02
――白い、白、白。
その部屋は全くの真白だった。床も天井も壁も。
ヒメモスはその部屋に溶け込むように、病的に肌が白かった。青い血管が透けて見えるほどだった。髪は茶色で短髪だった。長いまつ毛の下の青い瞳だけが白い空間に浮かんでいるようだった。
家具らしい家具は、ただひとつ、部屋の隅に置かれたパイプベッドだけだった。
ヒメモスは、白い壁否マジックミラー越しに、常に視線を感じていた。ヒメモスはその視線にも慣れていて、全く気にも留めていない。
十六歳という年齢にしてはひ弱すぎる四肢を折りたたんで床に座り込み、一冊の文庫本を震える指でゆっくりとページを捲っている。その本の背表紙には『与謝蕪村句集』とある。
ヒメモスはゆっくりと震える唇を動かし始める。
「……梅遠近南すべく北すべく」
それは、消え入るような、かすれた声だった。
ヒメモスはその折れそうな指で次のページを捲っていく。
ヒメモスはふと、白い壁を見つめる。視線がいつもと違うように思えたのだった。染みひとつ無い壁をじっと見つめる。
――誰……?
ヒメモスは不思議そうな表情になり、ゆっくりと小首を傾げた。
しばらく壁を見つめたあと満足したのか飽きたのか、また視線を本に戻した。それからまた、文字を目で追ってページを捲り始める。
「……しら梅や誰がむかしより垣の外……、白梅……」
――白、白、白。
世界は大規模な食糧難に陥っていた。害虫耐性のある遺伝子を組み込んだ作物が次々と作られていったが、その恩恵も一時的な物だった。害虫たちも次々と耐性をつけていき、作物がこれ以上耐性をつけれらないという点を超えていったのだ。これにより、化学肥料に頼りきりだった農業は崩壊した。人類が作り得るどんな強力な殺虫剤も、もう害虫には効力を為さなかった。
これに対し、世間は〈アグリビジネス〉つまり農業関連産業の一連の企業を厳しく攻め立てた。その中には、ノボルが勤めるフロレセンド製薬会社も入っていた。
しかしこの一連の出来事も化学者達を反省させるには至らなかった。それどころか、その研究は益々領域を深くしていった。
皮肉な事に世界は、この食糧難を引き起こした企業に、頼るしか術を持たなかった。このことがまた企業を増長させたのだった。
この時代、化学と倫理の問題、生物多様性の破壊、人口問題、紛争、環境ホルモン汚染など世界は暗い話題しか提供していなかった。
「親父は間違っているッ!」
ノボルは研究室の、書類が卓上に散乱している机を拳で叩きつけて叫んだ。
関川ケイゾウは、煙草を一口吸って、ため息と一緒に紫煙を吐いた。恰幅の良い身体を椅子の背もたれにのしかける。ノボルの方に椅子を回転させる。それから眉根を寄せた厳格な顔つきで、重い口を開いた。
「ほおっておいても死ぬ」
「ッ!」
ノボルは苛立たし気に頭を掻きむしって、その場を行ったり来たりした。
ケイゾウは平然と表情を崩さず言葉を続ける。
「ノボルよ、もうお前も子供じゃないんだ。わかるだろう」
「大人だとか、子供だとか関係ないだろッ!」
ノボルは煙草を取り出して口に咥える。ターボライターで火をつけると、ケイゾウの向かいの椅子に座った。
「俺は、もともとこのプロジェクトには反対だったんだ……!」
「例えお前が反対だったとしても、お前抜きで行われただろう。それに最後に決断したのはお前だ。どう言い訳しようがそれは変わらない」
ケイゾウは冷徹な語調で言い放った。
「わかってる、わかってるから辛いんだ……!」
ノボルは煙草を指に挟んだまま、両手で頭を抱えた。
「罪滅ぼしでもしたいと思っているのか?」
「俺は……、俺はそんなんじゃ……」
ノボルは煙草を灰皿でもみ消すと、両手で顔を覆った。
「もし、異種移植の人間による実験が成功したなら、どれだけの人間が救われるか考えてみろ。それが罪滅ぼしなるんじゃないのか」
ノボルは勢いよく顔を上げた。
「ヒメモスの! ヒメモスの人権はどうなる!」
ノボルは激しい剣幕を見せた。
ケイゾウは微動だにしない。
「そんなものは無い」
「そんなことがあるもんかッ!」
「元々極秘裏に進められたプロジェクトだ。どんなことも揉み消せる」
ノボルは歯を噛み締める。震える両手を膝に叩きつける。そして黙り込む。
ケイゾウは、軽蔑するような視線をノボルに向けた。それからノボルに背を向ける。
「私も暇じゃないんだ。もう出て行ってくれ」
ノボルはキッとケイゾウの背中を睨んだ。しばらく睨んでから席を立つ。
それから勢いよくドアを開けて研究室を出ていった。