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遙かなる坂の上 〜日本帝国繁盛記〜  作者: 扶桑かつみ


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フェイズ40「海と空の戦い(1)」

 日本とドイツが最初の戦略会議を持ったのは、スエズが陥落して両国間の安全な連絡路が確保されたばかりの1942年5月21日から26日にかけてだった。

 開催場所は、エジプトの中心都市カイロ。

 このため同会議を「カイロ会議」や「カイロ会談」と呼ぶ。

 

 以後カイロでは、両者の会議が何度も開催される事になる。

 場所がカイロとなっていることに、日本には不満もあった。

 日本側はシンガポールやカルカッタ、譲歩してボンベイを指定していたが、ドイツ、イタリアなど枢軸参加国はヨーロッパが多いという理由で押し切られていた。

 しかもドイツは、最初ベルリンかローマでの開催を日本に求めたので、これでもヒトラー総統の鶴の一声によってドイツ国内を譲歩させた結果だった。

 なお、ヒトラー総統がピラミッドやスフィンクスを見たかったから、カイロになったという説もある。

 この辺りの噂は、ヒトラーとナチスのオカルト傾向が産んだものといえるだろう。

 


 なお最初の頃に枢軸諸国の間で話されたのは、今後の協力関係、共同作戦についてで、さらに両者の技術交流と交換、兵器や物資の支援や援助に関する話しだった。

 

 最初の会議で特に重要だったのは、ソ連に対して日本が参戦する事が確定した事だった。

 また、アメリカに対しては、可能な限り「無視」する事が最重要課題として了承された。

 少なくともこの会議中では、アメリカを参戦させないうちに戦争を終えることが出来れば、自分たちの勝利で終えられるという共通認識が確認されている。

 

 領土、占領地に関する話しについては、「解放」された各植民地について、日本が基本的に各民族による現地政府を作る事を提案した。

 だがドイツ、イタリアは、各占領国が決めることが相応しいとして、以後あまり触れられることはなかった。

 

 連動して、中近東での占領地の区分けについては、既に稼働しているイラクの油田とペルシャのアバダン油田が欲しいドイツは、ペルシャを東西に割った分割線を提案。

 これに対して日本は、イギリス領クウェート以南のアラビア半島の優先権を求めた。

 統治や占領ではないのは、現地国家や民族に対してイギリスからの解放と独立の約束、武器や技術、工業製品の支援を与える代わり、長期的な石油採掘権を得ることが日本と現地の間で既に約束が交わされていたからだった。

 そして過去の欧州諸国の結果から、アラブ地域で約束を違えたら面倒になることを知っていた日本は、とにかく有望な油田の存在が既に確認されているアラビア半島での採掘権さえあれば問題ないという方針を取っていた。

 何より、この時点での日本にとって、中東はまだ遠かった。

 日本にとっての中東は、今の財産ではなく次の世代、少なくとも戦後の財産となるべき場所だった。

 故に、経済的、戦略的優先権を有していれば、それで十分な場所だった。

 

 結果、ペルシャについては、軍事的であれ分割するのは好ましくないので全域をドイツが軍事統治を実施し、アラビア半島についてはドイツが渋りながらも日本の優先権を認めた。

 

 なお、最初の会談では、日独の外相が双方の代表となった。

 ドイツのリッペントロープ外相にとっては久しぶりの大舞台だったが、彼の言葉は相変わらず尊大で傲慢で、そして見事なまでに空回りしていた。

 事実上初対面だった日本の重光葵外相は、帰国後に首相など日本政府要人に対して、リッペントロープとは有益な会話は不可能だと報告している。

 重光の随員として同行した吉田茂も、後の回顧録で皮肉混じりに似たようなことを書いている。

 また両国の公文書には残されていないが、この時リッペントロープはインドにすらドイツの権利を求めるなど、日本に対する配慮を大きく欠いた発言と要求を、独断かつ一方的に幾つも突きつけていると言われている。

 


 以後、日欧双方の交流が活発になると、両者の会議が何度も開催される。

 会議にはイタリアが参加することもあり、対ソ戦に関する会議では日本が満州帝国代表を呼んだこともあった。

 会議に参加するため、ユーラシアにある幾つかの国が、日本とドイツの関係を求めるという光景も見られた。

 

 しかし日独首脳同士の直接会議にはなかなか至らず、首脳同士が最初に顔を合わせたのは1943年1月14日のローマとなった。

 

 イタリアのムッソリーニ総統がホスト役を務め、ドイツのヒトラー総統、日本の永田首相が初めて面会することになる。

 

