれど湊斗が心配しているのは、慧が記憶を取り戻したあと「また自分たちを捨てるかどうか」だった。


 その言葉を聞いた途端、自分が守ろうとしてきたものの形が分からなくなった。


 慧がほとんど家にいなかった日々。


 それはもう、湊斗にとって特別なことですらなかったのだ。


 私は息子の前にしゃがんだ。


「湊斗」


「うん」


「もしこれから、お母さんと二人で暮らすことになったら、怖い?」


 長いあいだ、私の顔を見ていた。


 やがて首を横に振る。


「怖くない」


 少し迷ってから、声を落とした。


「僕、お母さんがずっと我慢してるほうが嫌だ」


 喉の奥が痛くなった。


「それに、お父さんって前からあんまり家にいなかったし」


 湊斗が手を握る。


「二人でも大丈夫だよ」


 涙がこぼれそうになった。


 すると湊斗のほうが慌てた。


「お母さん、泣かないで」


 笑って、髪を撫でた。


「うん」


 家に戻ると、少し離れたところに慧が立っていた。


 いつからついてきていたのか分からない。


 湊斗も気づいた。


 私は先に息子を家へ入れた。


 慧がゆっくり近づいてくる。


 顔色は悪かった。


「澪」


 こめかみを押さえる。


「会社に行ってきた」


 私は何も促さなかった。


「顧問弁護士にも話を聞いた」


 声が低くなる。


「メールも、スケジュールも、ホテルの記録も見た」


 そこで何度か息をした。


「どうして、あんなことになったんだ」


 目に浮かんでいたのは、今まで見たことのない種類の恐怖だった。


「俺、なんで澪にあんなことしたんだよ」


 黙って見ていた。


 慧はポケットから小さな紙袋を取り出した。


 中には、またいちご大福が一つ入っていた。


 ずっと懐に入れていたのか、まだ少し温かそうだった。


 差し出されても、手を伸ばさなかった。


 長い沈黙のあと、慧が小さな声で呼んだ。


「澪」


 顔を上げる。


「まだ、俺のこと好き?」


 少しだけ笑った。


「全部思い出したら、今そんなこと聞いたのを後悔するかもね」


 慧が俯いた。


「十年後の自分が嫌いになってきた」


 声がひどく疲れていた。


「こんなふうになるって分かってたら……」


 続きを言わなかった。


 私も慰めなかった。


 今、私の前にいる慧が覚えているのは、まだ私をいちばん愛していた頃の自分だけだ。


 記憶が戻ったとき、今と同じ気持ちでいるとは限らない。



8



 慧が真梨香に会うことを拒むようになってから、彼女は何度か私を訪ねてきた。


 一度も会わなかった。


 そのうちの一度、ちょうど湊斗に会いに来ていた慧と玄関先で鉢合わせした。


 慧は家の中へ入れなかった。


 二人は玄関の外で向き合った。


 二階の窓を少し開けると、二人の声が聞こえた。


「どうしてまた来たの?」


 慧の声は冷たかった。


 真梨香の目が赤くなった。


「忘れてるだけでしょう。私たちに何があったか、全部忘れてるだけ」


「そうだね」


 慧は否定しなかった。


「十年後の俺が、なんで君を好きになったのかは分からない」


 真梨香の顔が強張った。


「でも今の俺には、一つだけ分かる」


 少し間を置いた。


「俺に妻と子どもがいることを知ってたのに、今もこうして家まで来るんだね」


 真梨香の目から涙が落ちた。


「でも、先に私を選んだのは慧でしょ」


「だから、十年後の俺にも責任はあるよ」


 慧は逃げなかった。


「でも、そのときの俺が何を選んだかと、今ここで澪や湊斗に迷惑をかけていいかどうかは別だ」


 一歩、距離を取る。


「もう来ないで」


 その日を最後に、真梨香が家の前へ現れることはなくなった。


 私は二階から、慧の背中を見つめた。


 記憶の中にいる少年と重なった。


 昔から慧は、誰かに私の悪口を言われると、こんなふうに前へ出た。


 けれど、私をいちばん傷つけたのは、ほかでもない事故前の慧だった。


 もし、このままずっと記憶が戻らなかったら。


 今の慧となら、もう一度やり直せるのではないか。


 考えなかったわけではない。


 今目の前にいる慧は、私の好きなものを覚えている。


 誰かに傷つけられれば腹を立てる。


 私が泣くだけで、どうしていいか分からなくなる。


 確かに、あの頃の慧だった。


 けれど、その考えは長く続かなかった。


 慧が忘れても、私の十年間まで消えるわけではない。


