石の心臓は涙を流さない ~元国税徴収官の悪役令嬢は、領民の命を「損金算入」して領地再建する~
『石の心臓は涙を流さない』へようこそ
本作は、「もしも現代の国税徴収官が、破綻寸前の異世界領地を経営することになったら?」という思考実験から生まれた物語です。
異世界転生ものにおいて、主人公はしばしば強力な魔法や現代知識チートによって、人々を救い、称賛されます。しかし、現実の「統治」とは、そんなに甘いものでしょうか?
資源が不足し、外敵の脅威に晒された極限状態において、現代の倫理観は、時に生存の邪魔をする「毒」になります。
主人公のエレオノーラは、剣も振るえず、攻撃魔法も使えません。彼女が持っているのは、冷徹な「会計能力」と、全てを数字で判断する「天秤の瞳」だけ。
彼女は領民を守るために、心を殺し、感情を石に変え、誰かを見捨てる決断を下し続けます。
この物語に、スカッとするような「ざまぁ」や、都合の良い奇跡は登場しません。
あるのは、血の通わない貸借対照表と、その行間に滲む、かつて人間だったものの痛みだけです。
どうぞ、温かい紅茶――あるいは、少し冷めた苦いコーヒーでも用意して、彼女の孤独な計算に付き合ってあげてください。
第1章 貸借対照表の狂った領地
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左手の小指と薬指が、動かない。
感覚がないのではない。重いのだ。まるで鉛の指抜きを嵌められたかのように、机の天板を叩くとコツ、コツ、と硬質な音が鳴る。
石だ。
私の指は、文字通り石になりつつある。
「……エレオノーラ様、お加減は」
「問題ないわ、リカルド。書類をめくるのに少しコツがいるだけ」
私は嘘をつく。
言葉にした瞬間、石化した小指の先から、冷たさが血管を逆流して心臓へ届くのを感じた。
かつて日本という国で、相馬律子として生きていた頃の記憶。深夜のオフィス、鳴り止まない電話、怒号、そして過労による突然死。あの時感じていた焦燥や、理不尽に対する怒りが、まるで古いインクが乾くように薄れている。
私は今、エレオノーラ・フォン・ベルンシュタイン。
王太子に婚約破棄され、「冷血女」と罵られてこの北の辺境・ベルンシュタイン領へ追放された公爵令嬢。
そして、破綻寸前の領地を立て直すため、再び「徴収官」の目を向けなければならない、嫌われ者だ。
「それで、ボラス商会からの納入品はどうなっているの?」
「は。小麦粉三百袋、及び防寒具一式、先ほど屋敷の裏手に到着しました。しかし……」
執事のリカルドが言葉を濁す。彼が言い淀む理由はわかっている。
私は椅子を軋ませて立ち上がった。石化した指先が触れる帳簿の紙が、ひやりと冷たい。
「行きましょう。検品よ」
◇
裏庭には、馬車三台分の荷が積まれていた。
商人のボラスは、丸々と太った腹をさすりながら、卑屈な笑みを浮かべて待ち構えていた。
「いやあ、エレオノーラ様! このような遠方までご足労いただき恐縮です。今年の冬は特に冷え込みますからなぁ、輸送コストも馬鹿にならなくて」
「単刀直入におっしゃって、ボラス殿。請求額は?」
「へへ、通常価格の三倍……と言いたいところですが、ベルンシュタイン家との今後のよしみもあります。二・五倍の金貨五十枚でいかがでしょう」
リカルドが憤慨して一歩前に出る。「ふざけるな! 王都の相場でも一・五倍が関の山だ!」
ボラスは肩をすくめる。「旦那、ここは魔獣が出る辺境ですよ? 命懸けで運んでるんです、危険手当ってやつですよ」
もっともらしい理屈だ。だが、私の目には別のものが見えている。
私は右目を閉じ、左目だけで荷を見る。
視界の端がチリと焼けるような痛みを訴える。
――能力【天秤の瞳】起動。
対象:小麦粉(袋詰め)
【品質評価:D-】
【瑕疵:底部に黒カビ汚染】
……それだけ見えれば十分だ。
これ以上の詳細――市場価格や汚染率――まで見ようとすれば、代償として指一本分の石化が進む。この程度の小悪党に、そこまでのコストは払えない。
かつての私なら――相馬律子なら、ここで激昂していただろう。「ふざけるな」と怒鳴りつけ、契約不履行で突き出していただろう。
だが、今の私はエレオノーラだ。
怒りは湧かない。ただ、「損失」と「利益」の計算式だけが脳裏を走る。
この冬、領内の備蓄はゼロに近い。
ボラスを処刑して小麦を没収しても、カビた小麦は食えない。
新しい商人を呼ぶには一ヶ月かかる。その間に領民の二割が餓死する。
感情で腹は膨れない。正義で寒さは凌げない。
必要なのは、断罪ではない。取引だ。
「ボラス殿」
私は表情筋を動かさず、告げた。
「リカルド。三番目の馬車の、一番下の袋を開けなさい。右端のやつよ」
私が具体的に指定すると、ボラスの顔から血の気が引いた。
リカルドが命じられた袋を開ける。中から漂ったのは、香ばしい麦の香りではなく、鼻を突くカビの臭いだった。
「こ、これは……!」
「他にも抜き取り検査をしなさい。底に近い部分を中心にね」
リカルドは数人の兵士と共に検品を行い、次々と袋を開けていく。やがて、彼は青ざめた顔で戻ってきた。
「お嬢様……三百袋中、八十四袋がこの状態です。虫食いも混じっています」
「ひっ……!」