 同会議は、ソ連の降伏を祝う祝勝会が最初に行われ、以後の会議ではイギリス、アメリカとの戦争の決着をどこに持っていくかについての話し合いが行われた。

 

 ここで永田首相は、今の時点で枢軸側が多少譲歩してでも連合国との停戦と講和を押し進めるべきだという踏み込んだ意見を提案した。

 ヒトラー総統も、イギリス本土に攻め込むことが戦争目的ではなく、イギリスが講和に応じるならと一部同調した。

 そして両者の基本的考えとしては、イギリスが講和に応じればアメリカも講和もしくは停戦に同調せざるを得ないだろうというものだった。

 

 しかし、同月15日にイギリスが欧州への無差別爆撃を再開した事で話しが流れてしまう。

 イギリスの会議への当てつけとも言える戦略爆撃再開に対して、ヒトラー総統は激怒。

 直ちに全力を挙げた迎撃と報復を全軍に対して命じ、少なくともイギリスの軍事力を壊滅させるまで戦いを止めることは不可能だと、意見を変えてしまう。

 

 だが永田は食い下がり、ムッソリーニも調停に尽力した事から、会議は10日間の長きにわたった。

 

 ヒトラーも永田の粘りに負け、とにかく共同声明として連合軍に対して名誉ある停戦と講和を呼びかけることになる。

 これが「ローマ宣言」である。

 

 戦争の即時停止。

 双方陣営の占領地からの順次撤退。

 解放された植民地地域の独立承認。

 新たな国際組織の設立。

 賠償金不請求。

 以上五点を基本とする文章を発表する。

 

 この宣言に対して、イギリスは内心でインドなどの植民地を失うことは出来ないという思惑があるので、窮状の中にあっても即答を避けた。

 アメリカは話しにもならないと、一方的に非難する談話を発表した。

 

 すぐにチャーチル首相は、随員ほとんど伴わずにアメリカへ飛行機で渡り、ルーズベルト大統領との会談に及ぶ。

 そしてワシントンで行われた会議で、「自由と正義を取り戻すまで戦い続ける」という点で確認が行われた。

 しかもこの会議の最後の記者会見でルーズベルト大統領は、多数集まった記者団の前で枢軸を名乗る全体主義侵略国家群に対して「無条件降伏」を以て戦争終了及び講和の基本条件とするという爆弾発言を実施。

 この時の発表では、チャーチル首相すら慌てさせたと言われる。

 この時の様子は、記録映像にも残されている。

 呆然と目を丸くしたチャーチルの姿は、後にも先にもこの時だけだ。

 

 1943年1月28日に発表された「無条件降伏」という言葉は、瞬く間に全世界を駆けめぐった。

 

 多くのアメリカ人は、無邪気に自らの「正義の戦争」の定義が示されたと喜んだ。

 だが枢軸諸国では、俄にアメリカ、特にルーズベルトに対する敵意が大きく増してしまい、戦争は続き、しかも拡大する事になる。

 これ以後枢軸諸国民は、勝手に戦争に首を突っ込んだ上に近代国家としてあるまじき傲慢極まりない言葉を使ったアメリカに対する敵意を、異常なほどの高まらせることになる。

 

 一般の日本人にしてみれば、アメリカは勝手に参戦してきた上に、第一撃で自らが他国を厳しく非難してきた無差別爆撃を行い、日本軍占領下のフィジーに攻め込んできて、と言う風に一方的見解ながら被害者意識が強かった。

 このため「無条件降伏」は、日本人の戦意に火に油を注ぎ込む事になっていた。

 

 そしてアメリカが徹底抗戦を宣言した事で、日本軍はかねてから暖めていた一つの作戦に対してゴーサインを出すことになる。

 


 なお、ローマ宣言と「無条件降伏」があった前後、後世の歴史家、戦史家の評価では世界は戦争の転換点にあると見られる事が多い。

 1942年12月10日、ソビエト連邦が枢軸各国との停戦応じたのが大きな理由だ。

 

 アメリカとロシアが戦争の転換点となったという点だけなら、先の世界大戦と少し似ているかもしれない。

 

 しかし今度のロシアは、ソ連という共産主義体制そのものが崩壊した上での敗北だった。

 つまり先の世界大戦とは逆の政治的変化によって、戦争から脱落したのだ。

 