 一人で泣いた夜も。


 家に帰らない夫を待った時間も。


 別の女の手を握ったまま、平然と「不倫している」と告げられた日のことも。


 全部、私の中に残っている。


 何より、これから先の人生を「慧の記憶が戻らないこと」に賭けて生きるなんてできなかった。


 もしある日、全部を思い出したら。


 たとえ記憶が戻らなくても、また別の誰かを好きになったら。


 私は一度、慧なら大丈夫だと信じ切った。


 その結果が、この十年だった。


 一階へ下りた。


 慧はまだ玄関の外にいた。


 そばまで歩く。


「慧」


 振り返った。


「離婚しよう」


 慧の表情が固まった。


 しばらく何も言わなかった。


「前に用意してた条件では、私はサインしない」


 私は続けた。


「あとのことは、弁護士を通して話そう」


 慧の目の縁がゆっくり赤くなった。


 それでも、反論はしなかった。



9



 慧の再手術の日程は、すぐに決まった。


 検査で頭蓋内に血腫が残っていることが分かり、再手術が決まった。


 手術の前日、慧が私に会いに来た。


 昔の彼なら、大したことではないように振る舞っただろう。


 けれど、その日は長いあいだ黙って座っていた。


「澪、俺……手術したくない」


「どうして?」


「思い出すのが怖い」


 自嘲するように笑った。


「普通、記憶なくした人って取り戻したいものだろ。でも俺は、怖いんだ」


 私は慧を見る。


「忘れてるからって、起きたことまでなくなるわけじゃないよ」


 慧が俯いた。


「分かってる」


「そのとき、そのときで選んだのは慧自身でしょう」


 一度言葉を切った。


「記憶が戻っても戻らなくても、したことの責任は残るよ」


 慧は片手で目を覆った。


 しばらく動かなかった。


「どうしたらいいのか分からない」


 それ以上、何も言わなかった。


 翌日、小野寺が慧を病院へ迎えに来た。


 車が走り出したあとも、湊斗はずっと窓辺に立っていた。


 角を曲がって見えなくなっても、その場を離れない。


 私はそばへ行き、頭を撫でた。


「どうしたの?」


 湊斗がこちらを見た。


「お父さん、もうここには帰ってこないの?」


「うん」


 息子を抱き寄せる。


「離婚のことが全部終わったら、引っ越そうか」


「どこ?」


「潮見市」


 海のある街だった。


 星凪市より冬も穏やかだ。


「海の近くに家を探そうよ。夕ご飯のあとに、散歩にも行けるよ」


 湊斗は少し考えた。


「犬、飼っていい?」


 笑った。


「犬を飼える家だったらね」


「じゃあ、行く」


 私の肩に頬をつける。


「お母さんと一緒に行く」


 手術は無事に終わった。


 その後、小野寺から、慧の記憶が少しずつ戻っていると聞いた。


 私は病院へ行かなかった。


 星凪市を離れる一週間前、慧から連絡が来た。


 離婚に関する話がまとまったという。


 その日の午後、慧は一人で来た。


 晩秋の風はもう冷たかった。


 深い茶色のコートを着て、家の前に立っている。


 ずいぶん痩せた。


 顔を一度見ただけで、分かった。


 全部、思い出したのだ。


 慧は書類を差し出した。


「弁護士と話はまとめてある。財産のことも、湊斗のことも書いてある。目を通してほしい」


 受け取った。


 財産のことも、湊斗との今後のことも、一つずつ整理されていた。


 細かいことは聞かなかった。


 署名するのに、何分もかからなかった。


 十年以上続いた関係は、驚くほど静かに紙の上で終わった。


 慧はずっと、私の顔を見ようとしなかった。


 書類を閉じたところで、ようやく口を開いた。


「記憶が戻ってから、ずっと考えてた」


 声は落ち着いていた。


「記憶をなくしてた間は、事故前の自分がどうしてあんなことをしたのか、本当に分からなかった」


 私は黙っていた。


 慧は庭の木へ目を向けた。


「少しだけ、分かった気がする」


 しばらく間が空いた。


「澪を見るたびに、昔のことを思い出してたんだ」


 狭かった部屋。


 失敗した仕事。


 返すあてのない借金。


 何をやってもうまくいかず、先の見えなかった自分。


「俺、ずっと証明したかったんだと思う」


 慧の手がゆっくり握られる。


「もう昔の、何も持ってなかった俺じゃないって」


 それから私を見る。


