フェイズ59「オイル・マップの激変」
1948年秋に行われたアメリカ大統領選挙は、共和党のデューイが一期で敗退して民主党が政権を握った。
新たな大統領は、ハリー・S・トルーマン。
テレビという新たな通信情報媒体が誕生した世界では、今ひとつパッとしない容貌だった。
だが、堅物銀行員のような真面目な外見と彼が大戦中に果たした地味ながら重要な役割から、アメリカの納税者達は彼を選んだ。
新たな大統領に求められた問題は、主に経済問題だったからだ。
戦後、常に低空飛行を続けるアメリカの経済成長率を引き上げ、失業率を押し下げるのが彼の主な役割だった。
共和党の敗北も、特に問題の無かった外交問題よりも国内の経済問題の失敗が原因だった。
しかしトルーマンが執務を開始する前後、まずは外交に力を入れねばならなかった。
戦争から平時への移行を終えた国々が、新たな国際関係の構築と枠組み造りを始めたからだ。
そして世界は、アメリカにとって年々不利となっていた。
ヨーロッパでは、旧枢軸国の盟主だったドイツ(=ドイツ連邦共和国)を中心として、ヨーロッパ全域の経済の活性化を目的とした国際組織の編成が進んでいた。
これは先の大戦が、一部の国の保護貿易(ブロック経済)による天然資源の偏りと市場閉鎖がもたらした事への反省だった。
そして、一度全てを占領したドイツの巨大な政治的影響力の賜物でもあった。
戦争のおかげで金がないヨーロッパ諸国だったが、取りあえず全員が食いつなげるだけの食べ物と資源はあったので、これを効率よく融通しあう枠組みを作ろうとしたのだ。
この政策はドイツ中心主義、ナチス時代の「レーベンス・ラウム(生存圏)」の再構築だという非難が主に旧連合国から出たが、まともに応対したヨーロッパの国はなかった。
アメリカは自らの経済進出とセットの資金援助を申し出て各国ごとの交渉すら行って切り崩しを図ろうとしたが、特にドイツにとっては受け入れることは出来なかった。
資源と市場を得るための戦争を何とか勝ち逃げしたのに、それを僅かばかりの目先の金と引き替えに戦後にかすめ取られては目も当てられないからだ。
このためアメリカとの交渉や外交では、常に軍の動員体制を引き上げて行われたと言われている。
イギリスも、アメリカの戦後外交に対してはかなり冷淡だった。
イギリスは、大戦で最も深い経済的な傷を負った列強の一つとなったが、世界の覇権を握ったほどの大国と呼ばれる国が、借金が増えて喜ぶ道理がなかった。
しかも、レンドリースの返済どころか自らの戦費すら返済するのに四苦八苦しているのに、この上借金を増やしている場合でもなかった。
無論、新たな借金を回転資金とする方法もあるが、戦争に事実上負けて植民地という便利な市場と資源の入手先を数多く失い、しかも国内の重工業が老朽化しつつあるとあっては、アメリカが言う前向きな話しも虚しく響いた。
アメリカ外交とアメリカ経済の「ダシ」に使われるのがオチだからだ。
そしてイギリス人には、植民地人(アメリカ人)に全てを委ねる気はないという矜持があった。
また一方では、講和が成立して連合と枢軸という図式が表面上消えたとはいえ、わだかまりと溝、そして戦争中の繋がりは深く残されていた。
基本的にヨーロッパ全土はドイツの勢力圏となり、ロシアですら当面であろうがドイツに従属する姿勢を見せている中に、イギリスが深く入り込むことは難しいし、その余地も限られていた。
表面上はある程度の協力と妥協が計られたが、あくまで表面上でしかなかった。
このためイギリスは、アメリカ、ヨーロッパ以外に活路を見いだそうとした。
しかし戦後イギリスの前途は多難だった。
最重要の英連邦諸国のカナダはアメリカに近すぎて、政治的なつながりはともかく、経済植民地としての価値を半ば失っていた。
オーストラリアは、戦争中に日本人の侵攻と占領統治を受けて意気消沈し、すっかり大人しくなっていたのだが、有色人種国家の日本に呆気なく負けた衝撃があまりに大きすぎたためか、逆に日本や旧枢軸国にばかり目を向けるようになっていた。
