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遙かなる坂の上 〜日本帝国繁盛記〜  作者: 扶桑かつみ


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フェイズ47「東太平洋海戦(2)」

 午後四時前、ついに日本艦隊主力、つまり世界最強の空母機動部隊がアメリカ軍の偵察機に発見された。

 日本軍攻撃隊の送り狼となって追跡した偵察爆撃機が見つけたもので、艦隊だけでなく既に西海岸各地から出撃しつつあった全ての重爆撃機部隊にも知らされた。

 日本艦隊主力のおおよその距離は、アメリカ大陸の西海岸北部沿岸から約1000キロメートル。

 しかも午後四時過ぎに、一斉に西に向けての退避を始めていた。

 高速で移動する日本艦隊は1時間に50キロ程度移動するので、鈍足の重爆撃機が攻撃する頃には沿岸部からさらに200キロ以上離れてしまう事になる。

 しかも重爆撃機が接触できるのは約4時間後なので、既に太陽が沈んでいる時間だった。

 

 アメリカ軍にとっては、自軍艦隊への再攻撃が無くなったことは安心材料だったが、これでは完全に勝ち逃げされてしまう。

 しかも日本側は、激しい電波妨害をしつつ上空に艦載機を放ってアメリカ軍の偵察機を徹底的に落としていた。

 発見が遅れたのも、そのせいだった。

 報告に成功した機体も、その情報をもとに駆けつけた機体のほとんども落とされた。

 危険を冒して接近を試みた潜水艦も、何隻かが敢えなく消息を絶った。

 しかも、日本軍攻撃隊が姿を見せたときとは比べものにならないほどの、高出力の妨害電波を出し続けている。

 

 日本軍の攻撃そのものが遅かったのも、こうした時間による迎撃を見越してのことだったと考えられたほどだ。

 

 このためアメリカ軍では、艦隊防空のため出撃した戦闘機隊はともかく、重爆撃機部隊は夜間爆撃を実施するかどうかの決断を迫られることになる。

 西海岸各地に配備された重爆撃機部隊でも、今まで雷撃を含めた対艦攻撃の訓練は積んでいたが、海上での夜間戦闘の訓練は単なる飛行訓練以外で行われた事がほとんどなかった。

 大編隊による洋上での夜間水平爆撃が絵物語でしかないことぐらい、少し考えれば分かることだからだ。

 雷撃についても同様だ。

 夜間雷撃は、低速で運動性の高い複葉機でなければ、通常は出来ない芸当なのだ。

 アメリカ軍で行われた夜間攻撃訓練も、少数の精鋭部隊による訓練が主だった。

 

 その上夜間戦闘に必要なレーダーを搭載した機体も、優先的にヨーロッパや大西洋上方面に送られていた事もあって、まだ一部に限られていた。

 攻撃可能な重爆撃機の数も、一ヶ月前に比べて20%ほど減っていた。

 その分以上に戦闘機や中小の戦術爆撃機が増えていたが、どれも日本艦隊が西海岸に近づいてくれなければ戦力として意味がなかった。

 

 重爆撃機の護衛随伴ができる「P-51 ムスタング」についても、距離の問題から出撃の段階から見合わされた。

 かといって、防空任務用以外での夜間戦闘機は配備されていない。

 多くが、アメリカ軍にとって想定以上の事態だった。

 


 だが、攻撃そのものは、ワシントンからの強い命令もあって行われることになった。

 日本艦隊がどの方角に逃げてもいいように、多くの方向に編隊も飛ばされ、見つけた情報をもとに集まるという方式が泥縄式に決まった。

 電波妨害の渦巻く夜間の洋上では、見付けることすら難しくなっていたからだ。

 また加えて、多く配備されている「B-24」なら、大きな航続距離を持つため一旦別方向に進んでも、十分に攻撃可能な距離だった。

 

 しかし、攻撃方法そのものが問題だった。

 

 洋上を高速移動する大艦隊が相手なので、重爆撃機が得意とする主に地上の大きな目標に対する絨毯爆撃は行えるわけがない。

 戦争中に開発されたスキップボミング(反跳爆撃)も、相手の速度と艦隊構成、さらには夜間という時間帯の関係で不可能だった。

 海面近くに降りるなど、余程の訓練を積んでいない限り自殺行為に等しかった。

 レーダー(電探)を用いた精密水平爆撃が最も効果的だったが、夜間訓練を積んでいる部隊は少ないし、レーダー搭載機そのものが極めて限られていた。

 

