その6
その知らせはまさに青天の霹靂だった。
脳天から足の爪先まで一気に電流が走り抜けた。
「なんだって! クリストファ殿下が襲われた!?」
その知らせを聞いたリジェ兄様は、勢い良く立ち上がって、テーブルに膝をぶつけてティーカップを倒した。
急いで王宮に向かう兄を、私は狼狽えながら見送るしかなかった。
同行するわけにはいかない私は、ただ不安に苛まれながら、生きた心地がしないまま長く眠れぬ夜をやり過ごすことになった。
翌朝になっても追加の知らせはなく、クリスの身になにが起きたのか、現在どんな状態なのか知る由もなかった。
* * *
「クリスが!」
私はフェリシティに泣きついた。
じっとしていられなくて、邸を抜け出して学園に向かった。人目を避けて忍び込み、そして王妃の花園でフェリシティを見つけた。
彼女なら何か情報を掴んでいるのではないかと思たからだ。
学園の上層部なら、報告が下りてきているかも知れない、当然フェリシティは盗み聞きしているはずだ。園内での出来事はたいてい把握していると言ってたのだから。
涙でぐちゃぐちゃの顔を上げて縋るように見上げた私の頬を、フェリシティは優しく指で涙を拭ってくれようとしたが、彼女の指は私に触れることなくすり抜ける。
「クリストファは生きているわ、まだ」
「まだって!」
「意識不明の重体で面会謝絶、家族しか入室を許されていないらしいわ」
「そんな……」
全身の血液が凍り付いた。
「なにがあったの? 襲われたって聞いたけど」
「学園側も今回の欠席理由は公務としか聞いてなかったらしいわ、きっとこの前言ってた学園に出回っている怪しい薬の調査だったんじゃないかしら」
エブリーヌ様が盛られたかも知れない強い陶酔感を味わえる危険薬物のことだ。
「だから隠密行動で、一部の人間しか知らされていないはずだったのに、その動向がどこからか漏れてたってことね、野盗の類の犯行ではない、王太子と知っての襲撃だったらしいわ」
「王太子を襲うなんて、謀反と思われかねない所業よ、そんな大胆なことが出来るのは」
「よほどの権力者が絡んでいるのでしょう、でも、謀反とは限らないわ、第二王子、第三王子までいるんだから、クリストファの代わりはいる」
「そんな、人の命に代わりなんかないわ、……って、命が危ういのねクリスは」
また大量の涙が流出した。
もし、クリスがこのまま亡くなったら……考えたくないのに最悪の事態が頭を過ぎる。
彼のゴーストなんか見たくない!
たとえ想いが届かなくても生きている彼を見ていたいのよ!
「心配でどうにかなりそうだわ」
「じゃあ、お見舞いに行けば?」
「さっきあなたが言ったじゃない、家族しか面会できないって、私なんか行ける身分じゃないわ」
「そうね、王宮の警備は厳重だしね、でも、少しでも近くにいたいんでしょ、わかるわその気持ち、それが恋する乙女の心情だものね」
「こんな時に茶化さないで!」
「ゴメン、そんなつもりじゃないのよ」
「きっと王妃様も心を痛めていらっしゃるわ、お茶会どころじゃないわ、せっかく招待していただいたけど」
「それよ! 招待状もらったんでしょ」
「ええ」
「その封筒を利用するの、王妃様に呼ばれたと言えば衛兵も通してくれるわ」
「お茶会のよ?」
「封蝋を見せるだけでいい、中身まで確認しないわよ」
「もしそれで入れたとしても、それからどうするの? 王宮は広いのよ、建物もいっぱいあるだろうし、クリスの部屋までたどり着けないわ」
「任せて、私は王宮に何度も行ってるし、建物や部屋の配置がそうそう変わってるとは思えないから、詳しく説明するわ」
フェリシティは胸を張った。
「でも気を付けてね、王宮は恐ろしい場所よ、上品な笑みを浮かべていても、腹の中は真っ黒、常に他人を蹴落とすことばかり考えている人が多い陰謀が渦巻く場所、その犠牲になった人たちが無念のあまり成仏できずに彷徨っているかも知れないわ、取り込まれないように気をつけなさいね」
* * *
王妃様から頂いた封筒を見せると、衛兵はすんなり通してくれた。
無事、潜入に成功。意外とチョロいものだ。
でも、これってどうなの? 従者も付けずに単独で現れた女を、よく調べもせず簡単に通すなんて、これで警備は万全と言えるのだろうか?
もしかしたら、泣き腫らした情けない顔に絆されたの?
ともあれフェリシティに教えてもらった通り、王宮の奥へと急いだ。
広い敷地内、どこまで行けば王宮殿にたどり着くか不安に苛まれながら、キョロキョロと怪しさ満載で歩いていると、
「迷子なのかな?」
近衛騎士に声をかけられてしまった。
大ピンチ! きっと不審者扱いされるわ!
万事休すと観念したが、彼に顔には見覚えがあった。
それはクリスの側近の、
「あなたは確か」
「ファビアン・アルディアスです」
「私は」
「存じてますよ、リジェール様の妹君ドリスメイ嬢ですね」
彼も私のことを覚えていてくれた。
爽やかな微笑みを向けられて、私はドキッとした。以前お会いした時はチラッと見ただけだったが、こうやって面と向かうとかなり整った容姿をしていらっしゃる。主がイケメンなら傍に使える騎士も同類なんだ。クリスより少し背が高く、ガッチリした体格だが、穏やかで落ち着いた佇まいの好青年だった。
「どうされたのです、こんなところで共もつけずに迷っておられるなんて」
「それはその……」
「クリストファ殿下のお見舞いですか?」
「ええ、そうなのです、兄と来たのですが歩みが遅くはぐれてしまって」
リジェ兄様、ごめんなさい!
