僕のヒロインな君へ
最後までお読みいただけると嬉しいです。
雪の降る日は、決まって彼女のことを思い出す。
正確に言えば、雪の降る日だけじゃない。朝、コーヒーを淹れるとき。電車の窓に流れる景色を眺めるとき。夜、誰かと笑いながら観た映画のエンドロールが流れるとき。どんな映画を観ても、どんな小説を読んでも、どんな音楽を聴いていても、そのヒロインに重ねてしまうのはいつも彼女だった。行ってみたいと思った遠い街も、見たいと思った夜空も、隣に描くのはいつも、見慣れたはずの顔だった。
馬鹿だな、と思う。二十四年間、ずっとそうだった。
窓の外で、雪が降り始めていた。
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結月とは、生まれた病院が同じだったらしい。
もちろんそんなことは覚えていない。でも、お互いの母親がよく「二人とも泣き声が大きくてね」と笑いながら話していた。どちらが先に泣き止んだかで毎回言い争いになって、決着がついたことは一度もなかった。二人の母親はそれをいつまでも楽しそうに話していたから、きっとその言い争い自体が好きだったのだと思う。
物心ついた頃には、結月は隣の家にいた。
庭に面した縁側で、よく二人で並んで座っていた。夏は蝉の声を聞きながら、冬は膝に毛布をかけて。何を話していたかはほとんど覚えていない。ただ、並んで座っていた。それだけで十分だった。
結月は静かな子だった。騒がしくなく、でも暗くもなく、ただそこにいるだけで場が落ち着くような子だった。僕が転んで泥だらけで帰ってきたとき、笑わずにハンカチを差し出した。僕が近所の野良猫に引っかかれて泣いていたとき、何も言わずに隣に座っていた。
五歳の頃の話だ。
その頃から、結月は僕に何かを渡すのが上手だった。言葉じゃないものを。
小学校に上がると、初めて「好き」という感情の輪郭を知った。ただしそれは、淡くて、まだ名前のつかないものだった。
結月は同じクラスになった。席は離れていたけれど、登下校はいつも一緒だった。二股に分かれた路地で、結月の家は左、僕の家は右だったから、そこで毎日別れた。
ある日、結月が「また明日」と言いながら左へ曲がっていくのを見ていたら、なんとなく胸がざわついた。理由は分からなかった。ただ、もう少しだけこの道が続けばよかったと思った。
その日から、僕は少しだけ歩くのが遅くなった。
授業中、結月が窓の外を眺めているとき、僕はそっと横顔を見ていた。結月は気づかなかった。気づかれないように見ていた。なぜそうしていたのか、当時の僕には説明できなかった。
四年生の図工の時間、自由に絵を描いていいという課題が出た。僕は空を描いた。青い空と、白い雲。後から気づいたのだが、結月もその日、空の絵を描いていた。
先生に並べて貼られた二枚の絵を見て、結月が「おそろいだね」と言った。
僕は何も答えられなかった。耳が、少し熱くなっていた。
中学生になると、世界は少しずつ複雑になった。
クラスが別れた。部活も違った。結月は図書室によくいて、僕はグラウンドにいた。登下校は変わらず一緒だったけれど、話す内容が少し変わっていった。学校のこと、友達のこと、将来のこと。それまで何となく流れていた時間に、少しずつ意味が生まれていくような感覚があった。
二年生の秋、結月が初めて「好きな人がいる」と言った。
登下校の帰り道だった。夕暮れで、空が橙色だった。僕は何でもないふうに「へえ、誰」と聞いた。結月は「秘密」と言って、前を向いた。
その夜、なかなか眠れなかった。
自分が何を感じているのか、まだうまく整理できなかった。ただ、橙色の空と、前を向いた結月の横顔だけが、ずっと頭の中にあった。
それからしばらくして、その「好きな人」の話は自然と出なくなった。結月から何も言わなかったし、僕も聞かなかった。ただ、あの夜のことは、ずっと小さな棘のように、胸のどこかに刺さったままだった。
三年生になると、僕はようやく自分の気持ちに名前をつけることができた。
好きだ、と思った。友達とか、幼なじみとか、そういうものとは違う意味で。
