第九話
「……悪かった」
「い、いえ」
昔から一つのことに集中すると周りが見えなくなる性格だった。
無我夢中で口付けてしまったが、よく考えればここは屋外。
我に返って今俺は猛烈に身悶えている。それはリヒトも同じらしい。
さっきから互い目線があらぬ方向へ向いている。
ただ意識しすぎているだけであって、悪い雰囲気では無いだけマシか。
「……買い出し、戻りましょうか」
「ああ」
俺よりもリヒトの方が一足早く平静を取り戻したようだ。
彼の提案に躊躇わず乗る。あまり気味の良い場所じゃない。
町方面へ歩き出す、その後ろにリヒトが付いてきた。
その最中、魔術師らしい男とすれ違う。どうも間一髪だったらしい。
目撃されなくて良かったと安心しつつ素知らぬ顔で通り過ぎた。
「あれ?君、昨日の子じゃん!」
「へ?」
止まった二つの足音、不審に思って振り向く。
さっきの男がリヒトの肩を掴み、親しげに話しかけていた。
だがリヒトは戸惑っている。見覚えがないようだ。
ちらっと男が俺を見る。そして気色の悪い笑みを浮かべた。
「今日の相手コイツ?真面目そうだけどいいのー?
つーかこんな所で何してたのさー、まあ聞くだけ野暮だよねえ」
「その……ごめんなさい。どこかでお会いしましたか?」
なんだコイツは。せっかく取り戻していた機嫌が急降下するのが分かる。
剣に手をかけたがリヒトが尋ねたので待機。返答次第では再開するが。
相変わらずへらへら笑う軽薄な男が続ける。
「ひっでえなー、昨日あんなに愛し合ったじゃん。
おかげでオレまだだっるいんだけど。
もしかしてアレでも足りないの?だからこんな体力バカそうなの誘ったんだ!
んーじゃあ混ぜてよ。今度こそ満足させるからさ!」
「あ、あの……」
「……ん?そういえば昨日泥酔してたから記憶かなり曖昧なんだけど。
イメチェンしたの?髪長かったよね?それに目、赤じゃなかったっけ?
胸だってもっと、こう……ま、いっか!ヤろうよ!」
「わかった、殺ってやろう」
「ひぎゃっ?!」
耳障りなマシンガントークに一区切り付いた。
コイツの思考が下劣で低脳、聞くだけ無駄。その判断材料は揃った。
抜いた剣をローブの上、ちょうど頸動脈の辺りへ突きつける。
魔術師らしく肉弾戦は苦手らしい。一目散に男は逃げていった。
剣を鞘へ収め、リヒトへ向き合う。
「……リヒト、どうした」
彼は座り込んでいた。その上、己の体を抱いてがちがちと身を震わせている。
明らかに様子がおかしい。手を伸ばす。
俯いたままの彼はそれに気付かない。触れても留まったままだ。
「……して」
小さくか細い声だった。おかげで断片しか聞こえない。
まだ彼は何か呟いている。悲しい響きで延々と。
聞き取ろうと彼の前にしゃがみ込むが、彼は依然反応しない。
地面に向かう顔を持ち上げる。だが瞳の焦点があっていなかった。
憔悴した表情、その目はただただ遠くを見つめている。
「ゆるしてごめんなさいうまれてきてごめんなさい
いらないこでごめんなさいおねがいもうゆるして」
「……リヒト?」
「ちゃんとねえさまになるから」
どういう意味だ、虚ろな瞳でリヒトはひたすら贖罪を口にする。
尋常じゃない怯えよう。どう見ても正気じゃない。
肩を持って揺さぶりながら幾度も彼を呼ぶ。
だが俺を見ないまま、ぽたぽたと静かに涙を落としながら彼は尚も謝る。
リヒト、お前は一体何に怯えているんだ。追いつかない、せめて俺の方を向いてくれ。
けれど俺の願いは虚しく宙に浮かぶ間も無く落ちて潰れた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、ぼくの、せいで……さ、ま」
僕なんか居なければ、それを最後に彼は唇を閉ざす。
そして突如彼の体は糸が切れたかのよう傾いた。
倒れ込む前にどうにか受け止める。
「おいっ、リヒト!しっかりしろ!」
血の気のない死人のように青白い顔。
頬を叩くが全く反応がない。気を失っているにしてもこれは。
意識不明の彼を背負い、俺は全力でハルモニアへ走り出した。