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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

石の心臓は涙を流さない ~元国税徴収官の悪役令嬢は、領民の命を「損金算入」して領地再建する~

掲載日:2026/02/18

『石の心臓は涙を流さない』へようこそ


本作は、「もしも現代の国税徴収官が、破綻寸前の異世界領地を経営することになったら?」という思考実験から生まれた物語です。


異世界転生ものにおいて、主人公はしばしば強力な魔法や現代知識チートによって、人々を救い、称賛されます。しかし、現実の「統治」とは、そんなに甘いものでしょうか?

資源が不足し、外敵の脅威に晒された極限状態において、現代の倫理観ヒューマニズムは、時に生存の邪魔をする「毒」になります。


主人公のエレオノーラは、剣も振るえず、攻撃魔法も使えません。彼女が持っているのは、冷徹な「会計能力」と、全てを数字で判断する「天秤の瞳」だけ。

彼女は領民を守るために、心を殺し、感情を石に変え、誰かを見捨てる決断を下し続けます。


この物語に、スカッとするような「ざまぁ」や、都合の良い奇跡は登場しません。

あるのは、血の通わない貸借対照表バランスシートと、その行間に滲む、かつて人間だったものの痛みだけです。


どうぞ、温かい紅茶――あるいは、少し冷めた苦いコーヒーでも用意して、彼女の孤独な計算に付き合ってあげてください。

第1章 貸借対照表の狂った領地


---


左手の小指と薬指が、動かない。

感覚がないのではない。重いのだ。まるで鉛の指抜きを嵌められたかのように、机の天板を叩くとコツ、コツ、と硬質な音が鳴る。


石だ。

私の指は、文字通り石になりつつある。


「……エレオノーラ様、お加減は」

「問題ないわ、リカルド。書類をめくるのに少しコツがいるだけ」


私は嘘をつく。

言葉にした瞬間、石化した小指の先から、冷たさが血管を逆流して心臓へ届くのを感じた。

かつて日本という国で、相馬律子として生きていた頃の記憶。深夜のオフィス、鳴り止まない電話、怒号、そして過労による突然死。あの時感じていた焦燥や、理不尽に対する怒りが、まるで古いインクが乾くように薄れている。


私は今、エレオノーラ・フォン・ベルンシュタイン。

王太子に婚約破棄され、「冷血女」と罵られてこの北の辺境・ベルンシュタイン領へ追放された公爵令嬢。

そして、破綻寸前の領地を立て直すため、再び「徴収官」の目を向けなければならない、嫌われ者だ。


「それで、ボラス商会からの納入品はどうなっているの?」

「は。小麦粉三百袋、及び防寒具一式、先ほど屋敷の裏手に到着しました。しかし……」


執事のリカルドが言葉を濁す。彼が言い淀む理由はわかっている。

私は椅子を軋ませて立ち上がった。石化した指先が触れる帳簿の紙が、ひやりと冷たい。

「行きましょう。検品よ」


          ◇


裏庭には、馬車三台分の荷が積まれていた。

商人のボラスは、丸々と太った腹をさすりながら、卑屈な笑みを浮かべて待ち構えていた。


「いやあ、エレオノーラ様! このような遠方までご足労いただき恐縮です。今年の冬は特に冷え込みますからなぁ、輸送コストも馬鹿にならなくて」

「単刀直入におっしゃって、ボラス殿。請求額は?」

「へへ、通常価格の三倍……と言いたいところですが、ベルンシュタイン家との今後のよしみもあります。二・五倍の金貨五十枚でいかがでしょう」


リカルドが憤慨して一歩前に出る。「ふざけるな! 王都の相場でも一・五倍が関の山だ!」

ボラスは肩をすくめる。「旦那、ここは魔獣が出る辺境ですよ? 命懸けで運んでるんです、危険手当ってやつですよ」


もっともらしい理屈だ。だが、私の目には別のものが見えている。

私は右目を閉じ、左目だけで荷を見る。

視界の端がチリと焼けるような痛みを訴える。


――能力【天秤のアプレイザル・レジャー】起動。


対象:小麦粉(袋詰め)

