11. 妖しさの一片
棚を彩る蔦模様の飾り硝子が割られると、男性の頭上にはその破片が降りかかったのだった。彼の周りからは不純な酒の匂いが立ち込め、彼もまた彷徨い出した琥珀色の受け皿となる。腰を床につける彼は置かれた状況を理解しながらも、近づいてくる元凶の白レースの装いに抗おうとは微塵も思い至りはしなかった。
薄雲色の髪の上にティアラをのせる彼女は、棚から零れ落ちるブランデーの一品に困り顔をしてみせる。彼女はどうも彼の怪我の様子に興味がないようで、それよりも失われる収集品の方が重要であったらしい。そこで彼女は閃いたように指を瓶の口に差し込むと、濡れた指先からの白葡萄の芳醇さを舐め取ったのだ。
「へぇ、お酒ってこんな味がするのね。私は飾るだけで飲まないのよ。」
彼女はつまらなそうに血の流れた顔を見下ろすと、その姿を意に介することなく青碧のマニキュアの見える細足で蹴り飛ばした。それから踵の高いミュールを履いた彼女の細足は床に優しく戻され、再び別の場所を求めて進み始める。そうしてミュールは彼の耳の上に乗せられ、不安定な足場で更に圧力を増したのだ。
「難しくはないわ、えぇ、お使いみたいなものだもの。しっかりと牢屋から絞首台に立たせて最後の一時を確かめる……そう、見届け人になるだけの。」
彼女は盛大に溜息を洩らすと背中に迫る眠たげな光を感じ、その魅惑に取りつかれたかのように明るい窓辺へと向かっていく。すると、彼女の歩みに従い無粋な硝子は独りでに開かれ、外の澄んだ冷気は自然と部屋に入り込んだのだ。そうして彼女は満月の凹凸に絵柄を思い、女神が宿る秘め事に細やかな幻を重ねる。
横たわっていたはずの彼は手を床についてのっそりと立ち上がり、星々を見つめる常盤色の瞳が自身に向けられることを恐怖した。しかし、彼女は窓枠に肘を乗せて満月の青白さを眺めるばかりで振り返ることはしなかった。もっとも、彼女の口が茫然さにつられて決して閉じられたという訳ではなかったのだった。
「その時の彼はね……多分、まだ夢の中なのよ。いつかは訪れる共鳴だったとしても、それまでは容易に始末できる千載一遇の好機だったわ。」
「で、ですが刑務官が丸ごと買収されていようなどとは。あの、代わりと言っては何ですが、彼の養父たる裏切り者のオスヴァルドはしっかりと。」
彼の発言に彼女は軽蔑した視線をもって振り向き、その後で常盤色は離れた棚へと静かに流れた。すると、それまで幕を引いていたはずの棚は震え始め、次々と混成酒の入った紫や橙の瓶を吐き出したのだった。それにより甘酸っぱいブッラクベリーとコケモモ、更にはチェリーまでの香りが白葡萄を押し返したのだ。
「貴方って、まるで言い訳する子供ね。その歳まで何を学んだつもりなの?」
彼女は視線の先を彼の怯えが滲む瞳から胸元に移し、腕を伸ばしながら手を僅かに握る動作へと傾けていく。彼女は全ての爪に塗られたマニキュアと同色の、青碧の不気味な口紅を片手でなぞるようにして触ってみせた。そして、彼女は艶めかしく彼に微笑みかけ、徐々に自身の手の握りの幅を狭めていったのだった。
そんな彼女の挙動に合わせて彼は胸を抑えて苦しみ出し、膝をつかんとしたその時に突風が部屋の中を吹き荒らした。そこで彼女は先程の窓辺に視線を戻し、揺れる長髪を通して窓枠に腰掛ける存在を捉えたのだった。その存在とは、濃すぎる紫の髪を両結びで縦に巻いた、ゴスロリ姿に身を包んだ少女であったのだ。