ヨーロッパからの移民受け入れにも積極的だった。
イギリスとしては、取りあえずはサハラ以南のアフリカ地域での植民地統治で食いつないでいる間に、状況を自分たちに有利に持ってこようと言う事になるだろう。
このためイギリスの政治目標とされたのは、アジアの旧植民地と旧勢力圏となる。
多くは日本の手によって独立していたが、だからこそ入り込める余地もあると考えられた。
だが、イギリスが最重要とみなしたインドは、インドとしての独自性を全面に押し出す姿勢が極めて強く、日本との間にも一定の距離を置くだけでなく、旧宗主国であるイギリスとの連携を一番嫌っていた。
国内のイギリス資本全てを、時間がかかっても正価で買い取るとしたほどイギリスとの関係強化を拒んでいた。
札束をちらつかせるアメリカ人など、一歩も入れなかったほどだ。
日本の庭先となったマレーやビルマは日本の影響力が強すぎて、当面ではあってもイギリスが手を出せなかった。
故にイギリス外交の矛先は、アラブ地域へと向けられた。
アラブ地域は、第一次世界大戦以後イギリス、フランスの勢力圏に分割された。
オスマン・トルコ帝国を解体していくつか国家は作られたが、実質的には英仏の言いなりとなる傀儡政府ばかりだった。
英仏が、当地の適当な有力者を利用して作られた国ばかりだったからだ。
国境線が真っ直ぐ幾何学的なのも、英仏が現地の都合を考えずに勝手に線引きしたからに他ならない。
そして英仏がここをトルコから切り離したのは、地形的に大規模な油田がどこかにあると予測していたからだった。
特にペルシャ湾岸が有望と考えられ、実際ペルシャ (イラン)では大油田があった。
しかし、二度目の世界大戦で情勢は大きく変化した。
一部の国は枢軸側によって親英、親仏政府が転覆され、残った国のほぼ全てが恨み昔年の英仏を切り棄てて、日本もしくはドイツを新たな庇護者に選んだ。
しかも日本は、他のアジア諸国に対したのと同様に、アラブ地域に対しても自らとの経済関係だけを望み、独立、自立、さらには兵器の大盤振る舞いをした。
有色人種国家にしてロシア、イギリスをうち破ったとして、アラブ地域での感情面での日本人気も高かった。
さらに日本人は、今まで欧米諸国がしなかった地道な援助(技術供与や教育など)を行ったり、中東各地や東南アジアなどから無料の巡礼船を出すなどして、機嫌取りにも余念がなかった。
なお、枢軸内での勢力圏調整の結果、地中海からイラク、イランにかけてがヨーロッパ (ドイツ)に、アラビア半島が日本の勢力圏となる。
そして日本は、アラビア半島で最も大きな勢力を持つ現地のサウド家などと何度も交渉を持って、石油の採掘権をヨーロッパ諸国よりも相手に有利な形で経済的に獲得した。
代わりに武器や工業製品、さらに国家として必要な技術や知識を売却もしくは提供するが、基本的に政治に不干渉の姿勢を示した。
日本がイギリスの政策で踏襲したのは、主にクウェートに対してだった。
クウェートはペルシャ湾の最も奥に位置し、もともとイラク地域に含まれても良いのだが、現地の言葉で「砦」を意味する場所の下には、膨大な量の石油が眠っている可能性があるため切り離され、イギリスの支配力の強い場所とされた。
それをそっくり日本は引継ぎ、現地の国家(部族)と石油利権に関する話し合いを行った。
そして戦中から、現地には日本資本の坂本石油、帝国石油、昭和石油が入り、ボーリングなどの調査を積極的に開始する。
イギリスは、ここに一枚噛もうというのだった。
何しろ、油田の存在を先に見つけたのはイギリス系の会社なのだ。
現地の情報を持つことを含め、日本人との取引も十分可能と践んでいた。
日本の各石油会社は、北樺太、北満州で長年かけて技術と知識、経験を蓄積し、第二次世界大戦でインドネシア、ペルシャにある欧米の油田技術を吸収していた。
ソ連との戦いが終わると、カスピ海のバクー油田にも行った。
ドイツとの技術交流も濃密に行われた。
