フェイズ48「連合軍の憂鬱」
1944年年春、本土防衛のためとはいえ再び投機的な作戦で大損害を受けたアメリカは、自らの圧倒的な国力を十分に発揮できないまま、時間だけを浪費しなければならなかった。
全ては制海権を得られないためだ。
本来なら、この時期までに北アフリカのモロッコ(カサブランカ)に対する上陸作戦を予定していたが、海軍の空母機動戦力を無為に消耗したため無期延期状態だった。
何しろモロッコ方面ですら、ヴィシー軍ではなくドイツの正規軍が大軍で待ちかまえていた。
空母機動部隊なくして、敵地での制空権奪取は不可能だった。
そして英本土近辺以外のヨーロッパ方面はまともに航空隊を配置出来ないので、いかなる渡洋侵攻作戦も難しかった。
英本土から北フランスやベネルクス地域への強襲上陸は、「大西洋要塞」と大量のドイツ国防軍を前にしては自殺行為でしかなかった。
同方面への敵前強襲上陸作戦は、最短で1945年6月が目指されていた。
英本土以外には、アフリカ西部のダカールに重爆撃機部隊が展開して、モロッコのドイツ軍への嫌がらせをしているぐらいだった。
南アフリカも同様で、マダガスカル島南部に陣取る日本軍との間に間延びしたような航空戦も行われていた。
大西洋では依然として熾烈な通商破壊戦も続いていたが、これが優位に進展するようになったのが唯一の慰めだった。
だが、それだけだった。
西ヨーロッパの枢軸側の地上戦力が大幅に増強されているため、英本土からの大陸反攻などまだまだ夢物語だった。
当面の主力攻撃手段である無差別戦略爆撃も、ソ連倒壊以後、異常に増えた高射砲と防空戦闘機隊のためほとんどうまくいっていなかった。
ノルウェーに集結し強大化したドイツ艦隊に対しては、イギリス本国艦隊が空軍と共に牽制していたが、大型艦の兵力がほぼ拮抗しているためイギリス海軍も他に回せる戦力がなかった。
このためジブラルタルから定期的に通商破壊戦に出撃する独伊の艦隊は、連合軍にとって非常に厄介な存在だった。
当然だが、欧州枢軸側の艦隊が健在な限り、北アフリカだろうとドーバー海峡の向こう側だろうと、事実上越えることは出来なかった。
しかも輸送船舶の数はまだ十分に揃わず、いまだ大西洋ではかなりの損害を受けていたため、イギリス本土にもアメリカ軍が十分と考える兵器と物資を送り届けられていなかった。
そして届ける事の出来る量が限られているため、フル稼働に入りつつあったアメリカの生産力も、やや持てあまし気味だった。
兵営や倉庫には参戦してから生産した兵器が山積みになっていたが、置く場所も無くなってきたので各生産現場では生産に制限がかかる状態にまで追い込まれていた。
西海岸の兵力と装備が増強され続けた背景にも、他に持っていく予定が立たないという物理的な要素が存在したのだ。
需要が追いつかないのは、増産に次ぐ増産を重ねている輸送船舶を例外とすれば、大西洋を横断するための中型以上の各種輸送機ぐらいだった。
このためアメリカ中で造船力のさらなる向上を図る措置が取られたが、建造施設はともかく工員確保の問題があるため、すぐに効果を発揮するものでもなかった。
取りあえずヨーロッパで必要だったのは、「バトル・オブ・ユーロ」において激しい消耗戦が続く空の機材だった。
だが、重爆撃機を過剰に生産しても、一定数以上作ったところで英本土の備蓄燃料が足りないため、無着陸で送り込んだところで置物となる機体が多くなるだけだった。
イギリス本土への船舶での兵器輸送の主力も、独力で大西洋を横断できない航空機、爆弾、燃料が中心だった。
アメリカ陸軍の地上部隊も多少進出していたが、出番がなければ戦車も大砲も、それらの使う弾や燃料も訓練分しか必要なかった。
アメリカ兵のほとんどは、故郷近くの兵営で虚しく訓練の日々を過ごしていた。
しかし、ドイツ軍がヨーロッパ全土を枢軸各国から集めた戦車と重砲で埋め尽くそうとしているという報告がきていたので、余裕を見ては随時送り込まれていた。