【品質評価:D-】

【瑕疵:底部に黒カビ汚染】


……それだけ見えれば十分だ。

これ以上の詳細――市場価格や汚染率――まで見ようとすれば、代償として指一本分の石化が進む。この程度の小悪党に、そこまでのコストは払えない。


かつての私なら――相馬律子なら、ここで激昂していただろう。「ふざけるな」と怒鳴りつけ、契約不履行で突き出していただろう。

だが、今の私はエレオノーラだ。

怒りは湧かない。ただ、「損失ロス」と「利益プロフィット」の計算式だけが脳裏を走る。


この冬、領内の備蓄はゼロに近い。

ボラスを処刑して小麦を没収しても、カビた小麦は食えない。

新しい商人を呼ぶには一ヶ月かかる。その間に領民の二割が餓死する。

感情で腹は膨れない。正義で寒さは凌げない。


必要なのは、断罪ではない。取引ディールだ。


「ボラス殿」

私は表情筋を動かさず、告げた。

「リカルド。三番目の馬車の、一番下の袋を開けなさい。右端のやつよ」


私が具体的に指定すると、ボラスの顔から血の気が引いた。

リカルドが命じられた袋を開ける。中から漂ったのは、香ばしい麦の香りではなく、鼻を突くカビの臭いだった。


「こ、これは……!」

「他にも抜き取り検査をしなさい。底に近い部分を中心にね」

リカルドは数人の兵士と共に検品を行い、次々と袋を開けていく。やがて、彼は青ざめた顔で戻ってきた。


「お嬢様……三百袋中、八十四袋がこの状態です。虫食いも混じっています」

「ひっ……!」

「これじゃあ『食料』じゃないわね。兵士に食わせれば、疫病が発生して防衛線が崩壊するわ」


私は石化した左手で、カビた小麦をすくい上げた。

ざらりとした感触。これが、今のこの領地の実情だ。


「さ、詐欺だ! 衛兵! この男を捕らえろ!」

リカルドが剣に手をかける。

だが、私はそれを制した。


「待ち、リカルド」

「し、しかしお嬢様!」

「ボラス殿。これは契約違反よ。即刻首を刎ねても、文句は言えない案件ね」

「お、お慈悲を! 出来心だったんです、魔獣に襲われて荷崩れして、その時に……!」


商人が地面に額を擦り付ける。

私は冷たく彼を見下ろした。


「取引をしましょう」

「……え?」

「カビていない二百袋強は買い取るわ。ただし、定価の一割引きで」

「は、はい! ありがとうございます!」

「そして、カビた八十四袋はあなたが持ち帰りなさい。その代わり――この『契約書』にサインを」


私は懐から羊皮紙を取り出した。

そこには、リカルドが青ざめるような条項が書き加えられている。


「来月の納入が一日でも遅れた場合、あるいは品質が『B』を下回った場合、違約金としてボラス商会の全資産、及び連帯保証人であるご家族の身柄を、当家が管理する」

「なっ……!?」

「嫌ならサインしなくていいわ。その代わり、今ここで詐欺罪として衛兵に突き出す。どちらが『お得』かしら?」


ボラスは脂汗を垂らし、震える手でペンを握った。

これで彼は逃げられない。恐怖という鎖で繋がれた、最も誠実な下僕の完成だ。

「賢い選択ね。来月も楽しみにしているわ」


          ◇


執務室に戻り、私は再び机に向かう。

リカルドが淹れてくれた紅茶からは、薄く湯気が立っている。

彼が部屋を出て行ったあと、私はふと、リカルドが置いた経費精算書に目を落とした。


『孤児院への寄付金:金貨一枚』

『使途:冬季用毛布及び薪の購入』


私の【天秤の瞳】が、その項目の真実を暴く。

【実態:リカルドのポケットマネーからの補填。領の会計には計上されていない】

【理由:先日の視察時、震えていた子供を見かねて独断で購入】


本来なら、叱責すべき案件だ。

公私混同は組織の規律を乱す。たとえ善意であっても、個人の感情で予算外の支出を許せば、それはやがて横領へと繋がる。

私の頭の中の電卓が、「警告処分」という解を弾き出す。


けれど。


私はペンを取り、その項目の横に小さくチェックを入れた。

『承認』のサインではなく、『見なかったことにする』という無言の印。


「……馬鹿ね」


口に出た言葉は、予想よりも少しだけ震えていた。

リカルド、あなたのその甘さは、いずれ命取りになるわ。

でも、その甘さがまだここにあることに、私はどうしようもなく安堵している。


指先の石化が、少しだけ止まったような気がした。

これは私の「弱さ」だ。

統治者としては落第点の、不合理な未練。

だが、完全に石になってしまう前の、最後の人間らしさの欠片かけらとして、私はこの「損失」を目をつぶることにした。


「さて……」


私は気を取り直し、領地全体の地図を広げる。

そこには、もっと残酷で、もっと巨大な「数字」が待っていた。


ベルンシュタイン領の人口、三万人。

対魔獣結界の維持に必要な魔力総量、一五〇万マナ。

現在、領民から徴収可能な魔力、一二〇万マナ。


――三十万マナ足りない。


これは単なる数字ではない。

結界の強度が二割落ちれば、統計上、辺境の村が二つ全滅する。

人口の一割、約三千人の死。


私は恐怖を振り払うように、地図の一点を睨む。

ベルンシュタイン領の北端、『モルト村』。

人口三百八十名。主な産業は寒冷地用ハーブの栽培。

この村の村長は、確か五歳の孫娘自慢をする好々爺だったはずだ。以前の視察で、泥だらけの手で握手をしてきた温かさを、データとしては覚えている。


計算上、モルト村を含む北部の三つの村を「結界外」に置けば、本城と主要穀倉地帯は守れる。

つまり、あの好々爺も、孫娘も、全てを見捨てる。


現代日本の倫理観モラルが、脳内で警鐘を鳴らす。

『人権侵害だ』

『本当は、こんな計算をするために生き延びたんじゃない』

『誰かを救いたかった。前の世界でできなかったことを、したかっただけなのに』


だが、窓の外では冬の風が唸りを上げている。

物理法則は、私の感傷など歯牙にもかけない。