「でも澪は、全部知ってる」


 言葉を挟まずに聞いた。


「俺がいちばん情けなかった時期も、どれだけ失敗したかも」


 慧が苦く笑った。


「真梨香が俺と会った頃には、俺はもう『朝倉社長』だった」


 それだけで、十分分かった。


 真梨香が出会ったのは、成功したあとの慧だった。


 きれいなスーツを着て、自分の会社を持ち、会議室へ入れば周りが耳を傾ける男。


 私は違う。


 父方の家では居場所がなく、郊外の古い家で祖母と暮らしていた少年を知っている。


 初めて大きな仕事に失敗したあと、床に座ったまま朝まで一言も話さなかった青年も見ている。


 一本の銀の指輪を買うために、何日も財布の中身を計算していた頃も覚えている。


 私が「二人の思い出」だと思っていたものの一部は、いつの間にか慧にとって、できれば見たくない過去になっていたのだろう。


 理由は理解できた。


 だからといって、されたことまで許せるわけではない。


「ごめん」


 慧が言った。


 私は小さく頷いた。


 大丈夫とは言わなかった。


 慧も、許してくれとは言わなかった。


 しばらくして、二階の窓を見上げた。


「湊斗は?」


「今日は友達の家」


「そっか」


 少し残念そうにしてから、すぐに笑おうとした。


「これからは、決めたとおりのペースで会う。湊斗が嫌がるなら、無理には会わない」


「うん」


 風が吹いた。


 枯れ葉が庭を転がった。


 慧が最後に私を見る。


「元気で」


 私も軽く頷いた。


「慧もね」


 抱き合うことはなかった。


 振り返って呼び止めることもなかった。


 もう、話すことは残っていなかった。


 一週間後、私は旧姓の桐谷に戻った。


 そして湊斗を連れ、長く暮らした星凪市を離れた。


 潮見市の冬は、本当に穏やかだった。


 初めて海辺を歩いた日、湊斗は強い風に髪をめちゃくちゃにされながら、ずっと先を走っていた。


「お母さん、早く!」


 振り返って叫ぶ。


 私は笑いながら、湊斗の背中を追いかけた。


番外編 朝倉慧


 澪をもう一度見たのは、それから何年も経ってからだった。


 彼女と湊斗が潮見市で暮らしていることは、ずっと知っていた。


 離婚後、俺から澪を探しに行ったことはない。


 約束したペースで、湊斗とは連絡を取り続けていた。


 息子が大きくなり、自分のスマートフォンを持つようになると、ときどき写真も送られてきた。海辺の写真、学校行事、それから途中で飼い始めたらしい犬。


 澪のことを、湊斗はほとんど話さなかった。


 俺も聞かなかった。


 それでもある年、とうとう潮見市まで足を運んだ。


 道中、何度も自分に言い聞かせた。


 湊斗の様子を見に行くだけだ。


 俺は父親なのだから、息子が元気にしているか確かめたいと思うくらいは許される。


 そう思っていた。


 ところが、湊斗の住む辺りまで来たとき、先に目に入ったのは澪だった。


 スーパーから出てきたところだった。


 隣には、同じくらいの年齢に見える男がいた。


 ごく普通のニットを着て、片手に野菜や日用品の入った買い物袋を提げている。


 何かを話しながら、澪のほうへ顔を向けていた。


 距離があって、声までは聞こえない。


 澪が笑った。


 肩の力の抜けた、穏やかな笑い方だった。


 あんなふうに笑う澪を、俺は長いあいだ見たことがなかった。


 男が空いている手を伸ばし、さりげなく澪の腕を支えた。


 そこで初めて気づいた。


 澪のお腹が、少しだけ膨らんでいた。


 彼女はそこへ手を添え、男を見上げて何か言った。


 二人はゆっくり歩き出した。


 俺には気づかなかった。


 その場で、しばらく動けなかった。


 秋の風は、それほど強くなかったはずだ。


 それなのに、その瞬間だけ周囲の音がひどく遠くなった。


 結局、名前を呼ばなかった。


 湊斗にも会わず、そのまま空港へ戻った。


 飛行機が離陸し、潮見市の街が少しずつ小さくなる。


 窓の外を見ながら、十代の頃を思い出した。


 真夏の日差しの下、自転車を必死に漕いだ。


 街の反対側まで走って、澪の好きないちご大福を一箱だけ買った。


 あの頃の俺は、急ぎさえすれば、いつだって間に合うと思っていた。


 窓の下で、潮見の街がゆっくり雲に隠れていった。







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