7. 零れ落ちた白馬の一駒
それは楕円を中心に構成が為され、過剰な装飾と動的な絵画がその様式の特徴でもあった。比喩的な意味でいびつや不規則を示す時代の象徴に、彼は押し開こうとする動作を手の平で躊躇していた。どれもこれも、彼の存在は調和や均整に由来される古典主義の中におり、全ては対照的な過去でしかなかったのだった。
彼は後方の大理石の廊下を振り返り、それから天井に描かれた文学の一場面を見上げた。そして、名画より垂れる軸に吊られた王冠のシャンデリアを眺め、そのまま遠くまで続く黄金の絢爛さに権力の趨勢を感じたのだ。それはつまり、複数の視覚を獲得した彫刻による集積がこの場にはあったということであった。
「あの、ナタン様?どうかされましたでしょうか?」
白衣の清潔を意識させる侍女姿の彼女は、そんな彼から一歩退いたまま無表情に語りかけた。しかし、彼は広々とした空間に何かを視ているようで、彼女の問いかけに少しも反応を示さなかったのだ。そのため、彼女は赤の折り返しのある濃青のハビットロングを見つめ、尤もらしく舞踏前の繁栄を想像してみせた。
「ナタン様、ナタン=デゥボワ様、聞こえていらっしゃいますでしょうか?」
「あぁ、聞こえているさ。なんだか王政が懐かしくてね。」
「左様でしたか。ですが、それも今や第三帝政の時代にございます。」
ナタンはこれ見よがしに溜息を吐くと、機械のような彼女の方へと身体ごと向き直した。すると、彼女は冷徹の眼を持ってナタンを射抜き、彼の着けている赤の肩章と白の襟章に気高さを伺ったのだった。そんな彼女の思考を手に取るように見たナタンは、矜持をもって侮蔑せんと最古の文明を頭に思い浮かべたのだ。
「悪いね、僕は数字が並んだだけの時代を知らないんだ。」
「狭間は新時代の幕開けに不要かと、私はそのように愚考致します。ナタン様、これより先は軍刀の所持が禁止されておりますので……。」
彼女は両手を差し出しながらそう言い、ナタンの腰に提げているサーベルを渡すように促した。ナタンは模造の多い中での実用のそれを見抜かれたことに驚き、儀式に終わらぬ嘗ての栄光に縋る彼女の執念を垣間見た。それもほんの僅かな一瞬であれど、ナタンにはサーベルが彼女を形作る一片であった気がしたのだ。
そうして近衛の証を奪われたナタンは扉に手を掛け、彼女の生涯を覗かんと瞳の奥に若紫の炎を宿してみせた。そして、弧を描くようにその炎を踊らせ、自身の色で瞳の黄土を呑み込むように燃え上がらせたのだった。彼女はそんなナタンに身構えようとした時、彼は笑いながら深い瞬きと共に炎を鎮火させたのだ。
「やめだよ、やめ……謎解きが僕には貴重ということを思い出したよ。そうだね、もし機会があれば君に何者かと尋ねることにするさ。」
「お戯れを。私は唯の侍女にございます。」
「そうかい、君がそう言いたいのであれば我慢しておくよ。けれど……それはいつまでもじゃない、今は違うことが気になっていてね。」
ナタンはそうとだけ彼女に述べると、扉を開けて灯りのない暗闇の中へ足を進めたのだった。見向きもされない頭を下げる彼女の姿は閉音と同時に失われ、光の糸は部屋のどこを探そうにも途絶えてしまっていた。それでもナタンは歩みを止めることは決してなく、細やかな香りを辿って薄い輪郭を求めたのだった。
いつも通りに、そして慣れたように此度もナタンは趣向を凝らした催しを試すことにしていたのだ。初めての部屋での沈黙を前に、ようやくにして聖者はこれまでの行進を終える。すると、その時になって指を弾く音が響き渡り、天井のステンドグラスより真南をとうに過ぎた太陽が今になって主張し始めたのだった。
着色硝子を通して床に映った光は一枚の絵を描き、共に照らされた人影は頬杖をつきながらナタンを見据えていた。曖昧な光の中で向日葵のような髪色が煌々と輝き、勲章を掲げた正装でナタンはもてなされていたのだ。その意味とは白黒の盤面に帰着し、それも運命を見定めんとするものであったに違いなかった。
「遅い、遅すぎる。貴様は契約の相手をいつまで待たせるつもりだ?」
「どうやら君はずっと酷い人のようだ。彼女から微かに漂った映像にね、そうまで暇を持て余した様子は視えなかったんだ……違うかい?」
「貴様は本当につまらん奴よ。しかし、それこそが悪魔の如き美徳とはな。」
「悪魔ではなく、神に愛された故の美徳さ。それで……。」
言葉を落としたナタンの疑問に対し、眼前に座る男性は盤面を指で叩いて答えてみせたのだった。ナタンは要領を得ないという様子ではあったものの、そのまま対戦相手となる空席に腰を据えたのだ。そうして何かしらの合図があったわけでもなく、互いの陣地を示す白黒の一線が駒の侵略と共に動き出したのだった。
もっとも、移動する駒の生真面目さとは反対に、そこに沸いた混成酒の仕上がりは嗜好品の側面を強めるばかりであったのだ。それは漬け込んだ果実の酸味を引き出させ、さぞかし貴族らを招いた逸話に合致していたことであろう。さりとて、彼の手元の煩雑さにナタンは煽られている気がしてならなかったのだった。