 またアメリカは、前の大戦と同様に金儲けが目的で、さらに世界の覇権を狙う極めて野心的な参戦だった。

 しかしアメリカにとっても不意の参戦だったため、満を持して参戦したわけではなかった。

 産業面や徴兵、兵器の生産ではかなりの準備は進んではいたが、あくまで平時の中での事だった。

 その事をアメリカ自身が誤解し、自らの巨大な経済力と工業生産力を過信しすぎた結果が、南太平洋での勇み足と無様な敗北だった。

 しかも途中からは事実上の消耗戦に突入し、まだ総力戦体制が全然整っていない状態での総力戦は、アメリカに無理を強いることになった。

 

 護衛艦も満足にないので輸送船は次々に沈められ、体制、技術、経験、教訓などに欠けるため、損害にも拍車がかかった。

 しかもそのおかげで、まだ増産体制が整っていない兵器の半分が海の藻屑と消え、日本軍が常に戦闘を優位に運んだため、損害も非常に大きなものとなった。

 当然だが、前線での戦力備蓄も大きく遅れた。

 逆に劣勢のまま戦ったので、損害は大きかった。

 

 小規模な陸上の戦いだけで都合4万人以上が戦死か捕虜となり、水上戦では3万人が戦死した。

 フィリピンでも5万人のアメリカ兵が孤立したまま降伏を余儀なくされた。

 枢軸全てから受けた通商破壊戦での損害は、商船約1500隻、800万トンにも及んだ。

 1941年頃のアメリカの船舶保有量が1100万トン強な上にかなりの数がタンカーだったので、殆ど全ての外航洋通常型輸送船を失った事になる。

 無事なのは、港に逼塞する豪華客船ぐらいだと言われた。

 しかしアメリカは、開戦と同時に「リバティー級」と呼ばれる船を始め、無数の戦時標準船を猛烈な勢いで建造し始めていた。

 

 その上イギリスの需要に応えるため、1941年半ばから造船量は急拡大しており、開戦まではかなりがイギリスに貸与されていたことを差し引いても、開戦までの期間の準備運動として有効に活用されていた事になる。

 参戦前の1942年の上半期だけでも120万トン以上の船を浮かべ、うち半分をイギリスに貸与していた。

 そして戦争が始まって戦時標準船が大量建造され始めると、確実な数字となって現れた。

 

 参戦の最初の年である1942年でも、10月頃から続々と就役した戦時標準船によって、1942年の後半だけでもアメリカは毎月30万トン以上のペースで船を浮かべていった。

 これだけで、開戦時の日本の最大造船力に匹敵する。

 しかも43年に入ると月産50万トン台に乗り、その数字は右肩上がりで上向いた。

 造船施設と工員の驚異的な拡大によって、1944年に入れば月産で150万トンを越えると予測されていた。

 一ヶ月間でイギリスの年間建造量を上回る計算だ。

 戦前に日本に追い込まれつつあった造船業だが、アメリカ政府が本気になった時、平時の不利はほとんど関係なかった。

 戦前9万人だった造船業関係者は、最盛期には170万人と約20倍にも膨れあがっている。

 

 しかし1942年の秋から冬にかけて、連合軍はかつてないほどの船舶不足に陥っていた。

 


 1943年初めのイギリス船舶量は、約1200万トン。

 前年の夏を越えた時点で、イギリス本国の必要とする物資を運び込むために必要な最低限の船舶量すら割り込んでいた。

 しかも主にドイツ軍の妨害のため、稼働率も平時よりはるかに低いため、実数以上に状況は悪かった。

 1942年にイギリス本土に運び込まれた物資の量は、平時の40%を僅かに越える程度だった。

 このため最低限の食料を最優先とする以外では、多くのものを切り捨てざるを得なかった。

 このためイギリス本土では、軍用車を除いてガソリン自動車がほとんど走らなくなり、石炭自動車だけでは足りないので国内交通では馬車までが使われたりした。

 イギリス国民の誇る個々人の美しい庭も、俄にジャガイモ畑となった。

 

 他にも鉄鋼から始まってありとあらゆる工業生産が停滞し、生産達成目標の多くが酷い達成率となった。

 このためイギリス政府は、船舶、戦闘機、爆撃機の生産を優先し、陸上装備については殆ど切り捨てた生産体制を取った。

 とにかく船を浮かべて物資を運び込み、本土の制空権を維持しておかなければならなかったからだ。

 しかし爆撃機の生産については、生産を優先しても大幅に減らされたため、ヨーロッパに対する夜間爆撃は規模と密度を大きく減らさざるを得なかった。

 


