その1
「危ない!」
中庭をぼんやり歩いていた私はその叫び声に立ち止まった。
ドサッ!
鈍い音を立てて前方になにかが落ちてきた。立ち止まらずにあのまま歩いていたら下敷きになるところだった。
地面に激突したのは人間だった。
この学園の制服を着用した令嬢。
「キャアァァァ!」
どこからから悲鳴が聞こえた。
私は声をあげることも忘れて、ただ茫然と立ち尽くしていた。
地面にばらけた美しい金髪の縦ロールが血に染まっていく。
それを目の当たりした私の脳裏にある光景が浮かんだ。
横たわっているのは私……?
いいえ、黒髪の少女。彼女は横たわりながら自分の頭から流れ出た鮮血を虚ろな目で見ていた。そして、自分は死ぬのだと直感した。
私は瞬きを一つして、浮かんだ光景を消し去ろうとしたが、急に目の前が真っ暗になった。
私は気を失ったようだ。
不思議な夢を見た。
私は別の世界、見たこともない風景の中にいた。
天まで届きそうな四角いビルが立ち並び、自動車という乗り物が行き交う街の中。そこは日本という国らしい。
人工的なライトが煌々と輝き、夜なのに星も見えない別世界だ。
私はその世界に生きていた女子高生。
普通じゃなくて、霊が見える、霊感というモノを持った少女だった。
あちこちに徘徊する死者の霊。
私は怖くて見えないふりをしていた。
その人たちの声を聞こうともしなかった。
〝危ない!〟
私を助けようとしてくれた霊の声を無視して、足を止めることなく歩き続けた結果、飛び降り自殺に巻き込まれて、その世界での私は若くして命を落とした。
同じような体験をしたことで、前世の記憶が断片的に蘇ったようだ。
霊の声に耳を傾けたことで、今世は命を落とさずに済んだ。
生まれ変わったこの世界は、前世とは違い文明は遅れているようだが、美しい自然に恵まれた世界。私が暮らすルルーシュ王国も緑豊かな美しい国だ。
北は険しい山脈、南は海、西は友好国オトゥール王国と隣接、東は敵対国レイノルズ帝国と隣接している。
常に侵略の緊張に晒される東の国境を領地に持つイーストウッド辺境伯家は、強大な軍事力を誇示して国境の護りを担っている。そればかりでなく領地は広大で資源も農産物にも恵まれて領民の暮らしは豊かである。
私ことドリスメイはイーストウッド辺境伯家の末娘である。残念ながら美人でもない赤毛で赤い瞳の少女。十六歳になるこの春、住み慣れた領地を離れ、王都にある王立学園に入学した。
とてもリアルな夢から覚めた私はベッドに横たわっていた。
まだ茫然と宙を見つめていた。
私を助けてくれた声は、きっとゴーストだったのだろう。今の私も前世と同じく霊が見えた。今までは見えないふりをしてきた、誰にも言えないし、自分自身も認めるのが怖かったから。
さっきはなぜ反応してしまったのだろう?
あまりにハッキリ聞こえたから?
それに今もベッドの脇にハッキリ見える、生きている人間のように。
私より少し年上に見える貴族令嬢、ドレスのデザインが少し古そうなので、ずいぶん前に亡くなったことが窺える。
栗色の髪に深緑の瞳、透き通るような白い肌――実際透き通っているけど――の美しい女性だった。
「あなたが助けてくださったの?」
思い切ってゴーストに声をかけた。なぜ彼女がコーストだとわかったかって? それは宙に浮いていたから。
「私の姿が見えるの?」
彼女は嬉しそうに、私の顔に覆いかぶさった。
近いし!
