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フェイズ08「グレート・ウォー(1)」

 「グレート・ウォー」、「世界大戦」と呼ばれる戦いの直接的な原因は、世界規模で見た場合些細な問題だったかもしれない。

 しかし「火薬庫」と呼ばれる地域で起きた事件は簡単に大爆発を起こし、その爆発に世界中が巻き込まれていった。

 故に「グレート・ウォー」であり「世界大戦」なのだ。

 


 ヨーロッパで起きた戦争に際して、日本の行動は比較的早かった。

 日本としては、中華利権の拡大と周辺からのドイツ勢力の排除が行える、千載一遇の機会が到来したからだ。

 しかしイギリス、フランスなどは、自分たちがヨーロッパでの戦争にかまけている間に、日本が中華利権を大きく拡大することを警戒していた。

 日本は、英仏との交渉ではドイツの排除を第一目的としていたが、内心は見透かされていた。

 ただし、この頃の日本は、満州王国の地盤固めで事実上身動きの取れない状態であり、そうした点もイギリスからは見透かされていた。

 そして一日でも早い参戦を行いたい日本は足下を見られ、ヨーロッパに軍を派遣するのなら日本の利権をある程度認めるという条件を突きつけられる。

 

 そこにアメリカが口を挟み、満州王国の利権を中心とした日米間と連動する日英米間の関係のため、支那での領土的野心がない事を表明すると共に、支那に対する利権要求は控えめにせざるを得なくなる。

 山東を中心とするドイツの中華利権に対しても、満州王国との駆け引きもあってドイツ軍を攻撃して降伏に追い込むも、その利権は基本的に中華民国に有償で返還する前提で行動し、その代わりに満州王国の事を中華民国がさらに認めるという形で手打ちにされる事になる。

 

 この外交的取引は、日本国内の急進派、支那利権拡大派と陸軍の一部が反発するが、日本政府は主に中華地域での利権保持のためにも、「アジアの警察官」を諸外国に宣伝して利権拡大に走る道を選択せざるを得なかった。

 また国内の急進派も、満州王国の権益がさらに盤石になるという点では一定の満足を得ており、日本国内は「優等生」としての姿勢を維持しつつの積極参戦で固まった。

 


 日本の参戦当初の主な目的は、中華地域と太平洋地域からドイツ勢力を駆逐する事だった。

 軍内部での目的に至っては、ほとんどこれだけと言っても過言ではないほどだった。

 

 しかしイギリスは、約束に応じろとばかりに、早々に日本にインド洋、地中海への海軍力派遣を要請する。

 目的はドイツの通商破壊戦を阻止するためであり、日本の国益にも合致するものだった。

 だが当時の日本海軍は、いわゆる「沿岸海軍」もしくは「決戦海軍」として編成されていて、「外洋海軍」としての能力は低かった。

 日本でのそうした役割は、海援隊が海上警察と外航航路防衛、植民地警備という形で担っていた。

 

 海援隊は、日本所属の軍事組織であると同時に傭兵組織も兼ねており、名目上は半民半官、実質的な運営は民間企業が行うという世界的に見ても特殊な組織だった。

 

 この頃の運営予算の約6割も日本政府以外からの「収益」で賄われており、海上戦力を持たない国やアジア・太平洋地域で臨時兵力の欲しい列強からは、それなりに重宝されていた。

 

 一方では、有事には日本軍に丸ごと所属して各種支援任務に当たることにもなっており、事実、日清戦争、日露戦争では航路防衛、偵察、軍需輸送、さらには私掠活動(通商破壊戦)と幅広い貢献をしている。

 日露戦争終盤のロシア・バルチック艦隊の太平洋航海時には、仏領インドシナで日本人としては最初にバルチック艦隊を発見した。

 以後南シナ海で、同艦隊を日本で最初に捉えて日本海軍に通報し続け、以後もまとわりついて日本に有利となる情報をもたらすなどの活躍をしている。

 船に乗り込むことも多い陸戦部隊の傭兵部隊も、小規模ながら各地で戦った。

 