 陸軍の重爆撃機なので、高速発揮する艦隊相手の雷撃能力もない。

 日本海軍は、専門の双発雷撃機を開発していたが、アメリカ軍では陸軍が重爆撃機を開発するため、対艦用の雷撃能力は最初から与えられていなかった。

 それでも、「B-24」の一部では雷撃訓練を行っていたが、照明弾を落とした中での夜間雷撃まではほとんど訓練が及んでいなかった。

 加えて言えば、戦争中に雷撃能力を与えられた「B-25」などの中型爆撃機では、魚雷を搭載しての攻撃できる距離ではなかった。

 洋上雷撃能力を持つ新兵器(新型機)の開発も進んでいたが、いまだ実戦配備には至っていなかった。

 この時必要だったのは、アメリカ政府上層部が強く求めた成層圏すら難なく飛行できる空の要塞ではなかったのだ。

 

 結局、通常の水平爆撃しか、この時の重爆撃機部隊には選択肢がなかった。

 照明弾は急いで積み込んだが、無数の重爆撃機を出撃させても、出来ることは限られていた。

 

 それでも彼らは出撃していった。

 自らの門前で友軍艦隊が一方的に叩かれたのに、そのまま帰しては軍の沽券に関わるし、国民の士気にも大きな影響を与えかねないからだ。

 ましてや敵は、すぐ後に西海岸に上陸してくるかもしれないのだ。

 


 一方の日本艦隊は、午後6時頃に友軍潜水艦の報告によって重爆撃機が大挙向かってきている事を知る。

 既に太陽は西の水平線に没しつつあり、防空任務の戦闘機の多くも収容済みだった。

 

 敵の偵察機を片っ端から落とし、妨害電波は電力余裕のある大型艦から最大出力で放出されていたが、夜間に重爆撃機の群が襲来することは確実視された。

 このため艦隊では、まずは電探搭載型の「彩雲」を敵情を調べるために出した。

 そして一部に搭載されていた、電探装備の夜間戦闘機仕様の「陣風」を発進させる事にする。

 もともと夜間に偵察機の接触を受けた場合を想定して配備されていたので数は多くないが、出さないよりマシだった。

 また昼間は何もする事がなかった第二艦隊が最も東側に位置して、相手戦力の吸引を計ることになった。

 そして艦隊自体は、出せる限りの速度での移動が行われた。

 

 後は、大戦中に培った電探連動射撃によって、高角砲を撃って撃って撃ちまくるしかなかった。

 大型機の水平爆撃が相手では、すぐ手前に来なければ、ボ式40mm機銃でも届かない。

 戦艦主砲用に開発された改零式対空榴散弾が、どれほどの効果を発揮するのかも実戦では不確かだった。

 今回の戦闘には、日本側にも賭の要素が多分にあったのだ。

 


 そうこうしているうちに、日本軍の放った「彩雲」から敵編隊発見の報告が舞い込む。

 しかも複数方向からの飛来が確認され、直ちに夜間戦闘機隊が誘導に従って迎撃に向かう。

 しかし夜間戦闘用「陣風」の数は各機動部隊につき8機だけなので、全艦隊を合わせても40機しかない。

 

 しかし相手が半ば五月雨式で、絨毯爆撃のように大規模な編隊を組んでいないので、編隊長(大隊長)機を狙った攻撃が開始される。

 これは指揮官機の撃破によって敵の混乱を誘い、攻撃時の命中率を落とすためだ。

 指揮官機には電探搭載機が多いのも、狙った理由だった。

 

 そして次々に目標を変えながら攻撃を行ったのだが、流石の「陣風」も随時弾切れを起こしていった。

 何しろ相手は、ただでさえ丈夫なのに自分たちの十倍もいたからだ。

 

 次に迎撃を行ったのは、各戦艦の主砲だった。

 射距離3万メートルから2万5000メートルほどで発射された改零式対空榴散弾は、電探連動射撃と微調整された時限信管に従って球形状に炸裂。

 夜空にやや地味な花火のような煌めきを各所で産み出した。

 第二艦隊の4隻の戦艦が最初に火蓋を切るが、すぐにも第一から第三機動部隊に随伴する戦艦も砲撃を開始した。

 距離1万5000メートルになると、重巡洋艦や軽巡洋艦も同じ砲弾で砲撃を開始。

 ほぼ同時に、艦隊外縁の駆逐艦や巡洋艦の高角砲が火蓋を切る。

 

 高角砲の射撃は時間と共に増え、そこにアメリカ軍機が落とした照明弾が加わり、俄に辺り一面は場違いな花火大会となった。

 

 この頃の日本海軍の主力部隊が用いる主な高角砲は、九六式長10センチ砲と一式12.7センチ砲の二種類だった。

 どちらも砲塔型の場合は自動装填装置が備えられ、九六式で分発14発、一式だと分発18発で砲弾を送り込み続けられた。

 双方とも、カタログスペックだとこの3〜5割り増しの数字を示しているが、実戦での長時間に渡る射撃間隔はこの程度となる。

 