「これじゃあ『食料』じゃないわね。兵士に食わせれば、疫病が発生して防衛線が崩壊するわ」
私は石化した左手で、カビた小麦をすくい上げた。
ざらりとした感触。これが、今のこの領地の実情だ。
「さ、詐欺だ! 衛兵! この男を捕らえろ!」
リカルドが剣に手をかける。
だが、私はそれを制した。
「待ち、リカルド」
「し、しかしお嬢様!」
「ボラス殿。これは契約違反よ。即刻首を刎ねても、文句は言えない案件ね」
「お、お慈悲を! 出来心だったんです、魔獣に襲われて荷崩れして、その時に……!」
商人が地面に額を擦り付ける。
私は冷たく彼を見下ろした。
「取引をしましょう」
「……え?」
「カビていない二百袋強は買い取るわ。ただし、定価の一割引きで」
「は、はい! ありがとうございます!」
「そして、カビた八十四袋はあなたが持ち帰りなさい。その代わり――この『契約書』にサインを」
私は懐から羊皮紙を取り出した。
そこには、リカルドが青ざめるような条項が書き加えられている。
「来月の納入が一日でも遅れた場合、あるいは品質が『B』を下回った場合、違約金としてボラス商会の全資産、及び連帯保証人であるご家族の身柄を、当家が管理する」
「なっ……!?」
「嫌ならサインしなくていいわ。その代わり、今ここで詐欺罪として衛兵に突き出す。どちらが『お得』かしら?」
ボラスは脂汗を垂らし、震える手でペンを握った。
これで彼は逃げられない。恐怖という鎖で繋がれた、最も誠実な下僕の完成だ。
「賢い選択ね。来月も楽しみにしているわ」
◇
執務室に戻り、私は再び机に向かう。
リカルドが淹れてくれた紅茶からは、薄く湯気が立っている。
彼が部屋を出て行ったあと、私はふと、リカルドが置いた経費精算書に目を落とした。
『孤児院への寄付金:金貨一枚』
『使途:冬季用毛布及び薪の購入』
私の【天秤の瞳】が、その項目の真実を暴く。
【実態:リカルドのポケットマネーからの補填。領の会計には計上されていない】
【理由:先日の視察時、震えていた子供を見かねて独断で購入】
本来なら、叱責すべき案件だ。
公私混同は組織の規律を乱す。たとえ善意であっても、個人の感情で予算外の支出を許せば、それはやがて横領へと繋がる。
私の頭の中の電卓が、「警告処分」という解を弾き出す。
けれど。
私はペンを取り、その項目の横に小さくチェックを入れた。
『承認』のサインではなく、『見なかったことにする』という無言の印。
「……馬鹿ね」
口に出た言葉は、予想よりも少しだけ震えていた。
リカルド、あなたのその甘さは、いずれ命取りになるわ。
でも、その甘さがまだここにあることに、私はどうしようもなく安堵している。
指先の石化が、少しだけ止まったような気がした。
これは私の「弱さ」だ。
統治者としては落第点の、不合理な未練。
だが、完全に石になってしまう前の、最後の人間らしさの欠片として、私はこの「損失」を目をつぶることにした。
「さて……」
私は気を取り直し、領地全体の地図を広げる。
そこには、もっと残酷で、もっと巨大な「数字」が待っていた。
ベルンシュタイン領の人口、三万人。
対魔獣結界の維持に必要な魔力総量、一五〇万マナ。
現在、領民から徴収可能な魔力、一二〇万マナ。
――三十万マナ足りない。
これは単なる数字ではない。
結界の強度が二割落ちれば、統計上、辺境の村が二つ全滅する。
人口の一割、約三千人の死。
私は恐怖を振り払うように、地図の一点を睨む。
ベルンシュタイン領の北端、『モルト村』。
人口三百八十名。主な産業は寒冷地用ハーブの栽培。
この村の村長は、確か五歳の孫娘自慢をする好々爺だったはずだ。以前の視察で、泥だらけの手で握手をしてきた温かさを、データとしては覚えている。
計算上、モルト村を含む北部の三つの村を「結界外」に置けば、本城と主要穀倉地帯は守れる。
つまり、あの好々爺も、孫娘も、全てを見捨てる。
現代日本の倫理観が、脳内で警鐘を鳴らす。
『人権侵害だ』
『本当は、こんな計算をするために生き延びたんじゃない』
『誰かを救いたかった。前の世界でできなかったことを、したかっただけなのに』
だが、窓の外では冬の風が唸りを上げている。
物理法則は、私の感傷など歯牙にもかけない。
魔力がなければ、全員死ぬ。それだけだ。
「……計算を始めましょう」
私は石の指でペンを握りしめた。
震えはもう、止まっていた。止まってしまっていた。
その冷たさが心地よく、そして死ぬほど怖かった。
「モルト村の防衛優先度を『D』へ引き下げ。……代わりに、中央区画の徴税率を五%上昇。生存可能ラインのギリギリまで、吸い上げるわ」
私の戦いは、剣や魔法ではない。
誰を生かし、誰を見捨てるか。
この血の通わない貸借対照表こそが、私の戦場だ。
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第2章 聖女の慈悲という名の毒
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あの決裁から、ひと月。
黒字だ。
一ヶ月ぶりに、帳簿の数字が黒いインクで埋め尽くされている。
「……計算通りね」
執務室の窓から見える空は、鉛色に淀んでいる。