魔力がなければ、全員死ぬ。それだけだ。


「……計算を始めましょう」


私は石の指でペンを握りしめた。

震えはもう、止まっていた。止まってしまっていた。

その冷たさが心地よく、そして死ぬほど怖かった。


「モルト村の防衛優先度を『D』へ引き下げ。……代わりに、中央区画の徴税率を五%上昇。生存可能ラインのギリギリまで、吸い上げるわ」


私の戦いは、剣や魔法ではない。

誰を生かし、誰を見捨てるか。

この血の通わない貸借対照表バランスシートこそが、私の戦場だ。


---


第2章 聖女の慈悲という名の毒


---


あの決裁から、ひと月。

黒字だ。

一ヶ月ぶりに、帳簿の数字が黒いインクで埋め尽くされている。


「……計算通りね」


執務室の窓から見える空は、鉛色に淀んでいる。

だが、その空を覆う薄紫色の膜――対魔獣結界の出力は、安定値の九八%を維持していた。

先月、私は北端のモルト村への魔力供給を断った。結果、村は魔獣に蹂躙され、地図から消えた。

三八〇名の命と引き換えに、残る二万九千人の命と、主要産業である小麦畑を守り抜いたのだ。


私の左手は、手首までが灰色の石に変わっていた。

指はもう動かない。書類を押さえるための「文鎮」としてしか機能しない。

けれど、この石の重みこそが、私の統治が間違っていないことの証明だった。


「エレオノーラ様」

リカルドが執務室の扉をノックする。その顔色は優れない。

「……到着されました」

「そう。予定より早いのね」


私は石化した左手を袖の中に隠し、立ち上がる。

窓の外、泥濘んだ街道を、場違いに豪華な純白の馬車が進んでくるのが見えた。

王家の紋章。そして、車輪が泥を跳ね上げるたびに、護衛の騎士たちが舌打ちをしているのがわかる。


「お出迎えしましょう。この領地に『正義』を教えに来てくださった、尊いお客様を」


          ◇


屋敷の玄関ホールに降り立つと、甘い花の香りが鼻をくすぐった。

カビと石と鉄の臭いが染み付いたこの辺境には、暴力的なまでに似合わない香りだった。


「久しぶりだね、エレオノーラ。相変わらず陰気な顔をしている」


先に馬車から降りたのは、元婚約者の王太子、アレクセイ殿下。

金髪碧眼。物語の王子様そのものの容姿だが、私にはもう、彼の顔が「予算を食い潰す装飾品」にしか見えない。


「遠路はるばるようこそお越しくださいました、殿下」

私が カーテシーの真似事をすると、彼は鼻で笑った。

そして、馬車の中に手を差し伸べる。


「さあ、おいでマリアンヌ。足元に気をつけて」

「きゃっ、ありがとうございます、アレクセイ様!」


鈴が鳴るような声と共に現れたのは、小柄な少女だった。

聖女マリアンヌ。

ふわふわとしたピンクブロンドの髪、大きな瞳。

かつて私が糾弾された断罪の場で、彼女はただ震えて泣いていた。それが王太子の保護欲を掻き立てたのだ。


「エレオノーラ様……! ああっ、こんな寒くて寂しい場所に……!」

マリアンヌは私を見るなり、涙ぐんだ。

「心配していたんです。ご飯は食べていますか? お友達はできましたか?」


悪意はない。

純度一〇〇%の善意。

だからこそ、タチが悪い。


私は右目を細め、習慣的に【天秤の瞳】を起動しかける。

一瞬だけ視界に文字列が走る。


【対象:マリアンヌ・フォン・ライラック】

【保有魔力:S(聖女級)】

【管理能力:E(制度外・感情依存)】

【意思決定プロセス:短期的共感(論理欠如)】


……予想通りだ。

彼女は「個人を救う力」はあるが、「全体を維持する計算」ができない。

為政者として最も危険なタイプだ。


「ご心配には及びません、マリアンヌ様。ここは私の領地です。領民と共に、慎ましくも平穏に暮らしております」

「でも……! 街の人たち、みんな顔色が悪いわ。服もボロボロで……」

「冬越しの最中ですから。春になれば改善します」

「嘘よ! 私、見たもの。畑で働いている人たち、首輪をつけられていたわ!」


マリアンヌが悲鳴のように叫ぶ。

アレクセイ殿下が彼女の肩を抱き寄せ、私を睨みつけた。


「そうだ、エレオノーラ。道中、農地を見たぞ。領民に『吸魔の首輪』をつけて強制労働させているそうだな。貴様、とうとう人の心まで失ったか」


「……誤解です、殿下。あれは強制労働ではありません。『魔力提供契約』です」

私は淡々と説明を試みる。

「現在、魔獣の活性化により、結界維持に必要な魔力が不足しています。そこで、健康な成人に限り――」


「それを強制労働と言うんだ!」

殿下が怒鳴る。

「マリアンヌ、案内してやろう。この女が支配する地獄を、君の光で照らしてやるんだ」


二人は私の制止も聞かず、再び馬車に乗り込んだ。

リカルドが蒼白な顔で私を見る。

「お嬢様……どうしましょう。あの方々が向かったのは、第三農場です」


第三農場。

そこは、最も効率よく、かつギリギリのラインで魔力徴収を行っている現場だ。


「……追いかけるわよ、リカルド」

石化した左手が、ズクリと痛んだ。

嫌な予感がする。

計算式に、決して入れてはいけない「変数」が、今まさに飛び込もうとしている。


          ◇


第三農場は、静かな熱気に包まれていた。

痩せた土地でも育つ「魔晶芋」の収穫期だ。農奴たちは首に銀色の輪を嵌め、泥だらけになって働いている。

魔力を吸われているため、皆、顔色は青白く、息は荒い。


「ひどい……!」


馬車から降りたマリアンヌが、その光景を見て口元を押さえた。

彼女の視線の先には、一人の老婆がいた。

重い芋の籠を背負い、咳き込みながらよろけている。


「あんなお婆さんまで……! 見ていられない!」

マリアンヌが駆け出す。

「待ちなさい、マリアンヌ様!」


私の叫びは届かない。彼女は老婆に駆け寄ると、その体を支え、首輪に手をかけた。

