夏のホラー2020
例えばこんな話、をたくさん盛り込みました
ベンチからずり落ちて、頭をしたたかに床に叩きつけた私は、あまりの寒さに肩を震わせた。
天井の通風口から、氷のように冷たい風が舞い降りてくる。
「かくれんぼしよう」
振り向いても人影はない。ここには私と、空になったハイボールと、しわくちゃのビニール袋があるだけだ。
ガラス越しにホームを眺めるが、真っ暗な夜が広がっている以外に、何の気配も感じない。
「あたしが隠れるわね」
まただ、女の子の声が聞こえる。その声が私の鼓膜を震わせている。空耳ではないのかも知れない。
待合室から出た私を、熱帯夜が包み込む。まとわりつく湿度が、肌をなめるように濡らす。
「こっちよ」
停止したエスカレーターを上り、改札を通り抜ける。
「ふふ、そっちじゃないわ、こっちよ」
トイレの方向から聞こえていたはずの声が、アサッテの方角から飛んでくる。
「こっちよ」
「どこへ行くの」
「早く見つけてちょうだい」
何度繰り返しただろうか、私は背中に汗を流し、ふらふらになりながらも、少女の声を頼りに構内をさ迷っていた。
疲れきった私は、少し休もうと、シャッターの閉められた店の前で蹲った。俯いた私の視界に、赤い靴を履いた細い足首が現れて、
「次はあなたが隠れる番よ」
小さな手が私の首筋をなぞった。少女の指が触れた部分は、泥をつけられたように、ねばねばと気持ち悪い。
首を擦った私は目を疑った。
赤黒い絵の具をべったりとつけられていた。酷い悪戯をするものだ。
立ち上がった私は、大人をからかうんじゃないと、忠告するつもりで開けた口が塞がらない。
「あ、ああ」
赤い靴を履いて、同じ赤のワンピースを着ているこどもの首から上が、ない。
「ごお、よん、さあん」
どこからともなく聞こえてくる少女の声が、カウントダウンを始めた。右手には赤黒く錆びたナイフが鈍い光を帯びている。
「にい、いーち」
私は脇目も振らずにその場から一目散に離れた。
「ぜろっ!」
駆け出した私の背後を、首のない少女が追ってくる。足音はどんどん近づいてくる。
改札を飛び越え、エスカレーターへ向かった。エスカレーターは、私が足を踏み入れると、反対の向きに動き出した。
逆走するエスカレーターに戸惑っていると、
「あなたの首、綺麗ね」
少女の囁きがすぐそこまで迫っていた。
足がもつれてエスカレーターを下まで転げ落ちながらも、私はどうにかホームへ逃げることができた。
首のない少女はエスカレーターの入り口で立ち往生しているようだ。
早く助けを呼ばなくてはならない。辺りには当然誰もいない。しかし目を凝らせば、薄闇に紛れた漆黒の車体がホームへ滑り込んでくるのが分かった。
「おーい!乗せてくれ、頼む」
私の叫びに気がついたかのように列車は、ゆっくりと停車した。
「開」のボタンを連打して、勢いよく一歩踏み出した私は、足を宙ぶらりんにさせたまま動けなくなった。
腕時計は午前二時を回っている。こんな真夜中に列車がやってくることなんてあり得ない。
「ふふ、捕まえた」
服を引っ張られ、私は反射的に抵抗するも、首のない少女の力は存外に大きい。
ホームに連れ戻されたら何をされるか分からない。私はありったけの気力を振り絞る。
ふいに私はうつ伏せに転倒した。
振り返ると少女の姿はない。
そればかりかホームには人が溢れていた。
手に提げた発泡酒入りの袋から、アルコールの香りが漂っている。
「何だ、夢だったのか」
安堵の息を吐いたとき、ガタゴトと鈍い音が響いていることに気がついた。それは凄まじい速さで近づいてくる。
立ち上がろうとしたが、力が入らない。足が絡まり、糸を切られたマリオネットのように、私は無機質な輝きを放つレールの上へ落っこちた。
警笛。
悲鳴。
何かがプツリと引き裂かれる音。
私は夢を見ているのだろうか。
夜空が地面に変わったかと思えば、今度は再び天地が逆転する。目が回らないわけにはいかない。辺り一面に真っ赤な雨が降っている。
ベンチからずり落ちて、頭をしたたかに床に叩きつけた男は、あまりの寒さに肩を震わせている。
天井の通風口から、氷のように冷たい風が舞い降りてくる。
「かくれんぼしよう」
男の耳元で囁いた。
「うわっ!く、首が」
振り向いた男は私を見るなり叫び声をあげた。
待合室を出た男はエスカレーターを駆け上がっていく。間もなく、先ほどよりも大きな悲鳴が聞こえた。
追いかけっこのカウントダウンを始めたのだろう。
また一人、彼女の遊び相手ができる。いつかの私のように。(了)
「夏のホラー2020」たくさんご用意してますので、シュルレアリスムの文字から飛んでみてください