でも、言えなかった。言ってしまったら、何かが変わってしまう気がした。毎朝隣を歩いていられる今が、壊れてしまう気がした。だから僕は、その気持ちを誰にも言わないまま、中学校を卒業した。
高校は、同じ学校になった。
三年間、クラスが同じだったことは一度もなかったけれど、それでも登下校は続いた。惰性のようで、でも僕には欠かせない時間だった。
高校三年の冬、初めて雪が積もった日のことを今でも覚えている。
朝、玄関を開けたら結月がもう外に立っていた。空を見上げて、目を細めていた。白い息を吐きながら、「雪だ」とだけ言った。それだけだったのに、その横顔が妙に胸に刺さった。
「寒いね」と僕が言うと、結月は嬉しそうに笑った。寒いことが、なぜかとても嬉しそうだった。意味が分からなかったけれど、その笑顔が好きだった。
学校の帰り道、雪はまだ降り続けていた。街が白くなっていくのを、二人で並んで眺めながら歩いた。
「意外と積もったね」と結月が言った。
「そうだな」と僕は答えた。
それだけの会話だった。でも、僕はその言葉を、胸の奥にそっとしまった。何でもない言葉だということは分かっていた。それでも、雪の中で結月が発したその言葉が、妙に特別に感じた。
凍った歩道で、結月が滑った。
咄嗟に手を掴んだ。結月はバランスを取り戻して、「ありがとう」と言いながら笑った。楽しそうに、少し照れくさそうに。
掴んだ手を、僕はすぐに離した。
離したくなかった。でも離した。このまま握り続ける勇気が、僕にはなかった。
二股の路地に差し掛かったとき、結月はいつものように左へ曲がった。「また明日」と言いながら。振り返らずに。
僕はその背中を見ていた。小学生の頃から、何百回と見てきた後ろ姿。雪の中でそれを見ていたら、何かが喉の奥まで込み上げてきた。
呼びかけようとした。結月、と。
でも、震えていたのは僕の声帯ではなく指先だけで、声は出なかった。
その夜、スマートフォンに何度も自分の想いを打っては消した。最後まで残ったのは「転ぶなよ」の四文字だった。送信ボタンを押して、布団を頭まで被った。
返信は三分後に来た。
気をつける。おやすみ
それだけだった。それだけで、十分すぎるほど苦しかった。
大学は、別々になった。
結月は京都の大学へ進んだ。僕は地元に残った。
送り出す日、駅のホームで結月は「また帰ってくるから」と言った。笑いながら。僕は「そうだな」と言いながら笑い返した。胸の中で何かが静かに沈んでいくのを感じながら。
離れてみて初めて、どれだけ結月が僕の日常に溶け込んでいたかを知った。朝、隣の家の灯りがついていないこと。帰り道に二股の路地で立ち止まる必要がないこと。些細なことが、じわじわと滲みるように積み重なっていった。
連絡は続いた。最初は頻繁に。だんだんと間隔が開いて。それでも途切れなかった。
結月のSNSには、新しい友人と笑っている写真が増えていった。知らない街の景色。知らない店のご飯。知らない人たちと囲む鍋。それを見るたびに、結月が僕の知らない世界でちゃんと生きているのだと分かった。それは喜ばしいことのはずだった。
でも怖かった。結月から見えている景色の中に、もう僕は映っていないんじゃないかと思うと、ひどく怯えた。
二年生の夏、久しぶりに結月が帰省した。
地元の友人も交えて何人かで集まった。結月はよく笑っていた。少し大人になった気がした。でも笑い方は変わっていなかった。寒いねって嬉しそうにするあの笑い方と、根っこは同じだった。
帰り際、二人だけになった瞬間があった。
何かを言おうとした。今なら言えるかもしれないと思った。
結月が先に口を開いた。「また帰ってきたとき、ご飯でも行こう」と。
「うん」と返した。ただ、それだけだった。
その夜、「好きだ」と打っては消した。もう何度目か分からなかった。
社会人になって二年目の冬に、結月は地元へ戻ってきた。
仕事の都合だと聞いた。共通の友人から、偶然に。結月本人からは、何も連絡がなかった。
また同じ街にいる。それだけで、胸の中で何かが動いた。でも連絡できなかった。何年も経って、どんな顔をして、何を言えばいいのか分からなかった。
