ワンモアドライブ
ワンモアドライブ
メンフィス
死ぬなら散々、迷惑かけてやれ。
キンゼイはヘンドのキッチンの勝手戸から出て行く音で目を覚ました。
木の下に止めたボルボは鍵が中にあって誰でも開けられるようになっている。白い排気が朝に混じると 冷たく鳴く虫の音は強い霧は冬とまったく変わらない。
勝手戸の裏にはスプレー缶がある。
「ライブラリに行くのはこっちの道でいいの? お兄ちゃん」
「お姉ちゃん」
「シンナーを車中に撒くわよ」
「今から家出するんだ」
「インスリン、持った?」
「一カ月分」
「どっかに行きたいあんたと一緒に行かせて」
コードとコードが絡まって。じゃあ、それを愛と呼ぼう。
シーグラスの空が見えればもう朝だ。
かぎ字のカーブを曲がればそこはもう40号線だ。
ヘンドは1型糖尿病だ。16と18の姉弟は煙草を切らした事がない。
「ねえ、後ろ壊れてる」運転しているキンゼイが言った。テールライトが点いていない。
「親父、ずいぶん前から言ってたよ」
「そう?」
何も言わないで窓を見つめる時は「僕」を思い浮かべる時だ。
「僕」というのはヘンドのストーカーだった男だ。ホルストン川に身を投げた。
サウス・フォーク・ホルストン川からは霧が出ている。
「服に付いてるんだ煙草の匂いが」ヘンドは自分の灰色のTシャツを嗅いだ。
銀灰色のボルボは車の流れに沿って40号線をただひたすら東に向かって走っていた。
二人の住むメンフィスはテネシーの西の端にあるのでこのまま行けばテネシー州を横断することになる。
「あっつい。とにかく暑い」ハンドルを持つキンゼイの手も焼けている。車のエアコンはとうに壊れている。
窓を開けて煙草を捨てた。
雨の匂いが入ってきたらいいのに。
キンゼイはベリーベリーショートだ。風が吹いたおかげで切り落とされた。
何もかも放り出して自分を一回壊してみたい。
「下り道は目的地が見えるけど上り道は目的地が見えない。人生もぞれと一緒だと思わない?」
ヘンドは後ろで煙草を吸っていた。「夜になったら運転代わるよ」
「このまままっすぐ行けばいいんでしょ?」
二人に別に目的地はない。
「ここ、どこだろうね」
「ナッシュビルで一休みしようか」
道なりに行けばテネシーの中央、ナッシュビルに着く。
キンゼイは足でエアコンを蹴った。
「マンコでオナニーするもんだろ?」ヘンドが身を乗り出して運転席のキンゼイに顔を近づけた。
「途中で買わなきゃね、後ろ」
ドライブスルーがあったのでそこで朝食を取る。
ヘンドはポテト、キンゼイはシェイクを買った。
走りながらシェイクを飲む。後ろでは一本、一本、丁寧に食べて残りのカスは口に振り入れて、容器を自分の隣に置いた。
「油っぽい手で触らないでよ」
ヘンドはレギュレーターを回して窓を全開にした。
キンゼイはまた煙草に一本火をつけた。
キンゼイは昔、バレエをやっていた。厳しすぎる制限でやめた。
日も陰る。
辺りが真っ暗になってきた。
「僕の好きなようにやらせてくれ」後ろではヘンドが煙草を点けたところだ。
「見て、あそこでフリーマーケットやってる」
キンゼイはボルボを寄せて停めた。
メキシカンパーカーのキンゼイは特にいい物がない。ヘンドはいくつかのTシャツとキャップを買っていた。
「ウィラ&プリント」という店がやっているらしい。道理で無地が多いわけだ。
「もういいじゃない、乗ろうよ」
「いやだ、入れてもらう」
店に入ったヘンドを待つ間、キンゼイはブルーのジーンズを選んでいた。私に似合う物はない。
紺色のTシャツにカレッジマークをプリントしてもらったヘンドはキャップを被り、ボルボに乗り込んだ。
