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遙かなる坂の上 〜日本帝国繁盛記〜  作者: 扶桑かつみ


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フェイズ56「戦後すぐのアメリカ」

 第二次世界大戦は、多くの国にとって不利益の多い戦争として終わりを告げた。

 だからこそ「ヨーロッパ的戦争」だったと言われることもある。

 

 戦争がトータルでプラスだと考えていたのは、日本とドイツぐらいだと言われている。

 

 ドイツは、戦争の結果がある程度の自由貿易体制をもたらして、戦争中に共産主義を滅ぼしてロシアそのものを当面足腰立たないほど叩けた事で、国家戦略上は一応満足していた。

 国家財政は借金で火だるま以上の状況だったが、ドイツの優れた工業製品をドイツ優位で世界に輸出できて、尚かつロシア人と軍備で張り合う必要性が低くなるのなら、多くの事は許容できる事だった。

 戦後もドイツ国内で軍人の地位が感情面で認められたのも、ある意味当然だったのだ。

 

 日本は、アジア、太平洋の勢力図を自らの色に塗り替え、世界的にも自らが圧倒的優位の自由貿易体制をもたらし、さらに自国経済を大きく躍進させ、戦後もなお躍進する余地を得ることが出来たのだから、政治、経済双方でほぼ満点と言える戦略的状況だった。

 


 一方経済という点では、アメリカは戦争前(1939年)から戦後(1945年)にかけて一気に二倍に成長したのだが、戦後の先行きが明るいとは言えなかった。

 

 欧州各国のアジアの植民地が瓦解して、アメリカが望んだはずの自由貿易体制が自らの努力によらず世界規模で作られた筈なのだが、アメリカにとっての世界は戦前も戦後も大きく違っていなかった。

 アメリカが戦争に勝てなかったので、ヨーロッパは依然としてヨーロッパで固まったままだった。

 しかも工業国のドイツが、実質的な勢力圏を大きく広げていた。

 レンドリースによってイギリスの「股ぐら」は多少開けられたが、アジアについては日本が囲ってしまっていた。

 これでは、日本がアメリカの「黒船」を追い返したようなものだった。

 

 表向きは自由貿易体制だが、誰もがアメリカ中心によるアングロ連合の経済を先兵とした覇権拡大を強く警戒していた。

 

 それでもデューイ政権は、自らの自由放任主義に従って国内の財政と経済運営を行い、外交では協調外交を心がけた。

 この結果、旧枢軸国との間にも一定の融和関係を作ることにも成功していた。

 ヨーロッパ、アジア双方にも、それなりにアメリカ製品を輸出できるようになった。

 各地での大量の復興需要が、アメリカの高度な工業製品を求めたからだ。

 

 この頃のアメリカにとっては、長期間続いたルーズベルト政権の独善的で強く偏った外交は反省のもとだった。

 

 しかし突然訪れた戦後は、アメリカ経済にとって大打撃となった。

 


 確かにアメリカのGDPは、第二次世界大戦が行われている間に二倍近くに拡大した。

 しかしこの多くは、第一次世界大戦中から1920年代にかけて作られ運用された巨大な設備投資を戦争特需によって有効に活用したに過ぎない。

 でなければ、長期間の大規模公共投資が実質的に失敗していたアメリカ経済が、簡単に二倍になる筈がなかった。

 

 しかし戦争は突然終わり、戦争特需は一瞬で消えた。

 日本軍に徹底的に破壊されたパナマ運河も、半ばついでのように規模の拡張工事を同時に行っていたとはいえ戦争終結で工事ペースが落ちて、いまだ復興半ばだった。

 

 これが戦争で勝利して、ヨーロッパとアジアにアメリカ兵が入り込んでいたら、事情は大きく違っていた筈だった。

 戦争が終わった後には、ヨーロッパでの巨大な復興特需の独占が待っていたはずだった。

 日本が有した北東アジアでも同様だっただろう。

 しかも戦争に勝利していれば、アメリカが世界経済の全てを牛耳ることも出来ただろう。

 しかし全ては「取らぬ狸の皮算用」に過ぎなかった。

 戦争中にアメリカが影響力を強めたのは、カナダ、南アフリカなど英連邦の一部に対してのみだった。

 しかも戦後の日本は、アメリカと関係の深かった貿易部門についても、アジア、太平洋地域かヨーロッパに向けていた。

 

