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帝国よりも大きくゆるやかに  作者: なりちかてる
第一章 雷鳴と薔薇
3/4

—02—

悪は必要である。もし悪が存在しなければ、善もまた存在しないことになる。悪こそ善の唯一の存在理由なのだ。

 ――アナトール・フランス「エピキュールの園」

「風かァ。風が、出てきタようだネぇ」

 ゼヴィアは誰に話しかけるでもなく、ひとりつぶやくと、空を見上げた。

 鉤爪で引き裂いたかのような彩雲が数筋、夕暮れの空を背景に薄く、たなびいていた。

 間もなく、暗闇の色にすべてが包まれてしまうとはいえ、この時間の空は様々な色に満ちていた。目にしみるかの如き金色の太陽にはじまり、空のほとんどを占める橙、地平線近くの昏い藍色、その間に横たわる煙にかすんだような紅色などなど。

 それらの色に染まる雲を眺めていると、実利を第一とするゼヴィアでも美しいと思うし、しばらくの間は眺めていたい、という気持ちにはなる。

 ――ただし、今のような大切な時でなければ、の話だが。

 ゼヴィアは先刻から、腰の湾刀を左手でつかみ、柄をほんのちょっと持ち上げては、また元に戻す、という動作を繰り返していた。それは彼女が落ち着かない気分でいる時の癖だった。

 彼女の立っている船尾甲板のすぐそばには舵輪があり、その向こうに中檣ミズンマスト主檣メインマスト前檣フォアマストと三本の帆柱が並んでいた。

 今は帆はすべて畳まれているが、その一番上に掲げられた三角旗はばたばたと、風を受けていた。

 船乗りにとって、風の強い時にじっとしているのは苦痛以外の、何ものでもない。ともすれば、帆柱を登って、帆を張りたくなってしまう。

 ゼヴィアはため息をついた。

 と、それまで甲板の下にいたエイルが、姿を現した。階段をあがり、扉をくぐり抜ける時に、頭を戸口にぶつけたようだった。低いうめき声をあげ、それから頭をさすると、二角帽をかぶりなおした。ゼヴィアと目が合うと、恥ずかしそうに微笑みを浮かべた。

 エイルとはもう、三年以上のつきあいとなる。彼女は自分から何も語ろうとしないが、この「漆黒の牙」号に乗り込む前からも船乗りだったようだし、彼女のように大陸のあちこちを移動する者には船が必須なのだから、ノアルデュールにとっては狭い船内にも慣れっこだと思うのだが、いまだに船内のあちこちに体をぶつけて、こぶや青あざなどを作っていた。

 そのエイルはゼヴィアに歩みよると、手にしていたゴブレットを差し出した。受け取ると、なかにはワインが注がれていた。

「なんダい、こレはァ?」

ゼヴィアが聞くと、エイルは飲むジェスチャーをし、続けて胸のあたりをなでおろした。どうやら、一杯でもやって落ち着け、ということなのだろう。

「ふゥん」

 口中の牙を動かしながらも、ゼヴィアはそれ以上、何も言わなかった。

 どうもこのエイルはゼヴィアにとって、わからないことがある。あるというより、多すぎる!

 エイルは、進んで人の輪に溶け込んでいかないところがある。

 極端に無口というか、ゼヴィアも彼女の声がどんな声だったか、思い出すことができないくらい、話しかけられた覚えがなかった。

 もともと、ノアルデュールにはそのような先入観がついてまわる。

 感情らしい感情を示さず、どことなく壁をつくり、親しげにしていてもそれは表面的なだけで、決して本心を明かすことはない――そんな印象があった。

 もちろん、ノアルデュールの全員が全員、同じ性格をしているのでないことは、ゼヴィアにもよくわかる。

 ――なかには、エイルとまったく対局に、ノアルデュールらしくない性格のノアルデュールもいるようだが。

 ゼヴィアとて、アーズモランであるが故、そのイメージで見られたことは二度や三度ではないし、自分以外のアーズモランを見て、アーズモランらしくないと思ったこともあった。

 が――このエイルは人を寄せつけないところがあるかというと、そんなこともなく、船員たちのばか話にも微笑みを浮かべながら、聞き入っていることもあった。

 誰かが怪我をすれば積極的に世話をするし、雑用なども嫌な顔ひとつすることなく、こなすこともある。

 ……まァ、表情をほとんど変えることがナイので、もしかすると嫌にハ思っているのかもシれないのダが。

 しかし――だからこそ、三年もの長い間、「漆黒の牙」号の仲間とほとんどトラブルらしいことを起こさず、やってこれたのだろう。でなければ、船から降ろされるか、追放されるかしていたはずだ。

 このワインだって、ゼヴィアを落ち着かせようと、そう思ってのこととは理解できる。

 が、一杯を飲んだくらいで、気分は安定するものではない。

 むしろ、ほんのちょっとでもアルコールを口にすれば、さらに飲みたくなってしまうものなのだが、そこのところがエイルには、わかっていないのだろう。

 ――まァ、エイルは酒を一切やらないカラぁ、ワカラないのかもしれないのだケド。

 ゼヴィアはゴブレットの中身を一気に飲み干すと、エイルに杯を投げて返した。

 エイルはまったく、姿勢を崩すことなくそのゴブレットを受け取ると、何も言わずにまた、杯を戻しに甲板を戻っていった。

 ――ちょっと、イジワルだったかねェ?

 ゼヴィアはほんのちょっと反省したが、肩をすくめると双眼鏡を再び手に取った。

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