だが、その空を覆う薄紫色の膜――対魔獣結界の出力は、安定値の九八%を維持していた。
先月、私は北端のモルト村への魔力供給を断った。結果、村は魔獣に蹂躙され、地図から消えた。
三八〇名の命と引き換えに、残る二万九千人の命と、主要産業である小麦畑を守り抜いたのだ。
私の左手は、手首までが灰色の石に変わっていた。
指はもう動かない。書類を押さえるための「文鎮」としてしか機能しない。
けれど、この石の重みこそが、私の統治が間違っていないことの証明だった。
「エレオノーラ様」
リカルドが執務室の扉をノックする。その顔色は優れない。
「……到着されました」
「そう。予定より早いのね」
私は石化した左手を袖の中に隠し、立ち上がる。
窓の外、泥濘んだ街道を、場違いに豪華な純白の馬車が進んでくるのが見えた。
王家の紋章。そして、車輪が泥を跳ね上げるたびに、護衛の騎士たちが舌打ちをしているのがわかる。
「お出迎えしましょう。この領地に『正義』を教えに来てくださった、尊いお客様を」
◇
屋敷の玄関ホールに降り立つと、甘い花の香りが鼻をくすぐった。
カビと石と鉄の臭いが染み付いたこの辺境には、暴力的なまでに似合わない香りだった。
「久しぶりだね、エレオノーラ。相変わらず陰気な顔をしている」
先に馬車から降りたのは、元婚約者の王太子、アレクセイ殿下。
金髪碧眼。物語の王子様そのものの容姿だが、私にはもう、彼の顔が「予算を食い潰す装飾品」にしか見えない。
「遠路はるばるようこそお越しくださいました、殿下」
私が カーテシーの真似事をすると、彼は鼻で笑った。
そして、馬車の中に手を差し伸べる。
「さあ、おいでマリアンヌ。足元に気をつけて」
「きゃっ、ありがとうございます、アレクセイ様!」
鈴が鳴るような声と共に現れたのは、小柄な少女だった。
聖女マリアンヌ。
ふわふわとしたピンクブロンドの髪、大きな瞳。
かつて私が糾弾された断罪の場で、彼女はただ震えて泣いていた。それが王太子の保護欲を掻き立てたのだ。
「エレオノーラ様……! ああっ、こんな寒くて寂しい場所に……!」
マリアンヌは私を見るなり、涙ぐんだ。
「心配していたんです。ご飯は食べていますか? お友達はできましたか?」
悪意はない。
純度一〇〇%の善意。
だからこそ、タチが悪い。
私は右目を細め、習慣的に【天秤の瞳】を起動しかける。
一瞬だけ視界に文字列が走る。
【対象:マリアンヌ・フォン・ライラック】
【保有魔力:S(聖女級)】
【管理能力:E(制度外・感情依存)】
【意思決定プロセス:短期的共感(論理欠如)】
……予想通りだ。
彼女は「個人を救う力」はあるが、「全体を維持する計算」ができない。
為政者として最も危険なタイプだ。
「ご心配には及びません、マリアンヌ様。ここは私の領地です。領民と共に、慎ましくも平穏に暮らしております」
「でも……! 街の人たち、みんな顔色が悪いわ。服もボロボロで……」
「冬越しの最中ですから。春になれば改善します」
「嘘よ! 私、見たもの。畑で働いている人たち、首輪をつけられていたわ!」
マリアンヌが悲鳴のように叫ぶ。
アレクセイ殿下が彼女の肩を抱き寄せ、私を睨みつけた。
「そうだ、エレオノーラ。道中、農地を見たぞ。領民に『吸魔の首輪』をつけて強制労働させているそうだな。貴様、とうとう人の心まで失ったか」
「……誤解です、殿下。あれは強制労働ではありません。『魔力提供契約』です」
私は淡々と説明を試みる。
「現在、魔獣の活性化により、結界維持に必要な魔力が不足しています。そこで、健康な成人に限り――」
「それを強制労働と言うんだ!」
殿下が怒鳴る。
「マリアンヌ、案内してやろう。この女が支配する地獄を、君の光で照らしてやるんだ」
二人は私の制止も聞かず、再び馬車に乗り込んだ。
リカルドが蒼白な顔で私を見る。
「お嬢様……どうしましょう。あの方々が向かったのは、第三農場です」
第三農場。
そこは、最も効率よく、かつギリギリのラインで魔力徴収を行っている現場だ。
「……追いかけるわよ、リカルド」
石化した左手が、ズクリと痛んだ。
嫌な予感がする。
計算式に、決して入れてはいけない「変数」が、今まさに飛び込もうとしている。
◇
第三農場は、静かな熱気に包まれていた。
痩せた土地でも育つ「魔晶芋」の収穫期だ。農奴たちは首に銀色の輪を嵌め、泥だらけになって働いている。
魔力を吸われているため、皆、顔色は青白く、息は荒い。
「ひどい……!」
馬車から降りたマリアンヌが、その光景を見て口元を押さえた。
彼女の視線の先には、一人の老婆がいた。
重い芋の籠を背負い、咳き込みながらよろけている。
「あんなお婆さんまで……! 見ていられない!」
マリアンヌが駆け出す。
「待ちなさい、マリアンヌ様!」
私の叫びは届かない。彼女は老婆に駆け寄ると、その体を支え、首輪に手をかけた。
「痛いでしょう、苦しいでしょう……! もう大丈夫よ、私が外してあげる!」
「え? い、いや、これは……」
老婆が戸惑う間に、マリアンヌの手が白く光った。
聖女の固有魔法【解呪】。
パキン、という音と共に、管理用魔道具である首輪が砕け散る。
その瞬間だった。
「あ……ああ?」