 主な装備として、日本海軍からの払い下げ艦艇、諸外国から購入した中古艦艇、商船改造の武装船、航路防衛のための専門の軽武装艦艇などを有していた。

 陸戦部隊も、重装備については一部を除いて日本陸軍との共用又は払い下げだった。

 

 しかしその戦力は侮ることは出来ず、組織は日本の国力拡大に比例するように規模を拡大し、小国の海軍以上の規模になっていた。

 遠洋航海能力も非常に高くなった。

 何しろ、太平洋は海援隊の庭だった。

 

 大戦の勃発した1914年夏の時点では、日本海軍が海防艦扱いで払い下げた旧ロシア海軍の戦利戦艦3隻、その他日本海軍の旧式防護巡洋艦を中心とした大きな勢力となっていた。

 規模的には、中古でも戦艦を有しているだけで、中小の国を凌駕する戦力となる。

 とはいえ実態は、日本海軍の旧式艦を引き受けて運用しているだけである。

 しかし各艦の装備(兵器)のかなりを下ろしたりして経費節減するなどの自助努力が行われ、さらには下ろした装備の多くを他の武装商船などに搭載している。

 また一部には、欧州列強から安価で購入した旧式艦艇も含まれていた。

 変わり種としては、イギリス海軍の払い下げの中古巡洋艦の姿もあった。

 またさらに一部の艦艇は、いざという時のために金をかけて大改装を行い、非常に高性能だったとも言われる。

 

 もっとも、旧式の大型艦艇は、あくまで持っていることが重要な存在でしかなかった。

 海援隊の主な任務が航路防衛、商船護衛、海上警察活動のため、敵巡洋艦を排除したり、その気になれば盾となって相手の目的を阻止できる艦艇が必要なので、旧式とはいえ戦艦や防護巡洋艦を有しているが、平時は半数以上が予備や練習艦扱いで、殆どがまともな行動状態に置かれていなかった。

 いわば「見せ金」である。

 

 平時の主力は、あくまで速力発揮能力の高い武装商船(仮装巡洋艦)で、アジア、太平洋地域で海賊相手に戦うことが殆どだった。

 軍事に詳しい人でも、商船護衛と言えば小型の駆逐艦や護衛艦、海防艦を思い浮かべる方もいるだろうが、当時は航海性能に優れた大型の駆逐艦がまだ発展途上で、イギリス海軍ぐらいしかまともに保有していなかった。

 海援隊が航路防衛用の小型艦艇を多数保有するのは、グレート・ウォー中の事となる。

 

 しかし海援隊が集団行動、長期航海、効率的な航路防衛方法などの技術と経験を有するのは確かであり、イギリスなどはグレート・ウォーが始まると、海援隊をまとめて借り上げようとした程だった。

 だが日本政府が待ったをかけ、さらに日本が参戦したため慌てて日本軍に編入。

 有事法に従って海援隊を日本海軍の一組織という体裁を整えた上で、世界各地の海に派遣される事になる。

 このため海援隊の旗よりも上位に、日本海軍を示す旭日旗が掲げられた。

 


 ちなみに海援隊は、日本の海軍組織の中では常に扱いが低かった。

 特に日露戦争後にその傾向が強まり、日本海軍内では海援隊は海軍の「余計な仕事」を行う組織という向きが強かった。

 日本海海戦での勝利で、「海戦」こそが海軍の任務という風潮が海軍内部に出来ていたのだ。

 

 また海援隊は、艦艇の「乳母棄て山」とも言われた。

 普段の素行から、「愚連隊」とすら陰口を叩かれることも少なくなかった。

 しかも海軍主流から脱落した者の行き着く先、海軍に奉公する事が出来ない者の勤め先とも蔑まれ、日露戦争での負傷から海軍から海援隊に移籍した広瀬武夫ですら悪し様に言われたほどだ。

 

 内閣直轄枠から拠出される形の海援隊予算も、常に兵部省(海軍)そのものにかなり奪われている状況だった。

 しかも収益金も組織規模に対して限られているので、日露戦争以後は貧乏隊とすら言われたほどだった。

 

