1. 牢屋の景色にて
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砂のように乾ききった煉瓦の壁は色褪せ、所々に形すらも忘れた綻びが見受けられる。湿り気のない狭い空間を塵埃が埋め尽くし、息苦しさの具現化とも言えるその場所は、紛れもない牢屋であった。そこには冷淡な金属の鎖で壁と両手首を繋がれた青年が囚われており、身動きのない軍服姿の彼は人形でしかなかった。
窓のない牢屋の景色はどの部屋も似たようなものであり、尤もらしい違いは罪人の性質に依るところが大きい。つまりは、衣服の種類、獄中の自由、食事の程度といった扱いの差だけが景色を彩る要素であったのだ。しかし、囚われている青年は他の罪人と比べ、もう一点ほど誰しもの目に付け加えられるものがあった。
その誰しもに当たる一人が現れたのは、恐らく、久々の出来事であったに違いない。甲高い接着音が青年のいる牢屋の前で止まると、獄中の者たちは関わりのない青年のことを耳からのみで哀れんだのだった。彼らは時間外に稀に訪れる誰かの意味を理解し、善良の心をその度に浅はかな偽りと分かって釘打っていたのだ。
「人は獣であってはならず、まして、それに近づくことは愚行ですらあると私は思っている。ヴィルベルト准尉、機会があれば人に戻りたくはないか?」
ヴィルベルトは名前を呼ばれたことに反応し、僅かに顔を上げながら身じろぎをしてみせた。その際に、分厚く重い鎖は地面をゆっくりと這い、音を鳴らすことでヴィルベルトの生存を強く主張したのだった。それから両者は一枚の布を隔てて見つめ合いつつ、交互に震える呼吸音をその場に積み重ねたのだった。
「人の親を殺した挙句にここまで差別して……反省もせずに今度は徴兵か?」
「徴兵などではなく、私からの個人的な引き抜きだ。それに……。」
彼女は防寒具に潜めていた紙束を取り出し、それらを鉄格子の向こうへと投げ入れる。折り畳まれた幾枚の紙には署名の跡としてのインクが滲んでおり、一切は軍部の仕来たりとしての指令書に他ならない。更に言えば、特殊蛍光の混ざった紙質というだけの情報が、端的にヴィルベルトに絶望を告げていたのだった。
ヴィルベルトは両目に巻かれた黒い布を通して、その紙質の発色から文字列を読むことなくして中身を悟っていた。無論、殊更にそのような眩さが強調されたわけではなく、客観的には微かに光加減や紙質が異なる程度の違いでしかなかった。しかし、ヴィルベルトの目には他者と同じようには映らなかったのである。
「准尉の運命はあろうことか勝手に決められたらしい。このままいけば明朝に死刑が執行されることになる。そこで、私からの提案というわけだ。」
「……どうせ生きていても俺の扱いは変わらない。死んだように生かされて、そこに何の意味があるんだ?このまま楽に、静かに終わらせてくれ。」
「なるほど、それが准尉の答えか。それでは准尉を育てたオスヴァルト・ノイヤーという男は……自己犠牲を勘違いした愚か者であったわけだ。」
その時、ヴィルベルトのいる牢屋の気配が一変したのだった。地下の寒さは突然の熱気に上書きされ、牢屋内に立ち昇った陽炎が輪郭のある景色を左右に大きく揺れ動かしたのだ。それはヴィルベルトを中心として巻き起こった激情の発露と言うべきものであり、その対象は毅然としたままの彼女に向けられていた。
彼女は編み込んだはずの金糸の乱れを気にしながら、紙煙草の入った銅製のケースと銀で塗装されたガスライターを取り出した。種類の異なる紙煙草の中から気分に合う味を選択した彼女は、その一本を咥えると慣れた手つきで紙煙草の先に火を灯してみせる。紫煙が吐き出されたのは、それからすぐのことであった。
鉄格子に手を掛けながら、彼女は壁を背に座り込んだままのヴィルベルトを見下ろしていた。それも漠然にではなく、彼女は布の奥に隠されたヴィルベルトの右目に視点を固定していたのだ。彼女は事前の資料で確かめた生い立ちから投獄までの情報を反芻しつつ、再び柑橘系の甘すぎる紙煙草の煙を深く吸い込んだ。
「准尉、自己犠牲の美学を知っているか?それは精神的快楽に溺れることでは決してなく、徹底的に計算し尽くした損得の追求……すなわち合理性を指す。」
「ふざけるな!俺の父親が庇ったのは自己犠牲なんかじゃない!!」
「落ち着け、准尉。情愛といった曖昧な言葉は軍属の者たちには通用しない、私はそう言っているだけだ。それに……私は准尉の父君をよく知っている。」
口を濁すように語尾を窄めた彼女は、紙煙草を挟み持っている方の手で合図を監視側に送ってみせた。すると、牢屋の鍵が信号音に添って自動で開けられ、彼女は躊躇なく熱気の中枢へと足を踏み入れたのだ。そして、彼女を取り巻くように不規則に対流し始めた紫煙は薄っすらと彼女と同化していったのだった。
「今から准尉の布を外してやる。いいか、絶対に私の手を火傷させるな。」
