表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
遙かなる坂の上 〜日本帝国繁盛記〜  作者: 扶桑かつみ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

55/65

フェイズ53「停戦」

 1944年11月7日、世界の運命すら決めると言われたアメリカ大統領選挙が、世界中が注目する中で行われた。

 民主党候補はフランクリン・D・ルーズベルト。

 前人未踏の四選を狙っての出馬だった。

 対するは共和党のトマス・E・デューイ。

 アメリカの良識と知性を代表するような人物だった。

 

 両者による選挙の争点は内政的には色々あったが、やはり戦争そのものにあった。

 

 民主党は、世界に自由と正義を実現するためには、枢軸諸国の打倒と、それを可能とする力強いリーダーの存在こそ必要だと訴えた。

 共和党は、人類の歴史を紐解いて見ても、戦争の解決手段を自ら限る事は賢明ではないと訴え、さらに一手打った。

 それは、アメリカ軍の作戦時期とアメリカの内政的事件の重なりを、報道関係者に克明にリークした事だった。

 アメリカ国民も戦争と選挙が密接にリンクしていることは「知って」いたが、改めて突きつけられるとその怒りを現政権を担う人々にぶつけざるを得なかった。

 

 時期を限った投機的な作戦、無茶な作戦を行わなければ、生じなかった犠牲が多かったかもしれない、という事だ。

 そして中でも、日本軍への初期の攻勢、今回のモロッコ作戦、そのどちらもが最も大切な選挙前に行われているのは、あまりにも露骨と言えた。

 しかも二つの戦闘では、多くの戦死者を出していた。

 作戦も無惨に失敗している。

 

 加えて、ルーズベルト政権の戦争戦略指導は、今のところ完全に失敗していた。

 アメリカの国力、経済力が大きくても、このような稚拙とも言える戦争指導ばかりしていては戦争を任せることはできないと、共和党は攻勢を強めた。

 共和党の言いたかった点もここにあり、戦争を選挙に利用した事そのものよりも、民主党政権の軍事的常識を逸脱した稚拙な戦争運営を責めた。

 

 そして11月に入ってすぐに、最後の「爆弾」がアメリカ全土に落とされる。

 それは、とある新聞が報道した記事で、モロッコでの初期の失敗の後でルーズベルト政権はさらに大量の増援を送り込もうとしていた、というのだ。

 撤退はイギリスが強く推したもので、もし撤退していなければ約40万の兵士と増援予定の10万以上の兵士達は、今頃戦死か降伏の不名誉な二者択一を迫られていただろうというのだ。

 

 しかも単なるガセネタではなく、米英の間でやり取りされた内容、公文書の一部写しまでが、世間に晒して良い部分のみだが公表された。

 イギリスは否定も肯定もしなかったが、真実を語ったも同然だった。

 

 こうして巨大な犠牲を払って達成された奇跡の大脱出作戦は、ルーズベルトの四選への致命傷となった。

 


 結果、選挙で民主党は敗北。

 しかもアメリカ史上空前の大敗となった。

 

 新たな大統領はトマス・E・デューイに決まり、共和党が戦争及び外交の建て直しを行うことになる。

 

 しかしこれで一連の政治騒動は収まらなかった。

 完全に政権が次に移る1月まで、ルーズベルトの健康が保たなかったからだ。

 

 一般には公表されていなかったが、ルーズベルトの体調は1942年の中間選挙以後悪化し続けていた。

 1943年頃は一時的に回復していたが、それも1944年の春以後は再び悪化が見られ、周囲でも大統領選挙への出馬を取りやめをさせようと言う動きもあった。

 しかも、政治上の暗黙の了解を破る前人未踏の四選を狙ったものであり、民主党の一部保守派もルーズベルトの強引さ傲慢さに辟易としていた。

 加えてルーズベルトが体調不良だったことが、アメリカ全体の戦争運営に悪影響を与えていたという説が流布した。

 

