ブルース 05
そいつは大穴の底からやってきた。
山羊の特徴を備えた人型の怪物。背中にはマーブル模様の蝶の羽根が生えていて、虹色に淡く発光している。悪夢から更に深い悪夢に誘う悪魔。俺はそう思った。
地の底で生まれた悪魔が不自然に長い手を大穴の縁にかけて、外の世界に這い出る。その気になれば、ブルースだって握り潰せてしまいそうだ。
翼をはためかせ、接敵したブルースは、立て続けに炎を浴びせる。離れた場所にいる俺にまでその熱気が届く。それでも目を背けることはできなかった。1秒でも長く、あの姿を目に焼きつけたい。
ブルースが迫る両手を避ける。上下左右に飛び回り時折フェイントを挟む。そして、振り向きざまに顔面に火炎弾を2発。動きに対応できていないのは明らかだ。
この世界に迷い込んでから、何度も俺を助けてくれたのはブルースだった。俺がナギサさんの願いを叶えるために力になれたのも彼のおかげだ。
だから、俺はここにいる。ブルースが守ったのはナギサさんだけではない。それをあいつはわかってない。
再度、ブルースは悪魔の顔面に向かって接近する。しかし、悪魔が咆哮をあげると、ブルースは波に流されるように吹き飛んだ。少し遅れて、俺の周りの空気が震える。音だ。音の塊をぶつけたんだ。
体制を立て直したブルースは、遠隔から炎をぶつける。悪魔は手で払いのけるが、弾数に対応できていない。何発か直撃し、体制を崩した悪魔の隙を見逃すブルースではなかった。
青い弾丸が羽根を小さく折りたたみ、自然落下に身を任せ、急接近する。
そのことに気がついた悪魔が、追撃から逃れるために虹色の羽根を羽ばたかせると、同じ色の鱗粉が周囲に舞った。それでもブルースはためらわずに突っ込んでいく。
しかし、その中では空を支配していたドラゴンも本領が発揮できない。炎を吐いても、鱗粉に遮られる。力が分散し、いくつかの炎の筋が外に漏れ出す。
鱗粉の影響下から逃れるべく、ブルースは高く上昇した。その体には鱗粉が張り付き、ところどころ虹色に輝いている。その部分だけが異世界に侵食され、ここから消え去ってしまったような、そんな印象を感じさせた。
再び急降下したブルースは、翼で鱗粉が展開された空間を両断する。悪魔が掴み掛かろうと手を伸ばす。しかし、緩慢な動きだ。手を握った時には、ブルースの姿は遥か後方に位置していた。
いつの間にか手が汗ばんでいた。そんなことにも気づかずに戦いに見入っていた。俺が扱う以上に動きが滑らかで俊敏だ。俺もあの姿で戦ったから余計にわかってしまう。
ブルースは、倒れ込んだ悪魔に体制を立て直す隙を与えない。次々に炎を叩き込み、起きあがろうとする体を拘束する。その動きは的確だった。必要な場所に必要なだけ。俺のように手当たり次第に炎を撒き散らかさない。
その姿は美しく、華麗で、何より強くて最強でかっこいい。
足に弾丸のような猛スピードで体当たりをくらった悪魔は、悲鳴にも似た声をあげて体制を崩した。
穴から這い出たはずの悪魔は、いつの間にか生まれた場所に戻されていた。
それを見下ろすブルースは、腹の奥底まで震える咆哮をあげると、全身が青い炎で包まれた。薄暗くなってしまったこの世界に、再び青空が戻ったと錯覚するには十分な光だった。
時間と共にその光は強くなる。だが、鱗粉に侵食せいなのか出力が安定しない。炎がぶれて消えそうになる時もあった。侵食が特に酷い右腿のあたりの炎にその傾向が現れていた。
ブルースは大穴の底に向かって突進する。俺は空に残った青白い炎の軌跡を目でたどった。そこには燃やした命の欠片があるように思えてならなかった。
大穴に世界を燃やし尽くさんばかりの炎が広がる。その光景を見て、1粒だけ涙がこぼれた。
やがて炎の勢いが弱まり、大穴からふらつく飛行でこちらに向かってくるドラゴンがいた。ブルースである。左目は潰れ、両足は力無くぶら下がっているだけだ。それでも両手で優しく包んだものを傷つけないようにゆっくりと飛んでいた。
俺がいるビルの屋上に、ブルースはほとんど落ちるように倒れ込むように倒れ込んだ。それでも両手は包まれたままだった。
静かに開かれると、その中にはナギサさんがいた。気を失っているようだが、深く呼吸をしている。その胸にはしっかりとあのギターが抱えられていた。ボディのところどころが青く染まっている。
ハルトは、ブルースが連れ帰ったナギサさんを自分の傍に横たえる。顔色は悪くない。時期に目を覚ますだろう。
「見てたか?」
「見てた。かっこよかった」
ブルースが目を細めて静かに笑う。ナギサさんとは対照的に呼吸が荒い。細い管を無理やり広げて息を吐き出しているのか、ひゅーひゅーと音がしている。
「ほら、ブルース。俺の中に戻れ。もっと昔の音楽の良さを教えてくれよ。なぁ?」
ブルースは首を振る。虹色に侵食された部分は、範囲を広げ、今や体表の7割程に及んでいた。まだらに侵食された体は、呼吸により上下するだけで、否が応でも別れが近いことを告げている。
「ハルト、お別れだ。ありがとな」
傷ついたドラゴンは体を起こし、翼を大きく広げた。俺とナギサさんはその影に抱かれる。にっこりとブルースが笑った。それだけで十分だった。無理に笑った顔は歪んでいる。言葉にしなくても、相棒の言いたいことが俺にはわかる。その思いに応えるため、精一杯頬を上げて俺も笑った。
「ブルースのおかげで魂が震える毎日だった」
俺とブルースの間にこれ以上の言葉はいらなかった。
ブルースの頬から鱗が剥がれ落ちると、青い炎となってこの世界に溶け出した。その勢いが増すごとに青い炎と虹色の光が混ざり合い、渦を巻いて消えていく。
俺は最後まで目を離さずに見送った。そこにいたはずの青いドラゴンはもういない。
ナギサさんの隣に横たわり、空を見上げる。ブルースのような青色だった。目を閉じると、彼との思い出が繰り返し流れた。俺は俺の中にいた相棒のことを忘れない。
ナギサさんが目覚めるまでは、どうかこのままで。