 しかし、数百門が参加した高角砲の弾幕射撃は、実に恐ろしいものだった。

 駆逐艦で4〜6門、巡洋艦で12門、空母で12〜16門、戦艦だと概ね20門、防空巡洋艦だと24門に達する艦もある。

 1個機動艦隊当たり、だいたい200門の高角砲が存在する。

 戦艦と重巡洋艦主体の第二艦隊も似たようなものだ。

 つまりこの時の日本艦隊全体では、約1000門の高角砲が存在したことになる。

 無理をすれば、高度3000メートルからの水平爆撃に対処できるボ式40mm機銃も、最後の段階で戦闘加入する。

 ボ式の数は、高角砲とは比較にならない。

 

 しかも全ての高角砲では、電波と光学双方を用いた高度な精密照準射撃が行われる。

 陸軍部隊が並べるような地上配備の野戦高射砲と比べると、命中率が段違いに高かった。

 艦艇搭載の高角砲(高射砲)射撃に勝るのは、日独の都市に構築された「高射砲塔」と呼ばれる高度な迎撃装置だけだろう。

 

 そしてその弾幕が産み出した鋼鉄の嵐の夜空を、都合約450機の重爆撃機が順番に地獄行脚する事になる。

 

 電探連動射撃の猛威は、ここで十分に発揮される事となった。

 

 艦のメートル波電探で遠くから方位と距離を測り、複数のマイクロ波電探によって角度を測る。

 偵察機からの情報、各艦の光学情報なども随時加わる。

 それを艦中枢の大型計算機が解析。

 しかもこの段階で、艦隊ごとの防空指揮を統括する司令艦からの情報や指示が入る。

 そうして得られた全般情報が各射撃装置に送られ、射撃装置の光学装置と射撃電探が精密な諸元をはじき出し、その命令が支配下にある各高角砲に伝えられる。

 野戦高射砲とは比較にならない精度での射撃が可能となるのだ。

 

 そして無数といえる電探連動の高射砲の前には、洋上の重爆撃機は無力だった。

 アメリカ軍の重爆撃機は、中隊ごとに緊密なボックスフォーメーションという緊密な編隊を取っていたし、無数のM2ブローニング機銃で武装もしている。

 主力となった「B-24C」は「B-17G」に多少劣るも、当時の航空機としては破格の防御力も備えていた。

 

 しかし全ては、敵戦闘機が迫ってきたときに役立つものだ。

 現状は、端から順番に高性能な高射砲の弾幕射撃を待つだけとなっている。

 機体の速度は編隊が維持できる限界近くまで上げられていたが、日本艦隊の高角砲は速度の変化にも簡単に追いついてくる。

 アメリカ軍パイロットにすれば、自分から死ぬために進んでいるような状況だった。

 このため恐怖に駆られ、途中で離脱する機体が複数出ている。

 

 また、一度に出撃せず、準備が出来た部隊から出撃し、しかも複数方向に飛んだことの弊害が出ていた。

 日本艦隊としては、戦闘機を用いた迎撃と同様に優先順位の高い順に集中射撃すればいいからだ。

 

 しかも訓練は積み重ねていたが実戦経験が乏しいアメリカ西海岸の重爆撃機乗りは、戦艦主砲による改零式対空榴散弾の弾幕射撃で多くが怖じ気づいてしまっていた。

 

 戦艦の主砲は、最短で20秒、平均30秒〜40秒に一度発射されるため、機体が1秒間に125メートル進んだとしても、20キロの距離を進む間に最低四回は砲撃を受ける事になる。

 しかし戦艦の主砲ですら防空範囲が決められているため、実際射撃を受けるのは二回程度となる。

 だが砲弾内に小型の爆弾や破片を無数に詰め込んだ対空用砲弾がマッハ2で飛来して炸裂する恐怖は、迎撃戦闘機の突撃とはまた違っていた。

 視覚情報の少ない夜間となれば尚更だ。

 破片が機銃弾の直撃より大きいため、当たれば撃墜される確率も高く、しかも日本艦隊は対空電探の情報を得て射撃しているので、かなりの命中率があった。

 

 この夜の間に飛来した都合約450機のうち、夜間戦闘機で10%、主砲弾幕射撃で10%の機体が、落ちるか被弾して爆弾の投棄と退避を余儀なくされた。

 このうち約60%、53機が帰投までに落ちているので、これだけでも大損害だ。

 また、会敵できなかった機体も、全体の1割に達している。

 そして全体の約7割が、本当の地獄の空へと順番に進んでいくことになる。

 

 当然ながら、試練のピークは高角砲(高射砲)弾幕だった。

 