 またアメリカでも、大西洋岸だけでなくカリブ海やメキシコ湾にまでドイツ軍のUボートが多数入り込んだため、外洋船舶は一時完全に壊滅状態に陥る。

 メキシコ湾の沿岸用タンカーすら容易く餌食となり、一時期だが西海岸と東海岸を行き来する航路が、アメリカ政府の命令によって閉鎖される事態にすら陥っていた。

 アメリカとすれば、陸路(鉄路)を使えば何とか国内での物資の移動が可能だからできる荒技だったが、経済効率の大幅な低下をもたらしたのは間違いなかった。

 実際、1942年下半期のアメリカのGDPの伸びは大きく鈍って、月によっては実質数字で減少すらしている。

 

 もしアメリカに巨大な潜在造船能力がなければ、1943年には枢軸陣営は戦争に勝利していただろうと言われているほどだ。

 この時期のアメリカは、半世紀以内で最もモノが不足する事態に陥ったのだ。

 もしかしたら、米英戦争以来の事かもしれない。

 

 そしてアメリカ自身が一時的とはいえ窮乏に追い込まれたため、イギリスに向けて船団を送り出すことすらままならず、船の貸与もフィジー=サモア戦が始まるとほとんど止まってしまう。

 しかも新たに浮かべた船の半分は、最初の航海で南太平洋に沈んでしまった。

 1943年初のアメリカ船舶量は、600万トン程度しかなかった。

 戦前の状態に数字上回復するのはずっと先の事で、それまでは送りたくても送り届ける船の半分は沈められ、船舶量が増えないので送ることの出来る量も限られていた。

 このため、他の工業生産も一部控えざるを得なくなっていた。

 それでも43年秋頃には、アメリカという巨大すぎる戦争機械が本格的に稼働し始めるが、アメリカがスタートダッシュで大きく躓いた事は間違いなかった。

 


 そしてアメリカが主に日本によって躓かされている時間を、ドイツは無駄にしなかった。

 

 ソ連を降伏に追い込み、ロシア戦線の戦力の再配置と、相手の侵攻を見越した新たな占領地の拡大を実施したのだ。

 

 まず最初に移動したのは、空軍だった。

 

 ドイツ空軍は、大きく第一から第五航空艦隊という戦略単位に別れていた。

 このうち第一がドイツ本土を含むヨーロッパの防空、第五航空艦隊がノルウェーなどから北海方面での攻撃を担当した。

 そしてロシア戦役が始まると、第二、第三、第四航空艦隊がロシアへと攻め入った。

 しかし地中海、中東での戦闘が激しくなると、第三航空艦隊がそれらの方面に展開。

 1942年のドイツ空軍は、広い戦域に広がりすぎて苦しい戦いを強いられていた。

 しかし中東方面は、反対側から日本が突き上げてきたので、それほど大きな負担にはならなかった。

 当時余裕のあった日本からは、かなりの数の航空機の供与もしくは輸入を受けることもできた。

 

 そしてロシア人との戦いが終わると、大車輪で第二、第四航空艦隊がヨーロッパへと戻ってくる。

 冬のロシアで凍えていた彼らは、とにかく短期間でも休暇を取って鋭気を養い、部隊によっては新型機を受領して訓練に入り、そうでない部隊は続々とヨーロッパ各地に再配置についた。

 新人パイロットの訓練も、悪天候や霧が少なく安全な東欧やウクライナで行われた。

 

 第二航空艦隊は、かつて展開していたフランスからベネルクス方面を担当し、第四航空艦隊はドイツ北西部に陣を張った。

 これまで欧州本土で孤軍奮闘していた第一航空艦隊は、ローテーションで休養と再編成を行い、再びドイツ東部、深部の守備に就いていった。

 また中東まで進撃していた第三航空艦隊は、今度はヴィシー・フランス政府軍の駐留する北アフリカの西部へと足を進めていく。

 当面の目標はジブラルタル。

 ここを落として、イギリス人を地中海から完全に叩き出すのが目的だった。

 そして北アフリカ西部に強力な防衛拠点を作り上げ、来るべきアメリカとの戦いに備えようとしていた。

 一方、ロシア人が降伏して必要性の下がった第五航空艦隊は、他への補充のため解散。

 同航空艦隊に多く所属していた対艦攻撃部隊の多くが、大西洋に面する第二航空艦隊と、地中海を西に進む第三航空艦隊に吸収されていった。

 


 ドイツ空軍の配置転換で大打撃を受けたのは、言うまでもなくイギリス空軍だった。

 