 それにアメリカが得意とするのは、堅牢で故障知らずな優れた工業製品であり、そうした工業製品の多くは既に日本でも大量生産されるようになっていた。

 20世紀前半にアメリカが開発した、大量生産技術のソフト、ハード双方を最も取り入れている国も日本だった。

 製品を生み出す工場も日本の方が新しかった。

 そしてヨーロッパを牛耳るドイツについては言うまでもない。

 

 このため日本が欲しがる海外貿易品は、地下資源や食料を別とすれば、ヨーロッパ諸国が作る限られた量の高度な技術を用いた工業製品、加工品となっていた。

 

 しかもヨーロッパ諸国も、ドイツを中心にしてイギリス以外は戦争中と同じく日本との関係強化を求めた。

 その証拠として、日本とヨーロッパを行き交う定期航路は、戦前に比べて格段に増えていた。

 ロシアが国際鉄道として広く解放したシベリア鉄道も、以前より遙かに盛況となり、シベリア各地を中継した空路すら開かれたほどだった。

 戦争中に大きく発展した技術で造られた大型旅客機は、日本とヨーロッパの間をシンガポール=セイロン=ペルシャ湾を経由して飛んだ。

 ロシアも、自国を横断する空路を開く予定で精力的な売り込みをしていた。

 

 10年前まで、相手のことすらほとんど意識していなかった日本とドイツの関係は、国民感情の点において蜜月と称してよいほどにまで高まっていた。

 民族存亡を賭けた戦争を戦い抜いたという戦友意識が、ユーラシアを覆っていた。

 しかも両国には、アメリカという潜在敵が強大なまま存在し続けていた。

 

 そして本来ならこのユーラシアの友好関係から排除されるイギリスだが、従来からのヨーロッパ世界の関係、旧植民地の関係を利用することで巧みに戦後経済に入り込んでいた。

 それにイギリスは、もともと植民地と市場が無ければ食料すら自給できないので、必死に戦後の世界情勢の中を駆け回った。

 この点、自らの国力、経済力に慢心したアメリカとは大きな違いだった。

 

 アメリカは、戦災もしくは負債の大きい国に対して、大規模な融資や借款、場合によっては無償援助を餌に進出を計ろうとしたのだが、その効果も限定的だった。

 

 国際会議によって自由貿易体制が約束されたといっても、何を買うか、誰と取り引きするかは、当人達が決めることだという点では何も変わっていなかったといえるだろう。

 不公平な関税障壁が国際的に緩くなったとはいえ、それが時代だった。

 加えて言えば、戦前から自由貿易を唱えたアメリカも、品物を限ってはいたが強固な関税障壁を作り上げていた。

 戦前に日本とアメリカの関係が悪化した一因も、アメリカの二重規範で独善的な貿易姿勢にあったのだ。

 

 そうした点はアメリカも多少は改め戦後世界に挑んだのだが、結果は失敗だったと言えるだろう。

 

 世界大戦が終わり国連が装いも新たに出来たとは言っても、枢軸、連合双方の陣営が生き残った世界なのだから、わだかまりや警戒感があって当たり前なのだ。

 突如第三の敵でも出現すれば話は違ってくるが、そんなものは空想小説の中にしかなかった。

 


 それでも戦争が終わったので、戦後すぐにも金食い虫の軍隊の大量動員解除が世界中で始まった。

 

 幸い大規模な軍縮は各国も望むところであり、国際条約こそ成立しなかったが軍縮だけはある程度安心して行うことが出来た。

 だがこれも、一定の期間を設けて軍縮会議を開催する予定だという取り決めがあったし、連合、枢軸という元敵対国が双方ともに存在している以上、行きすぎた軍縮も難しかった。

