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遙かなる坂の上 〜日本帝国繁盛記〜  作者: 扶桑かつみ


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フェイズ49「政治の季節再び」

 枢軸陣営の絶頂は、スエズ運河の開通からソ連の降伏前後だったと言われる事がある。

 これらは1942年の下半期に連続して起きた事で、枢軸陣営がユーラシア大陸を完全制覇した瞬間でもあるからだ。

 

 しかし以後は枢軸側も打つ手が限られ、連合軍も枢軸側が二正面戦争を終えて防備を固めたので、アメリカが参戦したにも関わらず容易に攻め込めずにいた。

 

 つまり膠着状態だった。

 

 前の大戦との違いは、戦いの舞台がフランス北西部の塹壕戦ではなく、ドーバー海峡を挟んだ航空撃滅戦だったことになるだろう。

 日本海軍が派手な海戦を何度か行って勝利しているが、アメリカの侵攻能力を一時的に奪って反撃の時期を遅らせているに過ぎない。

 戦争で起きる損害の多くは、旧ソ連での壮絶な戦いを特殊な事例とすれば、ヨーロッパの空と世界各地の海上交通路を巡る戦いで発生していた。

 

 そしてまさに空と海での消耗戦が、第二次世界大戦の典型的な姿だったと言えるだろう。

 そしてこの戦いでは、生産力、兵器供給能力に劣った方が負けであり、個々の戦闘の優劣は余程極端でない限りほとんど関係なかった。

 1人の英雄や天才よりも、100人いや100万人の熟練兵が必要な戦場だった。

 

 スポーツでいえば、ベースボールやフットボールが半年間かけて総当たり戦を何度もするようなものだ。

 大海軍を持つ日本とアメリカは、トーナメント戦のような一度の戦いに全力を投入する戦闘を好んだが、これはむしろ例外となる。

 

 そして膠着した戦場の後ろで復活したのが、世界規模での政治的やり取りだった。

 


 第二次世界大戦において、世界は「枢軸アクシス」と「連合国ユナイテッド・ネイション」の二つの陣営に分かれることになる。

 双方の言葉の後ろに「軍」とつく場合も多いが、どちらの表現の場合も、それぞれの陣営についた国家又は国家陣営の事を現す。

 

 そして枢軸の中心は、「日独伊三国軍事同盟」を構成する日本、ドイツ、イタリアになる。

 この国の並びは、GDPと鉄鋼生産力の順番でも日本が一番となる。

 また重工業生産で言えば、満州帝国がイタリアに準じるほどの数字を示すようになっている。

 ドイツが呆気なく制圧したフランスは本来ならイタリア以上の数字になるが、戦争に敗れた事、統一政府が存在しなくなった事、元からの経済的非効率から、戦争中にその威力を発揮することはなかった。

 フランスの最盛期は、第一次世界大戦だったのだ。

 また降伏後のロシアも、統計数字のかなりの部分を枢軸のものとして上げることができる。

 西欧とロシア西部の生産力を加えた場合、ドイツが枢軸で最も大きな国力と工業力を持つ事になる。

 

 また、占領地と降伏した国を全て枢軸とした場合、「ユーラシア枢軸」と表現できるほどになる。

 

 一方連合国は、最初はイギリスとフランスだった。

 だがフランスは開戦から7ヶ月で脱落し、その後一年近くイギリスは孤軍奮闘を強いられる。

 そして日本までが参戦して窮地に陥るが、ドイツが突然ソ連に攻め込んだ事で連合にソ連が加わり、イギリスは僅かながら一息ついた。

 また同時期には、イギリスとアメリカが「大西洋憲章」を発表して、自らの陣営の理念や枠組みを明確なものとした。

 これに対抗した形で日本が「大東亜会議」を開催したが、連合が政治的に一歩先んじたのは確かだった。

 

 そして1942年7月にアメリカが参戦するが、その年の暮れにソ連が崩壊してロシアは枢軸に降伏。

 連合から脱落してしまう。

 このため現状での連合は、ほぼ完全な「アングロ同盟」であり、かえって統一感の取れた同盟へと変化していた。

 

 一方の枢軸は、占領地の拡大と敵の打倒に従って、構成が複雑化していた。

 その上、戦争は常に有利に展開し、広大な占領地を得て必要な資源や市場までも得ると、人々の心に余裕と慢心が産まれる。

 そして亀裂が入り、反目が起きた。

 


 枢軸内での最初の亀裂は、中東問題だった。

 