好まれるような人間だったら。うまく気持ちを言葉にできる人間だったら。強くて、臆病じゃなかったら。そう思いながら、僕はまた時間を手放していった。
一度だけ、彼女を見かけた。
スーパーの野菜売り場だった。結月は一人で、ほうれん草を手に取って値段を見ていた。それだけの光景なのに、胸が痛くなった。同じ街で、こんなふうに生活していたのか、と。
声をかけようとした。一歩だけ、踏み出した。
そのとき、結月のスマートフォンが鳴った。結月は画面を見て、少し表情を和らげてから電話に出た。「もしもし」という声が聞こえた。誰と話しているのかは分からなかった。
僕はそのまま、踏み出した一歩を、静かに戻した。
その冬、雪が降った。
窓の外を見ると、灰色の空から白いものが静かに落ちてきていた。街が少しずつ白く塗り替えられていく。散らかっていた記憶が、雪に埋もれてきれいになっていくみたいだった。
スマートフォンを取り出して、結月の名前を開いた。最後のメッセージは、一年以上前だった。
"意外と積もったね"
そこまで打って、止まった。
この言葉を、僕は一度使ったことがある。高校三年の、雪の日の帰り道。あのとき最初に言ったのは結月だった。僕はそれを胸にしまっておいて、今夜また取り出して、送ろうとしていた。それに気づいて、少しおかしくなった。おかしくて、苦しかった。
長い間、七文字を眺めていた。
送ったとして、結月は何と返すだろう。「ほんとだね」かもしれない。「久しぶり」かもしれない。あるいは既読がついて、それだけかもしれない。どれを想像しても、続きが思い描けなかった。僕たちの間には、埋めるには少し遅すぎる時間が、静かに積もっていた。雪と同じように。
消した。
送れなかったんじゃない。送らなかった。そのことに、今夜初めてちゃんと向き合えた気がした。
窓の外では、雪がまだ降り続けていた。街全体が白く静まり返って、音が遠くなっていた。結月と歩いた帰り道も、あの凍った歩道も、全部雪の下だ。来年の春には溶けて、また同じ景色に戻るだろう。それでも僕は、また冬が来るたびに、雪を見るたびに、きっと同じことを考える。
”雪が綺麗だと笑うのは、君がいい。”
ずっとそう思っていた。これからもそう思うだろう。ただそれだけのことに答えを出せないまま、僕はまた一つ冬を越えていく。
窓ガラスに額をつけると、ひんやりと冷たかった。外では雪が、音もなく降り積もっていた。誰かの足跡を、静かに、丁寧に、埋めていくように。
p.s. 結月
雪の降る日は、決まって彼を思い出す。
帰ってきたのは、仕事の都合だけじゃなかった。それは自分でも分かっていた。地元に戻れば、また同じ街で、何となく会えるかもしれないと思っていた。何となく。そういうふうにしか、思えなかった。
でも彼から連絡は来なかった。
私も、できなかった。何年も空いた時間をどう埋めればいいか分からなかったし、何より怖かった。彼に会って、何も変わっていなかったら。いや、何かが変わってしまっていたら。どちらも怖かった。
一度だけ、スーパーで彼を見かけた。
野菜売り場の棚の向こうに、見慣れた後ろ姿があった。すぐに分かった。二十年以上見てきた背中だから。私は電話が鳴ったふりをして、その場を離れた。本当は鳴っていなかった。ただ、声をかける勇気がなかった。
情けないと思う。ずっとそうだった。
縁側で並んで座っていた頃のことを、ときどき思い出す。
夏は蝉の声を聞きながら、冬は膝に毛布をかけて。彼はよく転んで帰ってきた。泥だらけで、でも泣かないように口を結んで。そういうとき私は、何も言わずにハンカチを出した。何か言ったら、彼が泣いてしまう気がしたから。
ねえ、あのハンカチ。まだどこかにあるかな。
野良猫に引っかかれた日、隣に座っていたのは、ただそうしたかったからだった。慰める言葉なんて知らなかった。でも、一人にしたくなかった。それだけは分かった。五歳の私にも、ちゃんと分かっていた。
小学四年の図工の時間、空の絵を描いた。
青くて、広くて、端っこまで全部青い空。誰かに見せたいと思いながら描いた。誰か、というのが誰なのか、あの頃の私はまだ知らなかった。