苦しい言い訳だが、ファビアン様は疑うことなく、
「ご案内しましょう」
申し出てくれた。
「でも、殿下はまだ意識がお戻りではないのですよ、俺がついていながら殿下に怪我を負わせてしまって、合わせる顔がないのですが、俺もちょうどお伺いしようとしていたところなんです」
「殿下は重傷なのですか?」
「ええ、頭を強く打っておられて、意識不明のままなんです、殿下にもしものことがあったら俺は……」
その言葉に私が青ざめたのを見て、
「大丈夫、殿下は強いお方です、きっと回復されますよ」
私たちが並んで歩き出した時、
カラン!!
どこからか飛んできた剣が、私の足元に転がった。
「ゴメンなさーい!!」
慌てて駆け寄ったのは、七、八歳くらいの少年だった。
剣を拾う少年にファビアン様は、
「こんなところで剣を振り回しちゃダメですよ」
「振り回してたんじゃないよ、素振りをしてたんだ」
少年はむくれながら言い返した。
近衛騎士を前に怯まないなんて、肝が据わっている。
どこの御子息だろう? 王宮内の中庭で素振りだなんて、王族なのだろうか? 王族全員を知っているわけじゃないけど、この子のプラチナブロンドとサファイアの瞳はクリスと同じ、よく似ているので血縁者だったのだろう。
「あなたは騎士なんだろ、僕の練習相手してよ」
馴れ馴れしい言葉遣い、自分が高い身分だと自覚しているようだ。
「あいにくですが、そんな時間はないんですよ、これからこのお嬢様を案内しなければなりませんので」
少年は縋るように私に視線を流した。
そんな子犬のように濡れた目で見つめられると……。
「私は急ぎませんけど」
本当は一刻も早くクリスの元へ行きたかったのだが、なぜかそう言ってしまった。
ファビアン様は頷くと、
「では、少しだけなら」
腰の剣を抜いた。
彼が拾った子供用の剣とは違う立派な騎士の真剣、長さも太さも比較にならない。
えっ? 真剣で稽古するの? こんな子供相手に?
私は驚いたが、少年は瞳を輝かせた。
ファビアン様は少年の小さな剣を見て笑みを漏らした。
「懐かしいな、俺もあなたくらいの時、そんな剣で練習していましたよ」
きっとファビアン様も幼少の頃から騎士を目指して稽古に励まれていたのだろう。そういう私も兄たち相手にけっこう頑張っていたけど。
二人は剣を合わしはじめた。
カキーン!! と響く金属音。
もちろんファビアン様は本気ではない、うまく少年の剣に合わせてあげていた。
少年が力いっぱい押してもファビアン様の剣はビクともしない。
「なかなか力がありますね」
と言ったのはきっとお愛想だ。
それがわかって、少年は悔しそうに奥歯を噛みしめた。
本気で相手してもらえないことが侮辱されたように感じているのだろう。その気持ちはわかる、私もそうだったから。
それでもめげずに少年は何度も剣を振り下ろした。すべて軽く受け止められたけど。
「もういいでしょ? 疲れたでしょ」
「まだまだ」
「根性ありますね、あの方みたいだ」
ファビアン様はふと遠い目をした。
「クリストファ殿下ともよくこうして剣を合わせたものです。少年時代の三歳の年の差は大きい、体格的に勝る俺のほうが強いのは当然でしたけど、殿下の剣を叩き落すわけにはいきませんでした」
汗まみれで、息を切らせている少年とは対照的に、呼吸一つ乱れていないファビアン様は語りはじめた。
「殿下はそれが不服だったのです、真剣勝負だろ、手を抜くな、身分なんか気にせず、本気になれ、っていつも怒られたっけ」
稽古とは言え、王族に怪我でもさせたら首が飛ぶ。
しかし、ファビアン様の表情が変わった。
眼光鋭く少年に向き合った。
全体重を乗せて振り下ろされた少年の一撃。
カキーン!!
ファビアン様は受け止めた剣を力いっぱい弾き飛ばした。
少年の手から離れた剣が宙に舞う。
太陽の光を反射してキラリと煌めいてから落下し、地面に突き刺さった。
「やっぱ凄いね、僕の力じゃまだまだだ」
「いいや、筋はいいですよ、才能がある」
ファビアン様は少年の頭に手を置いた。
「ありがとう、本気出してくれて」
「あなたの真剣さに、つい、大人げなかったですね、大丈夫ですか?」
きっと少年の手は痺れているだろう。
ファビアン様はその手を取った。
「行きましょうか」
「うん!」
ちょっと待ってよ、どこへ行くの?
「ダメ!」
歩きだした二人を私は慌てて止めた。
「ファビアン様は私を殿下のところへ案内してくださるんでしょ」
「あっ」
ファビアン様は少年との勝負ですっかり忘れてしまっていたのか、バツ悪そうにこめかみを掻いた。
「そうでしたね」
ファビアン様は少年の手を離した。
「また相手をしてくれる?」
「そうですね、いつかまた」
大きく手を振る少年を残して、私たちはその場を後にした。