 第二艦隊の主計士官が、途中で数えるのを止めようかと思ったと述懐するほど、高射砲の電探連動射撃は効果を発揮していた。

 しかも射撃の多くが自動化されているため、無尽蔵といえるほど砲弾を消費し、戦闘の終盤には砲弾が尽きてしまう駆逐艦も出て、弾切れによって弾幕密度が低下するという事態も起きた。

 このため帰投中の日本艦隊では、拠点に帰り着くまで敵の襲撃がないことを、様々なものに祈り続けたという。

 それほどの砲弾が、僅か2時間ほどの間に打ち上げられたのだった。

 


 夜間戦闘は、午後八時から十時過ぎまで続いた。

 

 アメリカ軍の損害は、基地に帰投しなかった機体が全体の約55%、248機に及んでいる。

 落ちたうちの三分の二は日本艦隊の近くで墜落しており、その後の救難活動にも関わらず生存者はほとんど確認されていない。

 帰投途中に落とされた機体も、半数程度は友軍潜水艦や飛行艇に救出されているが、それでも半数はMIA(行方不明=戦死扱い)となっている。

 

 墜落以外で損害を受けた機体は、全体の25%に達していた。

 損害率は85%と言うことになる。

 10%ほどが会敵できていないので、攻撃したほんとどの機体が損害を受けた事になる。

 しかも損害を受けなかった機体の一部は、投弾前に独自の判断で退避した機体も多く、全体の5%近くを占めていた。

 つまり攻撃した機体のほぼ全て(95%)が何らかの損害を受けた事になる。

 軍事的には、異常というべき数字だ。

 日本艦隊の弾幕射撃は、とにかく近づいた敵機を手当たり次第に攻撃した事になる。

 

 機体の多くは、日本艦隊が無数に打ち上げた高射砲弾に落とされていた。

 最後の大口径機銃の瞬間的な弾幕射撃で撃墜された機体も少なくなく、墜落機の10%近くを占めている。

 

 翌朝再出撃が可能な機体数は、全体の20%程度。

 しかも編隊を組むにしても臨時編隊でしか出撃が不可能なため、事実上全ての機体が出撃不可能だった。

 

 戦死者の数は約3000名。

 これに500名ほどの負傷者が加わる。

 死傷率は、驚くべき事に全体の75%に達している。

 

 攻撃に際して機体の多くは、命中率よりも破壊力を優先したため1000ポンド爆弾を各8発(約3.6トン)搭載し、投弾率は約30%。

 しかし、被弾や至近弾、弾幕や戦場の煌めきで目標を見失った機体も多かった。

 また初期の段階で編隊長や中隊長機を失った編隊が多いため、目標に到達できた機体は少なかった。

 このため日本艦隊上空で1000発以上の1000ポンド爆弾が投下されるも、アメリカは戦後かなり経ってからでないと本当の命中率を知ることはなかった。

 

 おおむね洋上での水平爆撃の命中率は高くないが、この日は夜間という悪条件も重なっていた。

 しかも目標は、当時世界で最も強固な防空体制を整えていた高速機動艦隊だった。

 爆撃中も、ほぼ20〜24ノットという高速で機動し続けていた。

 回避運動も行っている。

 

 日本海軍が最終的に受けた損害は、大型空母2隻、中型空母1隻、戦艦2隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦4隻に直撃もしくは至近弾が命中。

 状況を考えれば、十分以上に高い命中率だったと言えるだろう。

 

 被弾したうち駆逐艦2隻が沈み、運悪く多数被弾した軽巡洋艦1隻が、日本艦隊の手で自沈処分とされた。

 空母1隻も重大な損害を受け、沈みこそしなかったが一時格納庫が火だるまとなった。

 攻撃時は1機から多数の爆弾が連続投下されるので、被弾した艦の多くは複数の命中弾もしくは至近弾を受けていた。

 死傷者の数は、合計で1500名程度だった。

 日本海軍がこれほどの損害を受けたのは、南太平洋での激戦以来だった。

 

 ただし、重爆撃機450機の集中水平爆撃と250機の損失で空母三隻に打撃を与えたというのが、大戦果と考えるのか妥当な結果だと考えるのかは微妙だった。

 日本海軍のように雷撃が出来たり、ドイツ空軍のように誘導爆弾があれば話も変わってくると言われることあるが、日本艦隊の迎撃方法を前にしてはそれすら多くの改善を必要とする。

 要するに、迎撃と攻撃のバランスの問題だ。

 この場合、相手を上回る飽和的な防空戦を展開した日本海軍の勝利だと言えるだろう。

 