この結果、世界でもトップクラスのノウハウを持っていたが、それでも全てを得るまでには至っていなかった。
これに対してイギリスは、アメリカと並んで古い石油採掘の歴史を持ち、しかも海外で採掘する経営ノウハウを豊富に持っていた。
アラブ地域での資料や経験も豊富だ。
これを武器に、純粋な商売目的だけでアラブ地域に割り込もうというのだ。
イギリスの声を受けた日本は、国家として疲弊しきっているイギリスに対しては、アメリカほどの警戒感を持っていなかった。
それにイギリスが持っているものも魅力的だった。
また、かつて同盟関係だったり、一度目の世界大戦で戦友だった記憶もそれなりに残っているので、現状のアメリカに対するより心理的障壁も低かった。
そこで日本政府とイギリス政府の交渉が行われ、アメリカ系企業と一切関わらないという約束を始め様々な制約を加えた上で、両者の純粋な商売上での約束が結ばれる。
またこの時は、ドイツを中心にしてヨーロッパの他の国も幾つか呼んでいた。
表向きは旧枢軸諸国間の連携強化だが、実際は別の所にある。
世界の石油戦略上での、反アメリカ連合だった。
これまで世界の石油産出量は、1940年統計を例にすると60%以上がアメリカ国内で産出されていた。
テキサス油田は、自噴油田という採掘コストの安さもあって世界最大最強の油田だった。
そして石油のパワーこそが、アメリカの原動力の一つだった。
石油がなければ、船も車も飛行機も動かない。
工場も一部発電所もそうだ。
石油が大量にかつ安価にあれば、戦争でなくても有利になるのは道理だった。
しかしアメリカの石油一極集中を覆す可能性が、ペルシャ湾、アラビア半島には存在した。
この当時、石油は数十年で枯渇する地下天然資源だと考えられていたが、現時点においてその石油の獲得量こそが国力のバロメーターの大きな部分を占めるようになっていた。
世界大戦でも違いはなかった。
日本がどうにか戦えたのも、北樺太、北満州の油田、そして占領地の油田があったからだ。
ドイツは、戦争中盤まで石油不足に苦しめられている。
そして世界中の列強と呼ばれる国々は、アメリカの一人勝ちを許したくはなかったし、日本が抜け駆けする気がないと言ってきた事には一定の評価を下すべきだと判断した。
それに儲け話をみすみす逃すほど、この頃のヨーロッパは裕福でもなかった。
かくしてアメリカの言葉に耳を貸すことなく、日本を中心としたペルシャ湾での大規模な油田調査が開始され、1948年に成功の報告が舞い込む。
この時発見されたのが、地球上最大級の油田であるガワール油田だった。
ガワール油田は、サウジアラビアの少し内陸部にある油田で、南北約280キロ、東西約50キロに広がり世界最大の埋蔵量を誇る。
発見当時はそこまで分からなかったが、破格の大油田であることは最初から確認された。
最近での埋蔵量調査では、世界ダントツ一位の800億バレル以上と試算されている。
最初の発見は1936年と言われ、まだ調査途中の段階ながらアメリカの石油資本が当時のサウジアラビアから石油採掘権を得ていた。
それ以前に、イギリスがかつてトルコからここを切り離したのも、地形から油田が存在すると考えての事だった。
だが石油の利権は、第二次世界大戦により正式な契約者も戦争中にアメリカから日本へと強引に変更されていた。
アメリカの企業、政府は日本とサウジアラビアを強く非難したが、戦争に実質勝てなかったアメリカの言葉は犬の遠吠えでしかなかった。
それにアラブの人々は、基本的に白人が嫌いだった。
契約の方も、違約金を即金で支払う形で破棄された。
一方、クウェートのブルガン油田は、大戦前にイギリスが既に初期的な調査と開発を始めていたのを、戦争中に日本軍が占領。
以後日本が権利と開発を独占し、早くも1944年には本格的な試掘に成功している。
油田の範囲は20〜30キロ程度の楕円状の土地だが、埋蔵量は世界第二位。
最近での埋蔵両調査では、600億バレル以上と試算されている。