「今度は俺が運転するよ」
キンゼイは後ろでシェイクをストローで処理する。
「逆恨みだよな」
ポテトの赤い容器の横に空のストローが刺さったままのプラスチック容器を置いた。
辺りがだんだん曇ってきた。
「こんな日に雨?」
ヘンドは先に窓を閉めたがキンゼイは開けたままにしておいた。
ヒマシ油色の空気が流れると雨が降り出した。
ヘンドの方が背が高いのでキンゼイはただ横を向いていた。
雨の匂いが入ってきたのに鳥の声が聞こえる。
雨が点滅してる。
フリーマーケットで私も入れてもらえばよかった。きっと最後の花柄だから。
テネシーの冬は短い。「死んじまえこのやろー」キンゼイは外に言って窓を閉めた。
「ナッシュビルには何でも売ってるからそこでテールライトを買おう」
「インスリン、大丈夫?」
「もう打ったよ」
キンゼイはヘンドの初めての女の子を知っている。どこにでもいそうな若い子だった。安全パイを狙ったということだろうか。
「僕」はどうして弟に惹かれたんだろう。
ああまでして。
「あっちー」ヘンドの首筋から汗が垂れている。それがTシャツの襟を汚す。
ハンドルを握ってたら忘れられるから。
「どっから来たって言われたらテネシー州501号室って言っとけばいいね」キンゼイは運転席の後ろに足をかけ、深く座り込んだ。靴はもう脱いでいる。
ヘンドは窓を開け、唾を吐いた。
「気持ち悪いの?」
「ちょっと」
ヘンドは咳をした。
キンゼイはただ窓を見ている。
「空気、入れ換える?」
「ちょっと停めていいかな」
ヘンドはウンコ座りをして胃液を吐いた。
「ポテトなんて食べるから」キンゼイは背をさすった。
「疲れが出てるだけなんだ」立ち上がったヘンドはフラフラしていた。
「私が運転するから」
ヘンドは後ろの席で脚を曲げて横になって額に手を当てている。
車が多くなってきた。
もうそろそろ夜だ。
「大丈夫? ここで何か食べる?」
ボルボは回転してゆっくり道沿いのレストランの駐車場に入った。
コーヒーをプランターにためて、二人はせっせと灰皿を埋めていった。
ヘンドは腹を出してインスリンを打った。
鍵はボルボの中に置いたままだ。
二人はクラブを注文した。ここからはホルストン川は見えない。
「煙草吸うために生きてるようなもんだよ」
ヘンドがトイレに入った隙にヘンドの煙草を吸ってみた。
知らない人に指を差される。私を通り越して40号を指差してるみたいだ。
どうすれば嫌われないか考えるなんて友達じゃない。それが「僕」の自殺の原因なんじゃないか。
煙草を吸うと何もかも鮮烈に見えてくる。
現在は孤独に連れて行ってくれるだけだ。
現実はどうだろう。
現実で報われるわけではない旅をなぜ続けるのか。キンゼイは手をもんだ。
地面に足を付けるまでだろうか。明日なき旅。
キンゼイは靴を脱いだ足をヘンドの席にかけて伸ばしていた。
車の中とは違い、ここでは涙が出そうな背を向けていた明るい世界がそのままにある。
逃げることができるだろうか。この世界に。
トイレから出てきたヘンドはフィンガーボウルで手を洗った。
赤いフィルターから2cm残して吸った煙草はヘンドの吸い方とは違っていた。
貝でできた夢が終わる頃、「僕」は目を覚ます。砂漠だ。彼の世界は砂漠だ。
キンゼイは40号を見る勇気がなかった。私より美しいだろうから。
クラブを音もなく食べ始めた。
ナッシュビル
ナッシュビルに着いたのは夜更けだった。パイナップルがつるされてる。
それがテールライトだった。
車の中で一眠りして、また40号に戻る。今度はヘンドは助手席に移ってきた。