「もともと僕は運命に頼らない、いや、頼る必要もないことぐらい君も知っているだろう?君の時間には限りがある……人の身に覆せはしないよ。」
「なるほど、人の身でなければ抗えるというわけだ。貴様が俺に黙っていた理由はつまり、そう易々としていられない輩がいたということよ。」
彼は盤上の一駒を手に取り、その削られた馬の顔に騎手の姿を考えた。そして、彼は馬に振り回されるであろう騎手に自身を重ね、それを超えてこそ訪れる野望の限りに笑ってしまったのだった。目元に手を添えて独りでに大きく、騒がしく声を発し終えた彼は指の隙間からナタンを覗いてそっと口を開いてみせる。
「なに、俺は説教を垂れに貴様を呼んだのではない。むしろ、久々に愉快な気分にしてくれたことを感謝しているのだぞ?俺を出し抜き、自らの欲に忠実であろうとは……それでこそ契約のし甲斐があったというものよ。」
したり顔で彼は自身の白馬を白面に進め、序盤にしては上々の戦略に今後の流れを予想した。それから彼は盤面の底に挟んでおいた写真を抜き取り、ナタンの方へと裏向きで手渡したのだった。ナタンはその写真に映るヴィルベルトの容姿を確認すると、彼があらゆる事態を想定して手を回したことを理解したのだ。
ナタンは彼の運命を支配せんとする意志を、そして領分を侵さんとする意志を好んで仕方がなかった。だからこそ、ナタンは彼に協力を授け、皇帝という器になってからも未来を期待したのだ。そんな彼が契約を逆手に取ってきた策謀に敬意を表し、ナタンは口元の歪みと共に振り出しに戻すことを決意したのだった。
「これまた斬新な催しだね。それで、足りなかったものとは何だい?」
「その男の片目だ。忌み子に隻眼などいない、この訳が未だにな。」
「……そうだね、それを端的に言うのであれば勘違いさ。彼は忌み子なんて生易しいものじゃない、もっと……そう、もっと悍ましい何かでしかないよ。」
「ほぉ、忌み子に紛れた異分子、貴様はそう言いたいのか?仮に偶然でないとしたならば、今一度忌み子を定義し直さねば収まりがつかぬではないか。」
ナタンは自身の教養における整合性に疑義を投じ、形の嵌まらぬ概念に対して再度の構成を試みる。そんな思考により白駒の予定した行き先は狂わされ、気が付けば形勢の変わった盤面を彼は下顎を触りながら見渡していたのだ。そう、またしても彼は導きによる罠に、いや、そもそもが勘違いですらあったのだ。
ナタンは彼の所為で増えた仕事を推しながら立つと、彼に半歩ほど近づいて脇の酒瓶を取ってみせた。その混成酒にまつわる彼の行動に対し、ナタンは酒瓶を傾けることで中身を一本の線として垂らしたのだ。そうして薔薇色の飛沫は盤外までも漏れ出し、白黒の駒は押し寄せる荒波に倒されてしまったのだった。
そんな中で唯一にして彼が好んで眺めた白馬はというと、机上からすらも零れ落ちていたのだった。彼はその駒と中身の消えた酒瓶を見比べ、ナタンの隠された意図をすかさずに感じ取る。そこにはあらゆる先を見通した上での嘲りが混ざっており、彼はナタンに答え合わせを急かされているような気分でいたのだ。
「おいおい、それでは勿体ないであろう?」
「僕は確かに君に言ったはずだよ。情報屋には決して手を出すなと。」
空になった丸底の酒瓶を逆さに戻し、ナタンは葡萄色を脱ぎ捨てた薄塗りに自身を見つけていた。縦に延びた顔には見透かす程の眼力が足りないが、それでも少しだけ貼り付いた葡萄色と相まって髪色が真実に似通っていたのだ。ナタンは用済みとばかりに酒瓶を投げ捨て、二人だけの空間に硝子音を鳴らしてみせた。
「彼らはね、不思議と僕の先を読んでいるみたいなんだ。運命を捻じ曲げることが出来る輩なんて……それこそ数える程しかいないというのに。」
「では、挨拶交りの贈答品すらも駄目だと?」
「金糸雀と親しい王都は尚更さ。彼らはとにかく鼻が利く、それも城名のシャンボールから君が使った彼女を暴きに来るぐらい。」
ナタンはそう言い終えると彼に背を向け、微睡んだ光で霞む扉の方へと歩き始めたのだった。残された彼はつまらなそうに薔薇色の盤面を眺め、それから滴り落ちる液体の先を目で追いかけた。そこには転がり落ちた白馬の一駒が床の絵柄に浮かんでおり、寂しそうに本分たる攻める相手を見失っていたのだった。
彼はその白馬を拾い上げると前方を見つめ、折り良く開かれた扉に向かってそれを放り投げた。ナタンは頭上を描く放物線を知る由もないが、扉より現れた人物に何かしらの仕掛けを疑ってしまっていたのだ。物珍しい灰色の髪が揺れて伸ばされた手に白馬が収められることなど、想像に難くはなかったのだった。
登場人物について
ナタン=デゥボワ……帝国近衛。薄い葡萄色の髪。黄土色の目。
彼……皇帝。向日葵色の髪。
侍女姿の彼女……不明。
最後の灰色の髪の人物……次回判明。