 そしてこれでアメリカ軍による日本海軍への攻撃は、事実上終わりを告げる。

 潜水艦による襲撃や接触も相次いだが、結局アメリカ海軍の潜水艦は日本軍機動部隊の内側に入り込むことは遂に出来ず、ほぼ何の損害も与えられないまま10隻以上(14隻)の大損害を受けて、日本艦隊を見逃さざるを得なかった。

 

 当初アメリカ軍は、爆撃機パイロットによる過大な報告を真に受け、潜水艦よる大規模な追撃戦を行ったのだが、それが裏目に出た形だった。

 夜間戦闘に齟齬は付き物という実例を、この時のアメリカ軍も実演した形となった。

 


 一方、日本帝国海軍潜水艦隊による戦闘も、この日の夜にピークを迎えていた。

 

 日本軍潜水艦が主に狙ったのは、いわゆる落ち武者狩りだ。

 

 昼間の空襲により多数の魚雷を受けた艦艇が、アメリカ艦隊のそこかしこに出ていた。

 そして日本軍の次の空襲を警戒しなければいけないアメリカ艦隊は、健在な空母を安全圏に逃すべく艦隊最大速度で離脱を計った。

 必然的に取り残される艦艇が多数出る。

 何しろ都合60本以上の魚雷が命中している。

 沈んだ船や沈めた船だけでなく、損傷後退中の艦も多数あった。

 

 損傷艦は、大型空母2隻、高速軽空母2隻、高速戦艦2隻、その他16隻に上る。

 このうち魚雷を受けた艦艇が約60%(9隻)を占めており、当然速力は低下している。

 被雷した艦艇は大型艦ばかりで、魚雷複数を受けた高速戦艦の《ニュージャージ》などは、本来の韋駄天足が嘘のように速力12ノットが限界だった。

 機関の半分がやられた上に艦首付近に魚雷を受けたため、それ以上速度を出すと隔壁が破壊され浸水が激しくなる恐れがあるためだ。

 

 そしてアメリカ艦隊は、離脱する艦隊と損傷艦とその護衛の駆逐艦部隊に艦隊を分けて撤退。

 損傷艦を集めたもう一つの輪形陣が出来上がっていた。

 これでもまとめただけまだマシで、その上夕方までは地上配備の戦闘機隊が上空で頑張っていた。

 

 対潜哨戒機の中には、夜間戦闘用の装備を持ったものも遠路飛来し、可能な限りの援護体制を敷いていた。

 

 だが、垂涎の獲物を日本海軍が逃すはずもなく、既に多くの潜水艦が集まっていた事もあり、夜の闇を待って襲撃を開始する。

 戦法はドイツ軍が得意とする「群狼戦法」で、複数の潜水艦が同じ獲物を狙って相手を混乱させた。

 そして夜間戦闘のため航空機の脅威が低く、互いに電探 (レーダー)を用いた電子戦も行うため、戦術的優位は日本海軍側にあった。

 


 一晩中続いた潜水艦の襲撃は、結果で言えば日本海軍の勝利だったが、犠牲も少なくなかった。

 日本軍は5隻の潜水艦を失い、アメリカ軍では大型空母1隻、高速軽空母1隻、重巡洋艦1隻、駆逐艦2隻が沈んた。

 沈んだ数だけは同じだが、空母がさらに2隻も沈んだ事は、アメリカにとって大きな打撃だった。

 しかも大型空母の《ホーネット二世》は、航空魚雷よりも格段に威力の高い潜水艦魚雷を一度に4本を受け、誘爆が起こって爆沈して多くの犠牲者を出していた。

 


 一方では、アメリカ軍重爆撃機隊自身が「大戦果」を報告していた。

 戦果確認のための観測機が判定しても、5隻の戦艦と12隻の空母が火だるまとなっている事になる。

 水平爆撃のため大型艦の撃沈は少ないだろうが、敵空母の半分以上が傷ついている計算だった。

 無論、現実とは大きな隔たりがあった。

 

 派手な対空砲火、照明弾、墜落する友軍機が出す火炎、そうしたものを「戦果」と誤認したためだった。

 また無数の機体が五月雨式に日本艦隊に突入したため、様々な報告が重複し錯綜していた。

 一つの被弾を複数の被弾という判定になった場合も、戦後の調査と研究により多く見られた事が分かっている。

 

 なおアメリカ軍では、この時の戦闘を当初日本が実際に受けた5倍近い大損害を与えたと判定した。

 この事は、夜間攻撃での戦果確認の難しさを物語るものだが、その後徐々に分かった「本当の戦果」があまりに少なかったため、その後アメリカ国内及び軍では、大きな物議を醸し出すことになる。

 

 しかし戦闘での混乱、大戦力の投入、多くの犠牲を出したという感情が、人々の目を眩ませていた。

 

