10. 船外に奔る稲妻
夏虫色の壁には白布に覆われた寝床が寄せられており、その壁伝いには申し訳程度に丸窓が張り付けてあった。そこから差し込まれる光は薄く、蒸栗色のカーテンが開かれていようと濃藍の景色が光沢を増すわけでもなかった。それがいつからであるのかは忘れられ、出航以来の飽和ばかりがここに置かれていたのだ。
そんな船室の中で片頬を机につけるファビアーノは、数歩分だけ離れて腰掛ける女性に目を向けていた。彼女は丈の長い紺の上に白練の革ベルトを巻いており、それに合わせられる形で真白なズボンが所属を誇らしげに告げていた。そんな彼女は足を組んだ姿勢を崩さず、綺麗になった自身の珊瑚の爪を見つめている。
「あの~、これって……同行ではなく監禁ではありませんかね~?」
ファビアーノは焚きつけるような調子で話しかけるも、彼女は相変わらず椅子に座ったまま爪を研いでいた。言葉の残滓が漂う静寂にファビアーノは気まずさを感じ、遂には唯一の暇つぶしたる壁掛け時計に手を付ける。すると、ファビアーノは無音のまま回帰する針に習慣を急かされているような気分になったのだ。
「そうだ、お姉さんなら晩御飯の献立が分かったりして……。」
「知るか、そんなもの。お前は犬の餌でも食べていればいい。」
彼女の言葉の刃に心を傷つけられたファビアーノは、わざとらしく胸に手を当てて苦しんでみせる。しかし、彼女は少しも気に留めていないようで、ファビアーノは自身の演技の下手さに顔を素に戻していた。次にファビアーノは机上に散らかる文具を眺め、毎夜の癖から紙に何かを綴らんとペンを手に取ったのだ。
すると、彼女は椅子をファビアーノの隣に移し、検閲を行うために端正な顔を紙に近づけたのだった。ファビアーノは珍しい彼女の変化に悪戯心を刺激され、ペンをもって不遜さを挫く民衆の狼煙をすぐに企んだ。それはつまり、一枚の紙に【馬鹿】と記載し、覗き見る彼女を揶揄ってみせることであったのだった。
もっとも、その二文字を見た後のことは予想通りで、忍び笑っていたはずのファビアーノは気が付けば天井を眺めていたのだ。彼女に襟元を掴まれ押し倒されたのだと、今になってファビアーノは見逃した事実を考える。しかし、顔に掛かる紫烏色から洩れる感情にファビアーノは妙なちぐはぐさを覚えたのだった。
「あぁ、これでやっとお前を絞めることが出来そうだ。幸い私は身一つでな、ゆっくりと泡を吹くまで海軍の流儀で落としてやる。」
「い、嫌だな~、冗談ですよ、冗談!ねっ、考え直しましょう?」
「先輩に頼まれたから仕方なく請け負ったが……こんなご褒美が貰えるなんて、先輩に、いいや、神様にだって感謝をしなくては。」
「ちょ、ちょっと、ほんのちょっとだけ待ちましょう!ほら、これから十字を切りますから僕の反省に主は許しをって、苦しい、苦しい!!」
ファビアーノは自身の身体を抑えつける腿を叩いて降参を示すも、彼女は興奮が冷めずに首に圧力をかけ続けていた。彼女は若干に火照った顔を見せており、そこにはある種の嗜虐性が伺える。そんな彼女にファビアーノはようやく不一致の意味を理解し、抵抗を試みようとしたその時に船室の扉が開かれたのだった。
後方よりもたらされた開閉音に彼女は正気に戻ると、ゆっくりとした所作でファビアーノから身体を離していく。そして、彼女は言い訳混じりに振り返り、食事の乗ったトレーを持つルッジェーロと目を合わせたのだった。ルッジェーロはそんな彼女の様子から事を悟り、衝動に駆られ易い心の起伏に長嘆してみせた。
「後ろに下がれ、フランカ。彼は私たちにとっての客人だ。」
フランカは渋々扉まで歩くとそこに背をもたれ、トレーを運ぶルッジェーロの姿から視線を外したのだった。そんなフランカには不満げな空気が漂っており、それはファビアーノにとっては久しぶりの娯楽に違いなかった。しかし、その高ぶりすらもトレーからの懐かしい香りにすぐに覆い隠されてしまったのだった。
「随分とお待たせしました、ファビアーノさん。今晩は豪華ですよ、ブルスケッタにミネストローネ、サルティンボッカからカプレーゼまでとは。」
「あ~、惜しい、あと一手のデザートさえあればフルコースの完成というのに。海軍が贅沢をしているなんて国民が知れば怒られますよ~?」
「いえいえ、ファビアーノさんの往復便だけですよ。皆さん、また来てくれと大変喜んでいました。何しろ……費用は新聞社がもってくれるそうなので。」
ファビアーノは厭そうに溜息を洩らし、テレンツィオが金を出した理由に今でも納得してはいないようであった。もっとも、その思いとは裏腹にファビアーノは二つのことだけに関しては感謝をしていたのだ。それはテレンツィオが駆逐艦とは思えぬ広々とした船室と経験できぬ船酔いを与えてくれたことにあった。