少女はどうやら飾り帽の位置が気になるらしく、斜めに被るための最適解というものを探しているようであった。しかし、そんな少女の懸念よりも彼女は衣装の輪郭ばかりが引っ掛かって仕方がなかった。数刻前に彼女が見た際に整っていたはずの装いが、今では何箇所もに引き裂かれたような解れが伺えているのだ。
「お帰りなさい、ヨハンナ。ところで、何があったのかは教えてくれる?」
「ただいま戻りましたわ、お姉さま。銀狼に手酷く噛まれましたの。」
「手酷くって……雷はとても相性がいいはずでしょ?」
「問題なのは赤い、えっと、赤い靄、じゃなくて……ひび割れですわ。」
ヨハンナは海上での出来事を想起しながら語りかけるも、彼女はいまいち釈然としない様子で話を具体化しようと努めていた。ヨハンナはそんな彼女を横目に窓枠から飛び下り、傷ついたまま直立する彼の下へと歩み寄る。そして、ヨハンナは衣服の汚れや硝子の破片、更には乾いた血色に憐れみを浮かべたのだった。
「申し訳ありませんわ。お姉さまったら、容赦をしないでしょう?」
「いえ、責は私にありますので……。」
「英雄は守られた存在でしてよ?そこに責を感じても仕方ありませんこと。」
ヨハンナはそう言うと彼の身体に手を添え、穏やかな光を全身にくまなく纏わせたのだった。それに伴い流れていた血や剥がれた皮膚は白煙を吹きながら元へと戻り、衣装の汚れは次第に浮き出すと床に降り注いだのだ。そんなヨハンナの行為を彼女は煩わしげに眺め、奥の壁に貼られた大陸図を漫然と目に入れた。
ヨハンナは彼女の視線に気が付くと、思い立ったように斜めの軌道で図面に近づいた。そして、ヨハンナは内海に繋がる海峡を指し示さんと、マーカーとしての役割を持つダーツの矢を他から取って刺し込んだのだ。そこでヨハンナは内海の上の陸地に刺されたダーツの矢まで、指先で曲線を描いてみせたのだった。
「実はお姉さま、あの銀狼が手当たり次第暴れた所為で偶然にも友軍の戦艦に被害が出てしまいましたの。ですから糸で海峡と結んでおきましたわ。」
「……そう、ヨハンナは優しいのね。でも、最初の行先は海峡じゃないわよ?」
「えっ……あの、それは、その、本当でして?」
「嘘じゃないわ。蛮族の土地で鉱石を削り取るらしくてね。運べないなら削って別の形で変異させようって魂胆なのよ、とても愚かだわ。」
彼女の話を聞いたヨハンナは海峡に向けて動き出した艦隊を思い、気まずそうに眉を曲げて押し黙った。それからヨハンナはどこからともなくフリル付きのレースの傘を取り出し、彼女のいる窓辺へと歩き始めたのだ。そんなヨハンナの肩に彼女は寸での所で手を掛け、焦る行為を留めるように振り返らせたのだった。
「お姉さま、今から糸を繋ぎ直しに行きませんと。」
「えぇ、分かっているわ。だからその前に私の祝福をね……もう、ヨハンナには危険な目に合って欲しくないのよ。少しでも力にならせて頂戴。」
彼女はそう言うとヨハンナの前髪を掻き上げ、その日焼けのない白い額に口づけをしてみせたのだ。青碧の口紅は額に残り続けるかと思われたが、その跡は不思議と肌奥に埋もれるように薄れていった。そうしてヨハンナは彼女に感謝としての笑顔を振りまき、後ろ向きで窓枠に飛び上がって腰を掛けたのだった。
そのままヨハンナは何もない背中に体重をかけて落ちていくと、ブーティーの紐の浮き上がりを最後に姿を窓枠から消していった。すると、いきなり上向きの気流が発生して硝子が揺らされ、ヨハンナは開かれた傘と共に上空へと浮遊していったのだ。そんな後ろ姿を眺める彼女は、片手だけで彼に退出を合図する。
