第2話 維織 ーー イオリ ーー
引き続きよろしくお願いいたします。
吉良維織は今日も惰性で生きていた。
維織は温厚で人当たりも良く、音楽を好み、友人と夢を語り、未来に希望を持つ……そんな普通の青年だった。
実家は山梨にある定食屋で、祖父母は同じく山梨で農業を営み、子供時代は豊かではないが貧しくもない生活を送った。
中学・高校ではギターに嵌り、東京のFラン大学へ進学し、そこでもやはり音楽に傾倒した。
そしてそのまま将来について深く考えることなく、音楽の道に進み、仲間とともに成功してミュージシャンになるか、頓挫してサラリーマンになるか……、そんなありふれた青年になった。
しかし維織は、19歳だったあの日、最愛の恋人を失ってしまったのだ……。
絶望の底に突き落とされたが……表面的にはやさぐれることも無く、死に向かうでもなく、ひっそりと日常に戻っていった。
維織は、激情に駆られて荒れることは無かったが、その代わりに薄く張り詰めた膜で悲しみを覆い、まるでメトロノームのように、カチッ、カチッ、カチッ、カチッ、カチッ、カチッ……と惰性で生きる日々に埋もれていってしまった。
何もする気が起きない……。
人との関わりは避けた。
無気力で、最低限のことだけを行い、地を這うような……、そんな生活を続けていた。
維織はただのメトロノームになった……
気が付けば、あの日から4年が過ぎていた。日々に抑揚も無いまま大学も卒業していた。
就活もせず、卒業だけしていた。
維織の最愛の恋人であった水戸花音 ーーカノンーー は、病気が見つかってから、僅か数ヶ月で逝ってしまった。
カノンは、維織の中学時代からの親友であり、音楽仲間だった。
同じ東京の大学に進学してからは初めての恋人だった。
カノンは呆気なくこの世を去ってしまったが、それでも維織の夢に出てきては笑い、怒り、音楽を語った。
しかし彼女が逝ってから4年が経ち、立ち直ることのない維織に愛想を尽かしたかのように……、夢に出る頻度を減らしていった。
今の維織は、朝起きて歯を磨き、顔を洗って家を出る。
意識すること無く、バイト先の楽器店に行く。楽器店のバイトが終わると、夜のバイト先であるライブハウスへ向かう。仕事が終わると真っ直ぐ帰宅し、寝る。
ーー顔の表面だけて取り繕う愛想笑いと、必要最低限の会話ーー
そんな同じ日々を繰り返すだけ。
そこで為された会話や、視覚に流れてきた情景は、脳のどこにも残っていない……空虚な日常。
維織は大学時代から変わらずに、楽器店とライブハウスのバイトを掛け持ちしていた。職場を変えようなどという気力は無かった。そして、ライブハウスのマスターは、維織を気にかけ、無理矢理にでも晩メシを食わせてくれた。
週に5回、維織はライブハウスの名物カレーを流し込まれた。
だいぶ痩せてしまったが、今でもカチッ、カチッ、カチッ……とメトロノームが音を刻んでいるのはマスターの献身のお陰である。
ライブハウスの休店日は、誘われるままにマスターのギター工房に通った。断る理由も無かったし、ギターを作っていると無心になれた。
マスターは休店日を使って工房に籠り、ギターを作るのが好きだった。その技術は趣味の領域を超越していた。維織はマスターに教わって4年間で何本ものギターを作った。そして完成したギターを弾いた。
不思議と指は衰えずに動いた。
ひとしきり工房での作業が終わると、マスターは維織の口にカレー以外の何かを詰め込んでくれた。
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カチッ、カチッ、カチッ、カチッ、カチッ、ガ、ガチッ……!
単調に、正確に刻んでいたたはずの維織のメトロノームは、徐々に雑音が紛れるようになっていた。
雑音が紛れた夜は、決まって不思議な夢を見るようになった。
夢では毎度同じ女性が語りかけてきた。
今までの人生で、その女性に出会った記憶はない。
それなのに鮮明に、起きていても思い出せるほど、その女性は存在感があった。
「貴方を必要としている世界があります
病魔に沈む精霊郷テラデアを助けてください……」
夢の中の女性は、いつも少し困った表情で同じことを問いかけ、懇願してきた。
(病魔に沈む……?)
維織は心を鷲掴みにされたような苦痛を覚えた。
(病気……なんですか……?)
「ええ……、精霊郷テラデアは重い病気に罹った世界です……」
(何で……俺なんですか……?)
「そのままの身体でテラデアへと転移できる者は多くありません……
そうそう見つかるものでは無いのです……
テラデアは貴方を必要としています……
どうか……沈むテラデアを助けてください……」
そんな夢を何度も何度も見るうちに、維織はその夢を信じるようになった。それは『病魔』という言葉が、カノンとの思い出を呼び起こしたから。
(病魔……助ける………)
そして止まっていた時が動き出すように、維織は再び様々なことを考えるようになった……。
ふと維織は、生前のカノンの言葉を思い出していた。
『聴いてくれた人が元気になる……、少しでも“こいつらが居て良かったな”って思われるような……、人の助けになるような音楽をやりたいんだよ………できれば維織と一緒にね!』
この言葉はそのまま維織の夢になっていた。
今はもう叶わない目標。無くなってしまった、やりたかったことだ。
そして夢の女性の言葉を思い出す。
(病魔……助ける………)
(それは自分がやりたくても出来なかったことだ……)
(ここに……カノンはもう居ない……)
(次は……助けられるのだろうか……?)