 日本、ドイツそれぞれが進撃したアラブでの割り当て問題だったが、ここでは日本が譲歩してドイツにペルシャ(イラン)を明け渡していた。

 

 だがイラクでは、日本がイギリスがイラクから分けていたクウェートという地域から南のアラビア半島の権利を主張したため、ドイツ側から反発が出た。

 クウェートと呼ばれる土地の地下には、莫大な埋蔵量を持つ油田の存在が既に発見されていたからだ。

 

 そして日本とドイツは、まだまともに掘ってもいない石油を巡り対立を深めてしまう。

 だが1942年内は、まだソ連も頑強に抵抗していたし、アメリカが参戦したばかりという事で問題の先送りを決め、とにかく先のことより今の戦いに集中することになる。

 

 しかしソ連が崩壊してアメリカが初戦で惨敗すると、再び政治の季節が到来する。

 

 今度の問題は、日本が行っていた「大東亜会議」だった。

 

 大東亜会議は、「大東亜共栄圏」というスローガンのもと、自主独立した国々が連合して諸問題に当たることが前提とされていた。

 そして日本は、占領した地域のほとんどに自治独立を与えてまわり、準備ができた地域から独立も認めていった。

 政治、経済、軍事、教育など様々な面でも、現状で出来る限りの支援と援助を実施していた。

 各地域で得た資源についても、物々交換や場合によっては後払いもあったが、とにかく国家間の貿易という形を取り、相手側の利益にも配慮していた。

 英連邦だったオーストラリアやニュージーランドとすら、日本が船を出す形で貿易が行われていた。

 

 日本の中枢は、アジア全部など抱えきれる訳がないと比較的冷静に考えていたので、国家百年の大計として植民地帝国主義の解放者としての日本を誇示し、今後の国際外交を有利に運ぼうという意図が強くあった。

 無論、日本国内の一部というよりかなりの意見として、日本中心の植民地帝国を作るべきだという論調もあったが、日本政府は暴論や行動が過ぎる者を厳しく処罰してでも外交方針を堅持した。

 五月蠅い少壮将校を最前線送りなどの処罰をしたため、政府要人に対するテロ未遂事件が起きたこともあった。

 しかし永田内閣になって以後は、日本政府はかなり方針が明確となっていた。

 日本国内の反発も、永田首相の懐刀と言われた東条大将が憲兵隊などを使って抑えていた。

 

 日本政府が、最低でも戦争をこのままドローで終わらせると決めた以上、戦後の事も十分考えた末での行動だった。

 両手から溢れるほどのものを抱え込んだ者の末路は、現状でこれ以上ないぐらいに目にすることが出来たからだ。

 

 そうして日本政府が、国内の強硬論に苦労しつつ政策を進めている時、横合いから文句を言ってきたのがドイツだった。

 

 ドイツというよりナチスの戦争目的は、ヒトラーの著書にもあるように「レーベンス・ラウム(生存圏)」の獲得にあった。

 それは現代のローマ帝国、つまりドイツを中心とした植民地帝国の建設を意味していた。

 その中では従属関係はあっても対等な国家関係があってはいけなかった。

 ドイツを中心とした国家、民族の階層が明確に分けられていなければならなかった。

 

 でなければ、ナチスの思想、ヒトラーの考えそのものに反することになり、イデオロギー国家として到底許容できるものではないからだ。

 

 そうした事を、ドイツ外務大臣のリッベントロープなどが日本に対して口うるさく言うようになったのが、1943年に入ってから開催された日独伊三国会議においてだった。

 


 1942年下半期以後、日本軍のインド洋の打通によって枢軸によるユーラシアリングが完成すると、日本とドイツの外交担当者や場合によっては首脳同士が直接顔を合わせる機会が増えた。

 

 当時の日本の首相は、永田鉄山。

 陸軍大将でもあり、日本陸軍史上でも大村益次郎や児玉源太郎に匹敵する逸材と言われる人物だった。

 極端な言い方をすれば、日本最強の秀才と言うことになるかもしれない。

 日本最大の官僚集団でもある陸軍将校のトップに上り詰めるという事は、そう言うことを意味してもいた。

 

 そうした人物が、ヒトラーやムッソリーニ、さらにはその下にいるナチスの外交担当者と意見や考え方が合わないのは、ある意味当然だった。

 ナチス政権というよりヒトラー総統は、「素人」を責任者に選ぶことを好んでいたからだ。

 