老婆の顔色が、見る見るうちに良くなった。
濁っていた瞳に光が戻り、曲がっていた腰が少し伸びる。
さらにマリアンヌは、近くで咳き込んでいた子供にも手をかざし、治癒魔法をかけた。
「ほら、もう痛くないでしょう?」
「……うん! おねえちゃん、すごい! 体が熱くない!」
子供が笑顔で跳ね回る。
それを見た農奴たちがどよめいた。
「すげえ……婆さんの顔色が戻ったぞ」
「坊主の熱も下がった!」
「聖女様だ! 本物の聖女様が助けてくださったんだ!」
歓声が上がる。枯れ木のような手足に力が戻り、彼らは涙を流してマリアンヌを拝んだ。
私は唇を噛んだ。
……悔しいが、今の瞬間だけを見れば、彼女は「正義」だ。
老婆は救われ、子供は癒やされた。それは事実だ。
私が「必要なコスト」として切り捨てていた痛みを、彼女は魔法一つで消し去ってみせた。
領民にとって、私は命を吸う悪魔で、彼女は無償の愛を与える女神。
けれど。
「愛?」
喉の奥がひゅっと鳴った。
笑いの前の、乾いた音だった。
「リカルド。……現在の魔力備蓄残量は?」
私の背後で、リカルドが震える声で答える。
「……この農場の稼働停止により、三日後には備蓄が底をつきます」
「聞こえましたか、殿下。マリアンヌ様」
私は二人を見据えた。
「あなた方が外したのは、ただの枷ではない。この領地を魔獣から守る『命綱』です。魔力供給が止まれば、結界は消える。そうすれば、ここにいる全員が魔獣の餌になる」
「ハッ、脅しか」
アレクセイ殿下が吐き捨てる。
「備蓄がないなら、王都から送ればいい。金がないなら、王家が支援する。それだけの話だ」
「その支援物資が届くのに、何日かかるとお思いですか?」
「マリアンヌの祈りがある!」
殿下はマリアンヌの肩を抱いた。
「彼女の聖なる魔力があれば、結界など容易に維持できる。貴様のような無能とは違うのだ」
「ええ、任せてくださいアレクセイ様! 私、頑張ります!」
マリアンヌが胸の前で手を組む。
「私の祈りで、結界を張ります。だから、この人たちから魔力を奪うのは、もう止めてあげて」
農奴たちから「おお……!」と感嘆の声が漏れる。
その光景を見て、私は反射的に【天秤の瞳】を開いた。
見たくなかった。けれど、見なければならなかった。
視界が赤く染まる。
数字が、滝のように流れ落ちていく。
【対象:ベルンシュタイン領全域】
【現在状態:一時的陶酔(モラルハザード発生中)】
【結界維持率:98%(現在) → 72%(72時間後) → 0%(96時間後)】
【予測死者数:3,420名(第一波)】
【暴動発生確率:88%(High)】
【最終評価:人道的満足度(最大) / 財政・防衛(破綻)】
……終わった。
私の網膜に焼き付いたのは、真っ赤な「破綻」の二文字だった。
「……わかりました」
私は引き下がった。
いや、引き下がるしかなかった。
ここで無理に首輪をつけ直せば、暴動が起きる。そうなれば、生産活動は完全に停止する。
「では、結界の維持はマリアンヌ様にお任せします。……ただし、記録には残させていただきますよ。この決定は、王太子殿下と聖女様の意志であると」
「ああ、構わんとも。後世の歴史書には、悪女から民を救った聖女の偉業として記されるだろう」
アレクセイ殿下は勝利の笑みを浮かべ、マリアンヌを連れて屋敷へと戻っていった。
農奴たちは仕事を放り出し、聖女の後を追ってぞろぞろと移動していく。
畑には、収穫途中の魔晶芋と、砕かれた首輪の残骸だけが残された。
◇
屋敷の窓から、広場を見下ろす。
マリアンヌが炊き出しを行っていた。
湯気の立つ温かいスープが振る舞われ、領民たちが笑顔で列を作っている。
「ありがとう、おねえちゃん!」
さきほどの子供が、スープを受け取ってマリアンヌに抱きついた。
「温かいね! おいしいね!」
「ええ、たくさん食べてね」
マリアンヌが聖母のように微笑む。
その光景は、あまりにも美しく、正しかった。
私の胸の奥で、ズキリと鈍い痛みが走った。
『私だって、本当はこうしたかった』
『子供の笑顔が見たかった。誰かに感謝されたかった』
かつて相馬律子だった頃の、あるいはエレオノーラの中に残っていた少女の感情が、声を上げた気がした。
けれど、次の瞬間。
ヒヤリ、と左手が冷たくなった。
痛みが、吸い込まれるように消えていく。
石だ。
石化した左手が、私の「嫉妬」や「後悔」といったノイズを、物理的に冷却し、殺していく。
残ったのは、冴え渡るほどの静寂と、冷徹な計算式だけ。
「……リカルド」
私は、感情の消えた声で呼んだ。
「はい、お嬢様」
「私の部屋の金庫から『緊急時用台帳』を出して」
「コード・ブラック……? まさか」
私はリカルドの顔を見ず、手元の羊皮紙に目を落とした。
そこには、赤文字でこう記されている。
『緊急時対応規定・第四条:非常事態における人権の停止、及び魔力の強制徴収(致死率許容)』
「備えましょう」
私は石の指で机を叩いた。硬質な音が、執務室に響く。
「善意という名の毒が回って、この領地が壊死する前に。……私たちが、本当の『悪』になる準備を」
窓の外では、まだ子供たちの笑い声が聞こえている。
けれど私にはもう、それが七二時間後に聞こえるはずの、断末魔の悲鳴にしか聞こえなかった。