 また日本海軍から海援隊が蔑まされている理由の一つに、隊士募集で国籍性別を問わずとしている点があった。

 これは発足当初に幾らかの外国人が属していた事と、初期の武士階級の雇用を行う伝統が残されていた為だった。

 無論女性を船に乗せることは極めて希で、乗せても後方支援用の大型船で女性用区画を設けられる場合か、さらには病院船任務を大規模に用意している場合に限られ、殆どは地上の後方勤務に厳重に限られていた。

 しかし女性の働き口の一つとして、世間から海援隊が見られていた事は確かで、貧しい農村、漁村では海援隊入隊は口減らし先の重要な一つの方法とされた。

 海援隊自身も、政府を介しての隊士公募で女性の隊士も募集していた。

 また軍隊組織ではないため、幹部と一般隊士の「垣根」が低かった。

 食事場所が同じなど、日本海軍がイギリスから教わった貴族趣味は存在していない。

 

 しかし海援隊にも一定の差別はあった。

 外国人も、高い教育を受けた白人などは「お雇い外国人」として重宝されるが、有色人種となると幹部、いわゆる士官、将校待遇になるには「たたき上げ」以外あり得ず、差別も厳然と存在していた。

 他にも、欠点を探せばいくらでもあった。

 

 また組織規模に対して、海援隊内で幹部と呼ばれる士官又は将校待遇の人員不足に常に悩まされていた。

 自らの組織内での育成された人材だけでは足りず、海軍の落ちこぼれ組と各大学、専門学校(私学の大学扱い)など一般から幹部(将校)を速成教育し、各種商船学校からも徴募していた。

 このため、海軍の出世街道から外れた「衛門大佐」の行き着く先と言われたりもした。

 陸戦部門では、日本陸軍からも人材を得ている。

 

 それでも足りないので、機を見ては日本海軍から個人でヘッドハントもしていた。

 海外でも、常に幹部隊士も募集していた。

 組織内でも、優秀な人材をすくい上げて幹部とするのが日常だった。

 

 時折、好んで海援隊に配置を望む日本軍将校もいたが、これは幾つかの美談を除けばごく少数派であり続けた。

 

 一方で、海軍の下級将兵からあくまで水面下で賞賛されていた点が、海援隊では私刑や私刑まがいの訓練が厳しく禁じられている点だった。

 半ば当然ではあるが、海援隊は海援隊で海軍の一面を嫌っており、海軍が疎かにする海上護衛を殊の外重視して、それを怠る海軍を常に馬鹿にしていた。

 また民間組織でもある海援隊は自由な気風が強く、そうした点も大きな違いとなっていた。

 

 そうした様々な違いがあるため、海軍と海援隊は日本軍の中では陸軍と海軍並に仲が悪かった。

 

 さらに海軍内には海兵隊が所属しているため、海軍内での勢力争い、派閥抗争を複雑にしていた。

 明治中頃の組織改編によって、海兵隊が海軍での憲兵組織としての一面を有しているからでもあり、平時に黒いセーラーを来て武装した海兵隊員は「両生類」や「河童」と言われ、海軍の下仕官や一部将校から嫌われる存在だった。

 またその海兵隊は、海外では自らの重要な任務である邦人警護の任務を一部行っている海援隊との間に軋轢があり、海軍との関係も警察組織としての一面を持つようになってから一定の緊張を持ち続けていた。

 


 そして日本の軍事組織の中で、一番にヨーロッパ方面へと派兵された(出動した)のが海援隊だった。

 イギリスは、ドイツの通商破壊を阻止するため、日本政府に大型の高速艦艇の出兵を求めたが、準備不足なのと本当の最新鋭の巡洋戦艦が艤装中や就役間際だったため、とても出撃できる状況にはなかった。

 日本海軍の誇る《金剛級》巡洋戦艦4隻がヨーロッパへと派遣されるのは、1915年夏の事となる。

 

 また開戦頃の日本では、海軍ばかりがヨーロッパに派兵する事への根強い反対と同時に、英仏に使い潰されるのではという不信感があり、まずは自分達(軍人達)の懐が痛まない海援隊で様子を見ようという節があった。