 イギリス空軍は、ドイツに対する夜間戦略爆撃を熱心に継続していた。

 これ以外にドイツに直接打撃を与える機会が少なく、国民の戦意を維持するためにも必要と考えられていた。

 そしてハリス将軍が指揮するようになって、爆撃の規模や戦術が大きく向上し、一時はドイツ空軍に対してかなりの優位を得ることができた。

 これはドイツ空軍がロシアに掛かりきりになっていた事も影響していたが、優位は優位だった。

 しかしドイツがロシアに戦争を吹っかける前に、日本がイギリスに戦争を吹っかけたため、イギリスの苦境は酷くなった。

 インド洋、インド、中東では多くの戦力が犠牲となり、酷く消耗した艦隊に代わり矛となったイギリス空軍の爆撃隊も甚大な損害を受けた。

 

 しかも日本人がドイツ人のように熱心に商船を沈めるため、イギリスの苦境は酷くなる一方だった。

 命綱の船舶の数は減り続け物資が運ばれてこないので、イギリス全体の生産力も減退。

 当然生産される爆撃機の数も減った。

 

 このため1942年下半期のドイツに対する爆撃も、一度に出せる機数は300機程度の爆撃規模が限界だった。

 これですら他の多くを犠牲にした上のため、通常は100機程度の爆撃しかできなかった。

 それでも4発の大型機が多数生産されるようになったため爆撃量は拡大し、ドイツに対しても有効な打撃を与えていると考えられていた。

 実際の効果は、ドイツに対する直接的な爆撃被害よりも、ドイツに防空に専念させて多くの人的資源を浪費させるという点が、爆撃における一番の効果だった。

 だがドイツにとっては大きな痛手であり、効果を誤解したイギリス空軍の夜間爆撃も続いた。

 

 だが、1942年12月にロシア人は白旗を振ってしまう。

 イギリス人も、ドイツ空軍が大挙戻ってくる事を規定の事実として認識し、彼らが戻ってくる前に一度大規模な空襲を行う事を決める。

 これが「ルールの戦い」と呼ばれるものだ。

 空の戦いは、12月のクリスマスイブの夜に開始される。

 

 300機の夜間爆撃機が、「モスキート」などの先導機を先頭にしてヨーロッパ大陸に侵空。

 ドーバーを越えた辺りから明確に察知していたドイツ空軍も直ちに迎撃体制を敷き、無数の機体が基地を飛び立った。

 

 この日の空での戦いは、イギリス空軍が有利に運んだ。

 既に一部の航空隊がドイツ本土に戻っていたドイツ空軍だったが、ロシアの空を飛んでいたのは主に昼間戦闘機のため、そのまま再配置に就いてもあまり役には立たなかったからだ。

 しかしイギリスにも誤算があった。

 爆撃進路上の高射砲弾幕が、格段に強化されていたのだ。

 中には、これまでロシア人の戦車ばかりを破壊していた高射砲も多数含まれており、今度はイギリス人の重爆撃機を狙い撃った。

 高射砲部隊は、ドイツが航空機と共に最優先でロシアから引き上げさせた部隊だった。

 

 そして予想を大きく上回る弾幕のため、イギリス空軍は目的を達することができず、また今までよりも多くの損害を出した。

 しかし空での様子が今まで通りだったため、作戦は続けられる事になる。

 

 そうした空での戦いがしばらく続き、年も越した1943年1月15日、ついに転換点が訪れる。

 

 この日出撃した約300機のイギリス軍爆撃機に対して、ドイツ空軍は200機以上の夜間戦闘機が襲いかかったからだ。

 この機体は、ソ連との戦いが終わって急ぎ生産計画がされて生産された機体すらが既に含まれ、ドイツ空軍の回復力を読み切れなかったイギリスの失敗だった。

 また一部の部隊は、機種変更してこの夜の戦闘に及んでおり、その上一部新型機が投入されていた。

 

 まずは先導機が撃墜され、混乱した重爆撃機の群に、夜間戦闘機が集中攻撃をしかけていった。

 この夜のイギリス空軍の損害は20%以上を記録し、損害を含めると出撃した機体の40%近くが損害を受けていた。

 しかしイギリス空軍のハリス将軍は、予備機や予備の航空隊を最大動員しての空襲継続を決断。

 ここで引き下がるわけにはいかないと考えるイギリス軍将兵も奮起した。

 

