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錦恋(上)


 五月の声を聞いた時から、暑さは静かに、苛烈に故郷の野を焼いた。短い梅雨が終わると、炎暑を思わせる烈しい陽光が憤怒するかの様に降り注ぎ……。


「早朝から精が出るわね」


 低いが、どこか涼しさを感じさせるその声を耳にした私は、デッキブラシを持つ手を休めて振り向いた。そこには片頬を窪ませ、呆れた様な、感心した様な感慨を目に灯らせて笑う彼女の姿が。


「前から気になってたんだけど、その錦鯉って智也(ともや)の趣味なの?」


 補助池に移した、不安そうに身を寄せ合う鯉達を指差し彼女は尋ねる。


「いや、お祖父ちゃんが昔から飼ってたんだよ」

「ふ~ん、そうなんだ。ねっ、ちょっと見ててもいい?」


 サバサバとした口調で紡がれた彼女の問いに、


「別に構わないけど」


 と私は答え、明け切らぬ瑠璃色の空を一度仰いだ後、年に三度行う事になっている池の水替え作業に戻った。


 デッキブラシを手に、水の抜け切った四メートル四方の池の底や側面を黙々と擦る。五分程度でその作業を終え、藻がすっかり取れた事を確認すると、詮を締め、井戸の水を池に落す作業に移る。


「へ~~井戸水って、随分本格的だね」

「ん? あぁ、まぁ田舎の特権だよ」


 やがて澄んだ水が池を満たすと、池の周囲に張り巡らされた(たいら)な石の一つに腰を下ろし、冷えた水に足を浸す。


「あれ? ひょっとして休憩?」


 私の勤勉な働きを見ていた彼女が笑いながら尋ねる。


「井戸の水は鯉には冷たすぎるからね、暖まるまで休憩。よかったらおいでよ」


 すると彼女は嬉しそうに笑い、隣の石に腰をかけ、素足を水にさらした。長い髪から香る甘く痺れる香りと、投げ出された白く長い四肢が、夢とも現実ともなく私の世界に開かれる。