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第3章 損切り(カット・ロス)
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七二時間が経過した。
私の【天秤の瞳】は、あまりにも正確だった。
時刻は深夜二時。
執務室の机に置かれたティーカップの中、冷めた紅茶の水面が、微かに波紋を描いたのが合図だった。
ズズズ……という、地底から響くような重低音。
続いて、鼻を突く腐臭。雪の匂いに混じって、濡れた獣の毛と硫黄の臭いが風に乗って漂ってくる。
「……時間通りね(オン・タイム)」
私は安楽椅子に深く身を沈めたまま、窓の外を見た。
まだ歩くことはできるが、両足が痺れたように重い。ここ数日、能力を酷使した代償だ。
夜空を覆っていた薄紫色の結界が、ガラス細工のようにヒビ割れ、音を立てて崩れ落ちていく。
月明かりの下、赤い目が無数に光った。
魔獣だ。
結界の消失を嗅ぎつけた森の魔獣たちが、雪崩のように領地へとなだれ込んでくる。その数、推定三千。
「お、お嬢様!」
リカルドが部屋に飛び込んでくる。彼は剣を帯びていたが、その顔は恐怖で引きつっていた。
「結界が消滅しました! 北の森から『黒狼』の群れが! すでに外壁が突破されそうです!」
「落ち着きなさい、リカルド。想定内よ」
私は懐中時計をパチンと閉じた。
「マリアンヌ様はどうしたの?」
「広場におられます! 結界を維持しようと祈り続けておられましたが、吐血して倒れられました。魔力欠乏です!」
やはり。
個人の魔力タンクがいかに大きくても、都市防衛システムという「ダム」の水量を一人で賄えば、身体が壊れるのは必然だ。
「殿下は?」
「……荷物をまとめておられます。『王都へ救援を呼びに行く』と仰って、馬車の用意を……」
リカルドが悔しげに拳を握る。
救援? 違う、逃亡だ。
この状況で馬車を出せば、魔獣の格好の餌食になることすら計算できていない。
「行くわよ」
私は石化した左手で肘掛けを押し、立ち上がろうとした。
だが、膝がガクリと折れる。
「お嬢様!」
「……大丈夫。まだ立てるわ」
感覚が鈍い足を引きずるようにして、私は部屋を出た。
「広場へ。……『損切り』の時間よ」
◇
広場は阿鼻叫喚の地獄と化していた。
「助けてくれぇ!」
「痛い、痛いよぉ!」
三日前、マリアンヌに首輪を外してもらった農奴たちが逃げ惑っている。
皮肉なことだ。マリアンヌの過剰な治癒魔法を浴びた彼らは、魔獣にとって「魔力が潤沢で新鮮な餌」として輝いて見えているのだ。黒狼たちは涎を垂らし、太った農奴から順に食い殺していく。
広場の中央、噴水の前にはマリアンヌが倒れていた。
真っ白な聖女のドレスは吐血で赤く汚れ、顔色は死人のように白い。
「ごめんなさい……ごめんなさい……祈りが、届かないの……」
その横で、アレクセイ殿下が騎士たちに怒鳴り散らしていた。
「ええい、早く馬車を出せ! 私は王太子だぞ! こんなところで死んでたまるか!」
「殿下、無理です! 門の前はもう魔獣で埋め尽くされています!」
愚かな。指揮官がパニックを起こせば、兵士の士気は崩壊する。
「どきなさい」
私はリカルドに支えられながら、殿下の前に進み出た。
「エ、エレオノーラ……! 貴様、生きていたか!」
「死にかけているのはあなた方です、殿下。指揮権を返していただきます」
私は殿下を無視し、広場に設置された拡声魔道具のマイクを奪い取った。
深呼吸をする。冷たい夜気が、肺を凍らせる。
『総員、傾注』
私の声が広場に響き渡ると、逃げ惑う人々が一瞬だけ動きを止めた。
『現在、本領は防衛不能状態にある。外部からの救援到着見込みは七二時間後。現状の戦力では、三〇分以内に全滅する』
「な……っ!」
絶望の事実を淡々と告げる。嘘も気休めも言わない。
パニックが再燃しかけた瞬間、私は続けた。
『ただし、生存手段が一つだけある』
私は広場の地面を指差した。
そこには、雪に埋もれて見えなくなっていたが、巨大な幾何学模様――かつての領主が刻んだ、緊急防衛用の魔方陣が描かれている。
『この広場の地下には、旧式の魔力炉がある。これを起動し、最大出力で結界を再展開すれば、魔獣を焼き払うことができる』
「だ、だったら早くやれ!」
殿下が叫ぶ。
「燃料がないのです」
私は冷ややかに殿下を見下ろした。
「この魔力炉は、マナの液体燃料などでは動かない。もっと純度が高く、生々しいエネルギーが必要になる」
私は【天秤の瞳】を開いた。
視界が赤く染まり、広場にいる人間たちの頭上に数値が浮かぶ。
「誰でもいい」わけではない。最も効率よく、炉を回せる素材を選ばなければならない。
【必要魔力量:一五〇万マナ(即時)】
【適合燃料:直近七二時間以内に聖女の魔力を受け入れ、魔力回路が活性化している者】
【対象数:広場に避難中の領民(約四〇〇名)】
【抽出に伴う代償:寿命短縮(一〇年〜二〇年)および身体機能の一部喪失】
なんという皮肉だろう。
マリアンヌが善意で与えた癒やしの魔力が、彼らを「最高の薪」に変えてしまっていた。
「燃料は、あなたたちよ」
私が告げた瞬間、広場が静まり返った。
