帰宅
仕事を終えて自室へ戻ってきた私は、バッグをベッドの上へ放って部屋着に着替えると、パソコンの前に座って日課となっているウェブ小説の作業画面を開いた。
時刻はすでに深夜一時をまわっており、一般的な社会人であれば明日の仕事に備えて就寝する頃合いだろう。
もちろん私だって社会人ではあるのだが、職種の関係で出勤するのが夕方なので、自然と他人とは違った生活スタイルになっただけのこと。
要は深夜から昼にかけてが私の自由な時間であり、同時に小説の執筆に使えるまとまった時間でもあるというわけだ。そのあとは出勤ギリギリまで眠るというのがいつものパターンである。
私は自作小説のPV数をチェックしつつ、パソコン脇に置いてあるマグカップを口に運ぼうとして空であることに気がついた。
大抵は飲みかけのコーヒーを少しだけ残してあるのだが、どうやら今日は出勤前に飲み干してしまっていたようだ。こいつがないと作業が捗らない。
もう寝ているであろう他の部屋の住人を起こさないようキッチンへと向かった私は、時間短縮のために水ではなく湯を沸騰させてコーヒーを淹れ、再び足音を立てないよう静かに廊下を歩いて自室へと戻ってきた。
私が住んでいるのは二階建てシェアハウスの半地下の一室で、部屋はキッチンからもっとも遠い廊下の最奥に位置している。同フロアには他に二人の男性がいるのだが、彼らと顔を会わせることは滅多にない。
シェアハウスというと聞こえはいいかもしれないが、実際はオーナーである中国人男性が一階と二階を専有スペースとして一人で使っているただの民家だ。
言うなれば私のプライバシーが守られる場所は、トイレが併設された浴室を除けば、四畳半ほどの広さしかない自室だけということである。
淹れたてのコーヒーを一口すすり、執筆を始めようとパソコンに向かうなり、どこからか腹に響く重低音が聴こえてきて私は手を止めた。聴こえてくるベース音のリズムからすると、ラテン調のダンスミュージックか、もしくはレゲエのような陽気な音楽のようだ。
音楽は隣の部屋ではなく上の階から鳴っているような気もするが、六十歳に近い堅物そうな中国人男性の趣味とはとても思えない。ストレス発散のために聴いているとしても時間帯的に非常識な音量である。
ふとパソコン画面の右上に目を走らせた私は、そこに日曜と出ているのを見て今が土曜の深夜にあたることに気がついた。
おそらく週末だから酒でも飲んで騒いでいるのだろう。気になりはするが耳を擘く大音量というわけでもない。こちらは間借りしている身でもあるし、家の主が何をしようとある程度は目を瞑らねばなるまい。
まさか朝までは続かないだろうと高をくくり、とりあえず私は意識を画面へと向けて執筆作業に取りかかった。
区切りのいいところまで書き進めたら休憩しようと思い、画面を睨みながら最後の段落を考えていると鳴っていたベース音が唐突に止んだ。時計は午前二時半を指している。
二時を過ぎても音が止まなかったときは少しだけ嫌な予感がよぎりはしたものの、どうやらそれは杞憂に終わってくれたようだ。近所のバーが閉まる時間と同じせいか、音が止んだのが午前二時半というのはなんとなく腑に落ちた。
このシェアハウスに住んで半年ほどとなるが、深夜にこのような音楽が聴こえてくることなど今までなかったように思う。少なくともここへ越してきてから私がこの時間帯に眠っていたことはないので、それで気がつかなかったという可能性はまずない。
私はそこまで考えて、以前はもっと遅い時間に帰宅していたことを思い出した。ちょっと前に業務内容が変わったせいで仕事の終わりも早くなったのだ。
もしこれが毎週末の恒例イベントであったとしても、苦情を言うほどのことではないだろう。誰だって週に一度くらいは騒いだり羽目を外したりしたいものだ。
音楽が止んで集中力が高まった私は、次々と湧き上がってくるイメージを言葉へと変換しつつ、取り憑かれたようにキーボードを叩いて最後の段落を一気に書き上げた。