長女の転機
セシリア・ルディリア・ロブウェルは父の執務室の前で小さくため息を吐いた。
この国の宰相として、多忙を極める父がセシリアを執務室に呼び出す理由は、大抵はろくでもない用事だ。
母を独り占めするために、母に一切相談せず勝手に祖父母に話をつけ、ひと月も祖父母の住む別邸に子供4人を行かせ、母の雷が落ちた時。
母と2人きりで過ごすために、領地の中でも1番美しいとされる湖のほとりに、王宮もかくやというほどに美しい白亜の城を建て、清貧を尊ぶ母の機嫌を盛大に損ねた時。
母にプレゼントしたくて国中から集めたドレスやアクセサリーを、なかなか渡すことができずにため込んだ部屋を見つかり、愛妾がいるのではと母に疑いの目を向けられた時。
ここにセシリアが呼ばれる理由は大抵そんな、首を突っ込むと馬にでも蹴られそうな理由からだ。ため息が出てしまってもしかたがないだろう。
いつもは目を背けたくなるほどに愛し合っている両親だが、一度何かあると毎回母に取り成すのは自分だ。いい大人なのだし、国の宰相でもあるのに、妻の機嫌を損ねることに大変臆病で、面倒なことこの上ないが、ここでセシリアが何とかして母に取り成さなければ父の仕事が滞る。静観した結果、父の同僚やら文官たちからの陳情がセシリアの元に寄せられ、結局セシリアが解決に乗り出さなければならない。
前回、愛妾が疑われた時には、珍しく母が父と顔を合わせず実家に帰るという強行手段に出てしまい、父は全く使い物にならず、同僚どころか王宮から呼び出しが来て、国王陛下からも何とかするようにとの命が下ってしまった。
近衛兵の皆さんの生温かく励ますような視線は2度と忘れられない。
たった15歳の小娘に宰相を託すってどんな国だと思わない訳ではないが、普段は賢王の元で冷徹な宰相として辣腕を奮っているらしいので、我が国はここ20年近く戦争も無くとても平和だ。
母も貴族の立場や父の仕事についても弁えた人なので、大抵はパフォーマンスに近く、父がちゃんと反省しているようならすぐに元通りになる。
父親譲りの美貌をわずかに陰らせ、もう一度小さくため息を吐くと、意を決して書斎のドアをノックした。
「入りなさい。」
ちゃんとした返事があったことに驚いた。いつもは憔悴し過ぎて返事がないか、あっても聞こえないくらいのものだから。
「失礼いたします。セシリアです。」
「ああ。少し長くなるから、そこに座りなさい。」
そう言うと、自分はセシリアの正面に座り、メイドに飲み物を言い付けた。
これは母に関することではなさそうだ。セシリアの好きなコーヒーが置かれると、父は全く衰えることのないその美貌に何の感情も乗せず、セシリアを見た。これは宰相として仕事をしている時の顔に似ている。
居住まいを正してセシリアが父を見返した。
「セシリアに縁談の話が来ている。」
この時が来たか。正直にそう思った。両親のような相思相愛の恋人のような夫婦は貴族では難しい。ましてや自分の父は遠いながらも王位継承権を持つ公爵家だ。もっと幼い頃に婚約の話が出なかったのが不思議なくらいだった。
「かしこまりました。」
「いや、まだ決定ではない。私の話を聞いてから、断っても構わない。」
てっきり決定事項だと思ったが、そうではなかったらしい。
とりあえずセシリアは話を聞くことにした。
「相手は、隣国のリンダブルク王国の王弟だ。相手からセシリアを指名してきた。彼は次期国王となるから、王妃として望まれている。」
セシリアはリンダブルグ王国に関する知識を脳内から引っ張り出した。
確かこの国の南側に位置する国で、この国よりも少し規模は小さく、人々の見た目は同じ様に見えるが、公用語が違う。王族と公爵家は一夫多妻が許されている国だった気がする。
それと、20年ほど前、前国王の治世下で王位継承争いが起こり、側室や王子、王女たちがほとんど亡くなり、残ったのが現国王と歳の離れた王弟で、王妃は昨年儚くなり、現在は側室が1人。現国王には側室との間に王太子が1人いたはずだ。俺様といえば聞こえはいいが、いささかガサツな印象の王太子だった記憶がある。
「知っていると思うが、彼の国には王太子がいた。だが、彼は国内に小さくはない混乱をもたらしたことで、廃嫡となり幽閉されている。責任を取って近いうちに王は退位し、気を落とした側室はそのまま気を病んで儚くなる予定だ。」
セシリアはす、と目を細めた。
予定ということは、それは病死に見せかけた処刑と同じだ。
「お父様、質問してもよろしいですか?」
「ああ。できうる限り答えよう。」
「ありがとうございます。
それで、わたくしが嫁ぐことに対する見返りは?」
父の顔がこの時初めて歪んだ。母が1番だとはいえ、子供たちを愛していないわけではない。実際、今までの国内からの縁談はきっと父が握り潰していたのだろう。父とはまるで性別を入れ替えた生き写しのようだと言われるセシリアだが、父の目からは母にそっくりに映るらしく、幼い頃からここが母様に似ている、あそこが似ていると言っていた。だからこそ、取引のような形での婚姻に思うところがあるのだろう。
この話がセシリアにまで来た時点で、父では握り潰せず、尚且つ国に相応の見返りがあるのだろうと考えた。
「主なものは最近見つかった鉱山からの宝石の加工品の優先的輸出。それと、隣国で近年始まったコーヒー豆の安定量の輸出。更には、二国間での輸出入に関して段階的に関税を落とし、隣国の港から我が国までの陸路を整備し、他の国々への輸出入の円滑化だ。これにより、我が国は隣国のもつ世界拠点の港を利用することができる。」
それはまた随分とこの国に有利だ。その王太子のしでかしたことか、王弟に何かあるのだろう。
「お、王弟殿下に特殊性癖があるとか…?」
「どこでそんな言葉を覚えたんだ!」
突然大きな声を出され驚いたセシリアを見て、父は咳払いをした。
「いや、王弟はまともだ。年は26。わたしも面識があるし、隅々まで調べさせたが、借金や隠し子どころか懇意にしていた女すら出てこなかった。おかしな趣味もない。どうも、過去の王室での争いを見ていて、王太子に子ができ、継承権が安定するまでは結婚しないと公言していたらしい。
現国王の対抗馬として擁立されないように、外交官としてずっと外国を回っている。国に戻るのは建国祭と国王の生誕祭くらいという徹底ぶりだな。もしセシリアが嫁ぐ場合、側室は置かず、妃は王妃になるセシリアのみだと言っている。」
父が隅々まで調べて何もなかったのなら、本当に身辺は綺麗なのだろう。
セシリアも社交デビューしてから、一度見たことのあった隣国の王弟の顔を思い浮かべた。濃茶の少しウェーブのかかった髪に、小麦のような金色の瞳で、人好きのする笑顔の男性だった。
「それだけ良い条件なのであれば、わたくしも貴族の娘。謹んでお受けいたしましょう。」
そう言うと、父はこの世の終わりを見たような悲壮な顔になった。
母の機嫌を損ねた時以外でなかなかお目に掛かることはない父のその表情に、つい顔が緩んでしまった。
「わたくし、オーラリア王国の氷の魔王と春の女神の娘ですもの。きっと立派にお役目を果たしますわ。」
にこりと笑いかけると、今度は父は目に涙を浮かべて肩を震わせ始めた。
そしてセシリアは、珍しく自分のために憔悴する父を慰めることになったのだった。