 その後3回行われたイギリス空軍の夜間爆撃は、惨憺たる結果に終わった。

 損害は回を増すごとに増え、最後の出撃では30%以上の機体が撃墜された。

 4回の空中戦の結果を累計すると、最初に出撃した機体数(300機)よりも多い数が失われた事を意味している。

 爆撃機全体の稼働数も、予備を含めて200機を割り込んでいた。

 当然イギリス空軍爆撃兵団は大打撃を受け、夜間爆撃の中止が命令されるに至る。

 機体の補充はともかく熟練したパイロットが短期間で多く失われたため、その後三ヶ月もイギリス空軍は大規模夜間爆撃を再開することが出来ないほどの打撃だった。

 一連の戦いでの戦死者、捕虜の合計も5000名を越えていた。

 迎撃に当たったドイツ空軍の損害もかなり大きかったが、この時はドイツの戦略勝ちだった。

 


 そしてこういう時こそが、アメリカ人の好きな騎兵隊登場の場面なのだが、この時期アメリカ人はまだヨーロッパにあまり戦力を持ち込んでいなかった。

 何しろアメリカ軍がサモアの放棄を決断したのは、1943年1月13日。

 イギリス空軍が死闘を演じている頃には、アメリカ軍も一時的に半身不随に陥っていた。

 浮かべる船の半分はサモアやフィジーに行くまでに沈み、その荷物の半分以上が分解して山積みにされていた各種航空機やその燃料、爆弾だった。

 

 サモアが、アメリカの使えるどの領土からも離れているため、航続距離5000キロを誇る重爆撃機ですら、船で運ぶしかなかったのだ。

 中継拠点としては、途中でフランス領のタヒチなどが使えるようになったが、結局燃料と弾薬は海で無防備な所を日本軍潜水艦に船ごと沈められるため、状況はあまり変わらなかった。

 何しろ、この時期のアメリカ海軍には護衛空母がなかった。

 参戦から半年ほどして戦い慣れる頃になるまでは、対潜水艦戦術も驚くほど稚拙だった。

 初戦の全般を通して護衛艦艇の数も少なかった上に、日本軍は余裕があると駆逐艦などの護衛艦艇も積極的に沈めていた。

 アメリカ軍が護送船団方式を採用しても、サモアなどの港湾施設の収容問題で中規模以上の規模を組む事が出来ず、アメリカ軍は効率の悪い海上交通路防衛を行わざるを得なかった。

 しかも日本海軍は、場合によっては軽空母を含んだ通商破壊艦隊(遊撃艦隊)を遠く南東太平洋にまで派遣して空からも襲いかかってきたため、護衛空母を含んだ護送船団が全滅に近い損害を受けた事もあった。

 なけなしの巡洋艦も出来る限り船団に随伴させねばならず、これすらかなりが傷つくか沈められていた。

 

 そしてアメリカが、結果は最悪ながら南太平洋での戦いから足抜けをして、気分を一新して体制を立て直そうとしていた矢先、アメリカにとっての巨大な悲劇が襲来する。

 


 1943年4月18日、日本海軍の大機動部隊が、「い号」作戦と呼称した計画に従って突如パナマ沖合150海里に出現。

 全力でパナマ運河を攻撃した。

 

 この時日本海軍は、再編成中の第一機動部隊を除くほぼ全ての高速空母をパナマ沖に送り込んでいた。

 当時の日本海軍としては、まさに総力を挙げた乾坤一擲の大勝負だった。

 

 インド洋から第二機動部隊を呼び戻し、新造艦で編成したばかりの第五機動部隊すら含んだ、4個機動艦隊、大小18隻の高速空母、約1200機の艦載機でパナマ運河を攻撃した。

 この作戦は、仏領ポリネシア(正確にはマルキーズ諸島)での戦いが終わるか終わらないかという時期で、アメリカもサモア撤退後の建て直しを本格化させたばかりで、そうした間隙を突いた形であった。

 

 日本海軍は、日本列島から直線距離でも1万5000キロも離れた、あまりにも遠い地域での戦闘のため、作戦に際して多数の高速補給艦や高速タンカーも用意した。

 そして道中では洋上補給を実施しているにも関わらず、極めて迅速で計画的なものだった。

 出撃に際しては、あたかも仏領ポリネシア(マルキーズ諸島)での作戦を行うかのような欺瞞も数多く実施され、アメリカ軍もまんまと騙されていた。

 

 なおこの時の補給においては、かつて空母補助艦枠として建造された《剣埼級》などの効果が存分に発揮されていた。

 何しろ高速発揮可能な戦闘補助艦艇であるこれらの艦船は、単に艦隊に随伴するだけでなく、最前線で補給活動を実施していたからだ。

 