 その中でもアメリカには、一つの安心材料があった。

 海空軍さえ一定のレベルで維持しておけば、突然本土に侵攻されるという事態は考えにくい地理的な利点だ。

 

 このためアメリカでは、陸軍及び航続距離の短い航空隊は、真っ先に削減対象となった。

 半数以上が実際に戦う事の無かった1200万の兵士、軍属を含めて1500万を越えた動員兵は、その90%以上が短期間のうちに除隊、解除されていった。

 兵士の多くがいたのがアメリカ本土だったので、動員解除は比較的容易かった。

 大戦中、本国の兵営でしか過ごさなかった兵士の方が圧倒的に多かったのだから、アメリカの戦争がどのようなものだったかが良く分かるだろう。

 アメリカ人にとっての戦争とは、基本的に海と空の戦争であり、多くの兵役経験者にとっては厳しいだけの訓練しか思い出のないものだった。

 

 こうした中で、大戦中最も活躍した陸海軍の基地配備の航空隊をまとめて、新たに「空軍」を作ることになった。

 これで陸海軍が航空機を理由に予算を取ることも出来なくなり、政府は心おきなく軍縮を断行できた。

 アメリカ空軍は、戦後軍縮のために誕生したとも言えるだろう。

 

 一番に軍縮の対象となったのは陸軍の陸上戦力で、地上部隊の数は40万人にまで削減された。

 倉庫には使われずに終わった武器が有り余るほど積み上げられ、即応予備役として80万が用意されたとはいえ、世界で最も大胆な軍縮となった。

 

 何しろアメリカには陸で繋がった国境線の向こうに敵もしくは仮想敵、対抗国がなかったからだ。

 部隊配置についても、ブリテン島での駐留をイギリス側から謝絶されたため、本国での言い訳のような沿岸防衛部隊と緊急事態用の機動戦力が主体だった。

 しかも緊急展開用には海軍の海兵隊の方が即応性と移動力に優れており、陸軍の存在感は非常に低かった。

 アメリカ陸軍とは、少数ではあるがドイツ軍と日本軍に撃滅されただけの存在だった。

 

 海軍は、膨大な数の船舶護衛用の艦艇をほぼ根こそぎ予備役へと押しやるも、大戦中の損害が多すぎたことと、仮想敵国の存在があるため、現行で建造中の大型艦については多くを就役させる事になる。

 何しろ現状では、《アイオワ級》戦艦 《ニュージャージ》《ミズーリ》、《エセックス級》空母 《ハンコック》と歴戦の空母 《エンタープライズ》、それにまだ実戦配備の済んでいない《改エセックス級》空母2隻の合計6隻しかまともな大型艦がなかった。

 19隻も建造した高速軽空母の数も、6隻にまで激減していた。

 就役した他の艦艇は、全て日本海軍など枢軸陣営に沈められていたからだ。

 

 停戦時にあったのは、無数の護衛艦艇(駆逐艦、護衛駆逐艦と護衛空母)だけだった。

 世界の半分以上の戦艦と大型空母を抱える日本とでは、軍縮会議の開催など考えたくもない差が出来ていた。

 

 しかし停戦時、建造又は艤装が進んでいた大型艦は、《モンタナ級》戦艦が5隻、《改エセックス級》空母が14隻、空母への改装が進んでいた元《アイオワ級》戦艦の大型空母が2隻、起工したばかりの次世代型大型装甲空母4隻もあった。

 《改エセックス級》空母は、さらに10隻が1944年頃から順次新たに作った船台で建造開始されていた。

 日本の超甲巡洋艦に対抗した戦闘巡洋艦も、残り4隻が艤装段階にあった。

 大戦以前に作られた旧式戦艦もまだ若干残っている。

 

 重巡洋艦以下の艦艇については、数え切れないほどの数がペースを落とすかほぼ中止状態ながら建造中だった。

 