 夏の陽射しが及ばない、朝の時間。

 明媚な武家屋敷風の庭に、二人佇む男女の――。


「あれ? でもお祖父さんとお祖母さんが亡くなったのって去年でしょ? 随分、慣れてるよね」


「まぁ、小さい頃から手伝ってたし。ここ十年位は、ずっと自分でやってたから」


 暫くして温度計で水温の上昇を確認した私は、専用の網で(うろこ)を傷つけない様に補助池の鯉を(すく)い、池に移した。


 その光景を前にした彼女は、興奮した声を上げる。


 澄み切った水の中を数尾の鯉が泳ぎ回ると、色彩は万華鏡の様な(きらめ)きを持って鮮やかに踊る。


 水温の上昇に伴い、微生物の増加は避けられない問題となる。その為に水替えを行い、それ等を除く必要があるのだが……掛かる労力は馬鹿にならない。


 しかし、こうして綺麗な水の中で快適に泳ぎ回る錦鯉を眺めるのは、格別な喜びがあるのもまた事実だ。


 私は見慣れた、しかし何度見ても美しいと感じさせる光景に頬を緩めながら、人差し指を池に突き刺した。するとそれに気付いた鯉が近づき指を吸う。


「へぇ~、人懐っこいのね」


 彼女も真似して、白くしなやかな指を突きいれた。黄金色の、とりわけ人に懐れた鯉がそれに気付くと、彼女の指に吸い付く。


「うわっ、見て見て! 私の指も吸ったよ」


 私はその光景に微笑みながら、手を池に沈め、鯉に指先を触れさせた。


 生前、祖父もこの遊びが好きだった。給餌の折に、音を立てて指を吸う鯉の群れに頬を緩め、鯉の頭や背をいとおしそうに愛撫した。


 鯉は祖父に慣れ、両手を沈めるとその上に身を横たえ、暫くの間じっとしている事もあった。そんな祖父と鯉の姿を、私と祖母は笑って眺めていたものだ。


 私には幼い頃から父と母がおらず、祖父母と三人で暮らしていた。


 今でも目を閉じると、あの日の光景がありありと浮かんでくる。

 それと共に、隣で少女の様な歓声を上げる、彼女と初めて出会った日の事も。





♯ ♯ ♯ ♯ ♯





 水鳥早苗(みずとりさなえ)と私が初めて出会ったのは、勤務先である市役所の上役と飲んだ帰り。花冷えする春の夜のことだ。


 私が無人駅のホームに終電で下って来ると、彼女は反対側のホームで、物憂げさを隠そうとせず、一人ベンチに俯いて腰掛けていた。


 足元には、ボストンバックが転がっている。何処となく洒脱な雰囲気を纏う彼女を、私は地元の人間でないと判断した。



「あの……もう終電行っちゃいましたよ」



 彼女を視界に認めた時から、私は内面に、ある空虚な寂しさを囲ってしまい、それが離れず、気付けば声を掛けていた。


 不思議と私は、彼女の孤独を放っておく事が出来なかった。


「えっ? あっ……」


 余程深い意識への沈降があったのだろうか。私が声を掛けた際、彼女は一瞬その事に気が付かなかった。


 しかし面を上げ、化粧気のない顔で私を見る彼女は……。

 百年の憂いを払う酔いを忘れさせる程に、細面に整った、美しい顔をしていた。


 私は思わぬ容姿の輝きに狼狽し、不審を与えぬ様に、


「よかったらタクシーを呼びましょうか」


 と早口に、用件のみを伝えた。彼女の首肯を確認すると、直ぐにタクシー会社に連絡を取り「それじゃ、十五分後位にタクシーが来ると思いますので」とその場を離れた。



 次に彼女と出会ったのは、三日後。

 駅と私の家の中間地点にある、農協の食品売り場だった。


 私が二十八年に(わた)り暮らす町は湾を臨み、その事から水産業が盛んで、魚を手軽に仕入れる事が出来た。


 特に火曜と木曜は、近隣の魚市場から農協に出張し、臨時店舗を構える業者が存在し、新鮮な、料亭で並んでもおかしくない魚を安価に扱っていた。


 祖父母は生前、その魚を大層好み、業者の人間とも懇意にしていた。


 そんな事情もあり、彼等が亡くなった今でも業者の人間はその日仕入れたお勧めの魚を、わざわざ私の為に取り置いてくれていた。


 仕事を終え、それを取りに行く最中、


「あっ!?」

「……え?」


