出兵 台湾から比律賓攻略へ
少しして、台湾へ向かった。分隊長殿が異常に気張っていた。
しかし己等のしたことと言えば、道を敷いたり何やら建てたり。己自身が鉄砲を撃って戦うことはなかった。拍子抜けだったが、気張っていた分隊長殿の肩透かしを思えば、いい気味だった。
己は本土の連中と違い、台湾の言葉が僅かながら理解できた。島にも、首里を通じて人は来ていたからだ。おかげで、他の隊に比べれば現地住民とよくやれたと思う。分隊長殿はそれも面白くなさそうであった。いい気味だった。
考えてみれば、この頃から御国の状況は悪くなっていたのかもしれん。俺は内地にいなかったので実情はわからんが、飯や嗜好品の類が不足気味になった。
そのあたりを現地住民に融通してもらっているうちに、女ができた。
それを分隊長殿に見つかり、折檻を食らった。己も気が緩んだのは悪いとは思うが、女の前で恥をかかされ頭に血が上り、分隊長殿へ一発くれてやった。罰則が待っていたのは言うまでもない。女とはそれきりだった。
冬。女の寄越してくれた飯と人肌を恋しく思いながら、比律賓(少々読みづらいため、以下フィリピン)へ向かった。昭和一六年だったはず。
戦争だ何だといいながら、なんだこんなぬるい様でも国境は広がるのか、と舐めていた。ここから地獄が始まるとは、思っても見なかった。
台湾では一度も使うことのなかった鉄砲だが、フィリピンでは上陸初日から撃つ羽目になった。
分隊長殿の目が血走ってた。盛った犬のようで鬱陶しかった。混乱に乗じて撃ち殺してやろうかと思った。
ルソン島に上陸して接敵すると、銃声や怒号が飛び交う戦場に面食らい、小便を漏らしもした。しかし要は喧嘩なのだと理解してからは、何と言うこともなかった。
腰が引けた奴からやられる。交えるのが拳だろうが鉄砲だろうが変わらなかった。
大隊、己等日本人は、米国人に比べて小柄である。それが互いに人殺しの筒を持ち、相対すのだから、的が小さいほうが有利に決まっている。
大きいほうが物を持てはするが、己は小兵だが問題ない。装備が重いのは鍛え方が足らんのだ。
米国人達は、威嚇のように撃ってくるだけで、すごすごと逃げていった。少なくとも、己の隊で死んだ者はいない。
追いかけて撃ち殺すのは手間であるし、何より漏らし損だとも思って腹が立った。
怒っている己を見て、隊の仲間からは「血の気の多い奴だ」と笑われた。別に間違ってはいないし、小便を誤魔化せると思い黙っていた。
それにしても、半月ほどだったか。よく歩き、よく走った。
鉄砲を撃ち合っている時間より、行軍している時間のほうがずっと長かった。南の島とはいえ、冬だ。寒かった。
なんたら、という町を落とすか落とさないか、という段で、この年は終いになった。
町では「とにかく乱暴するな」と厳に言い含められたが、別に憎くもない現地住民をいじめて何が楽しいのか。
言われずともそのつもりだった。寧ろそんなことを指示されるとは、無礼にもほどがある、と怒った。
「フィリピンには日本人が多い。だから、米国人さえ追い出してしまえば何と言うことはない」
分隊長殿の上にいる小隊長殿がそんなことを仰せだった。それなら、正月に餅くらいは支給されるかと期待したが、ままならなかった。
御言葉ほどは現地に日本人はおらず、勝手にあてにしていただけとはいえ、援助物資もなかった。当然というか、本隊からも餅の支給は無かった。御国の物資不足は厳しいらしい。
あるいは、このフィリピンにいる米国人をすっかり追い出してしまえば、落ち着いて多少は祝いの慰労品でもあるかと期待した。
米国人達は、島の南西にある半島に籠もった。
緒戦のあっけなさに合点がいった。連中はここで粘るつもりだったのだ。
己は不安だった。この半島を攻める前、フィリピンから別の戦線へ味方が引き抜かれていった。
これから攻めかかろうというときに戦力を減らすとは、己のような無知蒙昧の輩にもわかる愚策である。
喧嘩だってそうだ。蜿蜒と長引かせるよりは、一度ガツンと締めてやったほうが、後腐れがない。顔も知らない御大将は何をお考えなのか、己にはとんとわからなんだ。
半島攻めではそれまでと打って変わって、反撃が激しくなった。周りでも次々に味方が死んでいく。
半島のおよその寸法を聞けば、己の島より多少大きい程度であった。そこに大勢の米国人が集まっている。
ならば戦艦でも持ってきて、大砲を打ち込めば一編で済んでいいではないか、と思って進言したら、分隊長にどやさた。
