中国人オーナー
聴こえなかったのか男からの反応はな
く、最前からと変わらぬ鈴虫や馬追虫た
ちが翅を震わせて奏でる涼しげな音ばか
りが、沈黙を埋めるように薄暗い空かn
「ファッキン、シッ!」
いきなり耳に飛び込んできた罵り声に、私は執筆の手を止めてパソコンから顔を上げた。声は部屋の窓のすぐ向こう側にある外の通路でしているようだ。
「ファッキン、イディオッ!」
頭のおかしな人間でも迷い込んだのかと思っていると、裏口のドアが開く軋み音に続いて乱暴に閉まる音が聴こえ、大声で何事かを罵っているのが上階に住む中国人オーナーだと気がついた。
パソコンの右上には十六時十三分と表示されている。出勤するまでまだ二時間ほどあるのでもう少し書き進めたいところだが、罵り声のせいで集中力が切れてしまった。
「ストューピッ、マザーファッカー!」
聴くに耐えないずいぶんと汚い言葉を羅列している。一体何に対して怒っているのだろうか。とても五十代の大人が使う単語とは思えない。教養と良識を備えた人が聴いたら相手の人格を疑って距離を置くほどの酷さである。
叩きつけるようにドアを閉める音が何度か聴こえ、しばらく廊下を往き来する足音がしていると思ったら急に静かになった。激昂している状態から冷静になるまでが異様に早い。時間にしてものの数十秒といったところだ。
変なとばっちりを喰らっては堪らないし、また始まるかもしれない高齢者の罵り声など聴きたくもないと思った私は、時間を少しでも潰すために長めにシャワーを浴びてから普段より一時間以上も早く仕事へと向かった。
翌日、出勤前にウェブ小説の執筆をしていると、昨日と同じように中国人オーナーの怒号が聴こえてきて私は溜め息を吐いた。
「マザーファッキン、イディオッ!」
仕事で嫌なことでもあったのだろうか。たとえそうでも近所迷惑であるし、異常者が住んでいる家とも思われかねないので控えていただきたいものだ。大声を出したいのならカラオケボックスか、あるいは人の少ない山や海などの自然の多い場所にでも行けばよかろう。
「ストューピッ、クラップ!」
それとなくパソコンの時計を見ると十六時十三分と出ていた。時間もぴったり昨日と同じである。
まったくもって冗談じゃない。こんなことが毎日続いたら執筆もままならない。もし明日も繰り返されるようであれば、シェアハウスの仲介人にメールで相談しよう。
「ファッキン、マザーファッカー!」
さらに翌日、前日と変わらぬ酷い悪罵が聴こえてくるなり、私はパソコンの操作を止めて携帯電話を引っ掴み、簡潔に要点だけを打ったショートメッセージを仲介人に送った。
時刻は十六時十三分。よくもまあ一分のずれもなく毎日同じ時間に帰ってこられるものだ。時間に正確というよりも、どこか機械じみた神経質さを感じる。
すぐに仲介人から返事があって内容を確認すると、こちらでオーナーに話しておくので問題ないといったようなことと、もしこの後も静かにならなかったら折り返し連絡をくれといったことが書かれてあった。
論点はそこではない。騒がしいのはいつも数分もすればおさまるのだ。私が仲介人に問題だと言ったのは、解除できないアラームのように毎日決まった時間に爺さんの罵詈雑言を聴かされることである。スヌーズ機能を切っても大元を止めなければ意味がない。
仲介人に相談した翌日、十六時が近くなるにつれて、私は集中して執筆ができるような精神状態ではなくなってきていた。中国人オーナーの何事かを罵倒する声は三日でストレスとなり、十六時十三分は忌むべき時間としてすでにトラウマのように私の心に刻まれてしまっている。
十六時五分にもなると私は執筆の作業画面ではなく、パソコン画面の右上に出ているデジタル表示の時計ばかりが気になってしまい、構成を考えたり話をまとめたりするどころではなくなっていた。
いよいよ十三分が迫り、私は外の通路へ意識を向けたまま自然と身構えて怒声に備えた。
ところが、十四分、十五分となっても罵る声は一向に聴こえてこない。たまたま今日だけオーナーの帰りが遅いのだろうか。
どうしたことだと思っていると裏口のドアが開閉する音が聴こえてきた。怒鳴り声はしない。他のシェアメイトが帰宅したのかとも思ったが、上階で物音がするのでオーナーで間違いないだろう。
どうやら私の意向はきちんと仲介人に伝わっていたらしい。これでまた出勤前の執筆作業に専念できそうだ。