08
電車が中心街の駅に到着した。乗客達は一斉に立ち上がり、開かれたドアに殺到した。人の流れにさらわれないように二人はしっかと手を握り合って電車を降りた。
電車降りた二人は人の流れに歩調を合わせて改札まで進んでいく。ノボルはヒメモスが心配になってちらりと確認した。
ヒメモスは息はあがっていたが、その表情は明るく、体調も悪くなさそうだった。ノボルは安心すると、また正面を向いた。
二人は無事に改札を抜けると人気の少ないところまで行って一息ついた。
ヒメモスはその場にしゃがみこんだ。ノボルも屈み込んで心配そうに声をかける。
「大丈夫か? 体調悪いのか?」
ヒメモスは顔を上げて頭を振った。笑顔で言う。
「うぅん、平気。ただ息が詰まりそうだった……」
ノボルは笑みを作って頷いた。
「そうだな、俺もだ」
「ノボルも?」
「ああ、隣の奴がやたら臭くてな……」
ノボルは自分の鼻をつまんで見せた。ヒメモスはきゃっきゃと笑った。
ノボルは立ち上がると、ヒメモスの手を握った。
「それじゃあ、街を見てまわるか」
ヒメモスは目を輝かせて頷く。
「うんっ!」
ヒメモスも立ち上がると、二人は階段を昇って地上へと向かった。
地上へ出ると、地下のこもった熱気は無くなった。晴れ渡った空から日の光が二人を照らす。二人はその光に目を細めた。
街は、まるで海のような人混みに溢れていた。喧騒、乱立するビル群、無数に跳び出す看板、ゴミの臭いを乗せた風。どれもがヒメモスには新鮮だった。ヒメモスは高鳴る鼓動を抑えるかのように、胸に手を当てた。
ノボルはしばらくヒメモスを見つめていた。ヒメモスが新しいものを見て感動しているのが伝わってきた。それがノボルにも嬉しかった。それがノボルの目的だった。
「行くぞ?」
ヒメモスは顔を上げる。
「うん」
ノボルに手を引っ張られ、街の人混みへと乗り込んでいった。
ヒメモスは常に瞳を輝かせて四方をきょろきょろしている。
ノボルはゆらゆらと歩きながらヒメモスに話しかける。
「何か欲しいものとかあるか?」
ヒメモスは指を食んで考え始めた。
ややあって、何かを思いだしたかのようにパッと顔を上げた。
「本、本が欲しい」
「ああ、本か、丁度この先にあるな。よし本屋に行こう」
ヒメモスは飛び跳ねて喜んだ。
「お前ホントに本が好きなんだな」
「うん、あそこではそれしかすることが無かったから……」
ヒメモスはうつむいてそう言った。表情は見えない。
ノボルは自分の失言に気づいた。白い部屋でのことは、思いださせるべきではなかったと。ノボルは慌てて明るい調子で話を続けた。
「この先の本屋は大きいからな。なんでもあるぞ。好きなだけ買っていいぞ」
「本当? やったぁ」
ノボルは金銭的には裕福だった。しばらく働かなくてもどうということは無かった。出来る限りヒメモスの欲しいものは買ってやるつもりだった。それが形のあるものであれ無いものであれ。
二人は本屋に着いても手を繋いだままでいた。二人は文庫本コーナーへ行った。
「ヒメモス、好きな本を選んでかごに入れていくんだよ」
「わかった」
ヒメモスは一段目の頭から一冊一冊確認して進んでいった。非常に骨の折れる作業だったが、ヒメモスは集中して選別していった。ノボルは辟易していたが最後まで付き合った。
二時間程経って、ヒメモスは満足した。かごの中は本でいっぱいになっていた。
会計を済ますと、ノボルは本の入った重い重い袋を片手に持った。ヒメモスは大満足といった風にニコニコと笑みを絶やさなかった。
ノボルは自分の腹が空いている事に気がついた。きっとヒメモスも空かせているだろうと考えた。
「そうだ、ヒメモス、食事にしよう」
ヒメモスは自分のお腹に手を当てた。それからノボルを見上げると頷いた。
「よし、じゃあ早速行こう」
ノボルはどこに行こうか色々と考えた結果、最近できたお茶づけ専門店に行くことに決めた。確か、ヒメモスはお茶づけを食べたことが無かったはずだ。きっと面白い経験になるだろう。
ノボルはヒメモスの手を強く握ると目的の店に向かった。
お茶づけ専門店に着いた二人は個室に案内された。二人は靴を脱いで、座敷に上がった。店の雰囲気は落ち着いていて、店内は静かだった。
ヒメモスは鮭茶漬け、ノボルはわさび茶漬けを注文した。
料理が来るのを待っている間ヒメモスは、掛け軸を首を傾げながら見つめたり、障子に触ったり、畳を気持ちよさそうに触ったりと、忙しなかった。
注文した料理が届いた。茶漬けがそれぞれの席に並べられる。二人は席に着く。ヒメモスが箸をグーで握りしめて食べ始めようとした。それをノボルは止めた。
「ヒメモス、食べる前にも挨拶があるんだよ」
「あいさつ……」
「そうだよ、いただきます、って手を合わせて言ってから食べるんだよ、わかった?」
ヒメモスは手を置いてノボルを見つめた。それから手を合わせた。
「わかった……い、いただきます……」
「いただきます」
ノボルも手を合わせて言った。二人は食事に取り掛かった。
ヒメモスは箸の使い方を知らず、二本をまとめて握りしめてスプーンのようにして使った。
ノボルはそれついては何も言わなかった。今から箸の使い方を覚えさせるのを困難だと思ったからだ。
ヒメモスは音を立てて鮭茶漬けをすする。それからぷはぁと顔を上げて満足気だ。
「美味しい……。鮭がほんのり焦がされていて、それがまた香ばしくて……」
ヒメモスは具体的な品評をした。その語彙は今まで白い部屋での読書三昧でつけられたものだった。
突如、ノボルはむせて、激しく何回も席をした。ヒメモスが心配そうに覗きこむ。
「わ、わさび思っていたより辛くて……」
ノボルは涙を浮かべながら、笑みを浮かべて答えた。
ヒメモスは自分も食べたいと言ったが、大事を取ってノボルが止めた。