 驚きに揺れる声に振り返ると、目を見開いた彼女と再会した。



「ど、どうも……地元の方だったんですね」



 愛想笑いで驚愕を塗りつぶした私の口から、咄嗟に出て来た言葉がそれだった。


「いえ、東京から来たんですけど、その節はお世話になりました」

「とんでもない。差し出がましくも、その……」


 それから私たちは暫くの間、農協の一角で立ち話をした。


 私は当初、彼女の連続性を見失っていた。余りにも初対面と印象が異なった為だ。


 目の前に立ち現われている彼女は、快活で、朗らかで――そしてどことなく豪快で、何処を探しても寂しさの欠片すら見当たらない。


 それを象徴するかの様に、彼女の買い物籠からは地元酒の瓶が覗いている。


「あっ、それで私……暫くこの町で暮らす事にしたんです」

「あぁ、そうなんですか」


 私は彼女の話を聞きながら、ふと腕時計に目を向ける。時刻は十九時五分前を指しており、そろそろ業者が店を片付ける時間となっていた。


「あの、ちょっとすいません」


 言って私は、臨時店舗前に移動する。


「今日は平目を刺身にしといたから、帰ったら直ぐに食べてね」

「わざわざ有難うございます」


 そして顔馴染みの男から、舌に載せると淡雪の様に溶ける、平目の刺身を受け取った。


「へぇ~、凄い。色も綺麗だし……そんな平目が簡単に手に入るなんて、東京じゃ考えられませんよ。それに安いし」


 彼女は私が受け取った刺身を覗き見ながら、感嘆の吐息を漏らす。


 私は魚の価値が分かる彼女に対し仄かな喜びを覚えると共に、それだけの魚を口に運ぶ喜びを誰とも共有せず、一人の食卓で淡々と処理する事に漠たる寂しさを覚えた。


 すると瞬間的に、光る様に、一つの光景が頭を去来する。


 その光景の甘美さは、一瞬にして私の脳髄を痺れさせるのに十分だった。だがそれを振り払い、私は内実を簡略化して彼女に伝える。



「地元の人の特権ってヤツですね。でも……それって、何だかずるいなぁ」



 彼女は悪戯めいた声音(こわね)で、でも嬉しそうに無邪気に笑った。


 多分その無邪気のせいだろう。私がその後、普段、決して口に出さない様な言葉を口にしたのは。


 私はいつも、無邪気の前には無力になってしまう。悲しい事も、嬉しい事も、辛い事も、丸ごと肯定して現実を楽しもうとする態度が、無邪気にはある。


 少なくとも、私はそう思う。

 そしてその態度は、私にはないものだ。





「あの……よかったら一緒にどうですか?」


「……え?」





 そして一瞬だけ浮かんだ光景は現実のものとなり……。



 その日以来、彼女は火曜と木曜の夜は、一人では広すぎる我が家に、酒瓶を携えて遣って来る様になった。魚の量を二人前にして欲しいと業者の男に連絡を取った時は、むず痒い喜びを覚えたものだ。


 彼女はよく食べ、よく飲み、よく笑った。


 魚は調理を加えず刺身で頂き、私はひじきの煮物など、簡単に出来る酒の肴を幾品か用意した。


 酒は決まって、彼女が持参する地元の日本酒。


 嗅げば、素晴らしい芳香が立ち上って鼻腔をくすぐって逃げていき、含めば、ふんわりと典雅(てんが)な味が口一杯に広がって膨らむ。


 

 そんな関係が三月(みつき)も続くと、自然な流れで男女の関係となり、その一週間後から同居を始めた。


 これが都会であるのなら、色んな事がもう少し早く進んだのかもしれないが、地方では事は緩慢に運ばれ、徐々に進む。



 恐らくそこには、より多くの――。



 しかし私は彼女と暮らしながらも、名前と生年月日(私より四歳、年上だった)、そして東京から来たと言う事を除いて、彼女の事を殆ど知らなかった。


 だが私も奇妙なもので、その事を余り気にしなかった。出自故か、他人からの同情や詮索に敏感な面があり、彼女が話したくないならそれで構わないと思っていた。


 ただ一度、彼女がノートパソコンの画面に、何か縦書きの文章を打ち込んでいるのを見た時――。



「早苗は……小説を書くの?」



 と尋ねた事があった。

 

