ブルー 10
俺は、冷静だった。迫り来る削岩機を丁寧に槍でいなす。そして、脚と脚の隙間に体を滑り込ませると、巨大な腹部を蹴り上げた。
低い唸り声をあげて、蜘蛛は宙を舞い、すぐには反撃ができないであろう離れたビルまで吹き飛んだ。
「体が動かしやすい。これまでより数倍早く動ける!こんなことができるなら、最初からやってくれよな」
不貞腐れたように言って、手を握っては開いて感覚を確かめる。
「やっぱりこういう姿の方が慣れているし、なんかかっこいい感じになってるんじゃない?」
見える範囲で自分の姿を確認する限り、なかなかヒロイックな姿のようで満足度が高い。年甲斐もなくはしゃいでしまった。
俺のテンションの上がりようとは裏腹にブルースは静かだ。
「俺の翼が……、尻尾が……、素敵フォルムが台無しだぁ」
ブルースの声のトーンが一段低い。
「な、なんだってんだよ。この姿もかっこいいだろ?」
「あの姿は俺のアイデンティティなんだ。だってそうだろ?今の姿を見て、誰がドラゴンだってわかるんだよ……」
「え?ま、まぁ、それは……、ほ、ほら、今は戦闘中だ。敵から目を離さないようにしないと」
涙声に変わりつつあるブルースを誤魔化して、蜘蛛がいるはずのビルを見る。以前として土煙が舞っているせいか姿は確認できない。そこには、ビルの残骸だけがあった。
「どこだ?どこにいったんだ?」
「ほら、やっぱり翼があれば良かったんだ。空から見れば一瞬でわかるのにさ」
「し、仕方ないだろ。人間は空を飛ぶようにはできていないんだから。でも、上から探すってのはアリだな」
低層マンションの屋上へ一気に跳び上がる。さらにここを踏み台にして、より高いビルへ跳んだ。
街がミニチュアに見える。どこまでも白い世界。俺が住む世界に似ているけど異なる世界。色がない悲しい世界。
この世界にも今まで住んでいた場所があるのだろうか。
これまで、確認することができなかった土地まで見渡して、改めてこの世界を知った。そして、湧いてくる望郷の念。過ごした時間は短くても、少なからず愛着はあるものだ。
ブルースに偉そうなことを言っておきながら、景色に目を奪われて、敵の次の一手を見逃してしまっていた。
俺が足を止めている間も敵は待ってくれないのだ。
やがて、世界が傾いた。
足場にしていたビルが大通りに向かって倒れていく。慌てて他のビルへ飛び退こうと宙に身を委ねた。しかし、それも敵の計算の範囲内だ。
死角から糸が飛んできて、抵抗する間もなく体の自由が奪われてしまった。両手両足が完全に固定されてしまっている。
地面でのたうち回る俺に対して、蜘蛛は前脚を大きく上げて口をカチカチと鳴らしている。
勝鬨にはまだ早い。どうやらご自慢の前脚でビルを倒したことを主張したいらしい。
「思いっきり蹴ったのに、こんなにもピンピンとされていると流石に少し落ち込むぞ」
「ハルトが扱えるように調整しているからパワーは落ちているんだ。どうする?今からドラゴンの姿に戻るか?」
「冗談。今の姿だからこそできることもある」
確信があった。手が糸で固定された時に落としてしまった槍の炎は、その意思に応えるように揺らめいている。
この槍は、この姿になる時に炎の中から共に生まれた物だ。離れていてもその息遣いを間近に感じる。
今まさに蜘蛛がとどめを刺そうと迫るが、俺は落ち着いていた。救いのヒーローが来ることを期待していたわけではない。自身の手でこの状況を打開できる確信があった。
槍は空飛ぶ箒のごとく縦横無尽に空を駆け回る。猛る炎は拘束を解き、頑強な鱗は迫撃から身を守った。全てハルトが念じた通りの動きだ。
「やるじゃないか。葬鱗槍グラム・バイツってところか」
「……なんでもいいけどさ。来るぞっ!」
危機を脱した俺は、手元に戻った槍を構えて、さらなる蜘蛛の反撃に備える。
蜘蛛の怒りに任せた直情的な攻撃は、地面を掘り返すだけで、俺には届かない。一見すると全身を続ける蜘蛛が優勢のように思えるが、その攻撃は、時に穂で、時に柄でいなされていた。それが何度も繰り返される。
全力で回避行動を取る必要はない。最小限の動きで事足りていた。
元いた公園に辿り着いたその時、事を急いだ蜘蛛が飛び上がった。その瞬間を俺は待っていた。
「一点集中!」
構えた槍に炎が燃え盛る。その炎は、次第に先端に集った。狙いは、飛び上がった蜘蛛の出腹だ。
この姿なら、炎のコントロールが容易い。それはこの槍が生まれた時に気が付いた。あれだけの炎にも関わらず、周囲に散らばった糸には引火しなかった。俺の意図したものだけが燃えた。自由自在になったのは体だけではない。
蜘蛛は頭上に迫ってきている。次の一撃で、とどめを刺すつもりなのだ。その証拠に備える全ての削岩機が寄り集まり、ひとつの巨大な削岩機に変化している。強固な鱗ごとすり潰す最大の一撃。
街中に駆動音が不気味に鳴り響く中、決着の時が訪れる。突き出した槍の先端から激しい濁流の如く炎が噴き上がり、削岩機とぶつかり合う。
力と力は拮抗し、攪拌された炎があたりに散らばるが、蜘蛛の糸に引火することはない。今、燃やしたいのは、蜘蛛本体だけなのだ。真っ直ぐ敵を見据えて、力を込める。
削岩機の先端が熱せられ、赤黒く溶け落ちていく。それが蜘蛛自身を飲み込むまで、そう時間はかからなかった。
炎が消え、この世界に再び静寂が戻る。既に蜘蛛の姿も新たな姿のドラゴンも見えなくなっていた。
「だはぁ〜、疲れた」
巨人がいた足下で俺は座り込んでいた。戦いから解放されて、気が緩み、手も足も投げ出して寝転んでいる。
「燃費は悪そうだが良い技だな。うーん、プルートニオン・スプリームってところか」
「……もういいって。名前なんてなんでもいいだろ?」
「違うんだなぁ。これが。こう、気合いって言うかな、気持ちが入れば威力が上がりそうな感じがあるだろ?」
「上がりそう、ね」
苦笑いをしながら立ち上がる。何はともあれ戦いは終わった。今回も無事に生き残れた。達成感よりも安心感が勝っていた。このまま眠ってしまいたい。
「そろそろ迎えに行った方がいいんじゃないか?」
「……やべ、完全に忘れてた」
元の姿に戻った今、ドラゴンであれば一瞬の距離も十数分かかってしまう。
疲れた体に鞭打って走り出した。この先の関係を考えると必要な頑張りだ。