だがそれにも限度があった。
このため、余剰生産力を活かして大西洋を無着陸横断できる大型輸送機を大量生産してみたりしたが、戦争の規模と費用対効果から考えたら流石のアメリカでも非効率極まりないため、途中で計画縮小を余儀なくされていた。
アメリカにとって、現状はまさに手詰まりだった。
そこにきての東太平洋での海上戦力の大損害は、戦略的にも大打撃だった。
ヨーロッパ方面での新型機投入が決まったが、空での戦いも数で押している筈の連合軍優位とは言えなかった。
アメリカ軍は、当時アメリカ以外の国で量産が不可能だった巨大で高性能な重爆撃機「B-29 スーパーフライングフォートレス」を実戦投入しようとしていた。
だがドイツ軍も負けておらず、ソ連を打倒して以後航空機の開発と生産に務め、無数の既存機以外にも次々に新型機を投入していた。
その中でも頭一つ飛び抜けていたのが、世界初の実用ジェット戦闘機「Me-262 シュワルベ」だった。
同機は加速しきるまでが大きな弱点で、加速するまでに航続距離の多くを費やすという欠点を抱えていた。
エンジンの寿命が極端に短いのも、初期のジェット機に共通した欠点だった。
しかし一度加速しきってしまえば、天使に押されているようだと表現されたように、まさに無敵の超兵器だった。
当時は、レシプロ機が究極的な進歩を遂げようとしていた時期で、そうした中で数十キロの最高速度差が致命的な差として現れる事がある時代だった。
そうした中に、100キロ以上の速度差を有した機体が登場したのだから、衝撃は非常に大きかった。
失速すると速度をなかなか戻せないため、機体操縦には細心の注意が必要だったが、当時のドイツ空軍なら腕の立つパイロットの供給は十分に可能だった。
1944年春頃から「Me-262」を装備した戦闘機隊が次々に配備され、既存のレシプロ戦闘機と欠点と利点をカバーしあって、ヨーロッパの昼の空を制しつつあった。
加速のついたジェット戦闘機ならば、成層圏を飛ぶ「B-29」も十分に撃退可能だった。
何しろジェット機なら、成層圏でも十分な活動が可能だったからだ。
しかも時間と共に、夜間戦闘機型も順次配備されていった。
日本がどんどん送りつけてくる飛行機については、主にイタリアやヴィシー・フランスなど同盟国に供与されていたが、ドイツ軍でもそれ相応に役に立っているという評価を与えていた。
少なくとも、アメリカ、イギリスに数で負けないと言うのは非常に有り難かった。
当時ドイツは、軍需相アルベルト・シュペーアのお陰で、戦時生産が最高数値を示しつつあったが、それでもアメリカの無尽蔵とも言える生産力に対抗するには自国だけでは不足していたからだ。
イタリアやフランスの生産力は、アメリカを前にしては全く頼りなかった。
旧ソ連からの輸入の方が、数の上では頼りになったほどだ。
日本軍では、マダガスカルぐらいしかほとんど戦う場所のない日本陸軍の主力戦闘機「三式戦 疾風」の排気タービン過給器付きの改良型は、ドイツ空軍でもフォッケウルフD型に匹敵すると認識され、多少仕様を改めた上で「ヴォルケン」と呼んで愛用されていた。
だが、ドイツが空での優位を時間と共に失いつつあるのは避けられなかった。
アメリカ参戦頃に彼らの輸送船舶を沈め回っていた効果も徐々に薄れつつあり、1944年下半期以後は防戦一方という状況も予測された。
そうした中で、1944年春に日本海軍がアメリカ海軍に大打撃を与えたというニュースは、ヨーロッパにとっても嬉しいニュースだった。
これでアメリカがドーバー以外のどこかに強襲上陸作戦を仕掛けて来るという可能性が、少なくとも半年、恐らくは一年程度先延ばしされると予測されたからだ。
このため北アフリカ西部に配置されている第三航空艦隊は、航空消耗戦の傍らで訓練の毎日を送り、無駄な消耗も避けられていた。
イタリア空軍の主力がフランス上空に投入できているのも、アメリカが海でもたついているお陰だった。