 何しろ海援隊は官僚組織的に見て海軍ではなかったし、陸戦組織もあったからだ。

 

 こうした姿勢は、明治時代なら賢明な元老、何よりも大元老達が咎めたかもしれないが、既に現役政治家や高級軍人、既存の元老達に一言言える程の人物と言えば、海援隊のオーナーでもある坂本財閥の名誉会長となっていた坂本龍馬ぐらいしかいなくなっていた。

 そして坂本龍馬は基本的に民間人であり、政府との直接的関わりも薄いためか、海援隊を出すことにも特に反対したという記録も残されていない。

 むしろ坂本は、海援隊を出すことに積極的だったと言われている。

 

 そしてヨーロッパに向かう商船と共に勇躍ヨーロッパへと向かった海援隊だが、この時ほど遠くそして大規模に進出したことは初めてだった。

 しかし明治初期以後地道に積み上げていた経験と実績もあり、他国に先駆けていち早く状況に適応していった。

 

 海援隊が主に取った海上護衛方法は、船団を形成して拠点から拠点を結ぶ方法だった。

 これは海援隊に属する艦船が、一部の旧式艦を除けば装備が貧弱のため、少ない有力艦艇の庇護下で船舶を安全に運行しようと言うものだった。

 これは国家同士の戦いよりも、東アジアに犇めいていた海賊対策の中で考え出された方法で、初期の頃は船団の規模もそれほど大きくはなかった。

 護衛1隻につき、商船数隻という程度だった。

 だが、船の運航、運用効率という点で船団方式は不評であり、最初は坂本海運が中心となって行った。

 

 そして戦争初期の頃は、旧式とは言え戦艦、装甲巡洋艦を要しているため、通商破壊を目的としたドイツ海軍の通商破壊戦に有効に機能した。

 海援隊の戦法は、到着すぐの地中海でも実施され、各国の船舶から非難を受けつつも損害比率の小ささから、その後連合軍内に広まっていく事になる。

 

 しかも海援隊が初期の頃から実施した船団方式は、ドイツ軍が潜水艦を活発に運用するようになってその効果がさらに発揮される。

 そして海援隊自身が、日本国軍の海上護衛組織という体裁を強める1916年初夏ぐらいに、大量建造され始めた航海型駆逐艦を保有して戦術を向上させる頃、日本海軍にも機会が到来する。

 


 イギリス海軍の一部で、日本の海軍は海援隊さえいたらいいという言葉が飛び交った事が、海軍主力派兵の感情面での発端だった。

 この言葉を真に受けた日本海軍は大いに焦り、既存の準弩級、弩級戦艦、巡洋戦艦を主に地中海に派兵する事を急ぎ決める。

 さらに、最新鋭の《金剛級》巡洋戦艦4隻を北海にまで派兵するので、イギリス海軍に自分たちも最前線に配備するように要請する。

 事が面子に関わるとあって、日本海軍は大いに焦った。

 軍とは、面子で動く組織でもあったからだ。

 

 そして自分たちの支援としての大型高速艦群に魅力を感じたイギリス海軍側も、彼らの高速戦艦部隊の後詰めとして配備することを受け入れ、日本海軍は大挙してヨーロッパへと足を伸ばす事になる。

 遣欧艦隊と呼称された日本艦隊のうち、北海まで行ったのは最有力の《金剛級》巡洋戦艦4隻で、イギリス海軍内の予定通りに 主力艦隊の側面支援としての調整と共同訓練が行われた。

 

 これによりイギリス本国艦隊の前衛は、自らの持つ最新鋭の高速戦艦4隻に各種巡洋戦艦10隻という大兵力となり、数字の上ではこれだけでドイツ主力艦隊に拮抗できる程となる。

 しかも日本艦隊が北海に入る頃には既に1916年に入っており、北海の情勢は非常に緊迫していた。

 

 この戦争で日本海軍は、《香取》以後に建造された全てに当たる戦艦、巡洋戦艦合わせて14隻を欧州に派遣し、最終的に《河内》と《筑波》をUボートの雷撃とアレキサンドリアでの火薬の自然発火で喪失している。