 それでも民主党は、他の候補がいないため最後までルーズベルトをもり立てねばならなかったのだが、ここに来て当人の体の限界がきてしまった。

 ルーズベルトは選挙直後の11月9日に突如倒れ、一時は意識不明にすらなった。

 その後危険な状態から多少持ち直すも、思考力すら大きく衰えたため長期入院を余儀なくされた。

 そして心身共に公務に耐える事はできなくなり、大統領職は副大統領のヘンリー・ウォレスが代行として行うことになった。

 しかし、経験の少ないウォレス一人では過酷な政務を背負いきれないため、国務長官のハルが外交を、軍務はマーシャル元帥が行った。

 しかし既に政権委譲が決まった国の臨時為政者を諸外国が重く見る筈もなく、しかもアメリカ国内でも決定的な権力を持つ者が実質的にいなくなったため、共和党への政権引継が急がれることになった。

 

 ルーズベルトが倒れて以後は、連合国など諸外国も現政権ではなくデューイなど次期政権を担う共和党と接触した。

 


 そしてアメリカの政治が一時的であれまともに機能しなくなると、世界は戦争終結に向けて確実に動き始めた。

 しかもアメリカ大統領選挙に対しては、ルーズベルトが敗北することを前提にして事前に準備をしていた事もあり、全てが足早に進んだ。

 

 イギリスは、まずはアメリカへの外交を強めた。

 ついで枢軸各国との中立国を介しての接触を行った。

 枢軸国との接触は、もうほとんど公然と行われた。

 アメリカを頼っていた亡命政権は、一部が共和党に鞍替えした他は、多くがイギリスを再び頼り、さらに枢軸諸国との接触を開始した。

 頑なだったのは、ド・ゴール将軍が率いる自由フランスぐらいだった。

 

 一方、枢軸諸国の間では、政治的主導権を握るべく首脳会談が実施された。

 

 そして枢軸側で主導的地位を握ったのが日本だった。

 

 ドイツのゲルデラー首相は、巨大化していたドイツ政府を背負うには少しばかり力量不足だったし、外交経験も足りていなかった。

 ナチスがなくなると、イタリアのムッソリーニ統領もすっかり元気を無くしていた。

 このため枢軸主要三カ国会議は、日本の永田首相が常にリードし、日本が出した方針が枢軸の大筋となっていった。

 

 とはいえ日本の永田首相は、無茶なことを言ってはいなかった。

 

 まずは連合軍が「無条件降伏」を取り下げ、とにかく停戦するという線で話しを進めることにしようというものだった。

 「無条件降伏」を掲げられたままでは、例え停戦してもまともな交渉が成立する可能性が限りなく低くなるからだ。

 

 そして会議において、枢軸側は既に示されてる基本路線に沿って交渉を行い、連合側との条件と摺り合わせていこうというものだった。

 

 要するに、無茶な戦争にとにかく幕を引いて、現実的な話し合いを行おうという事だ。

 

 そもそも国家間の関係、問題が、一度の戦争や一度の交渉で決することそのものが現代においてはおかしいし、一部の国が国家の存亡すら簡単に決めるような今の状態をまずは是正すべきだとしたのだ。

 

 この意見に対して、先の世界大戦での中途半端な対応と処置が、今時大戦を呼び込んだという意見も強かった。

 だが、既にアメリカ以外の国は戦争に疲れていたので、とにかく話し合いを始めるという事に関して異論もあまり無かった。

 

 そして交渉に持ち込もうとする人々としては、一旦話し合いを始めてしまえば、もうその後で血みどろの総力戦を続ける事は無いだろうと言う読みがあった。

 

 そして世界政治を握る人々の共通の感情としては、共産主義が実質的に滅び、ファシズムを引っ張った独裁者と政党が消えた以上、もはやイデオロギーを理由に争う時間が過ぎ去ったという思いがあった。

 その中でアメリカが頑なだったのは、二つのイデオロギーを複合させた「自由民主主義」というイデオロギーを一人背負っていたからだとも解釈していた。

 


 そして1944年12月16日、枢軸国の連名でドイツのベルリン郊外にあるポツダム宮殿で、枢軸首脳三者会議の結果に基づいた停戦提案が連合側に示される。

 

 基本条件は、連合国側の「無条件降伏」取り下げ、戦闘の即時停止、停戦会議の開始。

 それ以外については、停戦会議の中で決めることとされた。

 

 この宣言を「ポツダム宣言」と呼ぶ事が多い。

 

 これに対してイギリス政府が、国内向けではあったが肯定的な声明を発表すると、外交的に大きく後れをとっているアメリカも、国際的な孤立を回避するため最終的には追随せざるを得なかった。

