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遙かなる坂の上 〜日本帝国繁盛記〜  作者: 扶桑かつみ


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フェイズ39「南太平洋の死闘(2)」

 フィジーからアメリカ軍が撤退した事で、日本軍は延期が続いていたサモア攻略作戦の発動を決める。

 アメリカに反撃の足がかりとなる場所を与えないことが重要だと再確認されたこともあり、より一層徹底した作戦が求められた。

 そしてこの頃の日本軍には、敵に対して十分過ぎるほどの戦力があった事が作戦発動を後押ししていた。

 

 侵攻部隊の陣容は「36節」に紹介した状態を基本に、さらに増強されていた。

 既に季節的にも北太平洋からのアメリカ軍の作戦はないという判断もあり、本土近海を防衛していた艦隊(第四機動部隊など)も動員され、新規兵力を加えた圧倒的戦力で、在サモアの敵連合軍全てを殲滅する計画だった。

 

 叩けるときに叩けるだけ叩いておきたいという思惑もあったが、何より参戦早々に攻勢に出てきたアメリカという国家に対する恐れが作戦を実行に移させた。

 

 また作戦より前に、一層のサモア封鎖作戦が実施されることになり、より多くの潜水艦が太平洋上に散っていった。

 加えて、サモア諸島に対するフィジーからの爆撃も大規模に実施されることになり、フィジーは重爆撃機で溢れかえることになる。

 

 作戦参加部隊も、当初は「甲師団:1、乙師団:2、独立戦車旅団:1、海兵旅団:1」の予定だったが、さらに甲師団1個と独立重砲兵旅団を加えた。

 上陸作戦自体は二波にわけるも、一気にサモア諸島全体を攻略する事になっていた。

 兵士と装備を運ぶ輸送船だけで、250隻が準備される予定だった。

 

 攻略作戦は12月6日に上陸を予定。

 既に準備は十分進んでいたため、後は整備と補修、合流を済ませた艦隊が揃うのを待つだけだった。

 

 また、今まで小規模な進出に止まっていた、フィジー=サモア間にある小さな島への本格的進出も実施され、機械化工兵部隊を用いて短期間のうちに戦闘機用の臨時飛行場が建設された。

 とはいえ、どの島も平たい土地が限られているため、飛行場を整備しても小型機で1個大隊程度しか進出できなかった。

 

 そして小さな島を巡っても、両軍の制空権獲得競争が行われたのだが、現地での物量の違い、機体性能と搭乗員能力の優位から日本軍が無難に押し切っていた。

 通商破壊戦と前線での消耗が続くアメリカ軍は、少なくとも南太平洋では完全なマイノリティーだった。

 

 そしてここでの日本側の意図は、サモア攻略のための前哨基地確保は二次的で、基地建設阻止に出て来るであろうアメリカ軍の航空隊に消耗を強いることだった。

 アメリカに時間を与えてはいけないと言うのが日本軍の共通認識であり、分かっていても日本軍の手に乗らざるを得ないのが当時のアメリカ軍だった。

 


 1942年12月3日、フィジーに集結していた日本の大船団が出航。

 先遣上陸部隊2個師団を乗せ、一路サモア諸島を目指した。

 そして12月4日、別方向から迂回して接近した大機動部隊が襲来。

 サモア諸島の軍事拠点に対する空襲を開始する。

 また12月4日からは、フィジー諸島を主な根城とする日本海軍航空隊による大規模な爆撃も開始された。

 

 この時日本海軍は、大型空母8、中型空母4隻を投入。

 艦載機総数は900機を越えていた。

 その艦載機も、戦闘機の「烈風」、「紫電」、急降下爆撃機の「彗星」、雷撃機の「零式艦上攻撃機」と、開戦時から活躍していた機体に代わって全て新鋭機となっていた。

 どの機体も、他の列強よりも進んだ機体だった。

 特に2000馬力級空冷エンジンを搭載した戦闘機に関しては、アメリカが同種の機体の量産配備に手間取っている事を思えば、そのアドバンテージは非常に大きかった。

 

 また空襲には、空母艦載機の援護を受けながらフィジーからは、重爆撃機の群が大挙飛来。

 途中の島から上がった護衛戦闘機も引き連れた300機もの重爆撃機が、サモアのあらゆる軍事施設を絨毯爆撃していった。

 しかも、フィジー東部を飛び立った長い航続距離を誇る「九九式艦上戦闘機」100機以上も、特別製の大型増槽を付けて重爆撃機の援護に付いていた。

 こうした無茶が出来るのも、中間地点に拠点を確保しているからであった。

 燃料を使いすぎたら、途中の島に降りれば良いのだ。

 

