神獣との契約
その知らせは、思いのほか早く届いた。
村の門を駆け抜けてきた早馬の背から、泥だらけの使いが降り立つ。息を切らしながら広場に立ち、震える声で告げた。
「お、王都に……白き神獣の噂が届きました……! 領主家と教会、双方から報せが入ったようです。近いうちに、王宮の使者が派遣されるとか……!」
ざわめきが一気に広がる。
「王宮の使者!? すごいぞ!」
「ついに国が動くのか!」
「これで村も安泰だ!」
村人たちは歓喜に沸き、まるで祭りのような騒ぎとなった。だがエリオだけは顔をしかめる。
――やっぱりな。領主や教会が動いた時点で予想はしていたが……こんなに早いとは。
視線をやると、シロは子供たちに耳飾りをつけられ、満足そうに尻尾を振っていた。無邪気な姿が、かえって胸を重くする。
「おい、エリオ」
肩を叩いたのは村長バルドだった。
「これで村の未来は安泰じゃ! 王都に守られれば、魔獣も盗賊も恐れるに足らん!」
「……本当にそうですかね」
エリオは低く呟き、鍬を握る手に力を込めた。
「王都の連中が欲しいのは守ることじゃない。シロの力そのものだ」
その声は喧騒にかき消され、誰の耳にも届かなかった。
胸の奥で、嫌な予感が確信へと変わっていくのを、エリオははっきりと感じていた。
夜。村の喧騒が収まり、囲炉裏の火だけが赤々と揺れていた。
エリオは鍬を膝に立てかけ、眠るシロを眺めていた。小さな寝息に混じって、ときおり尻尾がぱたんと動く。――だが、その瞬間だった。
ふいに光が漏れ、囲炉裏の影が一気に伸びる。
眩い輝きに包まれ、シロの姿はたちまち変わっていった。白銀の毛並みが燃えるように揺らめき、金色の瞳が夜を射抜く。
そこに立っていたのは、白き神獣――シリウスだった。
『……人の子、エリオよ』
低く響く声が、直接胸に刻み込まれるように響く。
「な……なんだ、いきなり……」
思わず鍬を握り直す。だが敵意はなく、ただ真剣な気配が漂っていた。
『このままでは我は力を振るうたび、周囲を揺るがし、さらなる争いを招く。人の世で生きるには枷が必要だ。』
シリウスはゆっくりと歩み寄り、エリオを見下ろした。
『ゆえに、契約を結ぶ。汝と我は伴。血ではなく、意志をもって繋がるのだ。』
「契約……だと?」
エリオの喉が鳴る。逃げたい思いと、不思議な高揚が胸の奥でせめぎ合った。
『汝が受け入れるならば、我が力は制御され、ただ村を守るためにのみ振るわれる。汝は媒介となり、我が声を正しく聞く唯一の者となるだろう。』
神獣の瞳が、焔のような輝きを放つ。
エリオは言葉を失ったまま、その光に飲み込まれていった。
眩い光が一瞬、村全体を包んだ。
エリオの胸元に熱が走り、まるで焼印を押されたような感覚が広がる。見ると、胸に淡い紋章が浮かび、白い光の線がシリウスへと繋がっていた。
『……これで契約は成った』
神獣の声が静かに響く。
『汝は我が伴、媒介にして証人。汝を通じてのみ、我が力は世に振るわれる』
エリオは息を詰めた。胸に刻まれた紋章が、脈動するたびに鼓動と重なり、まるで心臓そのものを掴まれたような感覚がする。
「……こんなこと、俺にできるのか」
思わずこぼした呟きに、シリウスは金の瞳を細める。
『できる。汝はすでに我を選んだ。恐れるな。これは主従ではなく伴――共に歩む契約だ』
次の瞬間、シリウスの輝きはふっと収束し、小さな白犬の姿へ戻った。だが光の紋章は、エリオの胸にしっかりと残っている。
「……なんだ、今の光は!」
「見たか!? 神獣様とエリオさんが……!」
騒ぎを聞きつけて駆け寄った村人たちは、広場に集まって口々に叫んだ。
「エリオさんが選ばれたんだ!」
「神獣様の声を聞けるのは、彼だけなんだ!」
「守り神と伴にある者……!」
人々の視線が一斉に注がれ、エリオは背筋を強張らせた。
「ちょ、ちょっと待て! 俺はただ……!」
だが村人の熱狂は止まらない。信仰はさらに強まり、エリオの否定はまたしても掻き消されていった。
その夜遅く、王都から放たれた早馬は、既に隣町を抜けて村へと迫っていた。月明かりを浴びて走るその影は、ただの伝令ではない。背には王都の紋章を刻んだ旗が揺れ、重苦しい使命を帯びていた。
同じ頃、村では興奮冷めやらぬ人々が広場で語り合っていた。
「エリオさんは選ばれし伴なんだ!」
「これで村は神獣様と一体だ!」
「王都にだって胸を張れるぞ!」
歓喜と熱狂の渦に包まれる中、当のエリオは囲炉裏の端でひとり項垂れていた。胸に刻まれた光の紋章がじんわりと脈動し、まだ馴染んでいない感覚を訴えかけてくる。
「……どうして俺なんだよ」
低くこぼした声に、隣で丸まっていたシロが片目を開ける。
『汝しかいなかった。ただそれだけのことだ』
「軽く言うなよ……。これじゃあ俺が標的にされるじゃないか」
返事はなかった。代わりに、尻尾がぱたんと一度だけ音を立てた。それは励ましなのか、ただの癖なのか――エリオにはわからなかった。
やがて夜を裂くように、遠くから馬蹄の音が響いた。まだ村の外れだが、確実に近づいてきている。
誰よりも早くそれに気づいたエリオは、重い息を吐いた。
「……静かな隠居生活が、また遠のいていく」
胸の紋章がかすかに光り、嫌な予感を裏付けるように脈打った。