 イギリスが戦争から脱落しては、戦争を継続する理由の多くが無くなるからだ。

 無論、イギリスなどを裏切り者にして戦争を続けるという選択肢もあったが、アメリカ国民がついて来るのかという事を考えると、そのような幼稚な政策が選択できる筈もなかった。

 

 だがアメリカは、会議において自らの交渉を有利とするべく、自分たちに何が出来るのかを最後に示すべきだとした。

 とはいえ手段は、ヨーロッパでの戦略爆撃しかなかった。

 英本土からの爆撃だけが、アメリカに残されたまともな攻勢手段だったからだ。

 

 対する枢軸側も、自分たちが攻勢に転じる姿勢を見せることで、戦略的に優位なまま戦争の幕引きを計ろうと画策する。

 

 そして枢軸側には、遂にヨーロッパへと駒を進めた日本の大艦隊があった。

 しかも日本海軍は、ほとんど開き直ったような海上作戦を企図する。

 それは、マダガスカルの主力艦隊を喜望峰周りで大西洋へと回航し、同時に地中海の海軍も全力で展開して、一気に大西洋の制海権を連合軍の手から全て奪ってしまおうという野心的なものだった。

 

 そして、戦艦と空母それぞれ20隻以上を中心とする大艦隊を投入すれば、アメリカ海軍が一時的に壊滅しているこの時点での連合軍に、抗する術はないと考えられていた。

 投入される戦力は、4個空母機動部隊、2個水上艦隊、2個遊撃艦隊、それに潜水艦隊だ。

 これにドイツ海軍、イタリア海軍も参加する。

 日本本土の留守部隊は、旧式戦艦群と1個空母機動部隊だけとなっていたが、太平洋にはドック入りしている以外でアメリカ軍の大型艦は存在しないので、残った艦隊も整備と休養を兼ねているようなものだった。

 

 作戦開始はアメリカ大統領選挙への揺さぶりも兼ねて11月3日の明治節に合わせ、さらに皇太子誕生日までに全てを決するという政治的な日程が組まれた。

 


 日本の《大和級》《紀伊級》超弩級戦艦を主力とする主力艦隊が、堂々と大西洋のど真ん中を通過してくるとは流石に予期していなかった連合軍は、俄に恐慌状態に陥ってしまう。

 しかも、地中海のオランやタラントでは、日本の機動部隊が短期間の整備と休養を終えて再び前線に投入されるという情報も飛び交っていたので、混乱は尚更広がった。

 

 一部では、遂に日本軍が英本土侵攻の準備作戦を開始したのではないかと騒がれ、英本土ではパニックすら起きた。

 日本艦隊は、まさに「アルマダ(無敵艦隊)」だった。

 

 現実問題としても、大西洋を北上する日本艦隊を阻止しようにも、南大西洋の小さな島々には対潜水艦用の航空哨戒機部隊しかいない場合が殆どなので、既にドイツ軍に掴まれていた哨戒範囲や時間の狭間を抜けられてしまうと、偵察すら為す術がなかった。

 酷い場合は、空襲を受けて壊滅している。

 南大西洋では、潜水艦の配備も最小限しかなかった。

 

 とにかく、セカンド・ダンケルク以後自粛されつつあった大西洋上での商船の通行が全面禁止され、対艦攻撃能力のある航空隊が、根こそぎ大西洋沿岸各地に急ぎ集められる事になる。

 アメリカ軍など、太平洋側に展開していた対洋上部隊を根こそぎ今度は東部沿岸に集めようとした。

 東部のアメリカ市民達が、アメリカの心臓部を日本の巨大戦艦群が攻撃すると考え、半ば恐慌状態に陥ったからだ。

 

 この時アメリカ軍は、ニューファンドランド島、バミューダ諸島、プエルトリコを結ぶ線を「絶対防衛線(=アブソリュート・ディフェンス・ライン)」と呼んで、大急ぎで過剰なほどの戦力を再配置していった。

 

 そうした状態で、再びジブラルタル海峡を越えた日本の空母機動部隊が、大西洋上の連合軍潜水艦を踏み潰しながら振り切って行方をくらます。

 当然、喜望峰を越えた戦艦部隊との合流もしくは共同作戦のためと考えられた。

 日本側がマイクロ波電探と磁気探知装置を積んだ対潜哨戒機をやたらと飛ばすため、連合軍の潜水艦は殆どまともな捜索が出来なかった。

 しかもアメリカ軍の潜水艦の殆どが太平洋に展開しているので、大きく勢力が減退しているイギリス海軍では、洋上の日本艦隊を追いかけるのは至難の業だった。

 