意味を理解したリカルドが、私の腕を掴む。
「お嬢様……まさか!?」
「コード・ブラック発動条件、満了。……対象は、この広場にいる『マリアンヌ様の加護を受けた者たち』全員」
「狂ってる!」
マリアンヌが、血を吐きながら叫んだ。
よろよろと立ち上がり、私を睨みつける。
「そんなこと……許されない! 命を何だと思っているの! 彼らは家畜じゃない、人間なのよ!」
「ええ、人間です。だから確率で選ぶのです」
私は淡々と答えた。
「報復ではありません。炉との適合率が高い彼らを使えば、生存確率は九九%。それ以外を使えば六〇%まで落ちる。……どちらのサイコロを振りますか?」
「いやだ……死にたくない……」
誰かが呟いた。
「俺は……俺はまだ死ねない……!」
彼らはマリアンヌを見る。だが、マリアンヌにはもう、彼らを救う力はない。空っぽの祈りがあるだけだ。
「……やります」
一人の男が手を挙げた。
あの、マリアンヌに炊き出しのスープをもらっていた子供の父親だ。
「子供だけは……この子だけは助けたいんだ! 俺の命でいい、持って行ってくれ!」
「パパ……?」
「ダメよ! ダメェェッ!」
マリアンヌが絶叫する。
「そんなのダメ! 命を犠牲にするなんて、そんなの正義じゃない!」
「正義?」
私は嗤った。
「マリアンヌ様。あなたの正義は『全員を救おうとして全員殺す』こと? 私の悪は『誰かを見捨てて誰かを生かす』こと。……どちらがマシな計算かしらね」
私はリカルドを突き放した。
杖をつき、魔方陣の中央――制御石の前へと進む。
「起動」
石に手を置く。
瞬間、左手首から先が一気に石化していく感覚があった。
地面が青白く発光した。
「う、うわあああああっ!」
「ぐああああッ!」
広場から悲鳴が上がる。
四〇〇人の体から、青い光の帯が立ち昇る。
子供が泣き叫び、老人が泡を吹いて倒れる。父親が苦悶の表情で目を押さえる。
【魔力充填率:一二〇%……臨界突破】
「焼き払いなさい」
光の柱が弾けた。
衝撃波が広がり、迫りくる黒狼の群れを次々と蒸発させていく。
圧倒的な火力が、物理的に「死」を消去していく。
美しい、とすら思った。
三〇秒後。
光が収まると、そこには静寂だけが残っていた。
魔獣は一匹残らず灰になり、雪原を黒く染めていた。
そして。
広場には、四〇〇人の領民が倒れ伏していた。
死んではいない。だが、全員が白髪になり、肌は老婆のようにシワが刻まれていた。
「……あ、あぁ……」
マリアンヌがへたり込む。
彼女が見つめる先には、さっきの子供がいた。
子供は口をパクパクと動かしているが、声が出ていない。
強すぎる魔力奔流の影響で、声帯が焼けたのだ。
「目が……見えねえ……」
父親が、白く濁った虚ろな瞳で空を仰いでいた。
「おい、坊主、どこだ? 無事か?」
子供は声が出せず、盲目の父に縋り付いて泣いている。
もう二度と、父は息子の顔を見れず、息子は父の名を呼べない。
それが、命の対価だった。
「これで、計算は合いましたね」
私は制御石から手を離した。
その瞬間、膝から下の感覚が完全に消失した。
ガクン、と体が崩れ落ちる。
「お嬢様ッ!」
リカルドが滑り込み、私を抱きとめた。
彼の腕の中で、私は自分の足を見た。
ブーツの中で、足首から膝までが、冷たい灰色の石に変質していた。
もう二度と、歩くことはできないだろう。
「リカルド……」
「はい! はい、ここにいます!」
リカルドは泣いていた。
大粒の涙が、私の頬に落ちる。
「なんてことを……なんてむごいことを……! でも、ありがとうございます……生きていてくださって、ありがとうございます……!」
彼は泣きながら、私を抱きしめる。
その体温は温かいはずだ。
その涙は、私への同情と、愛情の証なはずだ。
一瞬、思考が空白になった。
かつての私――相馬律子だった記憶が、遠くでさざめく。
『泣いてくれている。嬉しい』
『申し訳ない。ひどいことをした』
『心が痛い』
そう感じるはずだった。そう、あるべきだった。
けれど。
「……?」
空白のままだ。
痛みが、来ない。
あるはずの感情の場所に、ぽっかりと空いた穴があり、冷たい風が吹き抜けているだけ。
私の脳裏に浮かんでいるのは、リカルドの涙の成分分析と、彼が抱きしめる圧力の数値だけ。
【対象:リカルド】
【状態:情緒不安定(非生産的)】
【推奨対応:業務遂行への支障が出るため、鎮静化が必要】
ああ、そうか。
私は理解した。
足を失った代償。それは、歩く機能だけではなかったのだ。
私はもう、彼の涙を「美しい」と感じることすらできない。
「リカルド」
私は冷え切った声で、彼に告げた。
「汚れるわ。……離して」
リカルドが、信じられないものを見る目で私を見た。
その瞳に映る私が、もはや人間ではない何かに変わってしまったことを、彼も悟ったのだろう。
私は石になった足で、リカルドの腕の中に座り続ける。
広場には盲目の男の呻き声と、声の出ない子供の衣擦れの音が響いている。
地獄のような光景だ。
だが、私の【天秤の瞳】には、たった一つの美しい文字が表示されていた。
【損益分岐点:達成(黒字)】
私は、満足だった。
そして、この地獄を「美しい黒字」だと感じてしまう自分の心が、石になるよりも恐ろしかった。