 これらを全て完成させれば、現状の日本海軍にも十分以上に対抗できるだけの戦力が確保できた。

 しかも多くの艦艇が、完成目前か艤装がかなり進んでいた。

 建造まで至らなかった建造計画も無数にあった。

 戦争中のアメリカが、1946年内に日本海軍を数で圧倒できると考えていたのは当然の事だったのだ。

 

 しかし、戦後の大規模な緊縮財政の中にあっては、流石に全ての艦艇を完成させることは難しかった。

 また同時に、自主的な軍縮を進めつつある日本海軍への対抗を考えた、自らの戦力バランスを取ることも必要だった。

 


 このため《アイオワ級》は空母への改装を取りやめて元の戦艦として完成させ、生き残りの旧式戦艦の殆どを退役させて、新鋭戦艦9隻体制を目指すことになる。

 《モンタナ級》戦艦は大型のため平時のペースでは建造に時間は掛かるが、それでも1947年内には5隻全艦が揃う予定だった。

 大型空母の方は、当面12隻体制を目指すことになる。

 新たに組み込まれる建造中の《改エセックス級》は8隻となる計算だ。

 そして《改エセックス級》完成までは生き残りの高速軽空母6隻を代用し、建造が始まったばかりの超大型空母については今回は建造を取りやめ、次の計画で改めて検討する事とされた。

 主力空母から順次外れる高速軽空母も、その後は対潜水艦用に用いる予定だった。

 新世代の大型空母についても建造計画は進め、1950年頃を目処に順次完成を目指す事になった。

 

 運用や戦闘力に疑問が多く出ていた戦闘巡洋艦についても、日本に対する水上打撃戦力の不足を補うため、建造が進んでいる4隻を就役させることとなった。

 旧式戦艦も、徹底して近代改装した《コロラド》と《カリフォルニア》も日本との戦力バランスの関係で1950年頃まで残される事になる。

 

 この結果、最大で戦艦11隻、戦闘巡洋艦4隻、大型空母12隻、高速軽空母6隻を現役艦艇として整備する事になる。

 

 また、戦争中に建造もしくは建造が進んでいた無数の中小艦艇については、予算の範囲内で完成できる艦だけ完成させ、そのうち80%が予備役か保管艦状態とされる事となる。

 海軍全体の人員規模も、大戦前よりかなり多いながら約15万人にまで削減されていた。

 現状の日本海軍に対して、半分にも満たないほどの規模への変更だった。

 だが、日本海軍も大幅な軍縮を実行中だし、向こう十年大規模な戦争は起きないという観測もあり、海軍及び海軍ロビー、造船業界の一部以外からは強い異論も出なかった。

 それに大戦以前から考えれば、今回の海軍整備計画でも十分巨大な規模だった。

 


 そして新軍種の空軍だが、主な人材、人員は陸軍航空隊が基幹となっているので、戦争中に肥大化した組織から人員を選抜することで賄われた。

 そして前の戦争で最も役に立った事が評価され、三軍となった陸海空軍の中では予算面で最も優遇措置を受けることになる。

 平時の兵員数も、海軍を上回る25万を数えた。

 第一線機の数も、重爆撃機を中心として訓練機を除いて約3000機が予定されていた。

 空軍の兵員数が多いのも、搭乗員、整備兵、基地施設など全ての面で多数の人員が必要な重爆撃機を多数維持したからだった。

 しかも登場時革新的な機体だった「B-29」やその後の後継機を熱心に整備したため、軍事予算全体に占める予算も非常に大きなものとなった。

 

 空軍の内容はともかく、これにより陸海空三軍を合わせた兵員数は約80万人となった。

 大戦勃発前から考えると、軍全体の規模は非常に拡大していた。

 軍及び軍人の発言権も大きく向上している。

 これは、戦時以外でのアメリカ史上始まって以来の出来事だった。

 これはアメリカだけでなく、巨大な常備軍を抱える時代に変化したことの現れでもあった。

 

 そしてもう一つ。

 戦争中は完成せず、停戦と共に開発ペースを大幅に遅らせていた究極の破壊兵器、つまり原子爆弾についても、予算を割いて開発を続けることになる。

 途中、開発に携わっていた科学者のかなりが辞職するなどして開発も大きく遅延したが、それでも1948年には完成を見る事になる。

 