それからすぐにダイヤル式の黒電話より呼び出し音が鳴り響き、彼女は震えるそれを不思議そうに見つめた。彼女は思い当たる節がないままの応答を嫌い、それ以上に自身に直接連絡を飛ばそうとした輩に苛立ちすらも覚える。それでも一向に止まぬ騒々しさを前に、彼女は退出を悩む彼に代わりの応対を指示した。
『……はい、こちら連邦総合指令室の議長秘書官です。』
『秘書官……いえ、失礼しました。私は王国軍所属のエグモント中佐ですが、冬砦に未だ王室独立第三分隊が到着していない件で、その……。』
『間に合わなければ予定通りで、間に合うのであれば武装を解除させた上で実行して下さい。我々の目的はあくまで幇助であることをお忘れなきよう。』
『……えぇ、そうでしたね、お手間を取らせてしまい申し訳ありません。それでは議長閣下によろしくお伝え下さい、失礼します。』
ほんの僅かな会話の往復が終わると彼は彼女を見つめ、取るに足らない内容を報告すべきか否かを考えた。彼女の意に少しでもそぐわぬことがあればと思うと、彼はどうしようもなく足が震えてしまうのだ。ところが、彼女は内容などを全く気にしておらず、壁に広げられた勢力図を目にしているばかりであったのだ。
「聞かないでも分かるわよ、そのぐらい。」
彼女は自身が壊してしまった棚の方へと向かうと、主に硝子の惨状や瓶からの酒気を対象に指をさっと振り上げた。すると、一帯の破片は前の蔦模様へと返り、水溜まりは瓶の中へと収まり全てが元通りとなったのだ。独りでに修復を遂げる様子は時間の逆巻きのようで、彼女は綺麗に並んだ色彩の飾りに納得する。
それから彼女は汚れのなくなった部屋に満足し、そこには一切の用がないとして退出せんと黒檀の扉まで歩き出した。そして、彼女は扉のノブに手を掛けてから不意に頼みごとを思いついて振り返ったのだった。彼はそんな彼女によってもたらされた危機に対し、告げられる内容に不安を煽ることばかりを想像する。
「ねぇ、代わりに電話してくれる?」
「それは構いませんが、一体誰に何をでしょうか?」
「砦の馬鹿の所為で思い出したのよ、教会のこと。」
「あちらには件の聖騎士がいるので恐らく。」
「いいのよ、それでも。錬金術師の存否だけで、よろしくね。」
彼女はそれだけを言い残して部屋から出て行き、彼は自身が一人だけ今に置かれた状況に安堵する。ようやく彼女の気分を害する報告から逃れられ、彼は保釈された事実に感動を覚えていたのだ。自身が要職と言われる役職に就けた過去の喜びは既に廃れ、日々を生き抜くことだけが彼の目下の仕事であったのだ。
彼は黒電話のダイヤルを回しながら、教会に派遣された部隊の結末というものを考えていた。彼らは噂の存否を確かめるためだけに死を掴まされた運命にあり、当初から故郷に帰れる期待などは少しも許されてはいなかったのだ。そんな哀れな彼らと比べれば恵まれている方と、彼は通話音の最中に幾ばくか思う。
『……私だ。至急、いや、やはり後回しでいい、教会の状況の確認を頼む。』
彼はその短い一言を伝えて電話を切ると、自身が途中で言い直した咄嗟の機転に自画自賛する。彼女の注文は次回の夢の踏み込みの時と彼は解釈し、彼女の現実の行方を頭の中で追いかける。きっと戦争もなく、豊かで実りある希望の世界の住人なのかもしれないと、願望を込めて彼は統一された大陸を仮想していた。
登場人物について
彼女……連邦総合指令室の議長。薄雲色の長髪。常盤色の瞳。口紅とマニキュアは青碧色。
彼……連邦総合指令室の議長秘書官。
ヨハンナ……ゴスロリ衣装。紫の両結びで縦巻きの髪。




