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煙が晴れたとき、怪物はやはり健在だった。槍は確かに刺し貫いたのだが、平然とマルタに向かって歩きだしたのだ。深く己の顔を穿つ槍を抜き、傷はみるみるうちに塞がっていく。怪物は変わらず笑みを浮かべていた。しかしそれは嘲るような冷笑ではなく、興味に近しい感情を含んだ笑みだった。
油断なく構えていたというのに、不意を突かれたのはまたしてもマルタだった。瞬く間に距離は詰められる。
「<驚いた。よく見ればなかなか良いものを持っているのね>」
接近した怪物からは恐ろしく滑らかな発音で力の言葉が発せられた。マルタは怪物が話し始めたことに驚くよりも脳に意味を叩き込まれるような感覚に暫し酩酊したような気分に耐えるのに必死だった。しかしそんなマルタなどお構い無しに怪物は話し続ける。
「<ふふふ、アナタの存在はワタシたちに近い。面白い、魔力の質が人間のものじゃないわね>」
自身から抜いた槍を恍惚の表情で眺めながら言う。怪物を刺した三又の槍はマルタから与えられた魔力と怪物の血に混じった魔力によって暴走を始めていた。蛇のようにのたうち、次第に大きく太く変形していく。
ようやく酩酊が引いて思考が定まったマルタは言葉を選んだ。理性があり、知性があり、言葉を話せるのならば戦わずにすむ道もあるかもしれない。一縷の望みをのせて言葉を発する。
「ねえ、怪物さん」
「<ふふふ、そのあだ名もいいけれどできればワタシのことはメイデンと呼んで欲しいわ。ああ、けれど決してスキュラとは呼ばないで>」
なおもマルタにゆっくりと近付く怪物、メイデンはくるくると槍を弄びながら優しく、しかし最後だけは底の見えない闇のような暗さで言った。自然と握る手に力が入り、固唾を呑む。こんなものと近しいなんてどんな冗談だと叫びたい気持ちを抑え、遮られた言葉を再び続けた。
「じゃあメイデンさん。もう一度封印されてもらうのはどう。なんだったら都市から遠くに行ってもらうのでもいいんだけど?」
「<ああ、ああ。それは駄目よ>」
もう、後一歩か二歩踏み込めば槍が届く間合いにまで来ていたメイデンは聞き分けのない子供に言い聞かせるように大きく体で拒否を示す。
「どうして?」
「<ふふふ、ねえ知っていた?>」
そう尋ねるメイデンはこれまでの感情的な反応や表情をすっと消し去って、遠く先を見て話し始めた。
「<昔々、この草生い茂る平原は水で満ちていたの>」
その昔がマルタの生まれた百年近く前などという単位でないことは明白だった。百や千ではきかない昔、幾度と滅んだ文明時代という単位の昔だろう。少なくともマルタはこのエテニティが海や湖だったという記録は知らなかった。
「<ワタシが封印された頃、ここは海だったのよ>」
そう笑って語るメイデンの顔に宿るのは喜びではなかった。懐古、悔恨、そして僅かな怒り。
「<今ではワタシという一帯の海の主を失ったせいで、そしてワタシを封じた獣王によって陸地になってしまったようだけど>」
元はワタシの土地なんだから、また沈めてもいいわよね、と怪物は冗談のように、しかし冗談ではすまない威圧感を伴って槍をマルタに突きつけた。メイデンの血を啜った槍は禍々しく変形し、三つの穂先は捻れて交わり一つの大きな穂先になっていた。
「申し訳ないけれど、もうここは僕らの土地になったんだ。沈めてもらっては困るよ」
長話のお陰か覚悟と準備を整えられたマルタは笑みを浮かべて穂先に触れた。それだけで槍は枯れ果ててメイデンの手から腐り落ちる。マルタはベスティアほど未熟ではない。己の扱うものの危険くらい十分に承知していた。
「<ああ、ああ、残念ね。たぶんアナタはもうこの世界に数少ないワタシたちに近しい者。植物を操るアナタと水を操るワタシはきっと仲良くなれた。でもだからこそ手加減できないわ>」
言うや否やメイデンは内に秘められた魔力を解放した。呼応するようにマルタの魔力も溢れだし、二つの魔力がぶつかる。
歌うように笑いだしたメイデンの体からはぶくりと音を立てて水が涌き出ていた。魚の下半身からは鞭のようにしなる触手が六本伸びて、その先には六頭の獣が生えている。交渉は決裂。これまでのお遊びのような技ではない本気になった怪物がマルタを襲いかかる。