 巡洋艦以下の艦艇も多数派遣され、海軍将兵のうち約6割が何らかの形でヨーロッパに赴いている。

 米内光政や山本五十六、堀悌吉などの人々も、中堅将校として戦場に赴き運良く生還している。

 ただし、海で戦う日本人の主流派は、あくまで大量の護衛艦艇に乗り込んだ海援隊に所属または配属された人々だった。

 このため戦後、海援隊と海軍主流派との軋轢が強くなると言う皮肉を生んでいる。

 


 1916年5月30日、世界最大と言われる「ユトランド沖海戦」が起きる。

 この時日本海軍の遣欧第一艦隊は、イギリス海軍の高速艦隊と共に待機していた英本土北部から出撃し、先発したイギリス巡洋戦艦隊が既に戦闘を行っている戦場に到着する。

 そしてここでイギリスの最新鋭超弩級戦艦《クィーン・エリザベス級》4隻のやや後方を進んでいた日本艦隊は、同4隻の行動が信号受信ミスで遅れた間に追い抜く。

 これは本来なら、作戦に齟齬を来す行動だった。

 だが、艦隊行動の失策で分断したイギリス海軍の間を埋める巧い動きとなり、14インチ砲32門という大火力によってドイツ海軍の先発した偵察艦隊に大きな圧力をかけることに成功した。

 しかし、日英艦隊のそれぞれの距離の問題から、ドイツ艦隊に対して僅かながら各個撃破の好機を与えることにもなってしまう。

 この時日本艦隊は、突出を避けてイギリスの高速戦艦群と共に突撃すべきだったという研究結果も多い。

 その方が、結果としてより多くの戦果を得ることが出来たとされるからだ。

 

 しかし日本艦隊は、作戦参加した艦隊の中で最も速い速力(艦隊速力26ノット)で突進して、ドイツ艦隊に砲火を浴びせかけた。

 そしてドイツ艦隊に痛打を与え、前衛で苦戦するビューティー中将の艦隊を十分支援することが出来た。

 だが勇戦の対価として、位置の関係から日本艦隊もドイツ艦隊の次の目標とされ、自らもかなりの砲弾を浴びせかけられる事になる。

 そこは、日本人がほぼ十年ぶりに体験する艦隊決戦の舞台だった。

 

 ドイツ艦隊からの反撃により、《霧島》が船体中央の機関部を打ち抜かれて大破戦線離脱し、《比叡》が艦尾に複数被弾して舵が破壊される。

 これは先発したイギリス艦隊の再現に等しく、日本艦隊の場合は主砲塔天蓋や弾薬庫を打ち抜かれなかったという幸運があったが故に、沈没もしくは爆沈しなくて済んだに過ぎない。

 舵が破壊され窮地に陥った《比叡》も、《クィーン・エリザベス級》の戦列参加で事なきを得ている。

 

 だが日本側も一定数の砲弾をドイツ偵察艦隊に浴びせ、随伴していた水雷戦隊の突撃もある程度成功させ、両者の直接対決では互いに大型艦の沈没艦もないので、結果としては日本艦隊の判定負けという程度だった。

 

 その後も、数を減らした日本艦隊は追撃に参加。

 イギリス艦隊と共に追撃するも、逃げ遅れた艦や殿の一部に砲火を浴びせる程度で戦闘を終えている。

 

 この海戦で連合軍は巡洋戦艦2隻を喪失し、5000人を越える戦死者を出した。

 うち5%程度は、日本海軍の損害だった。

 機関部を打ち抜かれた巡洋戦艦《霧島》では、多数の死傷者が発生していた。

 

 これに対してドイツ海軍は、巡洋戦艦3隻、旧式戦艦3隻を喪失。

 戦術的にドイツ海軍の敗北という形で戦闘が終わる。

 その上、戦闘の結果如何に関わらず戦略的状況に変化はないので、戦略的にもイギリス側の勝利とされる。

 そしてイギリスは、日本海軍に大いに感謝して敬意を表し、戦後は余り物とは言え戦艦の贈与すら行ったのだが、日本海軍側はそれどころではなかった。

 