 しかも元がただのワイン商だったドイツ外相リッベントロープなどでは、まともな外交的対話は成立しなかった。

 もっとも、まともでないが故に一時期の英仏はそれを見抜けず、また自らの弱腰もあってリッベントロープの口車に乗ったともいえた。

 だが、防共協定締結以後、既に何度も煮え湯を飲まされていた日本政府中枢は、ナチス関係者のその場限りの口車に乗ることはなかった。

 そしてドイツ側は、交渉の進展しない状況に強い苛立ちと、日本に対する不信感を持つようになる。

 

 なお、1942年5月末に最初の会議を持って以後、日本と欧州枢軸諸国は何度も戦略会議、国際会議を開いて、枢軸陣営としての戦争方針、戦後政治などについて話し合いを重ねた。

 最初の三国首脳会議も、1943年1月14日にローマで開催された。

 

 しかし日本側の首脳、閣僚の後の述懐や著書からは、ナチスドイツ政権の中枢には、まともに話が通じる人間が極端に少なかったという主旨の言葉が多く記されている。

 

 当時の日本の中枢は、首相の永田鉄山、外務大臣の重光葵、兵部大臣の堀悌吉、総参謀長の東条英機となり、その誰もが希代の秀才や英才と言われた人ばかりだった。

 

 一方ドイツは、ヒトラー総統、ゲッベルス宣伝相、ゲーリング国家元帥、リッベントロープ外相、軍の名目上のトップであるカイテル元帥と、軍人以外はどれも政治とは関わりない所から短期間で成り上がった人ばかりだった。

 彼らは一種の天才やある種の才能の持ち主だったが、日本の首脳部と話が合わないのは当然と言えば当然だったかもしれない。

 ナチスドイツの首脳部と会った日本中枢の人々の述懐でも、高級官僚と軍人以外で話が分かる人物はシュペーア軍需相しかいないと書かれている事が多い。

 リッベントロープ外相と親衛隊のヒムラー長官を良く書いている者は皆無だった。

 また、特異な人材ばかりを率いるヒトラー総統を、そうした面から評価する証言もかなりにのぼった。

 

 つまるところ、明治時代の中期以後、極端な秀才集団によって国家運営を続けてきた日本と、ナチスという成り上がり集団が国を乗っ取った形の当時のドイツの意見が合う道理がなかった。

 

 それでも同じ陣営として、話をまとめなければならなかった。

 日本単独、ドイツ単独ではいずれアメリカの国力に押しつぶされてしまう事が確実だからだ。

 一方では、アメリカがいなければ、1943年の時点で枢軸陣営は同盟として崩壊していたとすら言われる事もあるほどだ。

 

 また、日本はアジアを「解放」し、ドイツはロシアの大地を「占領」したため、枢軸の戦争目的は既に達成されていた。

 このため今すぐ戦争が終わるのなら、少しばかり自分たちの側から譲歩しても構わないという思惑もあった。

 既に望外なほどの大勝ちをしているので、多少譲歩したところで戦争を勝ったまま終えられるからだ。

 

 特に日本にその傾向が強かった。

 


 そもそも日本は、ドイツと同盟を結んだことが外交的失敗だったと考える向きが大きかった。

 一時の潮流と感情に流された自業自得の結果だったが、その悔いは日に日に大きくなっていった。

 何しろドイツは、同盟国である日本に何の了解もなく戦争を始めて、次々に敵を増やしていた。

 

 無論、ドイツにも相応の理由もあったのだが、了解なしというのでは同盟を組んでいる意味がなかった。

 多くの場合、日本は準備どころか心構えすらもできていなかったからだ。

 

 しかもその上で、ドイツは日本にあれこれと求めてきていた。

 1944年に入った頃も、自分たちにまともな受け入れ体制、支援体制がないのに、日本海軍の半分をヨーロッパに派遣するように何度も求めたりしていた。

 

 対するドイツも、日本に対する不満を持っていた。

 

 日本の行動は、常に一歩遅れていた。

 特にイギリス、ソ連に対する参戦がそうだ。

 もう少し早く日本が参戦していれば、アメリカの参戦を迎える前に戦争が終えられていたかもしれないと、当時のドイツ中枢は本気で考えていた。

 無論、日本の参戦前は日本に殆ど期待していなかった事などは忘却の彼方にあった。

 

 また1943年に入ってからの日本は、時折海軍でアメリカを派手に叩くだけで、片手間の戦争をしているように感じられていた。

 日本の兵器がヨーロッパに大量に流れているのが、その証拠だと考えられた。

 そして自分たちだけを戦わせているという感情も、同時に膨れあがっていた。

 その上日本は、アジア、オセアニア全土という広大な勢力圏を独り占めにして、戦争で最も得をしているという感情もあった。

 