 その時彼女は、珍しく真剣な表情を湛え、沈黙した後、




「ううん……書かない」と言った。

「小説なんて……私には書けない」とも。





♯ ♯ ♯ ♯ ♯





 夏の水替え作業を見て以来、鯉に特別の愛着を覚える様になった彼女は、進んで鯉の世話をする様になった。


 私は根気強く彼女に世話の方法を教え、彼女もまたそれに喜んで従った。給餌の際には、彼女は鯉たちを前に、祖父と同じように頬を緩めていた。


 私は出勤前、その光景をネクタイを締めながら、二階の自室から眺める。


 今、我が家の池で泳いでいる鯉は、そのどれもが私と同年代かそれ以上のものばかりだ。祖父は自らの趣味を、寿命と逆算し楽しんでいた節がある。



 つまりは自分の寿命と共に、鯉もまたその命が尽きる様にと……。



 しかし錦鯉は丁寧に世話をしてやれば長生きし、その寿命は三十年を超えても尚、尽きないものもある。


 祖父が愛情を持って育てた鯉は、その愛情に比例するかの様に長生きした。その為、祖父の遺言状には鯉は処分する様にと記されていた。


 私はその約束を破った。

 祖父母と同じように、彼らを看取ってやろうと決めた為だ。


 鯉に格別の愛情を寄せていたと言う訳ではないのだが……ただ何となく、上手く言葉に出来ないが、それを私に与えられた使命の様に感じていた。



 その鯉を今、奇妙な縁で巡り合った彼女が世話をしている。



 私はその事実を前に、巡り合わせと言う人間の意志を超えた、大きなものにそっと祈りたくなった。


 私は、世に人が言う『結婚』というものが分からなかった。今まで付き合った人の中で、結婚の話が出た事もある。


 しかし私は、それに踏み切る事が出来なかった。何故かそれを心踊る事、嬉しい事の様に感じなかったのだ。


 その中で考え、気付いた。結婚は恋愛の延長線上に存在するものではなく、それとは別個に存在している事に。


 恋愛の発展が結婚ではない。

 どれだけ恋愛を育て上げても、結婚には至らない。


 なぜなら恋愛とは、一つの情熱であるから。

 その延長線上には必ず、別れが存在する。


 なら結婚とは、何なのか?


 考えた末、それは儀式なのかもしれないとの仮説を持つに至った。社会に認められる為の、そんな……。


 なら私は、その儀式を通過しなくても構わないと思った。今の気楽な生活を好んでいた。祖父母が生きている頃なら、それを二人が望めば私は嬉々としてそれをしただろう。


 私の生涯の決定は、祖父母を中心に回っていた。


 だが今では、祖父母は遠く彼方の岸辺に。

 ならば私は私の岸辺で、ただ……。


 考えに耽っていた私の視界内で、何かが動いた。意識の水面から顔を出し、とっさに視線を向ける。


 彼女が私の姿を見つけ、何が楽しいのか、喜びに顔を輝かせ、無邪気に手を振っていた。私は微笑を張り付けて、手を振り返す。


 結婚の意味は、私には遠い。


 そう思いながらも……。

 締め付ける苦痛に似た憧憬を覚える自分も、確かに存在するのだ。





♯ ♯ ♯ ♯ ♯





 十一月末には越冬に備える為に水替えを行う必要があり、彼女はそれに参加した。鯉を優しく(すく)って補助池に移し、体に傷や病気を示す斑点がないかを確認する。


 病気の鯉が見つかり、泣く泣く処分せざるを得なかった際には、


「どうしても?」


 と、彼女は小さい子供の様に私に(すが)ったりもした。


 私たちの奇妙な関係は続いていた。彼女は続く春の、夏の、巡った冬の水替えにも参加した。


 時に酷くお互いを求める事もあれば、老夫婦の様に前庭を臨んで縁台に並び、背中を預けて本を読むことも。


 当然、つまらない事で喧嘩もしたが、お互い、物事を割り切るのが上手い面があり(私の場合は感情に乏しいだけだが)、翌日には何事もなかった様にケロっとしていた。


 彼女は自由奔放で、感情豊かで、欲望や執着心に乏しい性格をしていた。だが掴み所がなく、どこか人生を悟達(ごたつ)した様な態度を見せるかと思えば、鯉の死に涙ぐむ事も。


 そんな彼女の魅力に、私は眩しさを覚えていた。

 しかし同時に、ある覚悟を持ってもいた。


 彼女がふらりと私の人生に現れた様に……。

 また、ふらりと私の人生から消えてしまうであろう事に。



「ねぇ、それ面白い?」



 ある日の休日。縁台でまどろみながら、彼女は長い四肢を投げ出し、私の膝に頭を預けた格好でそう尋ねた。


 私はそれを、猫か何かが膝に乗るのと変わらぬ感慨を持ちながら、時折髪を撫で、本を読んでいた。


「面白いよ」


「ふ~~ん。マルクス・アウレリウスの『自省録』か。昔読んだけど、忘れちゃった……何が書いてあるの?」


 私は下からの彼女の声に、一瞬、言葉を詰まらせ、


「大切な物は、無くさないとその価値が分からない……そう書いてある」


 と答えた。

 

 すると彼女は、体を強張らせ、閉口した。


 瞬間、理由は分からないが、私は激しい動悸を覚えていた。理由を考える。考えが、自分自身に及ぶ事を恐れる様な気持で。


 その最中、彼女は鼻から息を抜き、頭の位置を変え、庭を黙って眺めた後、



「多分、それは正しいわね」と静かに言った。



 彼女と出会ってから、もうすぐ二年が経とうとしていた。



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