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蕩けた鉄の海 ユピタ

作者: オアシス


 その日はいつもと変わらない日常だったかもしれない。

 緩やかに朝を起きて歯を磨く時、またはジムへと足を運び下半身の追い込みを掛けようと汗水を垂らした時、若しくは仕事の合間に情けなく傾ける、ペットボトルの飲料を口に含んだ時かもしれない。

 曖昧だ。頭の中が混乱して、その全てがそうなんじゃないかと、そんな気がして答えが出ない。こうやって理由無き理由にひたすら悩まされるのも、ある意味では逃避、この現状から目を逸らす心の防衛か。

 あらゆる可能性を考える事の無意味さには反吐が出る。結局そのせいで、私の足は動かず、その意義を失って呆けているのだから。

 重要な事柄は始まりではない。何故そうなってしまったのか、何故私はこのあり得ざる何かに巻き込まれてしまったのか。そんな物は事ここに至っては捨て去るべきだと、そう強く念じても抜けた体には力が籠らない。

 

 大地とは、命の支えである。海とは、生命の揺籃である。空とは、進化の極限である。私が知っている、皆が知っている、地球に生きる生命の全てがその寛大さと期待を知っている。

 ならば、この現実には、私達を寄せ付けない偏屈さが垣間見える。緋く熟した空には届かぬ文明の悲哀を嘲笑い。乾き、一歩だけでも進めば足を取られる地面には、失敗をしたまま沈んでいけと、再起を望まない終焉の手招きがある。

 そして、私の目の前の、鈍銀か鉄の大海原には音が無い。見慣れた物から離れた違和は重要ではない。私にはその音の所在の在処の方が遥かに重要だった。聞くからこそ口を開く。口を開くからこそ聞く。此処には、相互のやり取りなど存在しない。

 寄せては返す波に、跳ね返る鉄水が宙を舞う。それならばコミカルに、肩の力が抜けそうな、そんな優しさでもって源の地だと主張してもいい。

 何故それをしない。何故、黙りこけ、崖から今にも落ちそうな馬鹿者を見るような目で、この動揺する私の有り様を見続けるのか。そういう振る舞いをするから、恐怖の色も怒りの色も、飲み込まれた鈍銀に希釈され、私は今何を感じているのか分からない。


 海が時折その怒りでもって堕落を押し流すように、この鉄の海はその思考を飲み込んで平坦にするのだ。幅のある生命の喜怒哀楽を、縦横無尽に喚き散らす私達の無邪気さを、この海は否定し、ただ均して、無知蒙昧に落とし込み、人間社会の研鑽など愚かであると、一本の拙い線へと形に押し固める。

 私が感じている焦りと混乱の坩堝が、歴史に価値無しと断じる極大な判事に対する抗議。弁護人はいないただ一方的な判断を下される事に納得いかないと心が主張しているもの。

 それのなんと恐ろしきか。鉄の海が黙しているその意味を、ただ反証を認めず喚き散らす者の滑稽さを、この海は無表情に独自の刑を下す。玩具の可動域を超えて壊す、子供の手と違いがない。

 明らかに異質なものだ。私が今立つ此処は、本当に地球の一部なのか?。違う、違う、違う。しかし、ならば、私はどんな道程でもってこの場に来るのか。私の思考は無駄だと断じた始まりへと回帰する。

 

 思考の輪は裏と表を失くした。そして、耐え切れず不意に感じた眩暈が、私の体を支えようと足を出した。飲み込まれる。飲み込まれる。この地面が、私の体を掴みゆっくりと引き摺り込む。吹き出した粘りつくような汗すら私を離してはくれない。

 助けを求めようと伸ばす天に、我々が想い描き救いを求めた神はいない。爛れた、愚かなる真実が、狂気なる幻想を纏い、定まらない瞳に啓示を与える。そんな物は要らないと駄々を捏ねようと私の五感が肯定するのだ。私の全てを、私は信じられない。

 卑怯なる大地の中は、私の肌を伝い、まさぐり、それは値踏みをしているようだった。酷く不快で、強張る体が、もがき、もがく内に更に飲み込まれていく。

 私はその時、そうなって、そう差し迫ってやっと、震える口から絶叫を搾り出した。主よ、主よ。そう哀れにも繰り返し、壮大なフィクションに助けを求めるのはなんと滑稽か。


 胸まで沈み、肩まで浸かり、喉元を張って、口周りを覆って、そして鼻までを優しく包容する。嫌だ、こんなものは認められない。何故私が選ばれたのだ。こんな結末を迎える謂れはない。

 無慈悲にも私の視界すら隠そうとした時、私は鉄の海の果てに浮かぶ物を見た。それは海原と変わらぬ配色で、神経質なほど長方形に、鉄の棒の如く構造体が静かに回転している。

 凝らした瞳がその奥に何かがあると捉えた。それは輝きかもしれない。或いは暗闇かもしれない。それを眺める、あり得ざる第三者かもしれない。

 私に興味を持ったのか? だから現れたのか? ならば救ってくれ。この泥濘を剥ぎ、私を元の場所へ、種々に生命が色めくあの地球へと私を返してくれ。


 鉄の構造体は沈黙を続ける。それは私の無様な様を眺め、そして視界すらも飲み込まれるその時まで、ただただ物言わぬ観測を継続させた。

 私の命が、飲み込まれていく。暗黒の咀嚼に晒されながら、私はただあの瞳が未だ私を見続け、見て、見る事をやめないと、それだけを理解していた。

 強大なる物は干渉しない。その孤独な宇宙に於いて観測を使命に、あらゆる生命を悪戯に招き飲み込んでしまう。意思はあるのか?否、最早これは役割に当てられた役者の振る舞い。

 人、それを神と呼ぶ。......そうか、そうなのだ。私は常軌を逸した超宇宙の意思、そのお眼鏡に適ったのだ。理解した、理解出来た。これでいい。何も、何も怖がり無様を晒す必要など、なくて良かった。


 ユピタ。その視力は千里を見通し、遍く循環に横槍を入れて、己の体へと時折運び、人智を超えた気付きへと昇華させ与える。

 ユピタ。その者は暗黒の星雲の端に居座り、他の神と張り合う事を選ばず、生命原理の闘争から外れた、黙して意思を伝えない不器用な神。

 ユピタ。蕩けた鉄の血液、沈み込む泥の体。荒れ果てた宇宙の小部屋。信仰を求めず、力を求めず、排斥される事を求めず。

 見て、見られ。見られ、見て。その果てしなきものを、目的を、私達は知る由もない。私達の想像などは及ばない、大きな視点がそこにあるのだから。

 ただ、見られ続けている。それだけを、私達は知っていれば良い。


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