 また、翌朝の友軍潜水艦が被弾した煙を目撃し、さらには速度を落とした艦隊と見られる音紋を捉え、そして報告していた。

 このため追撃すべきだという意見が多数を占める。

 

 そして、この「大戦果」は軍上層部にも報告され、懐疑的に見る声やその後のさらに詳しい調査から、最初の発表ほどの損害を与えていないことは確実視された。

 それでも速度を落としている艦隊は追撃して、少しでも日本海軍の空母数を減らしておくべきだという意見が大半を占めた。

 何しろ自分たちは、昨日一日の戦闘でまたも海軍そのものが半身不随に追いやられているのだ。

 

 だが、翌朝6時の時点で、日本艦隊主力は既にアメリカ西海岸から1500キロほど離れた海上にいた。

 重爆撃機がたどり着くのに約5時間。

 その間さらに250キロ移動するからさらに1時間。

 合わせて6時間必要で、そこまで離れるといかなる戦闘機の護衛も無理となる。

 昼間だと、艦載機の迎撃も激しいものが予測された。

 その上、進出距離は重装備だとほぼギリギリとなり、攻撃も一回きりが限界だ。

 それ以前の問題として、昨夜の損害があまりに大きかったため、周辺から集めても十分な機体数が揃わなかった。

 

 このため重爆撃機隊は牽制攻撃とされ、水上艦隊による追撃が急遽決められる。

 

 追撃の戦力とされたのは、昨日叩かれた空母機動部隊だけではなかった。

 空母部隊からは、傷の浅い旧太平洋艦隊の第一機動群が選ばれ、さらに別の洋上で待機していた旧式戦艦部隊に白羽の矢が立った。

 第一機動群も戦艦3隻が依然として行動可能なため、戦艦部隊による追撃となる。

 空母は大型1隻、小型1隻にまで激減していたが、昨日の収容機の影響で戦闘機の比率が三分の二と極端になっていた。

 この事は、日本側の反撃を考えればむしろ好都合と判断された。

 何しろ、西から攻撃してきた日本艦隊は、報告が正しければ戦艦の数は少なく、現状の太平洋艦隊でも十分勝機があると見られたからだ。

 

 そして夜中のうちに離陸した偵察任務の重爆撃機が、午前10時前に日本軍艦載機の襲撃を受ける。

 その後複数の機体が同様に日本軍艦載機と接触し、うち数機が日本軍機動部隊を発見。

 澄みわたった空の下、東太平洋上で5つの巨大な輪形陣を取り、ほとんど損害が受けていない姿を見せつけた。

 

 このため攻撃は急ぎ中止され、既に往路の三分の二を消化していた重爆撃機群も爆弾を投棄して帰投した。

 

 追撃任務に移った艦隊も慌てて反転し、帰路を急いだ。

 

 しかしその日の夕刻、最後の戦闘が発生する。

 


 アメリカ軍の誰もが一旦忘れていた北から迫る日本艦隊が、追撃を取りやめて帰投中の艦隊との接触に成功したのだ。

 

 接触したのは、ひたすら南下というより南東方向に突進していた日本海軍第一艦隊。

 名実共に世界最強の水上打撃艦隊だった。

 この艦隊が捕捉したのは、アメリカ太平洋艦隊の第七艦隊。

 要するに、旧式戦艦7隻を中心に編成された艦隊だった。

 日本艦隊は、大胆にも水上偵察機を多数出して周辺海域を捜索していたため、この時の捕捉につながっていた。

 

 そしてアメリカ艦隊は最高速度で大きく劣るため、一旦捕捉されてしまうと逃げ場はなかった。

 同航(併走)状態にすれば時間は稼げるし、仮に沖合に進路を向けても時間は稼げる。

 だが、稼ぐ以上の事は不可能だった。

 

 既に夕方で、まだアメリカ西海岸まで700キロ近くあった。

 最も近い友軍拠点のカナダのビクトリアから、援軍の爆撃機部隊が来たとしても夜中となる。

 しかも帰投直後で数は既に大きく減じている。

 中型機部隊の方は、急いで準備をして出撃しても、日本側が一定時間後に西海岸から離れてしまえば攻撃も不可能だった。

 

 第七艦隊の方は、洋上に向かい闇夜を利用して一時的に逃げられる可能性はあるが、その場合、日本軍機動部隊が反転してくる危険性も高かった。

 

 アメリカ側に希望があるとすれば、敵地深くにいる日本艦隊は長時間、最高速度での追撃が難しいと予測されることだ。

 位置関係も、僅かながらアメリカ艦隊の方が西海岸寄りだった。

 

 このためアメリカ艦隊は、最初から逃げの一手を取った。

 