 その上、ドイツ艦隊主力も再び蠢動する気配を見せたため、連合軍でほぼ唯一の海上機動戦力であるイギリス本国艦隊も迂闊には動けなかった。

 もっとも、仮にイギリス本国艦隊が迎撃に動いたとしても、戦力差から日本艦隊にもみ潰されるだけだっただろう。

 大西洋航路の防衛に付いている艦艇についても、出来る限り防備の厚い重要拠点に待避していた。

 

 この時、世界の制海権は、明らかに日本海軍が握っていた。

 

 そして連合軍の恐怖を具現化したような攻撃が、アフリカ西岸のダカールに実施される。

 

 まずは、まる半日かけて延べ2000機にも及ぶ空襲が実施され、現地の航空戦力と主要防空施設や港湾施設を破壊した。

 夜間になると大艦隊が沖合に出現し、沿岸砲の届かない2万5000メートルの遠距離から、全ての構造物を艦砲射撃で粉砕した。

 現地連合軍も30万以上の防衛部隊と1000機以上の作戦機を抱えていたが、モロッコからの重爆撃による空襲や特殊部隊による妨害工作もあって対応が後手後手に周り、全体としては為す術もなく壊滅した。

 港で沈められた艦船も、20万トン以上に及んだ。

 

 その後も、主に日本海軍の大規模な海上破壊活動は続いた。

 

 アメリカ全土が蜂の巣をつついたような騒ぎになるも、北アメリカ大陸から1000キロ以内にこそ近づかなかったが、連合軍が拠点としていた多くの地が暴力的な攻撃を受けることになった。

 ダカール近辺のカーボベルデ諸島にあった連合軍の基地群も、ダカール壊滅の翌日に殆ど鎧袖一触で粉砕された。

 100機程度の駐留部隊では、話にもならなかった。

 西アフリカの他の連合軍拠点も似たようなものだった。

 このため連合軍は、ダカール方面からの全面撤退作戦を急遽立案する事になっていた。

 

 そして、イギリス本土・大ブリテン島の西端、コーンウォール半島にあるプリマスへの空襲も実施された。

 同地域は、大戦初期の頃からドイツ軍もそれなりに攻撃していたのだが、1000機単位の艦載機の空襲など想定もしていなかったため、現地守備隊と港湾施設は大損害を受けることになった。

 日本軍は歴史的建造物や地区には出来る限り攻撃しなかったが、攻撃された側としては何の慰めにもならなかった。

 ロイヤル・エア・フォースも、勝手が違う相手に散々な目にあった。

 

 そして日本艦隊の攻撃の最後を飾ったのはアイスランドへの空襲であり、連合軍が宣伝する大西洋上での優位が全くの虚構であることを全世界に知らしめる事になった。

 


 この後日本艦隊は、一部の艦隊が主に威圧を目的とした通商破壊作戦を継続し、残りの半数程度がカサブランカとジブラルタル辺りに陣取り、さらに半分がジブラルタルを越えて地中海側へと引き上げていった。

 安全の為ではなく、艦隊の規模があまりに大きすぎるため、一カ所に在泊する事が無理だったからだ。

 

 そしてこの一連の攻撃は、日本軍が考えた以上に連合軍に大きな衝撃と脅威を与えることになった。

 

 しかも、その後も日本艦隊の威を笠に着た主にドイツ海軍による通商破壊戦が激化し、連合軍が生命線とした北米=英本土ルート、北米各所=カサブランカルート、カリブ海( ベネズエラ)=英本土などほとんどの海上交通路が、事実上遮断してしまう。

 大西洋航路の完全な途絶は、大戦が始まってから一度も無かった異常事態だった。

 

 それでも12月のクリスマスを前に、50隻編成のコンボイを通常の二倍以上の護衛艦艇に旧式戦艦、護衛空母それぞれ複数の護衛付き、さらに別働隊の巡洋艦による牽制部隊まで付け、さらに各種欺瞞行動、囮艦隊まで使って送り出したが、イギリス本土に希望を届けるどころか惨憺たる結果に終わった。