出来上がって、先生に貼ってもらったら、隣に彼の絵があった。同じ空だった。同じ青で、同じ白い雲で、どこか似た形をしていた。
”おそろいだね”、と言ったとき、彼は何も言わなかった。耳が赤かった。
あのとき私も、胸がどきどきしていた。言えなかったけど。
中学二年の秋、夕暮れの帰り道で、言いかけたことがある。
本当のことを言おうとした。でも彼の顔を見たら、急に怖くなった。もし今の関係が崩れたら。毎日一緒に帰れなくなったら。そう思ったら、喉が閉じた。
だから「秘密」と言って、前を向いた。
ねえ、あのとき。
秘密にしたのは、、、、、
高校三年の雪の日、手を掴まれた瞬間のことを今でも覚えている。
滑ったのは、半分わざとだった。
本当に滑りそうになったのも確かだ。でも、もう少し彼の近くにいたくて、少しだけ大げさに体を傾けた。咄嗟に手が伸びてきた。温かかった。
ありがとう、と言いながら笑ったのは、その温かさが嬉しかったからだ。
でもすぐに、離された。
その一瞬、私の笑顔が少しだけ崩れた。気づかれなかったと思う。気づかれないように、笑い続けた。
二股の路地で左に曲がりながら、振り返ろうとした。何度も。もし振り返って彼が何か言いかけていたら、私は走って戻っていたと思う。でもできなかった。泣いてしまいそうで。
あの夜、彼から「転ぶなよ」とメッセージが来た。
私も何度も打っては消した。寒かったこと、手が温かかったこと、もう少しだけ……そういうことを、言葉にしようとして、できなかった。最後に残ったのが「”気をつける。おやすみ”」だった。
今夜、窓の外で雪が降っている。
彼も、同じ空の下で見ているだろうか。
スマートフォンを取り出した。彼の名前を開いた。最後のメッセージは、一年以上前。
何かを打とうとして、止まった。
また、できなかった。
ポケットに戻して、窓の外を見た。雪は音もなく降り続けていた。
白く、静かに、すべてを覆うように。
来年の冬も、きっと同じことをしている。そんな気がした。
それでも私は、捨てられなかった。
彼の名前の画面を開くたびに、ほんの少しだけ温かくなるこの感覚を。
”雪が綺麗だね”って、彼に言いたかった。
ただ、それだけのことが。
ずっとできないまま、今夜も雪が積もっていく。
いかがでしたでしょうか。
この話に、事件は何も起きません。たいして長い話でもありません。
告白もなく、すれ違いの劇的な瞬間もなく、二人は最後まで「言わないまま」です。それでも書きたかったのは、そういう時間のことでした。特別な何かではなく、毎朝の登下校とか、路地の分かれ目とか、送信できなかったメッセージとか——そういう、誰かに話すほどでもない小さな瞬間に、人は案外ずっと生きているのだと感じると思うんです。
この話の根本にあるのは皆さんお気づきかと思いますが、backnumberの「ヒロイン」という曲です。
あの曲を聴いたとき、まず思ったのは「この主人公は、ずっと誰かの物語の脇役でいることを選んでいる」ということでした。主役になれなかったのではなく、なろうとしなかった。その切なさと、でもそこに確かにある温かさが、ずっと頭から離れませんでした。
どんな映画を観ても、どんな音楽を聴いても、そのヒロインに重ねてしまうのはいつも彼女だった——この話の冒頭はそこから生まれています。彼にとって、結月はずっとそういう存在だった。日常のあらゆるものの中心に、気づけばいる人。それは恋愛の話であり、同時に、誰かが誰かの「世界の基準」になってしまうということの話でもあると思っています。
最後にp.s.として結月の視点を加えたのは、どちらかが一方的に想っていた話にしたくなかったからです。二人は同じ夜に、同じ雪を見て、同じことができなかった。それでも二人とも、その感覚を捨てられずにいる。
救いのない話かもしれません。でも、捨てられないものを捨てられないまま持っていることは、悪いことじゃないと思っています。
最後になりますが皆さんの応援が心の支えになるのでぜひとも応援よろしくお願いいたします