 日本本国では、最新鋭艦が沈没こそしなかったものの大損害を受けた事に色を失い、イギリス型の戦闘艦設計は駄目だという事になり、建造中、計画中の戦艦建造は全て延期か見直しとなった。

 また既存の艦艇、建造が進んでいる艦艇については速度低下を忍んでも各種隔壁の増厚や水平防御力の大幅強化が決められ、完成間際の戦艦《山城》ですら艤装岸壁で長期間改修工事に入ってしまった。

 


 一方、日本が行う海上護衛を一手に担った海援隊だが、戦争の拡大に比例して組織規模、艦艇数を指数的に肥大化させつつ、日々の地味な通商路防衛に従事し続けていた。

 隊士つまり兵員、水兵の不足も、政府によって徴兵された兵士が大量に送り込まれることで補われ、実質的に日本海軍の一組織としての向きを強めていった。

 

 主な対抗相手は、少数の水上の通商破壊艦から潜水艦へと変わったが、むしろ戦いは激化し、戦闘自体の規模も拡大していた。

 戦闘方法自体も、これまでの海賊相手の小規模な水上戦闘や乗り込み戦闘のような事はほぼ無くなり、対潜水艦戦術に集中していった。

 この当時海に飛行機の姿はないため、相手は水面下にしかいなかった。

 もっとも当時の潜水艦は、「潜水もできる船」という程度だったので、海援隊側が弱い場合は水上戦闘となる事もあった。

 

 海援隊の主な活動範囲は、日本からスエズ運河までの航路と、地中海だった。

 スエズ運河まではほぼ日本単独の担当となり、地中海でも時間が経つごとに日本の負担は増えていった。

 これは大西洋、主にビスケー湾での戦いの影響で、イギリス、フランス海軍がそちらに全力を投入しているからだった。

 日本の海援隊も、ジブラルタル海峡からイギリス本土、フランス北部への航路防衛を一部担っていたほどだった。

 

 そして日本本土では、大型艦の建造が一斉に停止もしくは停滞したのを後目に、建造開始から最短2ヶ月ほどでできてしまう単純な構造の当時としては大型の駆逐艦が大増産されていた。

 

 建造は日本中の造船所で行われ、海軍工廠も各造船会社も関係なかった。

 また民間造船所では戦時標準船の建造も行われ、イギリスから導入した図面に日本風に手を加えた船(主にデチューン)を続々と建造した。

 それまで日本があまり保有していなかった、大型外航洋の排水量5000トンから7000トンの船が続々と日本郵船、大阪商船、坂本海運などに加わり、主にヨーロッパを目指した。

 日本が建造した船舶量は、大戦の行われた4年あまりの間に約200万トンに達した。

 年平均50万トン建造した計算で、日本の造船施設と船舶保有量は一気に膨れあがる事になる。

 

 国家の工業化の一つの指標でもある粗鋼生産量も、軍需生産と造船を一番の牽引材料とした戦時生産の中で大幅に拡大した。

 

 開戦した1914年に約50万トンだったものが、終戦の1918年には三倍以上の約150万トンにも伸びていた。

 この数字は、ヨーロッパの列強と比べると大戦後の数字ですら小さいが(※当時のイギリスの8分の1程度)、当時の日本が後進国である事を考慮すれば十分評価に値するだろう。

 

 製鉄所自体も、八幡製鉄所、釜石製鉄所、室蘭製鉄所など基幹となっていた主要製鉄所が、それぞれ大幅に設備が拡張され、設備自体も一気に近代化された。

 満州でも、日米合弁の鞍山製鉄所がアメリカ技術を導入して大規模化され、日本に多くの鉄(中間資材の銑鉄)を供給するようになる。

 満州の数字を含めると、1918年度の粗鋼生産量は200万トンに迫っていた。

 


 さらに少し脱線して、一人当たり国民所得を見てみるが、1914年の日本の基礎データではロシアと同程度の40ドル(80円)ほどになる。

 ロシアと同程度と言えば列強として十分な数字に思えるかもしれないが、アメリカの9分の1、イギリスの6分の1、ドイツの4.5分の1、イタリアと比べても2倍以上の差を開けられている。