私は手で押し戻そうとしたが、実態のない彼女に触れることは出来ない。仕方なく、彼女の体を通り抜けて上体を起こした。
「残念ながら、こうなっては認めるしかないわね、見えること」
「嬉しいわ! やっと話を聞いてくれる人が現れたなんて」
「お聞きするとは言ってない」
「そんな冷たいこと言わないでよ」
プーッと頬を膨らます彼女を見て驚いた。美しい見た目から冷たい印象があったし、もっと落ち着いた淑女と思っていたが、喋りだすと人懐っこくて子供っぽい。
「あなたには自分が死んでいるという自覚はあるのね、悪いことは言わない、早く成仏しなさい」
「それが出来ればとっくにしてるわよ」
彼女は首をうなだれならベッドに座った。
「あまりに突然だった、いきなり後頭部に激痛を感じたと思ったのが最期だったようだわ、よく覚えていないのよ、気がついたらこの有様で、その時は自分が死んだなんて気付いてなくて、それで成仏しそびれたみたいなの」
「それって、殺されたってこと?」
「だから、覚えてないのよ、年々記憶も曖昧になっているし、このままならいずれは記憶をすべて失くして悪霊になっちゃうんでしょうね」
「それってマズイじゃないない」
「そうなる前にあの世へ行きたいわ、だから、なぜ自分が殺されなきゃならなかったのか、犯人は誰なのか、それがわかれば成仏できると思うのよ、協力してくれないかしら、私の死の真相究明に」
「あなたは誰なの? いつ亡くなったの?」
「私はフェリシティ・オニール、この学園の最上級生十八歳の時に死んだの、たぶん、二十年くらい前かしら」
「私、生まれてないし、よくもまあそんなに長い間、悪霊にもならずに彷徨ってるわね」
「きっと親友が私を忘れずに訪れてくれているからじゃないかしら、彼女に私は見えないし、話も出来ないけど、私のことを思ってくれているのがわかるから心が穏やかになるの、そうだわ、彼女なら死の真相を知っているかも知れない、聞いてみてくれない?」
「どうやって? 私にはフェリシティのゴーストが見えます、彼女が自分の死の真相を知りたがっているから教えてくださいって聞くの?」
「直球でいいんじゃない?」
「頭がおかしいと思われるだけよ」
その時、ドアがノックされた。
「はい」
「あれ? 誰かいたんじゃないのか、話し声がきこえたような気がしたんだけど」
そう言いながら入って来たのは、この国の王族ルルーシュ家の王太子クリストファ殿下だった。
プラチナブロンドにサファイアの瞳、眉目秀麗な美しい顔立ち、スラリとした長身で立ち姿は絵画のように美しい、外見だけでなく文武両道の完璧な王子様。
なんで彼がここへ?
ヤダッ、さっきまで寝ていたので顔は浮腫んでるだろうし、髪はボサボサ、服も緩められて胸元がぁぁ!!
私は慌ててシーツで隠した。
フェリシティから目を逸らし、手櫛で髪を整えながら平静を装った。
「誰もいませんよ、なにか御用ですか、クリストファ殿下」
「殿下はよせよ、クリスでいいって言ってるだろ」
「でも、学園内じゃマズくない?」
「今は二人だ」
クリスはベッドに腰かけ、揶揄うように顔を近付けた。
「近いってば」
「こんなの子供の頃は普通だったろ、取っ組み合ってじゃれ合ってたんだから」
「いつの話よ」
クリスとの出会いは八年前、その年から毎夏バカンスに我がイーストウッド領を訪れた。兄のリジェールとも馬が合ったようで、私とリジェ兄様、クリスの悪ガキ三人は、自然豊かな領内を駆け回った仲だ。
それはもう遠い昔に思える。今年で十七歳になる一つ年上のクリスは、身長も見上げるくらい伸びて、もう取っ組み合いなんかできる体格じゃない。すっかり立派な男性になり、今では大人の色気さえ漂わせている。
