ブルー 06
「キオクソーシツ?それって記憶がないってこと?まじで?」
「気がついた時には、ハルトを守らなきゃ!って戦ってたんだ。もしかすると、あの電撃のせいかもな」
ブルースのいう『キオクソーシツ』は、俺の願いも虚しく記憶喪失のことで、謎のドラゴンの解明に至る手がかりは断たれてしまった。
「あの世界はなんなんだ?それくらいも覚えてないのか?」
「ハルトは、こっちの世界の名前を聞かれたらなんて答える?」
「えぇー、なんだよその質問。まぁ、現実世界とかなんじゃないの?現実なんだし」
生まれてこの方、この世界しかしらない。ここが現実で、あの世界は夢だったと言われたほうが、まだ納得できそうだ。
「俺にとっての現実は、あっちの世界なんだよ。つまり、どっちも現実世界ってこったな」
「そんなバカな。両方、現実なんてあり得ないよ」
「あり得るんだから仕方ないだろ。まぁ、主観の問題だからな。こっちもあっちも現実世界でいいじゃないか。それがフェアだろ?」
「なんだかなぁ。やっぱり忘れているだけじゃないのか?」
記憶喪失になったことを少しでも誤魔化そうとするために、もっともらしいことを言っているだけのような。本気のような。ブルースを信頼するには、まだ時間が足りなかった。
「まぁ、それは否定できないが、ちゃんと思い出したこともあるぞ」
「へーへー、どうせくだらないことだろ?」
あっさり物事は解決して、変わらぬ日常が戻ってくることを密かに願っていた俺は、投げやりになり始めていた。
「なんだよ?そんな言い方はないだろ?あの世界とこっちの世界の移動方法だぞ」
「まじか」
それは重要事項。仮にまたあの世界に迷い込んでしまったとしても、その方法がわかっていれば戦いに巻き込まれる心配もなくなりそうだ。
「鍵は、場所とあの女の子だ」
「女の子ってナギサさん?」
「そうだ。あの女の子と駅とハルトが鍵になっている。ハーマングリッド現象って知ってるか?」
首を横に振る。ブルースが勝ち誇った顔をしているのが憎らしい。
「簡単に言うと目の錯覚だ。一定間隔に並べられた四角形の間に、隙間で道筋を作ってやるとだな、その交差点にありもしない点が見えてくる」
「まさか、あの世界が目の錯覚って言うんじゃないだろうな」
「なんだ、飲み込みが早いな。この現象が起こるはっきりした原因はわかっていないんだが、錯覚の根源は格子。それが重なる所で脳が別世界の現象を捉えているとしたら、どうだろう?つまり、錯覚と認識している事象は、別世界で実際に起こっている事象なんだ。俺たちは、その重なる点を観測しているに過ぎない」
昨日までの俺なら、『別世界』なんて単語が出た時点で鼻で笑っていたに違いない。しかし、幸か不幸か、こんな荒唐無稽な話を受け入れる体制は整ってしまっていた。
「それが本当かどうかは置いておいてもさ、線路だけでは格子状とは言わないんじゃないか?横の線が線路だとして縦の線はなんなんだよ?」
「言ったろ、あの女の子が鍵だって。横の線はハルトが言う通り線路だ。そうなると、状況としては縦の線は視線しかない。しかも、別世界との接点を認識するくらいだ。1人の脳みそじゃ無理」
「視線?そんなことで認識できるなら、毎日行方不明者が続出じゃないか」
「だから、一定間隔って言ったろ?ちょうど良いバランスの相性が大事なんだよ。それこそ運命の相手レベルのやつ。良かったなハルト、お前達の相性は抜群ってことだ」
そう言われてしまうと嫌な気分はしない。ブルースが言ったことを全て飲み込めてはいないが、おおよそそういうことだ。そうしておかないと、あの世界に迷う混んでしまう恐怖に付きまとわれることになる。
今の話が本当であるなら、今夜は安心して眠れそうだ。あの世界に行くには、ナギサさんが欠かせないのだから。
「……ってことは、ブルースを帰す時には、ナギサさんに手伝ってもらわないといけないのか」
「せいぜい仲良くしておいてくれよ?俺だっていつまでも男と共生生活なんてしたくないんだ」
「それは俺もだよ。お願いだから、早く良くなってくれよ」
ブルースの姿が消えてしまった。また眠りについたのだろう。部屋は広いが、2人では狭い。寝る時にあんなに炎が揺らめいていたら、眩しくて寝付きが悪くなりそうだったから、少しだけほっとした。
ブルースとの話が終わったところで、ベッドのそばに置いてあったコードレスのヘッドホンを装着して、そのままベッドに寝転ぶ。そして、お気に入りの音楽をかけ始める。
今日はもうキャパオーバー。こんな日は、耳に蓋をして殻に籠るのがハルトの日常だった。
キレの良いギターで始まった曲は、最近、下北沢で人気が出始めている4人組バンドのものだ。
動画共有サイトに上がっていたPVを見て、すぐさまSNSを通して自主制作したシングルCDを手に入れたのは、引越しの数週間前。送り先の住所がどう考えてもドラマー個人宅だったが、事務所に所属していない彼らにそれをどうにかできる資金が足りないの明白だ。少しでも活動が長く続くように応援しなければならない。このギターソロが聴けなくなるのは悲しい。
「なんだぁ?この曲?」
「なんだ起きてたのか。いい音だろ?」
ギターの音に誘われて再びブルースが姿を現した。なかなかわかるやつらしい。語れる相手が欲しかった俺は、ここぞとばかりに鼻穴を広げて、このバンドの素晴らしさを語りだす。
「今に人気が出るぜきっと」
「そうかぁ?」
「なんだ、聞き入ってた割に好きじゃない感じ?」
「そういうことじゃねぇよ。才能あると思うぜ、すごくキャッチーなリズムだしよ。ただーー」
ブルースはそこで言い淀む。
「ただ?」
「このギターには魂がねぇ。色気って言うのかなぁ。心が震える何かがよ。ここ数年だとアメリカのライリー・ジョンソンくらいか?俺のお眼鏡にかなったのは」
ブルースがタバコを咥えていたなら、ここで煙を吐き出したのだろう。そのくらいの間があった。
「な、な、なんだと!このバンドがどれだけ苦労してここまで来たと思ってるんだ!」
この言葉で本格的に火がついた俺は、夕飯を食べることすら忘れて、ブルースにこのバンドの素晴らしさを1から叩き込むのだった。