「痛いでしょう、苦しいでしょう……! もう大丈夫よ、私が外してあげる!」

「え? い、いや、これは……」

老婆が戸惑う間に、マリアンヌの手が白く光った。

聖女の固有魔法【解呪ディスペル】。


パキン、という音と共に、管理用魔道具である首輪が砕け散る。


その瞬間だった。

「あ……ああ?」

老婆の顔色が、見る見るうちに良くなった。

濁っていた瞳に光が戻り、曲がっていた腰が少し伸びる。

さらにマリアンヌは、近くで咳き込んでいた子供にも手をかざし、治癒魔法をかけた。


「ほら、もう痛くないでしょう?」

「……うん! おねえちゃん、すごい! 体が熱くない!」


子供が笑顔で跳ね回る。

それを見た農奴たちがどよめいた。

「すげえ……婆さんの顔色が戻ったぞ」

「坊主の熱も下がった!」

「聖女様だ! 本物の聖女様が助けてくださったんだ!」


歓声が上がる。枯れ木のような手足に力が戻り、彼らは涙を流してマリアンヌを拝んだ。


私は唇を噛んだ。

……悔しいが、今の瞬間だけを見れば、彼女は「正義」だ。

老婆は救われ、子供は癒やされた。それは事実だ。

私が「必要なコスト」として切り捨てていた痛みを、彼女は魔法一つで消し去ってみせた。

領民にとって、私は命を吸う悪魔で、彼女は無償の愛を与える女神。


けれど。


「愛?」

喉の奥がひゅっと鳴った。

笑いの前の、乾いた音だった。


「リカルド。……現在の魔力備蓄残量は?」

私の背後で、リカルドが震える声で答える。

「……この農場の稼働停止により、三日後には備蓄が底をつきます」


「聞こえましたか、殿下。マリアンヌ様」

私は二人を見据えた。

「あなた方が外したのは、ただの枷ではない。この領地を魔獣から守る『命綱』です。魔力供給が止まれば、結界は消える。そうすれば、ここにいる全員が魔獣の餌になる」


「ハッ、脅しか」

アレクセイ殿下が吐き捨てる。

「備蓄がないなら、王都から送ればいい。金がないなら、王家が支援する。それだけの話だ」

「その支援物資が届くのに、何日かかるとお思いですか?」


「マリアンヌの祈りがある!」

殿下はマリアンヌの肩を抱いた。

「彼女の聖なる魔力があれば、結界など容易に維持できる。貴様のような無能とは違うのだ」

「ええ、任せてくださいアレクセイ様! 私、頑張ります!」


マリアンヌが胸の前で手を組む。

「私の祈りで、結界を張ります。だから、この人たちから魔力を奪うのは、もう止めてあげて」


農奴たちから「おお……!」と感嘆の声が漏れる。

その光景を見て、私は反射的に【天秤の瞳】を開いた。

見たくなかった。けれど、見なければならなかった。


視界が赤く染まる。

数字が、滝のように流れ落ちていく。


【対象:ベルンシュタイン領全域】

【現在状態:一時的陶酔(モラルハザード発生中)】

【結界維持率:98%(現在) → 72%(72時間後) → 0%(96時間後)】

【予測死者数:3,420名(第一波)】

【暴動発生確率:88%(High)】

【最終評価:人道的満足度(最大) / 財政・防衛(破綻)】


……終わった。

私の網膜に焼き付いたのは、真っ赤な「破綻デフォルト」の二文字だった。


「……わかりました」

私は引き下がった。

いや、引き下がるしかなかった。

ここで無理に首輪をつけ直せば、暴動が起きる。そうなれば、生産活動は完全に停止する。


「では、結界の維持はマリアンヌ様にお任せします。……ただし、記録には残させていただきますよ。この決定は、王太子殿下と聖女様の意志であると」


「ああ、構わんとも。後世の歴史書には、悪女から民を救った聖女の偉業として記されるだろう」


アレクセイ殿下は勝利の笑みを浮かべ、マリアンヌを連れて屋敷へと戻っていった。

農奴たちは仕事を放り出し、聖女の後を追ってぞろぞろと移動していく。


畑には、収穫途中の魔晶芋と、砕かれた首輪の残骸だけが残された。


          ◇


屋敷の窓から、広場を見下ろす。

マリアンヌが炊き出しを行っていた。

湯気の立つ温かいスープが振る舞われ、領民たちが笑顔で列を作っている。


「ありがとう、おねえちゃん!」

さきほどの子供が、スープを受け取ってマリアンヌに抱きついた。

「温かいね! おいしいね!」

「ええ、たくさん食べてね」


マリアンヌが聖母のように微笑む。

その光景は、あまりにも美しく、正しかった。

私の胸の奥で、ズキリと鈍い痛みが走った。

『私だって、本当はこうしたかった』

『子供の笑顔が見たかった。誰かに感謝されたかった』


かつて相馬律子だった頃の、あるいはエレオノーラの中に残っていた少女の感情が、声を上げた気がした。

けれど、次の瞬間。


ヒヤリ、と左手が冷たくなった。

痛みが、吸い込まれるように消えていく。


石だ。

石化した左手が、私の「嫉妬」や「後悔」といったノイズを、物理的に冷却し、殺していく。

残ったのは、冴え渡るほどの静寂と、冷徹な計算式だけ。


「……リカルド」

私は、感情の消えた声で呼んだ。


「はい、お嬢様」

「私の部屋の金庫から『緊急時用台帳コード・ブラック』を出して」

「コード・ブラック……? まさか」


私はリカルドの顔を見ず、手元の羊皮紙に目を落とした。

そこには、赤文字でこう記されている。


『緊急時対応規定・第四条:非常事態における人権の停止、及び魔力の強制徴収(致死率許容)』


「備えましょう」

私は石の指で机を叩いた。硬質な音が、執務室に響く。

「善意という名の毒が回って、この領地が壊死する前に。……私たちが、本当の『悪』になる準備を」


窓の外では、まだ子供たちの笑い声が聞こえている。

けれど私にはもう、それが七二時間後に聞こえるはずの、断末魔の悲鳴にしか聞こえなかった。


---


第3章 損切り(カット・ロス)