 

 航路の半ばを越えたところで、枢軸側の通商破壊艦隊をワナに嵌めるどころか、4個艦隊 (ドイツ大海艦隊、日本艦隊の1個空母機動部隊、1個遊撃艦隊、一部の水上艦隊群)と潜水艦群による包囲戦にも似た集中攻撃をまともに受けることとなる。

 盾となって時間を稼いだ戦艦 《ロドネー》を中核とする旧式戦艦などの戦いは英雄的だったと言われるが、空、水上、水面下と全ての方向からの攻撃を止めることは出来なかった。

 特に、戦争中盤以後苦渋を舐めていたドイツ軍Uボートによる攻撃が大きく、船団の八割は何らかの形で沈むかイギリス本土には至らず、20隻以上いた護衛戦力も半数以上が勇戦敢闘の後に沈められていた。

 空襲と潜水艦の襲撃、さらに砲撃又は雷撃を同時に受けて何かが出来る艦艇など、この当時ほとんどなかった。

 

 しかも、枢軸艦隊を牽制するために出撃したイギリス本国艦隊も、無線封鎖して待ちかまえていた別の日本艦隊の空襲で大きな損害を受け、目的を達せられないばかりか自らも少なくない損害を受けてしまい、北大西洋の制海権が誰の手にあるのかを思い知らされる事になった。

 

 この悲劇を連合軍では、「悪夢のクリスマスイブ」と呼んだりもした。

 


 秋から続いた一連の戦闘は、戦争の流れを大きく転換するどころか、連合軍の総崩れの様相を見せていた。

 それでも戦争全体のスケジュールは、最大で一年遅れと言うところがアメリカの国力と戦争遂行能力の凄いところだが、既に長期的な戦争遂行能力はあまり意味のない状態に入りつつあった。

 

 何しろ北大西洋の制海権を失い、イギリス本土が遂に孤立してしまった。

 そう、政治が戦争を許さなくなっていたのだ。

 


 こうした危機的状況を踏まえ、連合軍、というよりアメリカの焦りは一層強まった。

 明らかに戦争そのものを失いつつあったからだ。

 現時点では、戦争全体の視野に立った戦略的な優勢よりも、戦術的な挽回が必要だった。

 

 このため、政治的な効果のある一撃が是非とも必要と考えられ、いくつかの作戦が急遽立案される。

 とはいえ、現時点で実行に移せるレベルの作戦は少なかった。

 何しろ連合軍には、海上艦艇が乏しかった。

 陸上での戦場も存在しないので、航空機を用いるほか無かったからだ。

 

 作戦案の中には、アリューシャン列島西部のアッツ島から燃料を過積載した「B-29」を用いた奇襲的な日本本土空襲もあった。

 だが、冬の北太平洋の自然条件を考えると、日本人が気付かないまま全ての作戦機が失われる文字通り「幻の奇襲作戦」となる可能性すら指摘され、作戦が実行段階に移されることはなかった。

 日本に対する自らのローテーションを無視した潜水艦による過剰な通商破壊戦も考案されたが、短期的な成果は得られない上に生じる犠牲に対する効果が疑問視されて、こちらも実行に移されることは無かった。

 この時期に日本が海軍の過半をヨーロッパに回したのには、それなりに裏付けがあったからだった。

 

 一部で囁かれた「究極の破壊兵器」については、後世の視点から見ても、どれほど急いでも実用化には1年以上の時間が必要だった。

 

 そして結局のところ出来る作戦と言えば、イギリス本土からの大規模な戦略爆撃を置いて他になかった。

 

 ヨーロッパ方面での作戦は政治的効果も高いし、状況さえ許せばベルリンを大規模に爆撃行い、これを以て枢軸側の宣伝が虚構だと訴えることも出来るからだ。

 この中で、地中海や西アフリカにいる日本艦隊の拠点への大規模空襲計画が立案されたが、英本土からの距離の問題、枢軸側の防衛体制、今まで作戦経験がない場所への攻撃など懸念材料が多かったため、今までの計画を拡大したものが実行されることになる。

 


 そして年が明けて1945年1月5日、連合軍の乾坤一擲の大規模空襲が開始される。

 