ジブラルタルへは、英本土の西端から飛び立った機体が、イベリア半島をぐるっと迂回して時折来ていたが、第三航空艦隊の当面の相手と言えば西アフリカのダカール方面から遠路やって来るアメリカ軍重爆撃機だが、自然の厳しさと距離の問題もあり規模も限られていた。
また、ソ連を倒して以後、大規模な地上戦がないのも、ドイツの戦時経済上で非常に有り難かった。
戦力が自由に使えるし、何より大規模な地上戦そのものがもたらす悪夢のような浪費がないのが有り難かった。
また兵士の消耗が避けられ、その上余剰となった兵士の一部を動員解除して生産に回すことも出来た。
またボルガ川から西側はドイツが好き勝手に使える状態のため、ロシアの生産力も存分に使うことが出来た。
ロシア人の作った軍港や造船所で、ドイツ海軍の艦艇やUボートすら建造しているほどだった。
しかもロシアのシベリア鉄道を通って、安全に日本や満州からの兵器や物資が届いていた。
日本が大量に供与する機体も、主にシベリアを飛び越えてきている。
ロシア自身も、積極的にヨーロッパへの輸出を行った。
全てを勘案すれば、ドイツ、いやヨーロッパの戦争経済でも、あと二年は問題なく戦える目算が立っていた。
その間ドイツというよりヒトラーとナチス幹部は、究極の爆弾と無敵の運搬手段を開発し、戦争に決着をつける積もりだった。
そして戦争経済という点で最も窮地に立っていたのは、最初から連合軍として戦っているイギリスだった。
イギリスは、最初はドイツに押しまくられ、次は日本にアメリカとアフリカを除く全ての植民地を奪われるか無力化された。
通商破壊戦は破滅的なレベルにまで追いつめられ、アメリカの参戦がなければ1943年には降伏せざるを得なかったほどだ。
しかも助っ人として現れたアメリカも、参戦から1年半ほどは枢軸側の通商破壊戦にひどく苦しめられ、短期間でイギリスが受けたのと同じぐらい船舶への損害を受けていた。
そして、流石のアメリカでも損害を回復するのは容易ではなく、それどころか参戦初期のアメリカの戦争経済すらが半ば成り立たないほどとなった。
当然ながら、アメリカ船舶によってイギリス本土に運び込まれる物資は限られ、1943年半ばまでは兵器と兵站物資以外は、結局イギリス自身で運ばねばならなかった。
そして日々目減りする輸送船舶を前に、物資輸送の達成率は右肩下がりを続けた。
1943年初めには平時の40%程度にまで下落し、その後一年ほどはあまり改善しなかった。
当然、イギリス本土では全ての生産が滞り、国民生活は圧迫され続けた。
アメリカ軍のおかげで、イギリス本土が大規模な空襲を継続的に受ける事態には陥らなかったが、それだけだった。
アメリカへの依存率は日々高まった。
国家としては、受け入れがたい事態である。
そのアメリカは、海軍力で日本に劣勢のためまともな攻勢が取れないばかりか、太平洋岸のアメリカ本土は常に日本軍の脅威にさらされ、アメリカ国民はそちらに多くの目を向けてしまっていた。
しかも、海で戦うたびに優勢な日本海軍に敗れていた。
イギリスとしては、このままダラダラと戦争が続いてドローになるのなら、アメリカが参戦しないままでドイツや日本と妥協した方が、総合的な国家損失は低くなったのではないかという意見が日々高まりを見せていた。
アメリカの不用意な参戦がなければ、ソ連の崩壊とロシアの降伏が戦争の幕引きになっただろうという意見は、多くの者が首肯する事だった。
そして現状では、国力差の問題から恐らく3年〜5年ほど先に勝利を飾るアメリカの一人勝ちであり、ヨーロッパの誰もが敗者に陥る可能性を示していた。
連合国側であるイギリスも、経済的な問題、日本が解放して回った植民地の問題から、仮令勝利しても二等国家として生きていくしか道は残されていない可能性が高かった。
そうした想像したくない未来を見据えた国々は、アメリカに勝たせないための算段を取るようになっており、ロシアなど露骨な行動に出ている国もあった。
大戦に参戦していない中華民国などは、すっかり中立面している。