---


七二時間が経過した。


私の【天秤の瞳】は、あまりにも正確だった。

時刻は深夜二時。

執務室の机に置かれたティーカップの中、冷めた紅茶の水面が、微かに波紋を描いたのが合図だった。


ズズズ……という、地底から響くような重低音。

続いて、鼻を突く腐臭。雪の匂いに混じって、濡れた獣の毛と硫黄の臭いが風に乗って漂ってくる。


「……時間通りね(オン・タイム)」


私は安楽椅子に深く身を沈めたまま、窓の外を見た。

まだ歩くことはできるが、両足が痺れたように重い。ここ数日、能力を酷使した代償だ。

夜空を覆っていた薄紫色の結界が、ガラス細工のようにヒビ割れ、音を立てて崩れ落ちていく。

月明かりの下、赤い目が無数に光った。

魔獣だ。

結界の消失を嗅ぎつけた森の魔獣たちが、雪崩のように領地へとなだれ込んでくる。その数、推定三千。


「お、お嬢様!」

リカルドが部屋に飛び込んでくる。彼は剣を帯びていたが、その顔は恐怖で引きつっていた。

「結界が消滅しました! 北の森から『黒狼ブラック・ウルフ』の群れが! すでに外壁が突破されそうです!」


「落ち着きなさい、リカルド。想定内よ」

私は懐中時計をパチンと閉じた。

「マリアンヌ様はどうしたの?」

「広場におられます! 結界を維持しようと祈り続けておられましたが、吐血して倒れられました。魔力欠乏マナ・ショックです!」


やはり。

個人の魔力タンクがいかに大きくても、都市防衛システムという「ダム」の水量を一人で賄えば、身体が壊れるのは必然だ。


「殿下は?」

「……荷物をまとめておられます。『王都へ救援を呼びに行く』と仰って、馬車の用意を……」


リカルドが悔しげに拳を握る。

救援? 違う、逃亡だ。

この状況で馬車を出せば、魔獣の格好の餌食になることすら計算できていない。


「行くわよ」

私は石化した左手で肘掛けを押し、立ち上がろうとした。

だが、膝がガクリと折れる。

「お嬢様!」

「……大丈夫。まだ立てるわ」


感覚が鈍い足を引きずるようにして、私は部屋を出た。


「広場へ。……『損切り』の時間よ」


          ◇


広場は阿鼻叫喚の地獄と化していた。


「助けてくれぇ!」

「痛い、痛いよぉ!」


三日前、マリアンヌに首輪を外してもらった農奴たちが逃げ惑っている。

皮肉なことだ。マリアンヌの過剰な治癒魔法を浴びた彼らは、魔獣にとって「魔力が潤沢で新鮮な餌」として輝いて見えているのだ。黒狼たちは涎を垂らし、太った農奴から順に食い殺していく。


