番外編③ 国を包む香の伝説
―数百年後の語り部の夜―
夜風が、古い石畳をなでていく。
ランタンの灯りがちらちらと揺れ、
子どもたちの笑い声が市場の奥から聞こえた。
「おじいちゃん、今日の話はなに?」
小さな少女が、焚き火の前で目を輝かせる。
「ふむ、そうだねぇ……」
語り部の老人は、椅子に深く腰を下ろし、
皺だらけの手を温めるように火を見つめた。
「今日は、“香草の国”の始まりの話をしようかの」
子どもたちは「やった!」と声をそろえる。
その国の名を知らぬ者など、この大陸にはいない。
空気はいつも花の香りに満ち、
病も争いも少ない平和の国――
リュシオン王国。
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Ⅰ.香りが風になった日
「昔々、この国に“香りを編む娘”がいたそうじゃ」
語り部の声が、焚き火のはぜる音に溶けていく。
「娘の名はミナ。城下の小さな雑貨屋で働いていた。
貧しいが、いつも笑顔を絶やさず、
人の心を癒やす香りを作る不思議な力を持っておった」
子どもたちが「魔法使いみたい!」と目を輝かせる。
老人は頷いた。
「そう、魔法のようだった。
けれど娘は、魔法なんて知らなかった。
ただ“人を想う心”が、香草を通して香りになっておったんじゃ」
老人の声が少し低くなる。
「そんな娘に、ある日、ひとりの青年が訪ねてきた。
彼は身分を隠していたが――王子だったそうじゃ」
「わぁ、王子さま!」
「うむ。
けれど王子は戦や政の疲れで、
心がすっかり壊れかけておった。
娘の香りだけが、彼を現に引き戻したんじゃ」
子どもたちは息を呑む。
焚き火がぱちん、と弾けた。
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Ⅱ.ふたりの選んだ道
「やがて、王子は王になった。
民の声を聞き、庶民と共に歩む王。
そして王妃となったミナと共に、
“香りの力”を国づくりに生かしたそうじゃ」
「どうやって?」
「香草を使って、疲れた兵士を癒やし、
薬を作って貧しい者を助け、
祭りのときには街中に香りを流した。
争いをやめるために、武器ではなく香りを使った――
それが、この国の始まりじゃ」
子どもたちは目を丸くする。
「でも、おじいちゃん。
香りで戦争を止められるの?」
「止められたんじゃよ。
なぜなら、人は“穏やかな香り”の中では、
怒ることを忘れるからな」
老人は目を細めた。
遠い昔を懐かしむように。
「ミナと王の時代から、
この国では“香草の日”という祭りが生まれた。
その日、みんなが花と香りを分け合う。
それが、平和の誓いの証なんじゃ」
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Ⅲ.香草の伝説
「でもね、子どもたち」
老人は声を落とした。
「その二人は、もうずっと昔にいなくなった。
けれど、不思議なことがあるんじゃ」
「なに?」
「国中どこを探しても、
“王妃ミナ”の墓が見つからんのじゃ。
王の墓のそばにも、記録の中にも。
ただ、春の夜になると――
城の下の古い井戸から、
リリィの香りがふわりと漂うそうじゃ」
焚き火の火が、ゆらゆらと揺れる。
「それはね、王が亡くなったあとも、
王妃がそっと国を包んでおる証なんじゃと。
“香草の風”になって、
この国の人々を見守っているんじゃ」
静寂。
そして、子どもたちのひとりが、
胸いっぱいに夜の空気を吸い込んだ。
「……ほんとに、いい香りがする」
風が通り抜ける。
どこからともなく、白い花の香りがした。
老人は微笑んで、目を閉じた。
「ほら、言ったじゃろ。
今日も“香草の王妃”が、
この国を見ておられるんじゃよ」