 連合軍の重爆撃機と夜間戦闘機合わせて3000機が、夜間爆撃の形でドイツ北部上空に進入しようとした。

 主な目的地は、ドイツ北西部のルール工業地帯とハンブルグ、ブレーメン。

 通常の倍以上の機体が作戦に参加したため、自らの混乱を避けるべく目標も分散せざるを得なかった。

 

 なお、ベルリンに対する空襲は、損害が大きくなりすぎる事が分かり切っていた上に、既にヒトラーとナチスがないので政治的効果が見込めなかったため、計画段階で見送られていた。

 

 そして連合軍の大規模作戦を状況から察知したドイツ空軍も、文字通りの全力で迎撃を実施。

 停戦前の有利な条件づくりのための連合軍の攻勢を警戒していたドイツ軍も、後先考えないほどの戦力を投入して防戦に当たった。

 

 連合軍側の作戦には、今までにない100機以上の「B-29」も参加し、全ての爆弾が投下されれば総量1万トン近い爆弾が落とされる計画だった。

 夜間を選んだのは、イギリス空軍の作戦参加を認めさせる為と、ドイツ空軍のジェット戦闘機を少しでも避けるためだ。

 

 これに対してゲーリングとその一党がいなくなったドイツ空軍は、ラダール(電探)を搭載した夜間戦闘型の「Me-262」や究極のレシプロ戦闘機とも呼ばれる「Ta-152」をかなりの数投入した。

 他にも試作機や予備機も含めて、飛ばせる限りの迎撃機を離陸させた。

 ソ連戦終了以後、主要都市に建設の進んでいた高射砲塔や各地の濃密な高射砲陣地も、いつも以上に弾幕を張った。

 試作段階だった、対空用の各種ロケット兵器までもが戦闘に投入された。

 ドイツ空軍だけでなく、イタリア空軍、ヴィシー・フランス空軍も、出せる限りの機体を出撃させた。

 

 そしてこの時の枢軸側の迎撃では、1機でも多い夜間戦闘機を飛ばしたいという要請に応える形で、当時東地中海各地に在泊していた日本海軍機動部隊の夜間戦闘機と、ヨーロッパに進出しつつあった日本陸海軍の航空隊の夜間戦闘機部隊も一部戦闘参加している。

 空母艦載機は母艦から直接離陸したが、マルセイユ沖合から500キロも飛べばそこは戦場だった。

 

 そしてこの夜、枢軸側も約2000機の機体を飛び立たせたため、ヨーロッパの空には約5000機もの様々な機体が飛び交うことになる。

 あまりの過密状態のためか、未確認飛行物体を見たという複数証言まで飛び出したほどだ。

 


 この夜の戦闘は、結局痛み分けに終わった。

 

 連合軍は全体の一割以上に当たる250機以上の重爆撃機が墜落し、護衛の夜間戦闘機や偵察機なども50機以上が失われた。

 損傷機の数も、全体の二割に及んだ。

 初期故障を克服できていない「B-29」の損害については、目立つ姿も相まってか2割以上に上った。

 消費した燃料、弾薬の総量は、10万トンにも達した。

 殆どが航空ガソリンとなるので、一時的とは言え海上交通の途絶した英本土にとって、安易に許せる浪費では無かった。

 

 ドイツ軍など枢軸側も、重爆撃機群の濃密な防空陣形を強引に突き破ろうとしたため、たった一夜で100機以上の迎撃機を失っている。

 

 そして爆撃そのものの効果は、判定後に10%程度の成功だったとされ戦略的には全くの失敗に終わった。

 連合軍は攻撃の成功と連合軍の勝利を声高に発表したが、ドイツ空軍の防空能力は依然として健在で、状況が有利な場合に計画されていたベルリン爆撃も無期延期となった。

 

 しかし、爆撃そのものは結果が出るまでという曖昧な状況のまま続けられ、ほぼ同規模で3日後にもう一度行われた。

 

 しかし結果は、双方さらに損害と浪費を積み上げただけで終わった。

 今までも行ってきた事を、瞬間的に規模を大きくして繰り返したに過ぎなかった。

 戦闘の規模がこれほど大きくなると、多少新型機を投入しようとも、全体の趨勢に影響を与えるほどではなかった。

 しかも海戦のように目に見える結果が出にくいので、犠牲と投入した戦力に比べて非常に分かりにくいものだった。

 連合軍にとっては、他地域からの補給が途絶えたイギリス本土の備蓄物資を贅沢に浪費したに過ぎなかった。

 