特に主要参戦国の日本は、自らが有色人種国家である事から、アメリカが勝利した後の世界に対する懸念が強く、とにかくアメリカ本土に直接手を付けずに封じ込める戦略に終始していた。
日本にすれば、アメリカが参戦した以上、戦争をドローに終わらせることが出来れば戦略的な勝利を意味していたからだ。
そしてそれは、人種差別ではなくイデオロギーで戦争しているドイツも似たようなものだった。
アメリカが民主主義や自由主義などの一種のイデオロギーを掲げている以上、最低でもドローで戦争を終わらせる必要があった。
そしてそうしたところに、イギリスの付け入るスキがあった。
もはやドイツも日本も、イギリスの屈服そのものには大きなこだわりを持たなくなっていた。
ドイツと日本の関心は、アメリカ国民の厭戦感情が高まることのみにあった。
見た目で出口のない戦いを続けることで厭戦感情が高まれば、民意によってアメリカの戦争遂行が否定されるからだ。
だが、この頃のイギリス中枢は、意見が大きく二分されていた。
奪われたものを少しでも多く取り戻そうという一派と、これ以上アメリカの為に戦わされる事はないという一派だ。
そしてどちらも感情が前に出た考え方のため、意見統一も難しかった。
それにイギリスとしては、戦争を止めるにしてもドイツや日本の側からその提案をもう一度持ち出すときでなければ、止めたくても止めるわけにはいかなかった。
戦争そのものに負けるのは受け入れられるが、矜持にかけて政治にまで負けるわけにはいかないからだ。
一方、戦争の行く末について、アメリカ政府中枢も焦りを強めていた。
現状では積極手段が打つ手なしにも関わらず、アメリカ合衆国にとっての最大のイベント、アメリカ大統領選挙が迫っていたからだ。
幸い日本軍との春の海戦は、半ば情報を操作することで内政的には現政権の優位に運んだ。
しかし守っただけであって、勝ったわけではなかった。
受けた損害も大きかった。
野党の共和党も、損害が大きいことで現政権を攻撃している。
しかも参戦以来、アメリカ軍はいいところがなかった。
国民がアメリカの主戦場と考えたヨーロッパに対しては、効果が現れにくく見えにくい重爆撃機による攻撃とドーバーを挟んだ航空撃滅戦以外、実質的に何も出来ていなかった。
通商破壊戦では優位を作りつつあったが、国民にとって物資をまともに運べていない事そのものが理解できなかった。
そして、アメリカ国民の殆どが「ついで」程度に考えていた日本に対しては負け続きだった。
このため1942年秋のアメリカ中間選挙では辛うじて民主党が勝利するも、1943年に入ってからの大統領支持率はほとんどの時期を50%から60%程度で推移していた。
50%程度で維持されているのも、今が戦時だからに過ぎない。
そしてこの数字は、アメリカに利益と勝利をもたらさない大統領と政党に、次の大統領と政権の座を与えないと言う宣告に近かった。
既にルーズベルト政権のスタッフの中には、諦めムードの者もいたほどだった。
国務省などの一部スタッフは、ソ連が崩壊した時点で戦争に意味がないとまで考えるようになっていた。
一部の者は、辞職してしまったほどだ。
自殺者まで出ていた。
軍人達はそれほど単純ではないが、戦争が続く限り自分たちの最終的勝利を疑う者はなかったので、ごく一部の将軍以外では極端に士気が落ちることもなかった。
1年半後の1946年には、艦隊戦力で日本を上回るようになるので、そうなれば後はアメリカの好き勝手に戦争が遂行できる事を知っていた。
参戦時にすぐにも莫大な予算が与えられた極秘の巨大プロジェクトが、1946年のいずれかの時期に結果が形となって現れることを知っている者もごく一部にいた。
1946年春には、戦争は確実に転換する。
それがアメリカ軍の士気を支えていた。
「戦いはこれからだ」というわけだ。
しかし、それでは遅すぎると考えているのが、現状でのルーズベルト政権だった。