 加えて、大量の高速タンカーを中核とする後方展開していた補給艦隊だけで、護衛を含めた規模は50隻を越えていた。

 この作戦は、日本海軍に洋上での総力戦がどういうものかを実感させたとも言われている。

 そして実際、大型の戦闘補給艦の整備が開始されている。

 この作戦は、間違いなく当時の日本海軍の総力を挙げたものだった。

 


 なお、日本軍のパナマ攻撃の兆候については、アメリカ軍も全く掴んでいない訳ではなかった。

 しかしアメリカ軍は、仏領ポリネシアでの戦いの後始末に忙殺されていた上に、日本軍が北太平洋方面で大規模な軍事行動を起こすという情報にも振り回され、多くの戦力をシアトル近辺に集中させていた。

 陥落が確実な仏領ポリネシアは、戦略的には半ば切り捨てられていた。

 

 太平洋艦隊の残余に加えて、就役したばかりの新造戦艦や空母も、急ぎシアトルに回された。

 危険な日本本土近辺に対する潜水艦による偵察、無線情報収集、暗号解読などにより、日本海軍の有力な戦艦部隊(第一艦隊)が千島列島南部に集結していることも掴んでいた。

 空母部隊の多くは、仏領ポリネシアでの次の作戦のための準備のための移動中か、瀬戸内海か他の戦域にいて訓練と再編成中と考えられていた。

 だが、戦力の多くはいずれ合流して北太平洋を進撃し、アメリカ西海岸攻撃を行うのではないかと予測していた。

 この頃のアメリカ軍には、日本軍を海上で防げるだけの戦力は存在しなかったからだ。

 

 そして1943年の5月から9月にかけてこそが、気象条件の関係から北太平洋で曲がりなりにもまともな軍事作戦の出来る時期だった。

 

 このため、念のための日本軍上陸を警戒して、北部を中心としてアメリカ西海岸の防空体制も急ぎ強化され、一部海岸には陸軍部隊の陣地構築や配備も行われた。

 シアトル市のように住民の疎開すら行われた地域もあった。

 この頃のアメリカ陸軍の三割が西海岸に集中していたほどだった。

 

 それほど当時のアメリカ軍は、日本軍を恐れていた。

 


 しかし日本軍は、アメリカ軍の裏を完全にかいて、距離的に最も遠く攻撃されにくいと考えられていたパナマ運河へと大挙襲来した。

 

 そして黎明から夕刻まで、都合5回にも及ぶ大規模な空襲によって、パナマ運河の施設ほぼ全てと両方の港湾を徹底的に破壊していった。

 爆撃には大型爆弾が多数使用されており、まだ鉄骨が使われる前の時代に作られた防水コンクリートの基礎から破壊するような攻撃が行われた。

 運河そのもの以外でも、平行鉄道、発電所、変電所、その他諸々、パナマにある全ての近代的施設が事前の調査によって洗い出され、優先度を付けた上で徹底的に破壊された。

 

 運河施設の一つだった大きく二つのダムも、大型爆弾の集中爆撃で完全に破壊されていた。

 ヨーロッパでの戦いを教訓として、破壊のために専用の大型爆弾を使用したほどだった。

 このダム破壊によって、運河一帯の水が海へと抜け落ちてしまっていた。

 また付近の河川から流れ込む泥をさらう土木作業機械も、広域破壊を目的とした散布爆弾を用いて破壊された。

 復旧を1日でも遅らせるためだった。

 

 また、港や運河の中を含め、付近にいた商船や軍艦もほとんど根こそぎ犠牲となった。

 付近を航行中の護送船団が丸々一つ壊滅し、撃破された中には運河を通過中だった新造空母の姿もあった。

 艦船の損害合計は、実に100万トンに達するとすら言われる。

 何しろ日本軍機動部隊は、この戦争で唯一カリブ海も攻撃していたからだ。

 

 当時にパナマ一帯には、念のためという以上の数である200機以上のアメリカ陸軍の戦闘機が駐留していたし、太平洋側には大規模な沿岸砲台が建設され、高射砲部隊も運河や港に多数配備されていた。

 だが、のべ2000機にも及ぶ圧倒的多数の大編隊の前には、ほとんど何の戦果も上げることなく壊滅した。

 また、念のためパナマからの沿岸哨戒も行われていたが、主に潜水艦を対象としたもので広域レーダーを搭載した機体もまだなかったため、黎明攻撃を予定して深夜のうちに最後の接近を行った日本艦隊に気付く事もなかった。

 潜水艦対策用として駆逐艦などの艦艇も一定数駐留し、沖合で作戦行動すら取っていたが、これも圧倒的多数の艦載機の前には標的でしかなかった。

 