戦場を眺めてみると、故郷の島を思い出した。中心に小高い山がある。そのあたりも、己の島と似通って見えた。しばらく飲んでおらんかったせいか、酒が飲みたくなった。
味方が死んでいくあいだも、酒が飲みたくて仕方がなかった。
歩き続けるのは面白くはなかったが、なかなか進軍できないのも面白くはなかった。
己の隊は森を進んだ。帰還してから、密林と呼ぶのだと知った。今でも、森と密林で何が違うのかようとわからん。
塹壕を掘らずにすんだのは楽で良かったが、米国人共は森の中にも簡易な陣地を築き、迂闊に姿を曝した者を撃ち殺していった。
塹壕を掘っても進まず。森を迂回しても進まず。
いい加減焦れてしまい、戦艦からの砲撃をまた訴えた。分を弁えろ、と怒鳴られ、銃床で殴られた。
現実の話として、進言が通ったとして、森を進む己等の意見をどうやって伝えるというのか。
そんなことはわかっている。分隊長殿に要らぬことを言い、憂さを晴らしていた。
米国人がわざとそうしたのか、元々開けていたのか。ぼんやりとだが、明るい印象のある場所へ出たのを覚えている。
どう考えても怪しいし、己等がいるだけでは説明がつかないほど、静かであった。
こちらからは光が邪魔で見辛いが、更に奥へ行った暗がりからは見えているのではなかろうか。あるいは、こちらの横っ腹を突くように構えているのではないか。
これは不味いと思い、足が止まる。それを見てなのか、仲間達も止まる。
分隊長殿が訝しげであった。進め、と言われるが、進めば死ぬだろうと思い抗議した。
死地であろうとも進まねばならん、と言われて、それも兵隊の仕事だと訓練で口酸っぱく言われたのを思い出す。
それでもここは不味いと思い、迂回を提案した。
分隊長殿は己が臆病風に吹かれたのだと言う。挙げ句、味方を勇気づけるためにも貴様が先陣を斬って突撃せよ、と命じられた。
不行き届きな部下は邪魔であろう。死んでこい、ということだと理解した。誤解ではない、と今も思う。
弓を構えられている前にのこのこ進み出るのは気違いの所業で、勇ましさではない。文句を垂れたら銃で脅された。
指示だけなら不平を垂れる余裕があったが、銃口を向けられて怒髪天をついた。
これは今でも覚えている。「隊員に銃を向ける、それが隊長の倣いか!」、怒鳴りつけ、気がついたら遮蔽物から分隊長殿を蹴り出し、更には日が差す場所まで投げ飛ばした。
少し転がって、銃声がして、分隊長殿は先に靖国へ行かれた。
言い訳にしかならんが、だいぶ人を殺し、だいぶ殺されたせいで、己は狂っていたように思う。
流石に島でも殺人は禁忌であった。それを御国のためであれば已む無し、と言われても、そうそう宗旨替えできるものでもない。
分隊長殿がいなくなって、誰が指揮を取るのか、という話になり、貴様が殺したのだから責任を取れ、と己が仮りで分隊長になった。
なんだかんだ、己が仲間から味方殺しとして突き上げを食らわなかったあたり、それなりに奴等も狂っていたのだろう。
今、こうして筆を執っていて、驚いている。己とて呆けた爺だ。生き死にがかかったあの戦場を、ほとんど忘れている。
しかし分隊長殿のことは随分と克明に記憶している。味方殺しはそれなりに申し訳なく思っていたのかもしれん。もうじき詫びを入れられるだろう。
その場は迂回しようとしても先手を打たれることが目に見えていたので、息を合わせて来たほうへ駆け出した。誰かが死ぬのは仕方ない、と割り切って、態勢を立て直そうとした。
幸いなことに、仲間は誰も死ななかった。皆で安堵し、大きく迂回して進軍していると、小隊長殿とかち合った。
味方と合流できたことは喜ばしいが、小隊長殿は厳しい人だった。臆せず進め、との下知をいただく。いいながら御自身も進まれているせいで、従わざるを得ない。
これも御国のためか、と閉口し、己の命もここまでと思った。
結果から言えば、己は生き残った。小隊長殿は己の意見をある程度は汲んでくれたが、危険とわかっていても進軍を緩める方ではなかった。
しばしば小休止はいただけたが、ある程度の安全が確保できるか、更に味方と合流できるまで、用足の暇さえいただけなかった。
おかげでというか、己の記憶は曖昧になっている。これは忘却の彼方というわけでもなく、脳が疲弊して当時から記憶できる状態ではなかったように思う。
それ故、細かい推移は覚えていない。無心で走り、無心で休み、無心で殺し、とにかく死んでたまるかの一心だった。
終わってみれば、分隊の仲間は半数以上が死んでいた。己は運が良かった。フィリピンは己等が獲った。