 軍の動員解除が進んで、兵士が市民社会に戻ってくるまでのある種の猶予期間が過ぎると、アメリカでは俄に失業者が増えた。

 アメリカ中の工場も次々に生産を縮小し、特に造船業界は突然のように仕事が無くなったため、戦争前に突然拡大した情景を逆回しするように縮小していった。

 日本の造船業界が何とか平時に戻ったのとは、大きな違いだった。

 また造船界と同様に、航空産業も大打撃を受けていた。

 

 これは日本が航空機専門の会社が少ないか財閥系列にあるためグループ内で損失補填が出来たのと対照的に、航空機一本の会社が多かった事も悪影響を与えた。

 しかも、日本の航空各社が、広がった勢力圏で運行する大型旅客機開発という新たな市場を得たのに引き替え、アメリカはむしろ市場が縮小していた。

 しかも世界最大の航空機生産を記録した反動が、他のどの国よりも大きかった。

 

 そうして追いつめられた会社は国内外の軍需に逃げようとしたが、世界的に強い軍縮傾向にある上にそれぞれ自国の航空機会社を守らねばならないので、外需はほぼあり得なかった。

 中小の国の需要は、少ない上に限られていた。

 内需はアメリカ自身の極度の軍縮の中にあっては小さな仕事の奪い合いで、どの会社も縮小再生産状態に追い込まれた。

 比較的マシなのは自動車やトラクター業界だったが、今まで民需の供給が滞っていた分の注文で食いつないでいる状態で、ここでも肥大化した生産力を持てあましていた。

 アメリカの巨大な生産力は、再び大きく軋みながら活動を停滞させつつあった。

 

 そしてそうした情景は、ある世界的事件と似ていた。

 

 アメリカ、ニューヨークのウォール街を発端として始まった、大恐慌の時に似ていたのだ。

 

 動員解除された1100万人以上の兵士は、その多くが除隊すぐにそのまま無職者となった。

 無論言葉通りではなく、徴兵・招集前の職業に復帰できたものが過半だったのだが、失業者となった者が大きく増えたのも事実だった。

 このため軍への再志願が増えたが、兵士の90%以上を動員解除して大幅な軍事費の削減を受けた軍には、兵士を召し抱える余力などなかった。

 

 そして兵器や工業製品の生産が止まると、株価も一気に値下がりし、多くの人々が解雇され、アメリカ経済は再び縮小傾向へと向かい始める。

 

 大恐慌とリセッションでは、アメリカ経済は3分2にまで落ち込んだが、1945年も下半期に入るとそうした情景はすぐにも見えそうな状態だった。

 このためアメリカ政府は、外交では融和外交によってアメリカ商品の輸出を促進し、国内の企業対策、失業者対策のための支出を増やした。

 イギリスなど友好国に対しては、支援の形で実質的に政府がアメリカ製品を買い上げた上で送り届けられたりもした。

 

 なお、デューイ政権の経済政策だが、先の民主党政権が行った大規模公共投資を、財源が豊かなうちにもう一度行うべきだという意見もあったが、自由放任主義に反するとして規模を限ってでしか行われなかった。

 主に行ったのは、一部軍需予算の復活と無駄な政府支出の削減、そして減税だった。

 幸いアメリカが費やした戦費は経済力に対して少なかったので、経済状態さえ保たれるのなら十分返済できるという読みの中での減税政策だった。

 

 共和党政権の努力はある程度報われ、アメリカ経済は辛うじて恐慌に入ることはなかった。

 しかし戦後不況と言える状態に入った事は間違いなく、1945年の経済成長率は実質的にマイナスを記録した。

 そして翌年も経済が上向かないまま続いたため、中間選挙では共和党が敗北。

 勢いを盛り返した民主党の攻勢が強まり、外交ばかりでなく内政でも難しい政権運営を迫られることになる。

 

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