川鳥はクチバシを上げてこっちを向かっている。
ヘンドは椅子を倒して煙草を吸っている。
「一生の内、一人ぼっちの時間が増えただけだ」
「何が?」
「死ぬこと」
後ろの車がクラクションを鳴らして追い越した。テールライトがつけっぱなしだった。
キンゼイは軽くクラクションを鳴らしてありがとうと言った。
「何で僕にこんな病気を与えたんだ」
「知らないわよ」
ヘンドは蒼いまぶたを閉じている。
「いい気にならないと進まないのよ」キンゼイはボソボソと一人言を言った。
ヘンドが目覚めると、車はサウス・フォーク・ホルストン川沿いに停まってキンゼイは外に出ていた。
「脇道に入るから。ホルストンはこれで終わり」手には携帯灰皿と煙草を持っている。
「私のバレエもさ、あんたのもさ、一日でも休むと体がナマるのよ」
手に吹く風でヘンドはなかなか火をつけられないでいた。川に背を向けてやっとついた。
キンゼイの煙草は携帯灰皿の中でねじくれた。
キンゼイはヘンドを残して車に戻った。
四つの窓を全開にして、フロントガラスも開けばいいのに、夏を逃がした。
ヘンドの方から煙が漂ってくるから煙草を吸っているのだろう。
キンゼイはテールライトを何度か点けては消した。
「もう行くよ」車を動かした。
ヘンドはまた倒れた椅子に寝そべるように乗り込んだ。
「こっからの道は始めてだな」
40号から離れ、市道に入った。
鶏舎がある匂いがする。
「もうテネシーじゃないみたいね」
住宅の中の道を徐行して走る。
「ノースカロライナだ」黄色い標識を読んだ。
ヘンドは横を向いてむっつり黙っている。
肌が白いから余計に死んでるんじゃないかと見える。
「僕」は煩悶して死んだのだろうか。
「帰ったら新しいの買えって言うわ」
「うん・・」唸るように言ったヘンドはフロントガラスの前に置いた煙草に手を伸ばした。
「息しない方がいい。こんな世界じゃ」キンゼイは窓を閉めた。
ヘンドは煙草を吸うのは止めたようだ。また横を向いて何か考えている。
「僕が何かの天才だったら・・」
「うん」
「悔やむこともなかったかな」
「そろそろテールライトつけても困らない?」
外は夕焼けだ。
「多分」ヘンドはまた横を向いた。
「運転代わってよ」
住宅地の中で停めて、すれ違った。
キンゼイは椅子を元に戻した。
ヘンドは右手だけで運転する。
「このまま行くとシャーロットだよ」
住宅地を抜けるとまた広い通りに出た。街並みも違うし走ってる車も違う。
右へ行った。
「何が違ってたのかな」
「神様は嘘つけないってことじゃない?」
キンゼイが指差した。
ヘンドはそこに停めた。
夕飯を食べ終わると、車の中で寝た。
ヘンドより早く目を覚ましたキンゼイは駐車場から車がどんどん減っていくのを見ていた。
ここは緑が多い。ずっと高速ばかり見ていたせいか。
キンゼイはテイクアウトして、ヘンドが起きるのを待った。
朝はまだ涼しいからヘンドを起こした。
インスリンを打つヘンド。二人で食べるとこうして何事もなく暮らせているのが一番の幸せなんだと思う。
「シャーロットで引き返そう」キンゼイが言った。
それもいいね、とヘンドはテールライトを点けた。
二人ともシートベルトをつけていない。
シャーロット
走る内に朝が明けてくる。遠い空には雨雲が見えてくる。ちょうどシャーロットの方向だ。
シャーロットに着く前にボルボを停めた。
その時の気分だ。
それでいいね。
オレンジを忘れないだろう。
たれこめた雲間の、神様が煙草を落とすのを我慢したような朝焼けを。
波の音?
二人は多分、外に出た。
「僕、そんな嫌な奴だったか?」