そもそもアメリカの参戦自体が、ルーズベルト大統領がアメリカ建国史上前人未踏の四選を狙って起こしたようなものであり、世界経済そのものを得ることが目的のアメリカ産業界の意図は、一部の政治家達にとって渡りに船程度の要素でしかなかった。
逆もまたしかりだ。
そして大統領に四選し、その中で世界に対して勝利を飾り、自らがアメリカの今後百年の繁栄を作り上げる伝説となることが、幼い頃にポリオに冒され劣等感にさいなまされ続けた反骨の士であるフランクリン・デラノ・ルーズベルトの野望だった。
アメリカが世界の覇権を握る事などは、彼にとっては半ば付け足しでしかない。
だが彼の野望は、予期せぬ戦争展開を前に脆くも崩れ去りつつあった。
アメリカが最終的に勝っても、その勝者が自分でなければ意味がないのに、だ。
にも関わらず、アメリカの戦争は失敗続きだった。
参戦までにイギリスが叩かれ過ぎたのも誤算だったし、ソ連が呆気なく倒れたのも予想外だった。
ルーズベルト政権が何故かご執心だった中華民国が、大戦が起きる前に日本に呆気なく粉砕されたのにも少しばかり驚かされた。
1941年末頃のアメリカ中枢の目算では、ロシア人に祖国回復戦争で気持ちよく血を流してドイツ人を引きつけてもらい、助太刀したイギリスに恩を売り、その上でアメリカが全ての敵を粉砕するという戦争を構想していた。
また、想定外の事態というより、アメリカ東部エスタブリッシュメント(上流階級)の人々の想像の枠を越えていたのが、日本の国力と軍事力、そしてその行動だった。
最初は、早期に日本が戦争に首を突っ込んだのは、むしろ好都合だと考えられていた。
だが日本は彼らの予想を遙かに上回る圧倒的軍事力で、それこそ季節を一つ越えるごとに戦線と占領地を大きく拡大し、世界最大の海軍を持っている筈のイギリス軍を一方的に粉砕していった。
しかも占領地に軍政を敷かず、民族自決と自主独立の種をばらまいていた。
それは本来なら、アメリカの役割なのにだ。
「侵略者」を撃退した後に、自由と独立を与えるのはアメリカで無ければならない筈だった。
しかし日本は、アラブ世界にまで進撃して、アジアの全てを実質的に欧米列強の植民地から解放してしまっていた。
その上、大東亜会議という国際機関を作り、戦後世界の枠組みまで勝手に作り始めていた。
だがアメリカ国民は、アジアの実状を積極的に知ろうともせずに、戦争をするならナチスドイツの魔の手からヨーロッパを解放する、という程度にしか考えていなかった。
そしてルーズベルトの念願叶って参戦したはよいが、日本に対する安易で投機的な軍事行動で自ら蹴躓いていた。
だが自らの失策は、ルーズベルト政権中枢では日本への恨みに転化していた。
このためアメリカは泥沼にはまり込み、初戦全てで敗退するという、途中参戦の旨みを何も利用できない事態に陥ってしまう。
そして枢軸側が総力を挙げて行った海上での通商破壊戦により、アメリカは最初の一年をほとんど何も出来ないまま過ごす事になる。
何かをしようとしても、保有船舶の三分の二を失っていては、何も出来るはず無かった。
何しろアメリカは、二つの世界最大の海に挟まれた国なのだ。
そうしてアメリカがまごついている間にソ連は崩壊してロシア人は降伏し、ロシアの大地から戻ってきたドイツ兵により、ヨーロッパの防備は格段に強化されてしまう。
これは重爆撃機の損害率でも明らかで、船舶量の問題と合わせると向こう二年間はヨーロッパ本土への地上侵攻など出来る道理がなかった。
そして膠着状態に陥った1944年春には、日本に乗せられて北太平洋で不用意に艦隊を動かし、またも大打撃を受けてしまった。
これが、アメリカの感情面を踏まえての、第二次世界大戦の要約になるだろう。
半ば自業自得ではあるが、憂鬱になるのも当然の結果だった。
現状のスケジュールは、1941年初頭に第三期ルーズベルト政権が出来た頃の目算とは大きくかけ離れていた。
1941年初頭だと、1944年内にアメリカの勝利で戦争は終わっている筈だったとも言われている。