 日本艦隊は一日かけてパナマを破壊し尽くすと、追跡のための偵察機すらないアメリカ軍をあざ笑うかのように夕闇の中に姿をくらましていった。

 安全と考えられていた付近には、アメリカ軍潜水艦の姿もなく、まるで無防備な海が広がるばかりだった。

 

 なお、パナマ運河からもたらされた後の損害報告では、短期間での復旧は事実上不可能。

 長期的に復旧するにしても、場合によっては計画だけあった第二運河を建設した方が安上がりだという判定が出た。

 何しろこの時の日本軍機動部隊によって、パナマ運河は瓦礫の山となっていたからだ。

 


 そして日本軍の大艦隊による攻撃は、これで終わりではなかった。

 何しろ空母18隻を含む大艦隊を止めるだけの洋上戦力は、この時のアメリカには全く存在しなかった。

 そして東太平洋は、大機動部隊に対してまったく無防備だった。

 

 アメリカが蜂の巣をつついたような騒ぎの続く4月25日、今度はサンディエゴ軍港とサンフランシスコ軍港が立て続けに大規模な空襲を受けたのだ。

 アメリカ軍にとって幸いなことに、二つの軍港に主要なアメリカ軍艦艇は在泊していなかったが、基地施設の多くが破壊された。

 日本軍機を確認してから迎撃を行った航空部隊も、それぞれ100機以上撃墜される大損害を受けた。

 その他、精油所や油田など一部の重要拠点も爆撃を受けた。

 

 しかし、カリフォルニア以上に軍事力が集められているシアトル近辺に日本艦隊が近寄ることはなく、この攻撃をもって日本軍の大機動部隊は本国へと帰投していった。

 これに関して、シアトルとその周辺にいるアメリカ太平洋艦隊を撃滅しておくべきだったという後世の意見も多い。

 だが当時シアトルを中心とするワシントン州は、常時2000機以上の各種アメリカ軍機が24時間状態で配備され、既に長期作戦で疲労が強まっていた日本艦隊が大損害を受ける可能性も高かったと考えられている。

 それに二度の大規模攻撃のため、日本軍空母の腹の中は弾薬が殆ど残っていなかったし、随伴の駆逐艦は燃料も危険な状態だった。

 

 なおこの時の攻撃は、アメリカが受けた米英戦争以来の本格的な本土攻撃であり、アメリカ国民にも大きな衝撃をもたらした。

 一部では、パナマ攻撃を合わせて「リメンバー・パナマ(パナマを忘れるな)」や「リメンバー・カリフォルニア」と戦意昂揚と敵意の発揚に使われるが、一時的にはともかく長期的な効果は薄かった。

 

 アメリカ本土が攻撃を受け民間人にも多数の死傷者が出たが、アメリカ参戦から既に一年近くが経とうとしていたし、攻撃を受けたのがいまだ辺境フロンティアの雰囲気が抜けない西海岸地域だったからだと言われている。

 それに敵からの空襲はヨーロッパでは日常茶飯事だし、遂にアメリカ本土も戦争の洗礼を受けただけというのが一般的な感想だった。

 そして、むしろ日本軍の攻撃に為す術がなかったルーズベルト政権と軍に対する不信が増すことになった。

 

 この点、本土攻撃を受けた直後にルーズベルト政権が目論んだ国民の戦意昂揚と日本へ敵意を向ける工作は、一時的な効果を除くとあまり成功しなかったと言えるだろう。

 

 ただし、アメリカ本土が攻撃を受けたことで、アメリカ全土が自分自身の防衛体制構築を政府に強く要請。

 このため、本来ならヨーロッパなどに持ち込まれる予定だった武器弾薬、そして兵力の多くを無為にアメリカ各地に配備しなければならなくなった。

 


 なお、パナマ運河への攻撃直後に日本政府は世界に向けて会見を行い、アメリカ合衆国のルーズベルト大統領による「無条件降伏」宣言が無ければ、日本帝国は敵国への爆撃や周辺諸国の経済にまで悪影響を与える作戦を採ることは無かったと発表。

 パナマ運河攻撃、西海岸空襲を誘因したのは、枢軸側の講和の意志を最悪の形で蹴ったアメリカであるという姿勢を強く示した。

 また同時に、日本がどれほどの決意を以てこの作戦を実施したかも語られた。

 

 そしてパナマ壊滅という次のターニングポイントを経て、戦争は次なるステージへと進んでいく。

 

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