広場の中央、噴水の前にはマリアンヌが倒れていた。

真っ白な聖女のドレスは吐血で赤く汚れ、顔色は死人のように白い。

「ごめんなさい……ごめんなさい……祈りが、届かないの……」


その横で、アレクセイ殿下が騎士たちに怒鳴り散らしていた。

「ええい、早く馬車を出せ! 私は王太子だぞ! こんなところで死んでたまるか!」

「殿下、無理です! 門の前はもう魔獣で埋め尽くされています!」


愚かな。指揮官がパニックを起こせば、兵士の士気は崩壊する。


「どきなさい」


私はリカルドに支えられながら、殿下の前に進み出た。

「エ、エレオノーラ……! 貴様、生きていたか!」

「死にかけているのはあなた方です、殿下。指揮権を返していただきます」


私は殿下を無視し、広場に設置された拡声魔道具のマイクを奪い取った。

深呼吸をする。冷たい夜気が、肺を凍らせる。


『総員、傾注』


私の声が広場に響き渡ると、逃げ惑う人々が一瞬だけ動きを止めた。


『現在、本領は防衛不能ロスト状態にある。外部からの救援到着見込みは七二時間後。現状の戦力では、三〇分以内に全滅する』


「な……っ!」

絶望の事実を淡々と告げる。嘘も気休めも言わない。

パニックが再燃しかけた瞬間、私は続けた。


『ただし、生存手段が一つだけある』


私は広場の地面を指差した。

そこには、雪に埋もれて見えなくなっていたが、巨大な幾何学模様――かつての領主が刻んだ、緊急防衛用の魔方陣が描かれている。


『この広場の地下には、旧式の魔力炉がある。これを起動し、最大出力で結界を再展開すれば、魔獣を焼き払うことができる』


「だ、だったら早くやれ!」

殿下が叫ぶ。

「燃料がないのです」

私は冷ややかに殿下を見下ろした。

「この魔力炉は、マナの液体燃料などでは動かない。もっと純度が高く、生々しいエネルギーが必要になる」


私は【天秤の瞳】を開いた。

視界が赤く染まり、広場にいる人間たちの頭上に数値が浮かぶ。

「誰でもいい」わけではない。最も効率よく、炉を回せる素材を選ばなければならない。


【必要魔力量:一五〇万マナ(即時)】

【適合燃料:直近七二時間以内に聖女の魔力を受け入れ、魔力回路が活性化している者】

【対象数:広場に避難中の領民(約四〇〇名)】

【抽出に伴う代償:寿命短縮(一〇年〜二〇年)および身体機能の一部喪失】


なんという皮肉だろう。

マリアンヌが善意で与えた癒やしの魔力が、彼らを「最高の薪」に変えてしまっていた。


「燃料は、あなたたちよ」


私が告げた瞬間、広場が静まり返った。

意味を理解したリカルドが、私の腕を掴む。

「お嬢様……まさか!?」


「コード・ブラック発動条件、満了。……対象は、この広場にいる『マリアンヌ様の加護を受けた者たち』全員」


「狂ってる!」

マリアンヌが、血を吐きながら叫んだ。

よろよろと立ち上がり、私を睨みつける。

「そんなこと……許されない! 命を何だと思っているの! 彼らは家畜じゃない、人間なのよ!」


「ええ、人間です。だから確率で選ぶのです」

私は淡々と答えた。

「報復ではありません。炉との適合率が高い彼らを使えば、生存確率は九九%。それ以外を使えば六〇%まで落ちる。……どちらのサイコロを振りますか?」


「いやだ……死にたくない……」

誰かが呟いた。

「俺は……俺はまだ死ねない……!」

彼らはマリアンヌを見る。だが、マリアンヌにはもう、彼らを救う力はない。空っぽの祈りがあるだけだ。


「……やります」

一人の男が手を挙げた。

あの、マリアンヌに炊き出しのスープをもらっていた子供の父親だ。

「子供だけは……この子だけは助けたいんだ! 俺の命でいい、持って行ってくれ!」

「パパ……?」


「ダメよ! ダメェェッ!」

マリアンヌが絶叫する。

「そんなのダメ! 命を犠牲にするなんて、そんなの正義じゃない!」


「正義?」

私は嗤った。

「マリアンヌ様。あなたの正義は『全員を救おうとして全員殺す』こと? 私の悪は『誰かを見捨てて誰かを生かす』こと。……どちらがマシな計算かしらね」


私はリカルドを突き放した。

杖をつき、魔方陣の中央――制御石コンソールの前へと進む。


起動ブート


石に手を置く。

瞬間、左手首から先が一気に石化していく感覚があった。


地面が青白く発光した。

「う、うわあああああっ!」

「ぐああああッ!」


広場から悲鳴が上がる。

四〇〇人の体から、青い光の帯が立ち昇る。

子供が泣き叫び、老人が泡を吹いて倒れる。父親が苦悶の表情で目を押さえる。


【魔力充填率:一二〇%……臨界突破】


「焼き払いなさい」


光の柱が弾けた。

衝撃波が広がり、迫りくる黒狼の群れを次々と蒸発させていく。

圧倒的な火力が、物理的に「死」を消去していく。

美しい、とすら思った。


三〇秒後。

光が収まると、そこには静寂だけが残っていた。

魔獣は一匹残らず灰になり、雪原を黒く染めていた。


そして。

広場には、四〇〇人の領民が倒れ伏していた。

死んではいない。だが、全員が白髪になり、肌は老婆のようにシワが刻まれていた。


「……あ、あぁ……」

マリアンヌがへたり込む。

彼女が見つめる先には、さっきの子供がいた。

子供は口をパクパクと動かしているが、声が出ていない。

強すぎる魔力奔流の影響で、声帯が焼けたのだ。


「目が……見えねえ……」

父親が、白く濁った虚ろな瞳で空を仰いでいた。

「おい、坊主、どこだ? 無事か?」


子供は声が出せず、盲目の父に縋り付いて泣いている。

もう二度と、父は息子の顔を見れず、息子は父の名を呼べない。

それが、命の対価だった。


「これで、計算は合いましたね」


私は制御石から手を離した。

その瞬間、膝から下の感覚が完全に消失した。

ガクン、と体が崩れ落ちる。

「お嬢様ッ!」


リカルドが滑り込み、私を抱きとめた。

彼の腕の中で、私は自分の足を見た。

ブーツの中で、足首から膝までが、冷たい灰色の石に変質していた。

もう二度と、歩くことはできないだろう。


「リカルド……」

「はい! はい、ここにいます!」

リカルドは泣いていた。

大粒の涙が、私の頬に落ちる。

「なんてことを……なんてむごいことを……! でも、ありがとうございます……生きていてくださって、ありがとうございます……!」


彼は泣きながら、私を抱きしめる。