 100ドル程度なければ、先進国とは言えない時代だったのだ。

 当時日本は、間違いなく貧乏国の一つだった。

 

 しかし大戦の間(1914年度→1920年度)に、国家予算、工業生産量は三倍に伸びた。

 当然国民所得も大きく向上しており、GNPも名目で三倍以上、実質でも150%以上を示している。

 日本で中産階級、中流階層が本格的に形成され始めたのも、グレート・ウォーを契機としている。

 GNPでいえば、約45億円が約150億円近くへと増大している事になる。

 

 そして日本の重工業生産を三倍に押し上げた戦時生産だが、戦時生産だけが牽引役ではなかった。

 ヨーロッパがそれまで世界に供給していた工業製品の代替生産、ヨーロッパで不足する物資の生産など、全ての面で伸びた。

 

 輸出では、日本と同じく大戦景気に沸くアメリカへの生糸の輸出に始まり、アジア各地への綿織物、ヨーロッパ向けの軍需製品が主なところを占める。

 また船舶は、日本国内の消費向けだけでなく海外輸出も積極的に行われ、砲弾、火薬、鉄そのものも大量に輸出された。

 英仏との優先契約と日本の生産単価の安さもあって、作ったら作った分だけ、持っていったら持っていっただけ、しかも殆ど言い値で売れた。

 

 また国内では、鉄鋼、造船、機械など様々な分野の産業が大幅に発展した。

 やや特殊なところでは、ヨーロッパからの輸入が止まったため、肥料や火薬生産のための化学産業が、勃興したばかりなのに大きく発展している。

 そして工業の大幅な発展に伴い、水力発電を中心にした国内の発電規模も一気に拡大した。

 水(工業用水)と電気を供給するための日本各地でのダム建設も活発になり、社会資本の建設は大きな建設需要を産み出した。

 日本各地で蒸気で動く土木作業機械が本格的に登場したのも、この大戦を契機としている。

 

 他にも、船舶が石炭ではなく石油を利用するようになった事、戦争で自動車、飛行機が多用されたことなどから日本の北樺太油田の開発が一気に進み、製油を始めとする石油化学産業も勃興・発展した。

 生糸、綿織物産業の発展については言うまでもなく、同じく軽工業分野で言えば、綿布、麻袋、何でも売れ、特に軽工業分野は日本での品質も向上したことが重なって幾らでも売れた。

 缶詰、冷凍食品、保存食など主にヨーロッパ向けの輸出で食品産業も大きく発展した。

 日本の畜産も、輸出を目的としてこの大戦で一気に拡大している。

 

 日本各地は大戦景気でわき返り、日本中に「成金」と呼ばれる新興企業家、富豪が出現した。

 日本での総生産額が、大戦前と後では一気に四倍に拡大したのだから、そうした人々が出現するのも必然だった。

 

 そして日本経済の躍進は税収という形で如実に現れ、さらに債務国から債権国へと転進する大きな機会となった。

 

 大戦前日本が抱えている債務(借金)は、約12億円(6億ドル)あった。

 多くが、日露戦争の頃から抱えていた戦争債務だ。

 しかし大戦後には、40億円(20億ドル)以上の債権を抱えた。

 差し引き50億円の国富増額というわけだ。

 

 すぐに消えてしまう債権かもしれないが、大戦前は借金のために真剣に債務不履行デフォルトを考えるまでに追いつめられていた時期もあった状況を思えば、天と地の差だった。

 世界大戦で最も大きな利益を得たのが、アメリカではなく日本だと言われるのはこのためだ。

 既に世界一の経済力だったアメリカはより豊かになっただけだが、日本は実質的にそれ以上のものを得ていたからだ。

 

 しかし、そうした恩恵を少しでも多く受けるためには、日本は、いや一部の日本人達は過酷な世界に足を踏み込まねばならなかった。

 

 その一部の日本人達とは、陸軍将兵の事だった。

 


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