◆第八話『試験のあと』
演習場に響くノアズの宣言。
いますぐにでも飛びあがって喜びたい。
だが、いまは体中が痛くてそれどころではなかった。
ルカはその場にどすんと座り込んだ。
「ルカくんっ」
キアラが叫びながら駆け寄ってきた。
そのまま勢いよく抱きついてくる。
初対面からやけに距離は近かったが……。
それでも抱きつかれるのは初めてだった。
「せ、先生っ?」
ルカは思わずうろたえてしまう。
だが、キアラはこちらの動揺などお構いなしだった。
ぎゅうと回した腕にさらに力を込めてくる。
「よかった……本当に良かった……」
どれだけ心配してくれたのか。
それがありありと伝わってきた。
久しく感じていなかった温かみだ。
ずっとこうしていたい。
そんなことを思うが、問題があった。
いまも体に押し当てられているキアラの胸だ。
その大きさは彼女の包容力相応に豊かだった。
おかげで意識せずとも容易にその弾力を感じられる。
加えて髪に紛れて漂ってくる甘い匂い。
いまもかすかにこすれ合う柔らかかつ、なめらかな頬。
そうしたキアラの女性的な面を肌で感じ、なんだか急に恥ずかしくなってしまった。
「先生……ちょっと痛いです」
「ご、ごめんなさい」
キアラが慌てて離れる。
途端に体が冷えたような気がした。
少し残念なことをしたかもしれない。
そんなことを考えつつも、ルカは息を吐いて気持ちを入れ替えた。
真っ直ぐにキアラを見据えながら言う。
「先生、俺やりました」
「ええ……見ていましたよ。最後まで諦めずに本当によく頑張りましたね。さすがわたしの弟子です」
キアラが誇らしげに微笑んだ。
初めはただ学園に入りたいがために頑張っていた。
だが、途中からべつの目的も混ざっていたようだ。
勝利宣言を聞いたときよりも、ずっと多くの喜びが胸中を巡っていた。
と、キアラがすっくと立ち上がった。
きりりとした顔でブブへと問いかける。
「モンドリーク先生。彼の編入を認めていただけますね」
「……約束は守ろう」
ブブがゆらりと立ち上がると、そう答えた。
正直、彼には初対面から良い印象がない。
だから、その潔い態度が意外でしかなかった。
と、思った矢先――。
ブブが険しい目でぎろりと睨んできた。
「だが、わたしは魔導師としてその少年――ルカ・ノグヴェイトを認めたわけではない。これからベルナシュクの名に恥じぬ行いをするのであれば容赦なく追放する」
言い終えるや、ふんっと鼻を鳴らした。
ローブの裾を舞わせながら演習場の外へと去っていく。
その後ろ姿を見ながら、ルカは眉をひそめる。
「……最後まで嫌味たっぷりですね」
「ちょっと……うーん、それなりに意地悪ですけど、本当はいい先生ですよ。今回の試験もルカくんのためを思ってしてくれたのですから」
「俺のために……?」
まったくもって意味がわからない。
少なくとも嫌がらせしか受けた覚えがなかった。
「レティエレスくんがあれほど推すだけのことはある。将来が楽しみな子だ」
いつの間にかノアズが後ろに立っていた。
ルカは振り返って顔を合わせるなり、目をそらしてしまう。
「学園長……その、すみません」
「どうして謝る?」
「壁とか<魔導駒>とか、色々壊してしまって……」
もし弁償になれば払える気がしない。
初等部から学園に入ろうとしなかったのも払える金がなかったからだ。編入用の金でさえ子どもの頃からずっと働いて、ようやくなんとか貯めたものだった。
これ以上、搾り出したところでなにも出ない。
そうして不安で押し潰されそうになる中――。
ノアズがきょとんとしていた。
かと思うや、いきなり大声で笑いはじめた。
「はっはっはっ! 構わん構わん。なにしろ釣りが出るほどに優秀な生徒を迎え入れることができたのじゃからな」
その顔に刻まれたたくさんの皺が深さを増した。
まるで何千年も生きた大樹のような、どっしりとした安心感がそこにはあった。
「ルカ・ノグベイト。ベルナシュクはきみを歓迎しよう」
今回の試験は魔導学園に入るための試験だ。
ただ、それに加えて学園長であるノアズにも認めてもらえた。