参戦時(1942年7月)に修正された予定からでも、1年以上遅れていた。
1944年春の時点では、1945年夏に北アフリカ上陸、1946年夏にヨーロッパ本土上陸、1947年内のドイツ占領という予定だった。
その間日本に対しては徹底して通商破壊戦を行い、1946年夏以後に大艦隊を押し出して要衝での決戦を強要。
その後ドイツを破った戦力を回して、1948年に日本本土中枢を占領して戦争全てを終わらせるというスケジュールが立てられていた。
多少一方的だが戦略的にはほぼ妥当なもので、戦術的敗退がこれ以上重なっても、国力と生産力の問題から誤差半年以内の遅延でアメリカの勝利は統計数字の上では確定されていた。
この場合問題なのは、先にも取り上げたようにルーズベルトが四選できるかどうかという点と、実はもう一つあった。
戦費の問題だ。
最大で1500万人の軍人、軍属を動員予定のアメリカ軍だけで、1945年からは毎年800億ドル以上の戦費を使うことになる。
1944年のアメリカのGDPが1700億ドルで、1943年のイギリスのGDPが350億ドル程度なのだから、金額の大きさが分かるだろう。
しかもこの上に、イギリスを主とする連合軍各国へのレンドリースの金額が加わる。
特に既に財政が破綻しかけているイギリスを支えなければいけないので、この金額だけで1945年以後は毎年100億ドル以上必要となる。
そして1948年まで戦争を続けると言うことは、単純に計算してさらに3600億ドルの戦費を使わねばならない。
これに1942年7月から1944年12月までの戦費を加えると、約5000億ドルとなる。
1944年を基準とするとGDPの約三倍だ。
戦前のGDP比較だと、4〜5倍にもなってしまう。
しかも5000億ドルという数字は、この頃の全世界のGDPに匹敵する金額だった。
現状でアメリカ国内は戦争景気に沸きに沸いているが、1947年以後は停滞期に入る事も分かっていた。
そしてその上で、借金と瓦礫の山となったヨーロッパと日本の支配領域の占領統治を行わなくてはならない。
当然と言うべきか、占領地に対して十分な物質的ガバナンスはできないというのが、経済関連のシンクタンクの冷酷な予測だった。
戦争に勝つことで世界を支配できるかもしれないが、それはアメリカ自身を含めて世界中の負債を全て背負い込むことも同義に近い状態に陥ることを意味していた。
世界中の負債の総額は、1兆ドルに達すると見られていた。
こうした予測数字は1944年にはアメリカ政財界の中枢を駆けめぐり始めており、戦争に対する不安と厭戦感情をジワジワと煽っていた。
しかも別の数字が、予測数字に暗雲を見させていた。
1944年のアメリカの鉄鋼生産量は約8000万トン。
この数字は、ロシアを含めた枢軸諸国の統計数字を根こそぎ集めた量に匹敵する。
イギリスを加えれば連合国側が有利となり、アメリカの生産量はさらに伸ばすことが出来るが、それでも極端に圧倒できる数字ではない。
つまりアメリカが立てた今後の戦争計画と統計予測も、多少という以上の楽観論が含まれていた事になる。
なぜなら、ルーズベルト政権が戦争を続けるためにそう望んでいたからだ。
既に正確な数字を追い求めているアメリカの統計学者や経済学者の中には、戦争は1950年になっても続いている可能性があると示唆する者も少なからずいたほどだった。
後世に出された最も辛口の予測では、1950年になってもアメリカはヨーロッパ本土に上陸できていないというものもある。
そして最も悲観的な予測では、アメリカのヨーロッパ反攻までにドイツが究極の新兵器をアメリカ本土で使用し、アメリカの戦略的敗北で戦争が終わるというものまであった。
そして1944年当時の経済や統計数字から確実に言えることは、戦争が完全に膠着状態に陥っていて向こう一年間動く可能性がほとんどない、という事だった。
そしてその事は、政治と絡んで複雑に進んでいく気配を濃厚に見せつつあった。