そんなファビアーノは前菜であるニンニクの溶けたパンを手に取り、のせられた生ハムとオレガノを黙々と口に入れた。その後はトマト主体の野菜スープに味を変え、主菜の二品目たる仔牛肉に目を向けたのだった。バターと白ワインの残り香は格別で、悔しい程に味の染みた蕩け方には評する価値があったらしい。
ルッジェーロはそんな食事風景を眺めながら、後ろにいるフランカに視線だけで食堂に行くように語りかけた。しかし、フランカは強情にも首を振り、拗ねた子供の如く足元を向いたのだった。ルッジェーロはフランカに仔牛肉にありつける贅沢を伝えようとするも、彼女の生真面目さを意識して取り止めてしまう。
「それで、カメラはいつ返してくれるんですかね~。」
「陸に上がったら返しますよ。この艦内にも機密事項はありますから。」
「今更で構いませんけど、古代鉱石の方は……。」
「えぇ、約束は守ります。本当にヤン・レーマンが所持しているので?」
ファビアーノはオリーブオイルの塗られたトマトを含みながら、黒胡椒の痺れを舌全体で味わうように二回ほど頷いてみせた。バジルに垂れていた早苗色はモッツァレラまで緩やかに及び、塩の結晶は次々と溶かされていく。そして、水牛の乳より生まれた真珠の色彩はフォークの銀面に照らされることとなったのだ。
「まさかカミラ・クレインの銃に第四式が備わっていたとは。」
「そんなに感謝するのであれば、もっと教えてくれてもいいんですけどね~。例えば作戦の内容や教会の現状……更には人体錬成、とか。」
最後の一言にルッジェーロは驚きで目を見張る一方、後ろに控えていたはずのフランカはファビアーノの所まで歩み寄っていた。そして、フランカはそのままファビアーノを掴み上げ、今度は冷静かつ正常な脳で首を絞め始めたのだ。そんな中でフランカは背後を振り向き、ルッジェーロの瞳を強く求めたのだった。
「駄目です、先輩、どうか私に殺せと一言命令を。」
フランカはルッジェーロに判断を委ねつつも、僅かに心の奥底で望む殺人への衝動を抑えきれずにいるようであった。それは震える指先から瞳孔の開き加減、口角の上がり具合といった細部にしか表れてはきていない。ファビアーノはそんな些細な変化に危機感を抱きつつ、自身の歯に仕込まれた薬剤の使用を考える。
しかし、その決断の一歩手前で船体が突如の横揺れに見舞われ、ファビアーノはフランカより離れることとなったのだ。その揺れ方は明らかに波によるものではなく、偶発的な岩礁との衝突によるものですらなかった。それだけに、その揺れが収まった後で時間が止まったかのように軍人の二人は固まったのだった。
ところが、暫しの時を置けども何も起きることはなく、ルッジェーロは気を抜くように真空の中で深く息を吐いたみせた。すると、その途端に上部より爆発音が木霊し、振り子の如き左右の大揺れが彼らを襲ったのだ。そして、遅れて廊下中に警報音が響き渡り、何度も同様の激しさが彼らを壁に打ち付けたのだった。
「くそっ!フランカ、外だ、外を早く!!」
「はいっ!」
フランカは慌てて丸窓まで駆けようとするも、寝床に上がったところで再度の横薙ぎに身体を壁に叩きつけられてしまう。それでもフランカは窓枠に手を伸ばし、船外の事象を確かめんと顔を持ち上げた。すると、窓奥では何本もの光柱が伸びており、絡めとられた獲物のように閃光が濃藍上で抵抗を見せていたのだ。
「どうした、フランカ!報告をしろっ!!」
「雷が、雷が大量に落ちています!それに稲妻が海を……。」
フランカは海上に迸っていた稲妻の突然の収束に唖然とし、静まり返った雷雲に朱色の拡大を補足する。それは怒りの増幅と同じく鬱憤を搔き集めており、徐々に静脈血のような赤黒い放電を始めたのだ。そして、その膨らみが耐えきれずに垂れようとする様を見て、フランカは破裂する姿を予見し後ろを振り返った。
「魔力波警戒!対爆防御姿勢!!」
その叫びが、その単純な号令だけがフランカに出来た唯一の行いであった。船室から出ている時間は最早どこにもなく、海原に取り残された船体には逃げる場所などあるはずもない。フランカの警鐘を聞いて部屋の二人は訓練されたように床に飛び込み、耳と頭を手で覆い口を開けた次の瞬間に全ては起こったのだ。
溶岩の如き粘性が作り出した逆さ円錐は雷光の一線を放ち、穿たれた海は弾力の凹みをもって獣の咆哮を跳ね返す。放射状に撒き散らされた朱色の靄は濁った電閃を伴い、その軽さにそぐわぬ高熱の衝撃を艦隊に差し向けたのだ。そして、宣告もなく一斉に吹き飛ばされた横腹の瓦礫の下に彼らは埋もれたのだった。
登場人物について
ファビアーノ……新聞記者。
(テレンツィオ……新聞社の室長。)
ルッジェーロ……少佐。茶褐色の髪。共和国の若獅子。
フランカ……海軍所属。紫烏色の髪。
(カミラ・クレイン……少尉。一つ結びの栗毛色の髪。)
(ヤン・レーマン……政治将校。眼鏡を掛けている。)




