あのときの願い
廊下の隅っこで、靴ひもをいじっている少年がいた。中学一年の凛太。彼の教室では、ひそやかないじめが続いていた。
無視、陰口、机の中のプリントをぐちゃぐちゃにされる。誰にも相談できなかった。相談したところで、「気のせいじゃない?」「そんなことで泣くの?」と笑われるのが怖かった。
それでも、一番つらかったのは、“誰も何もしなかったこと”だった。
目が合ったクラスメイトは、すぐに目を逸らした。優しそうな子もいた。でも、誰一人、隣に座ってくれることはなかった。
「誰か、気づいたふりでもいいから、いてくれたらよかったのに――」
何度もそう願った。願っても、誰も現れなかった。
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それから三年が経ち、高校生になった凛太は、部活の帰り道、校門近くのベンチで、下を向いて泣いている後輩の少年を見つけた。まだあどけない表情のその子の制服には、泥がついていた。
ふと胸が締めつけられる。凛太は、声をかけた。
「……大丈夫?」
少年ははっと顔を上げ、慌てて涙を拭いた。「なんでもないです」と繰り返すけれど、その姿はまるで昔の自分だった。
凛太は、隣に座った。
何も言わず、ただ、そこにいた。
少年の手元を見れば、握りしめられたプリントがくしゃくしゃになっている。あの日の記憶がよみがえる。でも今度は、黙ってはいないと心に決めていた。
「オレね、昔いじめられてたんだ。何も言えなくて、ひとりで泣いてた。でも、本当は、誰かに“話していいよ”って言ってもらいたかった」
少年は、じっと凛太の顔を見る。
「だから……話してくれても、いいよ。無理にじゃなくて、いつかでいい」
それだけ言って、凛太は立ち上がった。名乗りもせず、名前も聞かずに、そのまま帰ろうとした――
「……あの、先輩!」
背中から届いた小さな声。
「ありがとうございました」
その声に、凛太は微笑んで、静かにうなずいた。
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かつて誰かに「なってほしかった人」。
それは、自分の言葉を信じてくれる人。
そばにいてくれる人。
心が壊れそうなとき、「一緒にいよう」と言ってくれる人。
誰もしてくれなかったからこそ、彼はそれを人に届けようとした。
それが、彼の小さな願いの、形だった。