その体温は温かいはずだ。

その涙は、私への同情と、愛情の証なはずだ。


一瞬、思考が空白になった。

かつての私――相馬律子だった記憶が、遠くでさざめく。

『泣いてくれている。嬉しい』

『申し訳ない。ひどいことをした』

『心が痛い』

そう感じるはずだった。そう、あるべきだった。


けれど。


「……?」

空白のままだ。

痛みが、来ない。

あるはずの感情の場所に、ぽっかりと空いた穴があり、冷たい風が吹き抜けているだけ。


私の脳裏に浮かんでいるのは、リカルドの涙の成分分析と、彼が抱きしめる圧力プレッシャーの数値だけ。

【対象:リカルド】

【状態:情緒不安定(非生産的)】

【推奨対応:業務遂行への支障が出るため、鎮静化が必要】


ああ、そうか。

私は理解した。

足を失った代償。それは、歩く機能だけではなかったのだ。

私はもう、彼の涙を「美しい」と感じることすらできない。


「リカルド」

私は冷え切った声で、彼に告げた。


「汚れるわ。……離して」


リカルドが、信じられないものを見る目で私を見た。

その瞳に映る私が、もはや人間ではない何かに変わってしまったことを、彼も悟ったのだろう。


私は石になった足で、リカルドの腕の中に座り続ける。

広場には盲目の男の呻き声と、声の出ない子供の衣擦れの音が響いている。

地獄のような光景だ。

だが、私の【天秤の瞳】には、たった一つの美しい文字が表示されていた。


【損益分岐点:達成(黒字)】


私は、満足だった。

そして、この地獄を「美しい黒字」だと感じてしまう自分の心が、石になるよりも恐ろしかった。


---


第4章 完璧な悪役


---


翌朝の空は、憎らしいほどに晴れ渡っていた。

雪原を焦がした魔獣の死骸は夜通しで処理され、今は黒い灰が風に舞っているだけだ。


「……良い天気ね」


私は車椅子の上で呟いた。

特注の車椅子だ。かつてこの屋敷の主だった祖父が使っていたものを、リカルドが倉庫から引っ張り出して油を差した。

私の膝から下は、完全に石化していた。

もはや感覚はなく、ただ重い「重石」として体を椅子に繋ぎ止めている。


「エレオノーラ様、朝食の準備が……」

「いらないわ。それより、お客様のお見送りよ」


私は車椅子の車輪を回す。

廊下を進むたび、ゴロゴロという乾いた音が屋敷に響く。

使用人たちが私を見て、さっと道を開け、深々と頭を下げる。

その瞳にあるのは、かつてのような「同情」ではない。「畏怖」だ。

悪魔を見る目。

それでいい。愛される領主になどなるつもりはない。機能する領主であればいい。


          ◇


応接間には、アレクセイ殿下とマリアンヌ様が待っていた。

マリアンヌ様は目を腫らし、憔悴しきっている。

対照的に、アレクセイ殿下は顔を真っ赤にして憤っていた。近衛騎士たちも剣の柄に手をかけている。


「よくも顔が出せたものだ、この悪魔め!」


私が車椅子で入室するなり、殿下が怒鳴った。

「貴様のしたことは報告済みだ! 領民を強制的に生体燃料バイオ・フューエルにし、身体的欠損を負わせた罪! これは大量虐殺にも等しい重罪だ!」


「虐殺?」

私は首をかしげた。

「死者はゼロです、殿下。昨夜の戦闘における生存率は一〇〇%。私が手を下さなければ、生存率はゼロ%でした。……感謝状をいただきたいくらいですが」


「ふざけるな! 広場を見てみろ! 目が見えなくなった者、声が出なくなった子供……あれが生きてると言えるのか!」

マリアンヌ様が泣き崩れる。

「ひどい……あの子、もう『おねえちゃん』って呼べないのよ……私が治そうとしても、魔力回路が焼き切れていて治せないの……!」


「それは残念です。ですが、生きていれば『納税』は可能です」

私は事務的に告げた。

「彼らには障害者年金を支給し、軽作業に従事してもらいます。目が見えなくても、芋の皮むきはできる。声が出なくても、荷運びはできる。……社会の歯車として、再利用します」


「き、貴様ッ……!」

殿下が剣を抜き、私の喉元に突きつけた。

切っ先が震えている。


「もういい、問答無用だ! エレオノーラ・フォン・ベルンシュタイン! 王太子アレクセイの名において、貴様を国家反逆罪および非人道的魔術使用の罪で拘束する! 直ちに王都へ連行し、断頭台へ――」


「リカルド」

私は眉一つ動かさず、背後の執事を呼んだ。


「は」

リカルドが無言で一冊の帳簿を差し出す。

飾り気のない、実務用の綴じ込み帳簿だ。


「……それは何だ」

「殿下。一ヶ月前、私が弱みを握った『ボラス商会』を覚えていますか? 彼を通じて、王都の商業ギルドから『裏の資金移動データ』を買い取らせました。……それを私の【天秤の瞳】で、王家の公式支出と照合(監査)したものです」


私は帳簿をめくり、あるページを殿下に見せた。

そこには、赤線で引かれた不正な資金移動の記録が記されている。


「王立聖女支援基金。……マリアンヌ様の活動を支えるための、国民からの寄付金ですね」

「そ、それがどうした」

「この基金は『善意の寄付』であるがゆえに、会計監査の対象外(聖域)とされている。……そこがあなたの狙い目でしたね?」


私はページを指で弾いた。

「この三年間で、総額の四割にあたる金貨二万枚が、使途不明金として消えています。そして同額が、殿下の個人口座へ――正確には、殿下が熱を上げている『カジノの借金返済』と『愛人への贈り物』に流れています」


「な……ッ!?」

殿下の顔から、一瞬で血の気が引いた。

剣先が大きく揺れる。


「う、嘘だ! デタラメだ! 私は王家の運用資金として一時的に……!」

「嘘ではありません。【天秤の瞳】は、金の流れについた『嘘の匂い』を絶対に見逃さない。……マリアンヌ様、ご存知でしたか? あなたが配っていた炊き出しのスープ、あれは本来ならもっと具沢山だったはずなんですよ。殿下が中抜きしなければね」


マリアンヌ様が呆然と殿下を見上げる。

「アレクセイ様……? うそ、ですよね? 私利私欲のために、孤児たちのミルク代を……?」


「証拠は全て揃っています」

私は車椅子の肘掛けを叩いた。

「この帳簿の写しと、私の鑑定書。……すでに、この写しと同じものを『教会監査局』と『王国会計院』へ送る準備ができています。『聖女の奇跡は、王太子の横領によって汚されていた』……そんなスキャンダルが出れば、王室の権威は地に落ちるでしょうね」


