ブルース 04
壁一面にギターが立てかけられている。確かめるまでもなく、全てが真っ白だった。
戻って来れた。その事実に安堵する。
投げ出されたままの四肢を動かし、立ち上がる。節々は痛み、体が重い。乗り物に酔った時に似た感覚に襲われる。
周りに警察官はいない。あの真っ白なギターに触れた時、俺だけがこっちの世界に移動したのだ。
きっとブルースが導いてくれたのだろう。そう思うと心強かった。
念の為、店内のギターを確認してみた。やはりと言うべきか、店内にはナギサさんが抱えていたギターは残されていなかった。あれは彼女と共にあるのだろう。
そうであれば、ここはあの日の延長線にある。外の状況も、ある程度は察した。あの巨大な繭はそこにあるはずだ。
慎重にビルの中を進む。ブルースになれないということは、この世界の敵に対して抗う力がないということ。申し訳程度の力は残されているものの、これもいつまで使えるかわからない。敵に遭遇しないに越したことはない。
1階まで降りると、外から戦いの音が聞こえた。俺は物陰から外の様子を窺おうとするが、陳列棚が邪魔で状況が把握できない。遠くで瓦礫が崩れる音がした。
焦ったい。しかし、気持ちは落ち着いている。ブルースと共に乗り越えた戦いの経験が、俺の中にも息づいているのだ。こんな場面こそ、慎重にならなくては。
正面玄関の方には、例のケーブルが見えた。動きはないが万が一のこともある。息を潜めながら、南側に移動する。そこには、人が1人通れるくらいの片開きの扉があった。こちらの方が、あの光る繭に近い。
慎重に扉を開けて外に出る。敵の気配は感じられない。相変わらずの色のない街だったが、空の色がいつもよりもくすんで見えた。
また戦闘の音が聞こえる。ビルの中では、判別がつかなかったが、これは炎が燃え盛る音だ。
音がしたのは、この世界では失われてしまった仙台駅の方角。あるべきところには、大穴が空いている。やはり、前回、破壊したまま修復されていないようだ。
そして、その音の主は、仙台駅があった場所に生じた大穴から姿を見せた。
「ブルース!」
思わず叫んだ。青い鱗に黄金の瞳。間違いない。俺の知るブルースだ。
距離があるせいか、こちらには気がついていない。何度も大穴に向かって炎を吐いて、それらを追うように飛び込んでいった。
また、炎が燃え盛る音が聞こえた。大穴から漏れ出る淡い光が青色に染まる。俺はいても立ってもいられなくなって、走り出した。
炭化した大木の成れの果てを支えに、大穴を覗き込む。炎の熱で生じた上昇気流が吹き上げ、たまらず目をつぶった。
すこしずつ風が弱まり、薄く目を開けると、ブルースはそこにいた。繭に取り付き爪を立てている。あそこはナギサさんが消えたあたりだ。
「ブルース!」
もう1度、ブルースの名を呼ぶ。今度はこちらに気がついた。こちらを見上げ、目を丸くしている。そして、何かをこちらに伝えようと声をあげている。
しかし、それは俺には届かない。突然始まった地鳴りにかき消されたのだ。
揺れは時間と共に激しくなり、大穴が少しずつ広がっていく。逃げなければと、頭ではわかっているのに体が動かない。大木の成れの果てにしがみつくのが精一杯だった。
しばらくして揺れが止んだ。しがみついていた大木のすぐ近くまで大穴は広がっていた。足元の小さなコンクリート片が音を立てずに落ちていった。あたりは静まりかえり、空気が神社の境内のように澄んでいる。何が変わった。だけれど、それを言葉に表すことができない。
這うように大穴に近付くと、急上昇したブルースが鼻先を掠め、思わず尻餅をついてしまった。そして、体制を立て直す前に急旋回した彼に掴まれ、その場から離される。
「バカか!?なんでここに来た!」
俺がどんな思いでここに来たのか知りもしないで、酷い言いようだ。言い返してやりたかった。言いたいことが沢山ある。だけれど、それは人の身であるが故に叶わなかった。それほどの速さで大穴から遠ざかっていたのである。
重力の暴力に解放されたのは、空中だった。ブルースは、翼をはためかせ、その場に留まっている。あのギターがあったビルから更に西に飛んだところだ。そこから、大穴の様子を窺っている。
ブルースが苦虫を噛み潰したような顔をした。手の中の俺は、ここでやっと彼の姿を間近で見ることができたのである。
やはり、前回の傷が癒えていない。ボロボロで、鱗が禿げてツルツルなところもある。
なんだよ、まだ回復してないじゃないか。
「ハルト、今からでも遅くない。元の世界に帰るんだ」
「それで帰るなら、最初から来てない。それくらいわかるだろ?」
期間は短いけど、それだけの時間を共有したはずだ。それっきりブルースは口をつぐむ。淡く光る繭をじっと見つめている。
「記憶は戻ったのか?」
「……ああ。戻った。いや、最初からなかったんだ。それがハルトに知られるのが恥ずかしくてさ」
ブルースは頬をかいている。
嘘だ。そんなことを恥ずかしがる奴じゃない。それは俺を遠ざけるための嘘だ。そうに決まっている。
「俺は、この世界と一緒に俺は生まれたんだ。そのことをあの子が大切にしている部屋を見て思い出した。って、おいおい、そんな顔するなよ。俺はあの子の守り神なんだぜ?」
「……ブルースが守り神かよ。そんなツラじゃないだろ」
ブルースが「言えてる」と言って笑う。俺にとってはヒーローだった。神よりも身近で、親しみやすいヒーロー。その方が、よっぽどブルースに似合っている。
ブルースはこの世界の住人だ。そして、この世界の中心には、ナギサさんがいる。この状況で関係がないと言う方が無理がある。ブルースはこの世界を守るために戦ってきた。それが優先事項。そして、今もまた。
俺もブルースに倣って繭を見る。
「行くんだろ?」
「ああ……」
ブルースはまた戦地に赴かなくてはならない。きっと、俺のことは連れて行ってはくれないのだろう。
繭の中で何かが動いた。初めは見間違いかと思った。人の大きさではない。ブルースよりも巨大な何かだ。それが内側から繭を破ろうとしているように見える。
時折瞬く光が鼓動している。その間隔は、徐々に短くなっている。
「始まったか。……ハルトは、ここで見ていてくれ。大丈夫。必ず戻ってくるから」
ブルースは、そう言って俺を近くのビルの屋上に下ろした。戦う術を持たない俺は、彼を見上げて見送ることしかできなかった。俺達は一心同体。彼が何を思っているか、言葉を交わさなくてもわかっている。
だからこそ、小さくなる背中を見送りながら、牙も翼もない自分を恨んだ。