 これを聞いたとある日本人は、同盟相手をドイツではなくイギリスとしていれば、日本は一円も消費せず一滴の血も流さずに、今戦争で勝ち取った成果の半分を得られただろうと言ったと言われる。

 

 そうした言葉が出るほど、1943年以後の日独関係は僅かな間に冷却化しつつあった。

 

 そうした中でも、兵器の支援、援助、技術交流は続いていたが、それすらも現状の敵を退けるため必要だからしているに過ぎず、相互的な協力関係にはほど遠いという感情が日に日に高まりを見せていた。

 

 しかし、戦争が次の次元へと移行する前に、政治の方が強引な方法で動き始めてしまう。

 


 ロンドンでは、イギリスの首相ウィンストン・チャーチルが、本格的な活動を開始しようとしていた。

 

 彼の行動は、戦後のイギリスの地位を少しでも引き上げるためのものであり、単純な戦争の勝者になるためのものではなかった。

 ソ連と手を結ぶときに「ヒトラーを倒すためなら悪魔とでも手を結ぶ」という主旨の発言を残しているが、彼の行動はイギリスを大国として生き残らせる事に対しても同様だった。

 

 チャーチルの行動は早く、ソ連が倒れた段階で既に枢軸側のエージェントとの接触を開始していたと言われている。

 そして秘密外交は日を追うごとに加速し、多くの陰謀も実施していたとも言われている。

 

 そしてほぼ同時期、枢軸のそれぞれの国の一部でも、戦争を終わらせるための努力が行われていた。

 

 イタリアは、戦局が不利になった場合に備えて我らが頭領ムッソリーニを政治的に引き下ろすための工作が水面下で行われ、日本では政府を挙げて本格的な講和の模索が実施された。

 既にどちらの国も、水面下でイギリスと接触を持っていた。

 この動きを、ドイツ、アメリカが監視もしくは阻止しようと動く、後年有名になるスパイ合戦が行われていたと言われている。

 

 だが、最も苛烈だったのが、ドイツでの一部の者の行動だった。

 

 事件は、1944年7月15日に突然のように起きた。

 

 「黒いオーケストラ」と呼ばれるグループが、ドイツとナチスの支配者であるアドルフ・ヒトラー総統を爆弾で暗殺したのがそれに当たる。

 


 ナチスドイツの秘密警察ゲシュタポが「黒いオーケストラ」と名付けた反体制派グループは、参謀総長のルートヴィヒ・ベック陸軍上級大将、国防軍情報部部長ヴィルヘルム・カナリス海軍大将など、多くの軍人が荷担していた。

 民間人でも、カール・ゲルデラー元ライプツィヒ市長など、多くの人々がその名を連ねている。

 

 彼らの目的は、この不毛な戦争を一日でも早く終わらせるべく、ヒトラーを暗殺して出来るならナチスをドイツから排除し、ドイツ社会を本来あるべき姿に戻し、その上で連合軍と講和を計る事にあった。

 

 このまま戦争を続けてもドイツに明日はないという点からくる行動で、そうした考えは戦争前からあり、ヒトラーは何度も暗殺未遂にあっている。

 宿敵のソ連を滅ぼしても、反ヒトラー、反ナチス派の動きに大きな変化はなかった。

 際限ない長期戦は仮令戦争に勝利してもドイツ経済を徹底的に破壊する事になるし、ヒトラーとナチスがいるかぎり戦争の火種は常に燻り続けるという強い恐怖感があったからだ。

 


 そして事件は、東プロイセンのラステンブルクの総統大本営「ヴォルフスシャンツェ(狼の巣穴)」で起きた。

 

 手段は非常に荒っぽく、個人で持ち込んだ鞄に仕掛けられた爆弾による爆殺だった。

 実行者は、国内予備軍参謀長のクラウス・フォン・シュタウフェンベルク陸軍大佐。

 戦いで酷く負傷して不自由な体のため、まともなボディチェックすら受けないほど誰からも警戒されないという点で選ばれた人事だった。

 

 かくして彼の仕掛けた爆弾は、幸運なり神のご加護なりを味方につけた事もあって完全に作動し、当時会議中の部屋に詰めていた者のほぼ全員が死亡するか重傷を負った。

 そして死者の中には、爆弾に近かったアドルフ・ヒトラーその人がいた。

 しかも、爆発直前にヒトラーに呼ばれていたと思われるヒムラー親衛隊長官までが、死者のリストの中に含まれていた。

 