殿下は膝から崩れ落ちた。

剣が床に落ち、カラン、と虚しい音を立てる。

物理的な武力など、経済的な急所ウィークポイントの前では無力だ。


「……何を、望む」

殿下が震える声で言った。


取引ディールをしましょう」

私はにっこりと――おそらく、冷たい彫像のように――微笑んだ。


「第一に、今回の事件に関する『記録の改竄』です」

「……なんだと?」

「公式記録にはこう残してください。『聖女マリアンヌの祈りによって魔獣は撃退された』と。……魔力炉の使用と、四〇〇人の犠牲者が生体燃料にされた事実は、歴史から抹消します」

「なっ……! 彼らの犠牲を、なかったことにするのか!?」

「ええ。彼らは『魔獣の呪いを受けて障害を負った生存者』として処理します。私が補償金(年金)という制度で管理しますから、ご安心を」


マリアンヌ様が息を呑む。

それは、彼女が「偽りの英雄」として称賛されるたびに、四〇〇人のうめき声が耳元で響き続けることを意味する。死ぬまで終わらない、飼い殺しの地獄だ。


「第二に、ベルンシュタイン領への向こう一〇年間の『特別免税特権』。および、王都からの復興支援金として金貨一万枚の即時支払い」

「い、一万枚!? そんな金、どこに……!」

「横領した分を吐き出せば足りるでしょう? ……さあ、選んでください。破滅か、共犯か」


長い沈黙があった。

やがて、殿下は呻くように言った。

「……分かった。条件を、呑む」


「賢明なご判断です」

私は帳簿を閉じた。

これで、領地の復興資金は確保できた。免税特権があれば、産業を立て直せる。

目の見えない農奴たちの生活も、なんとか保障できるだろう。制度として。


「さようなら、殿下。マリアンヌ様。……二度と、私の領地テリトリーに正義を持ち込まないでください」


二人は逃げるように部屋を出て行った。

マリアンヌ様は去り際に一度だけ振り返り、私を見た。その目には、もはや非難の色はなかった。

あるのは、自分と同じ「共犯者」を見る、深く暗い絶望だけだった。


          ◇


静寂が戻った執務室。

私は窓辺に車椅子を寄せ、外を眺めていた。

領民たちが、瓦礫の撤去作業を始めている。

遠くで、誰かの泣き声が聞こえる気がするが、ガラス越しではよく分からない。


「お茶が入りました、お嬢様」


リカルドが湯気の立つカップを盆に載せてやってくる。

彼の動作は完璧だ。音もなく、優雅で、無駄がない。

だが、その顔には表情がなかった。

以前のような、私を案じる甘い瞳も、親しげな微笑みもない。

ただ、主に仕える「機能」としての執事が、そこにいた。


「……ありがとう」


私はカップを受け取る。

指先は石化して感覚がないが、熱いということは湯気でわかる。

一口啜る。

最高級の茶葉だ。香りも、抽出時間も完璧。

私の味覚データと照合しても、これ以上の紅茶はないという数値が出る。


「おいしい?」

ふと、聞いてみたくなった。

かつての私なら、そう言って彼に微笑みかけただろう。


リカルドの手が、ピクリと止まった。

ソーサーを持つ指が、微かに、本当に微かに震えている。

彼は何かを言いかけて、喉を鳴らし、言葉を飲み込んだ。

一瞬だけ、その瞳が潤んだように見えた。

けれど、彼はすぐにまばたきをして、能面のような執事の顔に戻る。


「……お嬢様の計算通り、完璧な温度かと存じます」


事務的な返答。

そこには、ぬくもりというノイズは一切含まれていない。

私が望んだ通りだ。

私は彼から「甘さ」を奪い、有能な「部下」へと変えたのだから。


「そうね。完璧だわ」


私は紅茶を飲み干す。

領地の借金は完済。

復興資金は確保。

政治的干渉も排除した。

生存率は九九%以上。


貸借対照表バランスシートは、美しいほどの黒字だ。

どこにも間違いはない。

どこにも隙はない。

私は、この過酷な異世界で、領民と自分自身を守り抜いたのだ。


ふと、胸に手を当ててみる。

心臓の鼓動が、遠い。

ドクン、ドクンという音が、まるで分厚い石の壁の向こうから響いているようだ。


かつてここにあった、痛みも、喜びも、罪悪感すらも、今はもうない。

【天秤の瞳】が、私の身体状態ステータスを表示する。


【感情機能:停止(凍結済)】

【最終損益:黒字】


数字は嘘をつかない。

私は勝ったのだ。


「勘定は合った」


私は誰もいない部屋で、独りごちる。

石になった足はもう冷たさを感じない。

石になった心はもう涙を流さない。


ただ、私の心だけが、どこにも計上されていない。


(完)

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


この物語を書くにあたり、最も意識したのは「正義のコスト」です。

作中に登場した聖女マリアンヌは、決して悪人ではありません。彼女は純粋に弱者を救おうとし、目の前の悲劇に涙しました。多くの物語で「正義」とされる振る舞いです。

しかし、資源の裏付けのない正義は、長期的にはシステムを破綻させ、より大きな悲劇を生みます。


一方で、主人公のエレオノーラは、非人道的な選択を積み重ねることでシステムを守り抜きました。彼女は「悪役」として振る舞いましたが、その結果、領民の生存率は九九%を超えました。


どちらが正しいのか。

その答えを出すために、彼女は「人間性(心)」という対価を支払いました。

ラストシーンで彼女が浮かべた微笑みは、勝利の証であると同時に、人間としての敗北の証でもあります。


エレオノーラはこれからも、石になった体で領地を完璧に統治し続けるでしょう。

その完璧な黒字経営の裏にある、誰にも計上されない孤独に、思いを馳せていただければ幸いです。


それでは、また次の物語でお会いしましょう。

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