村で犬を拾ったら
畑の土は、剣よりもずっと素直だ。
鍬を振れば、そのぶんだけ返してくれる。
元冒険者──エリオは、そんな土相手の暮らしに満足していた。
「もう戦いなんてごめんだ。俺はここで一生、畑と一緒に静かに生きる」
朝の畑には風が通り抜け、遠くで村の子供たちの笑い声が響く。
肩にかけた鍬の重さすら、今では心地よい。
追放されたことも、もう悪くないと思えるほどに。
だがその日、森の外れで妙な声を聞いた。
弱々しい「くぅん……」という鳴き声。
草をかき分けると、白い毛並みの犬が倒れていた。
まだ若いのだろう、小柄で、人懐っこそうな顔をしている。
「お前、こんなところで……」
慌てて抱き上げると、冷たい体が小さく震えていた。
傷もある。放っておけば、命は長くないかもしれない。
エリオはため息をついた。
「……また面倒を背負い込んじまったな。俺はもう、誰かを守る立場じゃないはずなのに」
けれど、その犬は弱った声で「わふ」と鳴き、尻尾を振った。
その仕草があまりに無垢で、エリオの胸の奥を突く。
「……しょうがない。今日からうちで世話してやる。名前は……そうだな、シロでいいか」
そう言うと、犬は嬉しそうに小さく吠えた。
新しい暮らしに、思いがけず白い相棒が加わった瞬間だった。
シロを拾ってからというもの、村の暮らしが少し賑やかになった。
畑に出れば、勝手に土を掘り返しては虫や芋を見つけてくる。
「おいこら、やめろ! そこは今日まいた種だ!」
必死に追いかけるエリオの横で、子供たちが笑い転げる。
「エリオのおじさん、新しい家族ができたんだね!」
「わんちゃん、かわいい!」
子供たちの手に揉まれても、シロは尻尾をぶんぶん振って応えていた。
村人も温かく迎えてくれた。
「お前さん、犬なんて珍しいな。村に守り神が増えたようだ」
「ほんとだ。なんだか空気まで澄んできた気がするぞ」
実際、不思議なことが起きていた。
井戸の水がやけに澄み切って甘くなり、病床に伏せていた老人の顔色が少し良くなった。
畑の芽も、いつもより力強く伸びているように思える。
エリオは首をかしげた。
「……まさか、犬のおかげってことはないよな」
だがシロは無邪気に吠えるだけで、答えるはずもない。
夜、囲炉裏の横で眠るシロの寝顔を眺めながら、エリオは小さく笑った。
「俺には戦う力も、大層な夢もない。けど……こいつとなら、静かに生きていける気がする」
そのときだった。
シロの白い毛並みが、かすかに淡い光を帯びた気がした。
見間違いかと思い、瞬きをしてもう一度見ると、ただ無邪気に眠っているだけだった。
「……疲れてるのかな、俺」
そう呟き、エリオも眠りについた。
穏やかな日々は、ある晩に破られた。
遠くで村人の悲鳴が上がり、エリオは鍬を掴んで外へ飛び出した。
畑の向こうから、数匹の魔物が姿を現す。
牙をむいた灰色の獣、腹を空かせた狼の群れだ。
「くそっ、よりによって畑に……!」
狼たちは芽吹いたばかりの作物を踏み荒らし、家畜小屋に近づいていく。
村人たちは慌てて子供を抱え、家の中へ逃げ込んだ。
エリオは鍬を構え、歯を食いしばった。
「俺はもう戦いから逃げたはずなのに……。でも、ここで逃げたら何も守れない」
勇気を振り絞り、狼の一匹に飛びかかる。
鍬の刃先が肩口をかすめ、血が散った。
しかし狼は怒り狂い、エリオに牙を剥いて跳びかかる。
「ぐっ……!」
体勢を崩したエリオは、地面に倒れ込む。
息が詰まり、全身に冷たい恐怖が走った。
その背後から、小さな影が飛び出した。
シロだ。
「わふっ!」と吠え、エリオの前に立ちはだかる。
体は小さい。牙も爪も狼には到底かなわない。
「やめろ、下がれ! お前までやられる!」
必死に手を伸ばすが、シロは動かない。
代わりに、その白い毛並みが淡く光を帯びていく。
空気が震え、風がざわめいた。
狼たちが一瞬たじろぎ、村人たちは目を見張る。
「……まさか」
エリオが息を呑む中、シロの姿は光に包まれ、少しずつ変わっていった。
光が弾け、白い毛並みはたちまち眩い輝きを放った。
小さな体は伸び上がり、赤い文様が浮かび上がる。
尾は炎のように揺らめき、瞳は黄金に染まっていた。
そこにいたのは、もはやただの犬ではなかった。
大地そのものが息づくかのような威厳をまとった、神獣だった。
「……こ、これが……シロ?」
呆然とつぶやくエリオに、低く響く声が答える。
『我が名はシリウス。この地を護る者なり。』
荘厳な言葉とともに、風が巻き起こる。
狼たちは恐れをなして後ずさりしたが、逃げる暇もない。
シリウスの咆哮が夜を裂き、光の奔流が畑を駆け抜けた。
一瞬で狼たちは薙ぎ払われ、静寂が戻る。
村人たちは息を呑んで立ち尽くした。
畑は守られ、家畜も無事。
ただ、夜気にはまだ神聖な気配が残っている。
『人の子よ。畑を荒らす者は、我が許さぬ。』
シリウスは黄金の瞳でエリオを見下ろした。
その声は畏怖すべきもので、村人たちは震え上がる。
だが次の瞬間——
『……して、飯はまだか?』
エリオは思わず膝から崩れ落ちた。
「……最後の一言で全部台無しだろ!!」
村人たちの畏敬の眼差しと、エリオの絶叫が交錯する中、
神獣シリウスはしれっと尻尾を振っていた。
こうして、エリオの静かな隠居生活は、白い相棒とともに大きく狂い始めたのだった。