 ソ連のスターリンに続く、戦争中二度目の独裁者の暗殺だった。

 


 爆発の確認と同時に、クーデター派の人々は作戦発動を意味する「ワルキューレ」をドイツ軍の各軍管区に発令。

 戦争を何とかするべきだと考えていた人々が一斉に動き出す。

 

 戒厳令が布告され、親衛隊、ゲシュタポの処理・粛清、閣僚・ナチス党幹部・警察幹部の逮捕と強制収容所の確保などが指令されていった。

 

 これに対して体制派、ヒトラー派、ナチスは、ヒトラーとヒムラーという最も肝心な重鎮を失って混乱し、時間だけを空しく失った。

 ドイツ人の多くも最初は日和見、様子見が多く、一部では抵抗も見られた。

 だが、ヒトラーとヒムラーが死んだことが確実に分かると、国防軍の多くの部隊が反乱に合流していった。

 しかもソ連滅亡以後存在価値が大きく低下していた武装親衛隊が、前線部隊の多くが国防軍と新政府の方針に従う旨を宣言すると、体制派、ヒトラー派の反発や抵抗も一斉に下火となった。

 そして陸戦部隊の多くがドイツやヨーロッパ中枢にいたことが、国防軍による掌握を容易なものとしていた。

 

 それでもナチス、一般親衛隊、ゲシュタポ、そしてゲッベルスが率いる宣伝省の一部がかなりの抵抗を示したが、それも実力部隊の圧倒的な差から蟷螂の斧でしかなかった。

 ドイツ人、ドイツ軍人からも恨みを買っていた組織は特に厳しい制圧が実施され、過剰なほどの武力が使われた場合も多かった。

 


 なお、ドイツ空軍を支配するナチスナンバー2のヘルマン・ゲーリング国家元帥は、ちょうど薬物による病状が悪化していたため、彼自身が大きな行動に出ることができず、呆気なく逮捕軟禁された。

 ナチス党幹部に上り詰めたマルティン・ボルマンは、瞬時に「臭い」をかぎ分けて地方に逃れ、一時は現地のナチス党員や親衛隊を糾合して巻き返しを計ろうとしたが、彼に従う者は脛にキズ持つ者以外ほとんどいなかった。

 ゲッベルス博士は、包囲された実家にて家族共々拳銃自殺を遂げた。

 リッペントロープは呆気なく身柄を拘束されるも、それ以後は誰からも相手にされなかった。

 軍人以外でヒトラーの側近でほとんど何の咎めもなかったのは、軍需大臣のシュペーアぐらいだった。

 

 「ロシア総督」のハイドリヒ親衛隊上級大将は、一部の部下と共に悪行を任せていた現地の一般親衛隊とゲシュタポを人身御供として、今まで集めた様々な「情報」を持参する事で保身を図り、その後は何食わぬ顔で新政府に合流している。

 また一説では、事前にクーデターのことを知っていたとも言われている。

 

 その他のナチス幹部については、抵抗するよりも降伏や恭順を選ぶ者が多かった。

 国防軍の多くは素直に新しい政府に従い、武装親衛隊も一時は拘束されるもごく限られた熱心なヒトラーもしくはナチス信奉者以外は、国防軍に編入されるか自ら望んで軍を去った。

 武装親衛隊の外国人部隊は、殆どが解散した。

 


 ヒトラー暗殺から4日でドイツ臨時政府が作られ、大統領にルートヴィヒ・ベック、首相にカール・ゲルデラーが就任した。

 

 臨時政府には、改めてドイツへの忠誠を誓った旧閣僚の一部も名を連ねていた。

 多くのドイツ人達は、一部の者を除いて何事も無かったかのように新たな政府へと合流していった。

 これは未曾有の戦争中という特殊な事例の影響が強かったが、それにしても一瞬にして消滅したナチスという組織が一体どういったものだったかを如実に物語るものだと言えるだろう。

 

 それでも一部の者による臨時政府は不安定な運営を余儀なくされたのだが、世界政治が大きく変化したことだけは確かだった。

 


 そして独裁者ヒトラーの死亡とナチスの瓦解によって、世界がイデオロギー戦争と無制限全面戦争から国際政治の季節へと一斉に移行していく事になる。

 


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― 新着の感想 ―
[良い点] 作中でナチスドイツと同盟を結んだのが悪手だったと気づいてる人が居て良かったです。 その場の勢いで決めてしまった日独同盟が無ければ英国からの参戦要請を受け、その後半世紀の繁栄が約束されたと思…
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