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警告にまったく反応が出来ていないロゼの背後、階段近くには一つの人影が動いていた。いち早く気付いたハジャルは警告と同時に人影に向かってナイフを投げる。狙いは寸分も狂うことなく飛んでいき、かん、と乾いた音を立てて確かに突き刺さる。しかしそれでも人影は動きを鈍らせることなく、間近に迫ったロゼを攻撃し始めていた。
ようやく硬直が解けて事態を理解したロゼが叫んだ。
「ギーレイ!」
目前に迫る敵はこの遺跡のように赤黒く、一見すると人のようだった。しかしその敵に目や口といった部位はなく、胸に突き刺さるナイフからは血の一滴もこぼれてはいない。かたかたと球状の関節からは音が鳴り、手には木の剣を握っている。それはギーレイという魔法で命令を埋め込まれて動く自動人形で、マルタが事前に知らせていた敵だった。
焦るロゼは咄嗟に振り下ろされた木剣を避け、斧でギーレイの胴を強く打った。たん、と良い音が響き斧は深く突き刺さる。しかし痛みを知らないギーレイは怯むことなく行動を続けた。可動域の限界も疲れも存在しないギーレイは体に斧を食い込ませたまま止まることない連撃をロゼに繰り出す。堪らずロゼは抜けない斧を手放し距離を取ろうと動いた。
すべては油断が招いた結果だった。若さゆえの傲慢や木製人形風情という驕り。それらはロゼの判断を著しく鈍らせていた。ギーレイは命令に忠実故にその隙をただ淡々と突く。両手に持つ木剣のうち、投げ放たれた左手の木剣はロゼの腿を強く打ち、動きが鈍った間に距離は無くなる。再び硬直するロゼの眼前には残る右手の木剣が迫っていた。
ごう、とロゼの目の前を嵐のような音が響いた。それはグリューズが放つただの剣風だった。分厚く長い大剣はただの一太刀でギーレイの左手と頭を切り飛ばし、態勢を崩して倒れ伏す。それでも人形は止まらない。頭と手を切り離されてなお硬直するロゼに向かって這っていく。
「<実れ>」
立ち上がろうとするギーレイの体に計算したかのようにいたマルタが触れる。そして少なくない魔力を宿したマルタの力の言葉はただちに効果を発揮した。ギーレイの内に潜む命令は上書きされ、忠実故にすぐさま実行される。ぎちぎちと絞られるように人形はねじ曲がり、足からは根をはろうと根っこが伸びていく。やがて伸びる枝には一つだけ赤黒い果実が実り、その実が大きくなるにつれて人形は白く色を失っていく。そして最後に一本の白い木のようになった人形は果実を地に落とし枯れ果てた。
マルタは落ちた果実を懐にしまいつつまだ呆然としているロゼを見た。マルタを見る目には既に疑念や驕りの色はない。経験豊かでない若者にマルタの特殊で強制力の強い魔法は刺激が強すぎた。自分もこのギーレイのように木に変えられた挙句に枯れるのではないかという恐れと畏怖を持っているのは誰の目から見ても明らかだった。勘違いしているならばちょうどいいと、マルタはようやくおとなしくなったことを内心喜んだ。