彼女の有無を言わせぬ圧力に、ヴィルベルトは思考する余裕を奪われてしまっていた。彼女は熱の放射が徐々に弱まっていくのを受けて、両目を塞いでいた特殊繊維の布を無造作に取り外す。そこでようやく姿を見せたのは、ヴィルベルトの黒い髪色とは不釣り合いなくらいに透明感のある翠色の水晶であったのだ。
彼女は循環の偏った非対称な色合いに満足すると、右目だけに埋め込まれた翠色の瞳を注視した。その一方、ヴィルベルトは自身の瞳に映り込んだ彼女の気品さに息を呑んで固まってしまっていた。烏羽色の素地に黄金の刺繍が施された礼服は、彼女を泥臭い軍人像から切り離すのに十分すぎる程であったのだった。
「やっと本当の意味で会えた気がするよ。私は本日付けで少佐になったマルグリット・ヴィンターだ、そして恥ずかしながら冬が大嫌いときた。」
「……はっ?」
「そこは笑うところだろう?冬を意味する家に生まれておきながら寒がりでね、それを上は知っていて冬砦に左遷させるとは……。」
マルグリットはヴィルベルトから視線を外し、そのように話しながら軍靴の裏で砂塵を払いのけた。そして、幾分か座り心地の良くなった場所にマルグリットは腰を下ろすと、ヴィルベルトの隣に並んで壁に背を預けたのだ。それから藤の瞳は紙煙草に溜まった灰屑だけを見つめ、それが零れ落ちるのを待ち続けた。
「話を戻すが……全ては上が論理の牙城を住処としたことにある。定義できる言葉に汚れがないからこそ、彼らにとって都合がいいというわけだ。」
「だとしたら、あんたはどうなんだ?あんただって佐官のはずだ。」
「あんたではなく少佐だ、敬称ぐらい習っただろう?私は生まれから比較になどならん、それに今は説明の最中だ。それとも、軍人の訓詁を忘れたか?」
「ったく、面倒だな。それでは少佐殿、続きをどうぞ!」
当て付けるように言ったヴィルベルトに対し、マルグリットは横目で見るだけで少しも意に介することはなかった。それからマルグリットは紙煙草に口を付け、天井目掛けて紫煙を引き伸ばして吐き出してみせたのだ。ヴィルベルトはそんな蛇行する煙を眺め、その時のマルグリットの真意を推し量りたく感じていた。
「彼らが准尉の父君をどう捉えたかだが……それは徹頭徹尾、それも間違えようもない程に自己犠牲という言葉に完結する。もっとも、彼らは自己犠牲など嫌っておらず、むしろ愛していると言ってもいいだろう。それが何故か分かるか?」
「……あぁ、なるほど、自分よりも俺を優先させた合理性に感動してるってか?それを守るために死ぬこと否定し、屑共に媚を売る道化をしろと?」
マルグリットは黙って立ち上がると、短くなった紙煙草を地面に捨てて軽く踏み潰した。煙の消えた牢屋内の景色は、その限りにおいて時間が止まってしまったかのようですらあった。マルグリットは衣服に付いた埃を叩いて掃おうとするも、白い靄のような擦れた汚れが少しも取れずに不満げな顔をみせている。
翠色の瞳はマルグリットを追いかけ、地に転がった紙束を手に取る映像を記録していた。マルグリットは折り畳まれた紙束を広げ、端を揃えながら一枚の厚紙に変えていたのだ。ガスライターが再び取り出された意味をヴィルベルトが思案しようとした時、マルグリットは徐に彼に目を合わせて口を開いたのだった。
「父君の行為を賞賛に値せしめるか、それとも嘲笑の的に置き換えるか。要は、准尉の選択次第で価値は決まるということだ。それで……返答は如何に?」
マルグリットの視線はヴィルベルトの表層から深層の細胞にかけて、身体の隅から隅までと言い得る全てに向けられていた。そして、身体中の反応がただ一つの方向を得た時、ヴィルベルトの答えは決したのだ。その意思は灯される火から隠れることをせず、燃え上がる炎と一体となって軍の決定に抗ったのである。
紙束に空いた穴は黒く焦げた縁を広げ、遂には散りばめられた形として原型を失わしめた。マルグリットは腰に下げていた鍵をヴィルベルトに投げて渡すと、続けて腕時計に表示されている針の位置を確かめた。マルグリットは何かを待ち望んでいるようであり、始終短針が発する機械音に傾聴してばかりいたのだ。
短針が文字盤を回り終えた丁度その時、どこかで扉の開いた音が廊下中に響き渡った。それから聞こえてくるのは重々しい軍靴による足音であり、その踏みしめる深さが人物の全体像を想像させた。そうして軍帽を被った男性がマルグリットの前に現れると、提げていた箱型の鞄を下ろして敬礼をしてみせたのだった。
登場人物について
マルグリット・ヴィンター……少佐。金髪、藤色の目。
ヴィルベルト・ノイヤー……准尉。黒髪、隻眼(片方黒色の目、片方翠色の目)。
オスヴァルト・ノイヤー……地位は現在不明。ヴィルベルトの父親。
最後の男性……次回判明
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