そしてブルガン油田は海岸部に近く、運び出しも容易という利点も備えていた。
さらに採掘も極めて容易で、油の質も両者とも良好だった。
原油生産のコストは、それまで最もコストが低かったテキサスの20分の1でしかない。
「水より安い」石油の出現だった。
そしてガワール油田、ブルガン油田の二つの大油田こそが、世界でも破格という言葉すら不足する埋蔵量を誇る超超巨大油田の双璧だった。
なお、当時の世界の石油会社は非常に限られている。
日本の坂本、帝国、昭和は、北満州油田の採掘によりようやく経営規模の拡大に乗り出し、戦争中に日本の国策と占領地拡大に伴い規模と業績を急拡大させていた。
ソ連時代のロシアは基本が国営なので、まともな企業がなく戦後のロシアではドイツ企業による支配と一部国営が続いていた。
故に石油企業と言えば、欧米になる。
アメリカの企業は、ほぼ全てがロックフェラーが作り上げたスタンダード・オイルの流れを汲んでいる。
スタンバック(後のエクソン)、ソコニー(後のモービル)、テキサコ、ガルフオイル、スタンダードオイル・カリフォルニアなどがその代表だ。
なお、スタンダード・オイルの設立と独占によってアメリカ最大の企業となったロックフェラーは、石油の独占によってアメリカ最強の財閥としての成功を収めている。
アメリカ以外だと、イギリス系のアングロ・イラニアン・オイル・カンパニー(後のブリティッシュ・ペトロリアム)、オランダ系のロイヤル・ダッチ・シェルなどがある。
とはいえヨーロッパの企業は、世界最強の富豪一族であるユダヤ系のロスチャイルドの影響が非常に濃かった。
そのような独占状態の中で世界大戦が起きて、ロイヤル・ダッチ・シェルが最初に開発するもソ連に奪われたロシアのバクー油田は、当初の開発者でもあったドイツ人の手に移った。
戦後、ロイヤル・ダッチ・シェルが一部の権利を数十年ぶりに取り戻したが、多くはナチス・ドイツ時代に国策企業として設立された「ライヒス・ペトローレウム(帝国石油)」が握っている。
ドイツ占領下となったイランのアバダン油田、イラクのキルクーク油田なども、戦中、戦後は似たようにドイツ企業の支配下にあった。
戦後世界は、日本とドイツが世界の石油を握ったのだ。
そして日本の企業だが、北樺太油田の多くは初期の開発で当時としては莫大な投資をした坂本石油が多くを占めた。
帝国石油は、あくまで二流企業でしかなかった。
その後北満州油田では、坂本石油、帝国石油の二社が共同で当たり、1945年の停戦の頃には年産で3000万トンに迫る巨大油田としている。
巨大化した日本の海軍と商船団の腹を満たしたのは、多くが北満州の油だった。
そして戦争中に、インドネシア各地を始めとする占領地の油田管理をする国策企業として各社から人員を拠出させ、半民半官の形で昭和石油を作った。
帝国石油も似た経緯で作られた会社だが、帝国石油が営利目的なのに対して、昭和石油は採算よりも日本全体への供給だけを考えた、総力戦が産み出した一種の公団会社だった。
そして1942年後半、三社を中心とした日系石油企業は次々とペルシャ湾入りして、各地の油田の修理、運営に当たった。
日本とドイツの話し合いの結果、イランのアバダン油田にはドイツ人が主に入っていったが、そこから追い出された形の日本人達は、ペルシャ湾での採掘屋となった。
彼らの多くは、既に油田の存在が確認されていたクウェートに入り、ブルガン油田の採掘初期で主な役割を果たした。
そして、1942年の進出以後培った砂漠での採掘ノウハウは、その後の開発でも大きな役割を果たす。
ユーラシア企業連合による世界最大のガワール油田開発は、すっかり砂漠焼けした日本人達がいなければ開発が数年は遅れていたとも言われている。
政治、軍事以外で日本が石油開発を主導できたのも、採掘屋達の努力あったればこそだった。
そして、ガワール、ブルガンは、実質的には日本人のものとなった。
ガワール油田は完全な各国合弁だが、それでも日本政府・日系企業だけで70%以上の開発権と株式を有する事になる。
