01
「俺は……反対だ」
白衣を着た関川ノボルが目を伏せながら言った。
ノボルはやせたこけた頬の上に浮かび上がる瞳をぎょろつかせている。顎に生えた無精髭を頻りに撫でている。白衣姿を椅子に任せている。
壁と天井は一面に白く、薄いグリーンの椅子とテーブルが部屋に彩を加えている。それと一台の自動販売機が唸り声をあげて部屋の隅に置かれている。
テーブルの上の灰皿には、吸い殻がこんもりと山を作っている。部屋は若干、紫煙に煙っていた。
「ここまでやっておいて今更何を……」
向かいの椅子に座っている、三浦マコトは、人好きのする笑顔が身の売りだったが、今回ばかりは眉を寄せて真剣な表情でノボルを見据えている。そして苛立たし気に缶ジュースを喉に流し込む
ノボルが吐き捨てるように言った。。
「今更もクソもあるか……。俺はずっと前から不満があったんだ、この計画には……」
マコトはそんなのノボルをなだめるように言う。
「知ってたさ、お前の気持ちは。大学以来の親友だからな……」
「とにかく俺は反対だ、親父にも直接言ってやる!」
ノボルはそう言うと白衣のポケットから煙草を取り出すとターボライターでさっと火をつけた。それから、大きく吸い込んで、長く息を吐いた。紫煙が鼻と口から流れ出る。
マコトはうるさそうに煙を払いのけると、さも深刻そうに口を開いた。
「失敗だったんだ、〈クレイドルプロジェクト〉は……。それにあんな事をやった後だ、今更、異種移植の実験台にされても……」
ノボルが勢いよく向かいの椅子を蹴り上げた。マコトは身体をびくりともさせずに陽一を見据えている。
ノボルは煙草を灰皿に押し付けると、両手で頭を抱えた。
「俺は、なんて実験に参加しちまったんだ……、くそっ!」
ノボルは地面に唾するように言い捨てた。
二人は、多国籍に跨る大企業である〈フロレセンド製薬会社〉の、トランスジェニック生物、つまり遺伝子組み換え生物の研究員だった。二人は関川ノボルの父、関川ケイゾウがリーダーを務める〈クレイドルプロジェクト〉に参加していた。クレイドルプロジェクトとは、あるウィルスに抵抗のある豚の遺伝子を組み込んだヒトを人工子宮の中でつくりだすという、倫理を踏み越えた実験のことである。ノボルの父、ケイゾウはこのプロジェクトに心血を注いでいた。
ノボルは、このプロジェクトに誘われた時から、嫌悪感を強く感じていた。最初は断ったのだが、マコトとケイゾウの熱心な勧誘に折れて参加を決めたのだった。
この点ではノボルは科学者らしくないとも言えた。なぜなら他の研究員の誰もが化学と倫理の問題に関しては、まるで関心を払っていなかったからである。
ノボルは今、非常に後悔していた。ましてやプロジェクトが失敗したとなると後悔の念はひとしおだった。
ノボルは舌打ちをすると、再び煙草を取り出し火をつけた。
マコトがテーブルに手を置いて、眼差しをノボルに向ける。
「どうせ〈ヒメモス〉はもう長く持たないんだ……どうせなら、な」
クレイドルプロジェクトで生まれた少女、ヒメモスは失敗作の烙印を押され、近日中に異種臓器移植の実験台に成り下がる予定だった。
ノボルは力無げに頭を振った。
「そんな露骨な人体実験は、俺には……」
ノボルの脳裏には、白い隔離施設の一室で坐り込んでいるヒメモスの姿が浮かんでいた。
ノボルは煙草を咥えて、椅子の背もたれに体重をのせ、眼を瞑った。
マコトがぼそりと呟く。
「……あれを人間と呼べるならな」
ノボルはその言葉を聞いた途端、椅子を蹴って立ち上がり、マコトの胸倉を掴んだ。咥えていた煙草が床に転がる。
「……なんだと」
ノボルは鼻先がくっつくほどマコトに顔を近づけた。ノボルのマコトを睨み付ける眼光は鋭く、怒気を孕んだ語調だった。
マコトは落ち着き払っていた。
「あぁ、何度でも言うさ。あれは人間じゃない」
ノボルは一気に頭に血が上るを感じた。耳まで真っ赤になる。
ノボルはマコトを突き飛ばした。マコトは腰から地面に倒れ込む。
マコトを見下してノボルが叫ぶ。
「ヒトの形をしているだろうが! お前はなんとも思わないのか!」
マコトは腰を払いながらゆっくりと立ち上がる。
「あぁ、なんとも思わないね」
ノボルは激昂してテーブルに拳を叩きつける。うち震えながら口をつぐんだ。
マコトはそんなノボルの肩にそっと手を置いた。それから優しい語調で声をかける。
「お前は疲れているんだ。休めば考えも変わるだろう……。もう今日は帰れ」
ノボルは肩に置かれた手をうるさそうに払うと、地面に落ちた煙草を拾ってから椅子に座り直した。そして一息、煙草を吸い込むと口を開いた。
「いや、帰らないさ。親父に会うまではな……」
マコトは呆れたようにため息を吐いて、頭を振った。それからテーブルの上のジュースの空き缶をゴミ箱に捨てると、ノボルを一瞥してから休憩室を後にした。
ノボルはマコトが去ると、虚空の一点を睨み付けて、口に咥えた煙草をふかした。身体は背もたれに寄りかかっている。
――ヒメモス……。
心の中でそうつぶやいて、大きくため息を吐いた。それから煙草を灰皿に押し付けると、また頭を抱え込んだ。
――俺は、俺はなんてことを……。
ノボルは頭を掻きむしって、絞り出すような声を漏らした。
建物の奥深くに存在する窓の無い研究棟には、春の始まりのなまめいた風は吹いてこない。代わりに換気扇唸る音だけがノボルの耳についた。