 随伴する水雷戦隊は煙幕を展開し、旧式戦艦群は古い機関に鞭打ち船体をきしませながら最高速度を出し続けた。

 しかし艦隊速度としての最高速度以上出すと艦隊陣形を乱すので選択肢としては最後の手段のため、旧式戦艦の最高速度の21ノットではなく艦隊最大速度の18ノットでの逃避行となる。

 それ以前の問題として、アメリカ軍の旧式戦艦は大戦中の近代改装で大きく排水量が増えた上、機関の老朽化もあって20ノットの速力発揮すら難しいのが実状だった。

 このため、砲撃を避けるためのジグザグ航行も、自分たちの隊列が混乱して乱れる上に、かえって距離を詰められるだけだとして行われなかった。

 

 これに対して日本艦隊は、最も遅い艦で最高速力は27ノット。

 海面状況や残燃料から、実際は28ノットを超えていた。

 そして艦隊自体は26ノットまでの訓練を行っていたので、艦隊速力では差し引き8ノットの優位があった。

 水雷戦隊だけならば、もっと速く行動できた。

 アメリカ側が電探レーダーで相手を明確に捉えたのが、相対距離で約50キロ。

 敵に対して真後ろに逃げたとして、小一時間で日本艦隊の射程距離に捉えられてしまう。

 最大射程距離5万メートルを誇る《紀伊級》戦艦の51センチ砲なら、その気になればすぐにも砲撃可能だった。

 

 実際日本艦隊は、接触から約30分後の距離4万5000メートルで、《紀伊級》戦艦で編成された第一戦隊が砲撃を開始。

 併走していた第二戦隊の《大和級》《長門級》は、距離が詰まるまで黙々と走り続けるしかなかった。

 

 重量約2トンの51センチ砲弾は、砲弾の先端を赤黒く煌めかせつつ2分以上の時間をかけてアメリカ艦隊の最後尾の艦に到達。

 アメリカ人の度肝を抜く水柱を吹き上げた。

 


 その後は前を向いている砲塔が交互射撃、つまり各砲塔が半分ずつの砲を使って砲撃する状態が30分近く続く。

 射撃は10回行われたが、これは相手を脅すためより前を走る艦に目標を変えたためだった。

 そして射撃開始から25分、逼塞している間に大改装が施され面目を一新していた戦艦 《ウェストバージニア》に最初の命中弾が炸裂する。

 相対距離は距離は4万2000メートル。

 ほぼ45度という高い角度からの砲弾命中だった。

 

 日本側としては、電探射撃であっても牽制が目的の射撃だったが、偶然と必然の結果が結びついた形だった。

 そしてこの砲弾は、アメリカ艦隊の先頭を走っていた《ウェストバージニア》の艦尾のかなりの部分を、まさかりで断ち切るように粉砕。

 《ウェストバージニア》は、突如進路を大きく曲げてしまう。

 舵に重大な損害を受けた証拠で、51センチ砲弾が一気に艦底まで到達した証でもあった。

 艦尾の一部も消えていた。

 

 そしてこの被弾によってアメリカ艦隊の隊列は乱れ、大きな混乱に見舞われる。

 その間日本艦隊も、砲撃のための諸元が失われたため砲撃を中断。

 とにかく接近することを心がけた。

 

 砲撃が再開されたのは、その後約20分が経過してからだった。

 とにかく逃げるしかないアメリカ艦隊に対して、距離3万6000メートルにまで接近した日本艦隊の戦艦10隻全てが砲撃を開始。

 《紀伊級》《大和級》のそれぞれが逃走する艦に狙いを定め、《長門級》が既にまともに行動出来ない《ウェストバージニア》の始末を行うための砲撃を行った。

 巡洋艦や水雷戦隊に任せても良かったが、他の艦もそろそろ仕事が増えつつあり、また足がやられても戦艦は戦艦だから、相手の反撃で余計な損害を受けないためだった。

 

 また日本側の水雷戦隊は、この時点で距離3万を切っていた。

 

 そしてこの段階で、遂に太陽が水平線に姿を消したが、周辺にはまだ残りの明かりが残っており、それ以前の問題として日本艦隊の全てが電探射撃を中心に砲撃しているため、日が沈んでも戦闘に大きな影響は無かった。

 星弾も発射されていた。

 

 そして砲撃再開の後30分ほどの間に、戦闘の決着はほぼついていた。

 

 アメリカ海軍の旧式戦艦は、どれも自らが砲撃を開始する距離3万ヤード(2万7432メートル)で自衛のための砲撃を開始するまでに、破滅的な損害を受けていた。

 1発の51センチ砲弾が弾薬庫を直撃して瞬時に爆沈する艦、12門の46センチ砲弾の統制射撃でめった打ちにされた艦、46センチ砲に加えて41センチ砲も受けて袋叩きとなった艦が続出した。