クウェートのブルガン油田については、イギリスに金を出すなら株を配分するとして誘い、イランからほとんど追い出されていたアングロ・イラニアンが株を取得。
同社は会社名もブリティッシュ・ペトロリアム(英国石油)と改めた。
なお戦時中に占領地の油田を管理運営した昭和石油は、この油田開発をもって役割を終えたとして完全な民間資本となる。
会社名はそのままだったが、ブルガン油田の大株主となった。
また日本では、それぞれの油田が一社による寡占、独占とならないように、坂本、帝国双方ともに双方の油田開発にほぼ均等に配分されており、どちらがどちらの油田を持っていると言った馬鹿馬鹿しい事態は事前に回避されていた。
そして二つの超油田の主導権を握った事で、日本は世界有数どころか実質的に世界最強の石油企業を有することになる。
同時に、アラビア半島の油田を日本が独占しなかったことで、ヨーロッパの主要国はアラブ情勢に足を突っ込まざるを得なくなり、さらには日本との一蓮托生を余儀なくされる。
しかしヨーロッパ諸国、特にイギリスには、何を置いても安価な石油資源と現金収入が必要だった。
なお、日本の石油大手三社は、その後もアラビア半島各地の油田を探して周り、その後多くの利権と外貨、そして安価な石油を日本と日本の勢力圏、さらには世界中にもたらした。
それが一段落すると、自分たちの手の届く世界各地へと行き、中華民国、ロシア・シベリア地域の油田開発で大きな役割を果たすと同時に、自らの油田権益を次々に増やしていく事になる。
かくして、石油三傑の誕生となったのだ。
ちなみに、坂本石油は坂本、帝国石油は住友・三井、昭和石油は三菱の各財閥系に属している。
三菱が石油事業で遅れを取ったのは、自社ブランドにこだわり尚かつ初期において坂本財閥との競争に負けた為だった。
当時、石油の大口消費先であった日本郵船が三菱の色が濃い事を思えば、日本国内での財閥間の争いを垣間見ることが出来ると言えるだろう。
ガワール油田、ブルガン油田発見と試掘の報告は、世界経済に大きな衝撃をもたらした。
世界の石油地図が激変したことで、採掘に関わった国と企業は大宴会を催して祝杯を挙げ、アメリカとアメリカの石油企業は大いに嘆いた。
商業採掘にはまだ数年かかるが、報告が駆けめぐるが早いか世界の石油価格は大暴落し、世界中に石油を輸出していたアメリカは大損害を受け、アメリカ・ニューヨークの石油関連株は大暴落し、シカゴの先物市場は大混乱に陥った。
しかもブルガン油田、ガワール油田が、採掘が極めて容易で産油コストが格段に安く、今までにない超巨大油田であることは、単に巨大油田が採掘され始めたという事以上に衝撃的だった。
そして何より、大戦の結果ペルシャ湾の油田にアメリカ企業がほとんど手を出せないことが、アメリカへの大きな衝撃となった。
一部の会社はイギリス系企業を通じたり、戦前から続く坂本財閥との関係を使って当面は無害な程度に関わる事でペルシャ湾での僅かな足がかりを掴むことが出来たが、歴史上最大規模の大魚を逃した落胆は計り知れない衝撃となった。
アメリカの石油輸出が激減するのは数年先の事だったが、石油製油、石油加工品などの関連株は軒並み大幅下落。
アメリカの株式市場全体にも悪影響を与え、1948年のアメリカ大統領選挙では民主党が勝利する原動力となった。
共和党政権の支持母体は南部のテキサスに多く、彼らは石油で財をなした者が多いため不景気の前に支援が十分出来ず、さらに戦後の不景気をもたらした共和党を有権者が見放したのだ。
そして民主党政権の復活は、アメリカの政治が再び偏ったものになるのではないかと世界中の識者、政治家達に思わせるようになる。
もちろんこれは感情的な予想でしかなく、独善的外交傾向の強かったルーズベルト元大統領は既に死去していた。
だがもともとアメリカでの民主党政権とは、アメリカの外交を不安定にする事が多かった。
そして世界の人々の危惧は、やがて形となって現れてくる。