それも優秀な生徒として――。
ルカはキアラと顔を見合わせると、笑みを弾けさせ、喜びを分かち合った。
◆◆◆◆◆
とろりとしたクリームシチューに彩り鮮やかなサラダ。
かりかりの衣に覆われた魚のフライに肉料理が幾つか。
その日の夜、レティエレス宅にて。
ルカはたくさんの料理を前に感嘆の声をもらした。
「こんなに……本当にいいんですか?」
「もちろんですよ。今日はルカくんのお祝いですから、たんと召し上がってください」
言って、対面に座るキアラが微笑を浮かべた。
それを機にルカはがっつくように食べはじめた。
正直に言って作りすぎだった。
それでも簡単に平らげられる気がした。
編入試験で疲れて腹が減っていたこともある。
だが、それ以上に料理が純粋に美味しかったのだ。
「先生の料理、どれも美味しくて好きです」
「わたしも、おいしそうに食べてくれるルカくんの姿を見るのが好きですよ」
ふふ、と淑やかに笑うキアラ。
そんな彼女を見ながら、ふと思ったことを口にする。
「先生って結婚しないんですか?」
「うぐっ」
キアラが呻いた。
そのまま笑顔を崩さずに片頬をぴくぴくとさせる。
「……ル、ルカく~ん、それはどういう意味ですか?」
「え、なんで怒ってるんですか」
「いいえ、怒ってなんていませんよ。ただ、答えようによってはお料理、取り上げちゃうかもです」
明らかに怒っている。
どうやらかなり繊細な話題だったようだ。
「き、気に障ったのならごめんなさい。俺はただ先生みたいな人がまだ結婚してないなんて不思議だなって思って」
「不思議、ですか」
「その……美人で料理もできて。そのうえ魔法を教えるのも上手いし」
異性を褒めたのは初めてだった。
だからか、少しばかり照れくさかった。
「も、もうルカくんってば……いくらわたしが師匠だからって褒めすぎですよ」
キアラは目をぱちくりとしたのも一瞬。
困ったように笑いだした。
ただ、その頬や目元は真っ赤だ。
透き通るように肌が白いせいか、ひどく目立っている。
どうやら彼女は褒められることに慣れていないらしい。
「まあ、部屋の片付けが下手なところとか、本に躓いたり埋もれたりすることとか……だらしないところはあるけど」
「そ、それはしかたないといいますか、染みついてしまってどうしようもないことなんですっ」
キアラが「もうっ」と頬を軽く膨らませる。
普段、大人なところばかり見ているからか。
こういったところが余計に可愛く見えた。
「残念ながら先生にはそういった出逢いはありませんっ。……でもいいんです。おかげでルカくんをこうして迎え入れることができましたから」
「……先生」
もしキアラが結婚していたなら。
あるいは恋人がいたのなら。
キアラの弟子になれていなかったかもしれない。
そう考えると、申し訳ないがキアラの出逢いのなさに感謝するほかなかった。
「でも明日からは寮生活が始まりますし、離れ離れになりますね」
「そういえば、そうですね」
ベルナシュク魔導学園は全寮制だ。
編入生だからとそこに例外はない。
「もしかしてルカくん、寂しかったり?」
「べつにそういうわけじゃ――」
「本当ですか?」
言いながら、キアラが楽しげに顔を覗き込んでくる。
「……嘘をつきました。寝泊りしたのはほんの10日程度なのに、なんだか自分の家みたいに思っちゃってるみたいです。先生の家なのに」
あてがわれた個室に自分の物はほとんどない。
むしろ大半がキアラの本で占められているぐらいだ。
ただ、それでもいまではすっかり馴染んでしまっている。
キアラは優しく微笑みながら語りかけてくる。
「ここはもうルカくんのお家も同然です。いつでも帰ってきていいんですよ」
憧れのあの魔導師のようになりたい。
そのためにと飛び込んだベルナシュク魔導学園。
明日から始まるそこでの新生活。
不安がないわけではなかった。
編入生であること。
欠陥魔導師であること。
親がいないこと。
周りとは違うことだらけだ。
だが、キアラのかけてくれた言葉。
――いつでも帰ってきていいんですよ。
それだけで、ルカはなんでもできるような気がした。