 

 超遠距離射撃のため精度が大きく向上した電探射撃でも命中率は低かったのだが、とにかく高い角度から砲弾が命中するため、1発当たりの損害が大きかった。

 特に旧式戦艦は構造的に高い角度からの被弾に弱いため、1発の被弾でも大損害を受けた。

 しかも建造年次で15年から20年、主砲の口径で2ランクも開けられているため、一方的な戦闘となった。

 しかもアメリカ軍の14インチ砲弾では、日本側の巨大戦艦に命中しても、ほとんど致命傷を与える可能性がなかった。

 

 戦闘は既に周囲が暗くなり、日本艦隊が出した観測機が落とす照明弾の下で行われ、その中で自らの煙幕を抜けてきたアメリカ艦隊の水雷戦隊の突撃が、戦闘の実質的な最後を締めた。

 

 この突撃による雷撃で、日本艦隊の戦艦群は砲撃を一旦停止して転進を迫られ、その間にまだ速度が落ちていないアメリカ側の残存戦艦が退避に転じたからだ。

 

 その後は、速度の落ちていたアメリカ艦艇への攻撃が行われたが、それは日本艦隊にとってもはや残敵掃討でしかなかった。

 

 海戦の結果、アメリカ海軍は5隻の旧式戦艦と、重巡洋艦1、軽巡洋艦1隻などを失う大損害を受けた。

 これに対して日本は、軽巡洋艦1隻をアメリカ側水雷戦隊の突撃による被雷が原因で失うも、ほぼワンサイドゲームだった。

 しかも戦艦同士の戦闘にも関わらず、片方はまともに主砲射撃を行うことが出来ないと言う希有な例ともなった。

 


 「東太平洋海戦」と呼称された一連の戦闘で、アメリカ軍は過去最大級とされる大打撃を受けた。

 大型空母3隻、高速軽空母8隻、旧式戦艦5隻を始め、30隻以上の水上艦艇を一度に失う。

 潜水艦を含めると50隻近くになる。

 これに対して日本側が失ったのは軽巡洋艦2隻以外は駆逐艦と潜水艦が数隻ずつなので、一方的と言えた。

 日本側にも大きな損傷を受けた大型艦艇は出ていたが修理すれば済むことで、日米の戦力差は再び大きな開きを生じることになる。

 

 しかも戦死者の数も、アメリカは2万人を越えた。

 短時間で沈んだり、火だるまとなった空母が多数出た事が原因だった。

 そして数字の上でも戦略的にも、そして双方の作戦の上でもアメリカの完敗だった。

 加えてアメリカは、自分たちの本土の目の前での敗北という事にもなる。

 

 しかしアメリカ政府は、日本軍のアメリカ西海岸侵攻を阻止したと大々的に宣伝することで、自らの「勝利」だと宣言した。

 そして政府だけでなくアメリカの報道機関も政府の発表を支持し、犠牲は大きいが価値のある勝利だったと認め、アメリカ本土を本格的に攻撃しようとした日本に対する敵愾心を高めた。

 

 だが、アメリカ海軍の受けた損害は深刻だった。

 高速空母は、17隻も投じたうち三分の二にあたる11隻を失っていた。

 修理に手間のかかる水面下を損傷した艦艇も多く、戦艦や重巡洋艦の損害を合わせると、向こう一年間、アメリカ西海岸の各修理ドックや浮きドックは満員御礼状態だ。

 急遽、東海岸から浮きドックを解体して鉄路運搬することが決められたほどだった。

 

 そして戦力を補充しようにも、軽空母でも護衛空母のように簡単に量産できる訳がないし、今回の戦いで軽空母の脆弱性がこれ以上ないぐらいに証明されてしまった。

 大量建造が進む大型空母群も、早い艦でも年内遅くにしか就役しない。

 

 その上、大型空母も半数を失い、艦載機搭乗員の損害とその再編成問題も深刻だ。

 遠距離洋上飛行が出来る重爆撃機の搭乗員にも大損害を受けた。

 全てを最低限復帰させるだけで、半年は必要だった。

 

 これに対して日本艦隊は、ほとんどまともに損失艦艇を出していない。

 その気になれば、整備と休養を終えた三ヶ月後に、ほぼ同規模の攻撃が可能となるだろう。

 

 そしてこれを防ぐには、大西洋への増強分を太平洋に回さなくてはならない。

 次は艦隊が使えない分、基地航空隊の増強は急務だった。

 

 その時にこそ、日本軍は本当に西海岸に上陸するのではと考えられた。

 このためアメリカ軍は、西海岸への兵力を動くに動かせず、それどころからさらなる増強を実施する事になる。

 


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