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第4章 完璧な悪役
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翌朝の空は、憎らしいほどに晴れ渡っていた。
雪原を焦がした魔獣の死骸は夜通しで処理され、今は黒い灰が風に舞っているだけだ。
「……良い天気ね」
私は車椅子の上で呟いた。
特注の車椅子だ。かつてこの屋敷の主だった祖父が使っていたものを、リカルドが倉庫から引っ張り出して油を差した。
私の膝から下は、完全に石化していた。
もはや感覚はなく、ただ重い「重石」として体を椅子に繋ぎ止めている。
「エレオノーラ様、朝食の準備が……」
「いらないわ。それより、お客様のお見送りよ」
私は車椅子の車輪を回す。
廊下を進むたび、ゴロゴロという乾いた音が屋敷に響く。
使用人たちが私を見て、さっと道を開け、深々と頭を下げる。
その瞳にあるのは、かつてのような「同情」ではない。「畏怖」だ。
悪魔を見る目。
それでいい。愛される領主になどなるつもりはない。機能する領主であればいい。
◇
応接間には、アレクセイ殿下とマリアンヌ様が待っていた。
マリアンヌ様は目を腫らし、憔悴しきっている。
対照的に、アレクセイ殿下は顔を真っ赤にして憤っていた。近衛騎士たちも剣の柄に手をかけている。
「よくも顔が出せたものだ、この悪魔め!」
私が車椅子で入室するなり、殿下が怒鳴った。
「貴様のしたことは報告済みだ! 領民を強制的に生体燃料にし、身体的欠損を負わせた罪! これは大量虐殺にも等しい重罪だ!」
「虐殺?」
私は首をかしげた。
「死者はゼロです、殿下。昨夜の戦闘における生存率は一〇〇%。私が手を下さなければ、生存率はゼロ%でした。……感謝状をいただきたいくらいですが」
「ふざけるな! 広場を見てみろ! 目が見えなくなった者、声が出なくなった子供……あれが生きてると言えるのか!」
マリアンヌ様が泣き崩れる。
「ひどい……あの子、もう『おねえちゃん』って呼べないのよ……私が治そうとしても、魔力回路が焼き切れていて治せないの……!」
「それは残念です。ですが、生きていれば『納税』は可能です」
私は事務的に告げた。
「彼らには障害者年金を支給し、軽作業に従事してもらいます。目が見えなくても、芋の皮むきはできる。声が出なくても、荷運びはできる。……社会の歯車として、再利用します」
「き、貴様ッ……!」
殿下が剣を抜き、私の喉元に突きつけた。
切っ先が震えている。
「もういい、問答無用だ! エレオノーラ・フォン・ベルンシュタイン! 王太子アレクセイの名において、貴様を国家反逆罪および非人道的魔術使用の罪で拘束する! 直ちに王都へ連行し、断頭台へ――」
「リカルド」
私は眉一つ動かさず、背後の執事を呼んだ。
「は」
リカルドが無言で一冊の帳簿を差し出す。
飾り気のない、実務用の綴じ込み帳簿だ。
「……それは何だ」
「殿下。一ヶ月前、私が弱みを握った『ボラス商会』を覚えていますか? 彼を通じて、王都の商業ギルドから『裏の資金移動データ』を買い取らせました。……それを私の【天秤の瞳】で、王家の公式支出と照合(監査)したものです」
私は帳簿をめくり、あるページを殿下に見せた。
そこには、赤線で引かれた不正な資金移動の記録が記されている。
「王立聖女支援基金。……マリアンヌ様の活動を支えるための、国民からの寄付金ですね」
「そ、それがどうした」
「この基金は『善意の寄付』であるがゆえに、会計監査の対象外(聖域)とされている。……そこがあなたの狙い目でしたね?」
私はページを指で弾いた。
「この三年間で、総額の四割にあたる金貨二万枚が、使途不明金として消えています。そして同額が、殿下の個人口座へ――正確には、殿下が熱を上げている『カジノの借金返済』と『愛人への贈り物』に流れています」
「な……ッ!?」
殿下の顔から、一瞬で血の気が引いた。
剣先が大きく揺れる。
「う、嘘だ! デタラメだ! 私は王家の運用資金として一時的に……!」
「嘘ではありません。【天秤の瞳】は、金の流れについた『嘘の匂い』を絶対に見逃さない。……マリアンヌ様、ご存知でしたか? あなたが配っていた炊き出しのスープ、あれは本来ならもっと具沢山だったはずなんですよ。殿下が中抜きしなければね」
マリアンヌ様が呆然と殿下を見上げる。
「アレクセイ様……? うそ、ですよね? 私利私欲のために、孤児たちのミルク代を……?」
「証拠は全て揃っています」
私は車椅子の肘掛けを叩いた。
「この帳簿の写しと、私の鑑定書。……すでに、この写しと同じものを『教会監査局』と『王国会計院』へ送る準備ができています。『聖女の奇跡は、王太子の横領によって汚されていた』……そんなスキャンダルが出れば、王室の権威は地に落ちるでしょうね」
殿下は膝から崩れ落ちた。
剣が床に落ち、カラン、と虚しい音を立てる。
物理的な武力など、経済的な急所の前では無力だ。
「……何を、望む」
殿下が震える声で言った。
「取引をしましょう」
私はにっこりと――おそらく、冷たい彫像のように――微笑んだ。
「第一に、今回の事件に関する『記録の改竄』です」