「もう大丈夫そうだね、君が倒れたって聞いたから心配して来たんだよ」
「ちょっと驚いただけ、もう平気よ」
なんでこんな愛想ない言い方しか出来ないんだろう、私のバカ! もっと可愛く喜んでお礼を言えばいいじゃない、なのに心とは裏腹の強がった態度を取ってしまう。
「無事でなにより、もう少しで巻き込まれるところだったんだろ、接触して怪我でもしたら大変なことになっていたよ、王都で辺境伯令嬢が事故に遭ったなんてことになれば、イーストウッド家が黙っていないからね」
こんな可愛さの欠片もない私にもクリスは優しい笑みを向けてくれる。
「でも意外だったな、遺体を見て卒倒するなんて、君もか弱い女性だったんだね、昔は気の強いお転婆だったのに」
遺体を見て気絶したのではない、あの時、急に前世の記憶が頭の中に雪崩れ込んで、抱えきれずに気を失ったのだ。
しかし、そんなことを言えば、頭を打っておかしくなったと思われるに違いない。でも、遺体ということは、
「……あの方、亡くなられたのね」
「ああ、即死だったらしい、巻き込まれていたら君も怪我で済んだかどうか」
「痛ましい事故ね」
「事故じゃない、自殺だったらしい」
「学園の生徒よね」
ここは裕福な貴族が通う学園、自殺するような闇を抱えている人がいるとは意外だった。
「誰かわからなかったのか? 亡くなったのはエブリーヌ・ドヌーブ公爵令嬢だ」
「エブリーヌ様!?」
「面識はあるだろ」
「ええ、でもあいさつ程度しか」
「まあ、君とは気が合いそうにないタイプだったろうけど」
「私のような田舎者は相手にされないから、絶大な権力を持つ三大公爵家の完璧御令嬢、婚約者候補の筆頭と言われてた方でしょ」
王族ならとっくに婚約者がいるはずの年齢なのに、クリスはまだ決めかねている。
「婚約者候補だなんて、周囲の者が勝手に騒いでるだけだ、僕は一言も言ってないし」
クリスは意地悪い笑みを浮かべた。
「それを言うなら、君だってそう言われてるの、知らないのか?」
「まさか、私なんか」
「イーストウッド辺境伯家は、広大で豊かな領地経営は順風満帆、一国に匹敵する強大な軍事力を誇示しているし、王家も三大公爵家も無下にできない権力をお持ちだ、婚姻で友好な関係を築きたいと思っているのは王家のほうなんだけどな」
「わかりやすい政略結婚ってわけね」
「君のお父上が王族との婚姻に興味がないのは知っているし、それ以前に僕が君に嫌われていたらどうしょうもないけどね」
「嫌いなわけないわよ」
だって彼は私の初恋の相手なんだから。
そうでなきゃ、大好きな領地から離れて王都になんか来ない。私も年頃だからずっと領地にこもっていないで貴族の子女が通うこの学園に来るよう、リジェ兄様に勧められけど、断ることは出来たし。
まさか王太子の婚約者になれるなんて恐れ多いこと思ってはいない、彼に相応しい相手は私なんかじゃないとわかっている。でも、彼に会いたかったから。
素直じゃない私はその気持ちを現わせない。勘のいいクリスには見透かされているのかも知れないが……。
「怪我もなかったようだし、今度の休み、遠乗りに出かけないか?」
「えっ?」
「久しぶりに乗馬がしたくなってね、君は得意だろ」
クリストファ様と一緒に遠乗り! 飛び上がるほど嬉しい私、きっと頬は紅潮して期待に瞳が輝いているだろう。でも、
「次の休みは予定もないし、どうしてもって言うなら、付き合ってあげてもいいわよ」
やはり平静を装いながら可愛げのない返事をしてしまった。
その時、ノックの音がした。
「はい」
「リジェかな?」
しかし、入室したのはクローディア様だった。
明るい栗色の髪に碧の瞳、白い肌にピンクの頬が愛らしい、天使のような笑みを浮かべる美少女だ。ただし目は笑っていなかった。