 その後も夜間爆撃は従来の1000機規模で続けようとしたが、海上交通が途絶した状態での大規模空襲を行うだけの力を無くしていたため、連合軍の都合によって大規模爆撃は事実上無期延期されることになる。

 つまり、戦略的に連合軍の敗北だった。

 


 そして連合軍の爆撃が事実上なくなったのだが、1月10日にドイツ政府から一つの発表が行われ、その攻撃が実施された。

 

 曰く、これ以上不毛な戦闘を続ける場合、迎撃が不可能な兵器による攻撃を実施する。

 そして今回は、警告の意味を含めているとした上で、大まかな爆撃場所、攻撃時間の公表も合わせて行われた。

 

 そしてブリテン島南東部の片田舎に突如落下してきたのは、マッハ6近くの速度で天空を切り裂いた飛翔体、つまり「A4」準中距離弾道弾だった。

 

 クーデター前に実戦投入の準備が進められ、まさに使用される直前にクーデターが起きたため使用する機会を逸し、その後もドイツ側の政治的判断で使用が控えられていた次世代の新兵器の一つだった。

 

 大量の戦闘機を全ての高度に配備して待ちかまえた連合軍は、この攻撃を全く阻止出来なかった。

 

 弾頭に爆弾も設置されていなかったし、落ちたのは住民の待避の済んだ辺鄙な農場だったので、被害は皆無だった。

 だが、連合軍には、拭い去れない衝撃だけが残された。

 

 本当に迎撃不可能な兵器というのは流石に予想外で、しかも一発だけではないと簡単に予測が付いたからだ。

 

 確かに、ドイツのロケット開発は、連合軍も早くから気付いていた。

 ペーネミュンデに代表される実験場所や生産工場への爆撃も行った。

 それをドイツが遂に使用に踏み切ろうとしていたという事実を突きつけられたのだ。

 

 そして為政者達は、この爆撃がドイツが遂に原子の力を使う新型爆弾が完成もしくは完成に近づいた確たる証拠だと考えた。

 でなければ、迎撃不可能な兵器での警告爆撃など考えられないからだ。

 

 実際のところドイツ軍では、「A4」準中距離弾道弾を100発単位で用いたロンドン総攻撃をヒトラーは計画していたが、原子力兵器はまだ開発されていなかった。

 それどころか、ドイツでの核兵器開発は肝腎なところで開発が躓いていて、開発できたとしても数年先と言うのが実状だった。

 

 だが連合国内部では、「A4」の落下を重大に受け止めた。

 苦し紛れの爆撃が寝た子を起こしたとして大騒ぎとなり、イギリスとアメリカとの間に大きな溝が生まれていた。

 いや、既に入っていた両者の間の亀裂が、遂に見えるレベルで露呈したと言えるだろう。

 


 イギリス政府は、戦いを終結させるための名誉ある決断の用意があることをラジオ放送などで発表。

 国民も、新聞などで概ね政府の支持を表明した。

 

 これに対して枢軸各国は、イギリスの勇気ある決断を称え、イギリスの声に応える用意があることを伝えた。

 

 大統領選挙後も煮え切らなかったアメリカ政府も、前政権が最後に行った爆撃騒ぎの後始末もあって動きが鈍く、動き始めたばかりのデューイ政権による外交は後手後手となって混乱が続いていた。

 

 そして前政権の負債精算の意味も込めて、内政外交双方の側面からとにかく協調外交を実施せざるを得なかった。

 前政権の失敗は、あまりにも独善的で特定の国を好悪しすぎた点にあると考えられたためだ。

 

 かくしてアメリカも停戦会議への参加、即時停戦には合意を表明。

 ただし「無条件降伏」に関しては、会議での議題の一つとするという点を自らの条件の一つとした。

 

 この点については枢軸側も一定の譲歩姿勢を示した。

 停戦会議さえ開催してしまえば、それはほぼ自動的に「条件付き」となるからだ。

 


 全軍の停戦は1945年1月15日を以て実施され、ここに第二次世界大戦は幕を閉じる。

 

 戦争期間は、1939年9月1日から数えて5年と3ヶ月半。

 途中参戦の日本の戦争期間は、4年と1ヶ月半だった。

 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