「……なんだと?」
「公式記録にはこう残してください。『聖女マリアンヌの祈りによって魔獣は撃退された』と。……魔力炉の使用と、四〇〇人の犠牲者が生体燃料にされた事実は、歴史から抹消します」
「なっ……! 彼らの犠牲を、なかったことにするのか!?」
「ええ。彼らは『魔獣の呪いを受けて障害を負った生存者』として処理します。私が補償金(年金)という制度で管理しますから、ご安心を」
マリアンヌ様が息を呑む。
それは、彼女が「偽りの英雄」として称賛されるたびに、四〇〇人のうめき声が耳元で響き続けることを意味する。死ぬまで終わらない、飼い殺しの地獄だ。
「第二に、ベルンシュタイン領への向こう一〇年間の『特別免税特権』。および、王都からの復興支援金として金貨一万枚の即時支払い」
「い、一万枚!? そんな金、どこに……!」
「横領した分を吐き出せば足りるでしょう? ……さあ、選んでください。破滅か、共犯か」
長い沈黙があった。
やがて、殿下は呻くように言った。
「……分かった。条件を、呑む」
「賢明なご判断です」
私は帳簿を閉じた。
これで、領地の復興資金は確保できた。免税特権があれば、産業を立て直せる。
目の見えない農奴たちの生活も、なんとか保障できるだろう。制度として。
「さようなら、殿下。マリアンヌ様。……二度と、私の領地に正義を持ち込まないでください」
二人は逃げるように部屋を出て行った。
マリアンヌ様は去り際に一度だけ振り返り、私を見た。その目には、もはや非難の色はなかった。
あるのは、自分と同じ「共犯者」を見る、深く暗い絶望だけだった。
◇
静寂が戻った執務室。
私は窓辺に車椅子を寄せ、外を眺めていた。
領民たちが、瓦礫の撤去作業を始めている。
遠くで、誰かの泣き声が聞こえる気がするが、ガラス越しではよく分からない。
「お茶が入りました、お嬢様」
リカルドが湯気の立つカップを盆に載せてやってくる。
彼の動作は完璧だ。音もなく、優雅で、無駄がない。
だが、その顔には表情がなかった。
以前のような、私を案じる甘い瞳も、親しげな微笑みもない。
ただ、主に仕える「機能」としての執事が、そこにいた。
「……ありがとう」
私はカップを受け取る。
指先は石化して感覚がないが、熱いということは湯気でわかる。
一口啜る。
最高級の茶葉だ。香りも、抽出時間も完璧。
私の味覚データと照合しても、これ以上の紅茶はないという数値が出る。
「おいしい?」
ふと、聞いてみたくなった。
かつての私なら、そう言って彼に微笑みかけただろう。
リカルドの手が、ピクリと止まった。
ソーサーを持つ指が、微かに、本当に微かに震えている。
彼は何かを言いかけて、喉を鳴らし、言葉を飲み込んだ。
一瞬だけ、その瞳が潤んだように見えた。
けれど、彼はすぐにまばたきをして、能面のような執事の顔に戻る。
「……お嬢様の計算通り、完璧な温度かと存じます」
事務的な返答。
そこには、ぬくもりというノイズは一切含まれていない。
私が望んだ通りだ。
私は彼から「甘さ」を奪い、有能な「部下」へと変えたのだから。
「そうね。完璧だわ」
私は紅茶を飲み干す。
領地の借金は完済。
復興資金は確保。
政治的干渉も排除した。
生存率は九九%以上。
貸借対照表は、美しいほどの黒字だ。
どこにも間違いはない。
どこにも隙はない。
私は、この過酷な異世界で、領民と自分自身を守り抜いたのだ。
ふと、胸に手を当ててみる。
心臓の鼓動が、遠い。
ドクン、ドクンという音が、まるで分厚い石の壁の向こうから響いているようだ。
かつてここにあった、痛みも、喜びも、罪悪感すらも、今はもうない。
【天秤の瞳】が、私の身体状態を表示する。
【感情機能:停止(凍結済)】
【最終損益:黒字】
数字は嘘をつかない。
私は勝ったのだ。
「勘定は合った」
私は誰もいない部屋で、独りごちる。
石になった足はもう冷たさを感じない。
石になった心はもう涙を流さない。
ただ、私の心だけが、どこにも計上されていない。
(完)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この物語を書くにあたり、最も意識したのは「正義のコスト」です。
作中に登場した聖女マリアンヌは、決して悪人ではありません。彼女は純粋に弱者を救おうとし、目の前の悲劇に涙しました。多くの物語で「正義」とされる振る舞いです。
しかし、資源の裏付けのない正義は、長期的にはシステムを破綻させ、より大きな悲劇を生みます。
一方で、主人公のエレオノーラは、非人道的な選択を積み重ねることでシステムを守り抜きました。彼女は「悪役」として振る舞いましたが、その結果、領民の生存率は九九%を超えました。
どちらが正しいのか。
その答えを出すために、彼女は「人間性(心)」という対価を支払いました。
ラストシーンで彼女が浮かべた微笑みは、勝利の証であると同時に、人間としての敗北の証でもあります。
エレオノーラはこれからも、石になった体で領地を完璧に統治し続けるでしょう。
その完璧な黒字経営の裏にある、誰にも計上されない孤独に、思いを馳せていただければ幸いです。
それでは、また次の物語でお会いしましょう。