(いまの俺は……死んだも同然だ……カノンに合わせる顔が無いよな………)
いつの日かメトロノームの音は止み、心の中で自問自答するようになっていた。
その日の夜は、珍しくたくさん思考を巡らせたことで脳が疲れたのか、帰宅してそのままソファーでウトウトと眠っていた。カノンと並んで座ったソファーだ。
そしていつもの夢を見る。
いつもの女性が語りかけてくる。
「イオリ、もし貴方も望んでくれるのならば
この眠りから目を覚ますまでの間に
テラデアの世界へ転移させましょう
どうか、病めるテラデアを助けてください……」
(俺は本当に必要なのか……?)
(病魔って何なんだ……?)
「かつては精霊の力で満たされ、精霊郷と言われた世界は見る影も無く……
多くの精霊が眠りに就いてしまいました……その病魔の詳しい正体も分かっていません……
今まで治療も行いましたが、効果が有りません……
そして人々は疲弊してしまいました…… 他の世界の助けを必要とするほどに……
しかし、テラデアへと転移できる者は多くありません。
貴方を逃せば、次の機会はいつ巡ってくるか分からないのです……」
(俺は、具体的に何をすれば良い……?)
「貴方が出来ることを行えばその力が、きっとテラデアの助けになるはずです」
「ただ、生きて欲しい………」
その時、夢を遮るようにカノンの声が聴こえた……『行きなよっ!』
維織は彼女に答えた。
『分かった……、行くよ……』
維織はさらに深く眠りに落ちた。
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どのくらい寝ていたのだろうか……。
イオリが目が覚ました場所は、洞窟のようだった。
夢は鮮明に覚えている。半ば勢いで転移を了承した。でもそれは確かに自分の意思だった。
それでも夢での問答だ。半信半疑でもあった。起きればいつものベッドの上、脳の7割はそう考えていた。なので維織は非日常的な周囲の状況に驚いた。
(本当に……転移している……? こんなにあっさり……?)
岩肌に直接寝ていたようで身体中が痛い。
周りは薄暗く、岩に体温を奪われた所為か体の動きも鈍い。
格好は……普段バイトに行く時の服装…パーカにチノパン、機能性の欠片も無いスニーカー、小振のウェストバッグを斜め掛け、頭には緩めのニット帽……無意識量産型スタイルだ。
凍え死ぬような気温ではないし、パンツとTシャツのみの就寝スタイルでは無かったので良しとする。
バッグの中身は…財布、スマホ、家の鍵、自転車の鍵、ギター用のピックと弦、音叉、簡単な筆記具と大袋のフルーツ喉飴、バイト仲間から持たされた旅行土産のばらまき菓子…ここが本当に異世界だとしたら……、役に立つ物は喉飴とお菓子だけという惨状だ。
イオリは冷気と静寂の中で目を慣らす。
そこは文明とは程遠い荒削りな、しかし自然に出来たにしては不自然な形状の岩に囲まれた洞の奥だった。
洞の入り口……薄らと光の射す方を見ると、その光を一部遮るように石碑が建っている。石碑には文字は無く、幾つかの文様が刻まれている。トライバルデザインのような植物を模した柄だろうか?
(本当に転移したのだろうか……?)
それを確信するには視覚から流れ込む情報だけでは足りない。しかし今までに浴びたことの無い空気感は、異世界への転移を予感させた。
新たな情報を求めて視線を巡らせる。すると、床の岩盤に転がる石の中に、光を放つものが有ることに気付いた。それは、光を放っていなければ形はただの石ころと変わらない、ピンポン球程度の掌に収まる大きさの石だ。
光を放つ石は全部で4つ発見できた。ひとつは赤く光り、もう1つは青く光り、他の2つは黄色く光っている。
そんな異質なものに触れることで、ここが異世界であることへの確信は強まっていく。
取り敢えず、稀少な物かもしれないので4つの石をバッグに仕舞う。
差し込む薄明かりに目が慣れた頃、イオリはテーブル状の岩の上に2通の手紙を発見した……。
1通は古そうな封書で所々に皺が入り、滲み汚れに塗れていた。
封蝋が施された逆の面には文字が見える。
『親愛なる転移者へ
アイザック』
(文字は…読めるのか…?…転移者!?)
もう1通は真新しく、手紙というよりはメモ書きのようだった。
片面に3行だけ文字が書かれている。
『すぐに戻る
ここで落ち合おう
オーロ』
(2通とも、俺に宛てた手紙なのか……?)
(オーロとアイザックは名前?)
(他にも転移者がいるのだろうか……?)
そう思案していると洞の入り口に人の気配が訪れた。
イオリは石碑に身体を隠して息を潜める。緊迫した空気に汗が噴き出す。
異世界転移を実行するには、あまりに心の準備が整っていなかった……。
しかし、どうやら相手もこちらに気付いている。
それは不自然なほど静かになった相手の息遣いが物語っていた。
相手もこちらを警戒しているのだろう。
先に意を決したのは相手だった。
「誰かいるのか!?」
洞に少年の声が響いた……。