 これに対して当時の在サモアのアメリカ軍は、陸海軍併せて300機近くが駐留していた。

 うち半数が各種爆撃機なので、約150機の戦闘機で迎撃戦を行った事になる。

 日本側は艦載機のうち約400機が戦闘機で、そのうち250機が制空任務に投じられていたので、数においてアメリカ側が不利だった。

 しかもアメリカ軍には、短期間で補給や増援を受ける手段がなかった。

 アメリカ西海岸やパナマでは増援部隊や補給船団が準備中だったが、日本軍の攻撃の方が一歩早かった。

 慌てて送り出された船団も、潜水艦や軽空母を中核とする遊撃艦隊に散々な目に合わされた。

 現地アメリカ軍にとっては、航空機を船だけで運ばねばならない不利が、これ以上ない形で現れた形となっていた。

 

 しかしアメリカ軍も、甘んじて日本軍の大攻勢を待っていた訳ではない。

 この時、アメリカにも希望の光は存在した。

 

 その希望とは、当時アメリカ海軍唯一の空母機動部隊だった。

 

 空母 《エンタープライズ》《ホーネット》《ヨークタウン》の同型艦3隻に加えて、大西洋の生き残りである《ワスプ》が合流したもので、艦載機総数は露天搭載など無理を押して数を増やしていたので400機近くあった。

 この部隊は、日本軍の侵攻が近いと言うことで先発して、サモア近辺に可能な限り情報を秘匿しつつ進出していた。

 

 そして今までの日本軍の行動パターンを分析した上で、見つからないようにサモア近海に接近後に待機状態に入り、日本軍が侵攻するのを待ちかまえていた。

 

 主な作戦は、日本軍がサモア島の空襲に係り切りになっているその時に横合いから襲いかかって、侵攻の原動力となっている空母を、出来る限り使い物に出来なくする事を目標としていた。

 


 かくして日本軍はサモアに襲来し、圧倒的な航空戦力でサモア諸島の制空権奪取に乗り出す。

 

 これを待っていたアメリカ軍は、日本軍偵察機に発見される前にアメリカ機動部隊が第一次、第二次攻撃隊を放つことが出来た。

 放たれた艦載機数は、合わせて300機以上。

 攻撃隊は大きく2回に分かれていたが、うち200機が各種攻撃機なので、命中率を平均的な10%と想定した場合、20発の命中によって日本空母のうち半数程度は損傷もしくは沈めることが出来るという期待が持たれていた。

 

 アメリカ側の用意周到さと、日本側の慢心にも似た心理がこの時の状況を作りだしたと言えるだろう。

 

 もっともアメリカ海軍は、日本海軍のように多数の空母と空母艦載機を用いた大規模な航空戦の経験がこれまで少なかった。

 特に、空母艦載機による遠距離攻撃の経験がなかった。

 機動部隊自身の航空統制、管制能力もまだ未熟で、せっかくの性能の良い無線機も十分には活用されていなかった。

 

 これに対して日本艦隊は、既にメートル波、マイクロ波双方の電探を装備し、多くの艦艇では電探による射撃管制も出来るようになっていた。

 無線による航空管制も、イギリスとの戦い、イギリスからの技術奪取、ドイツからの情報入手などによる応用で、当時としては標準以上の体制を構築していた。

 特に選ばれて改装された大型艦の中には、大規模な航空管制を専門に行う大規模な指揮所も設けられていた。

 でなければ、900機もの艦載機を円滑に運用することは出来なかった。

 

 しかもインド洋でのイギリスとの戦いの教訓から、先に相手を見つけることにも神経を尖らせるようになっていたため、哨戒用の駆逐艦を放ったり、電探を搭載した大型の哨戒機をフィジーから飛ばすなど、単なる偵察以上の戦術も採用していた。

 このため、なれない大編隊を乱しながらダラダラと長い隊列で進撃してくるアメリカ軍は、日本艦隊から100キロメートル以上離れた場所で最初に捕捉されていた。

 

 しかし日本艦隊にとっては早朝からサモアを攻撃し、一方でサモアのアメリカ軍基地航空隊の空襲を受けながらの発見であるため、アメリカ軍としては非常にタイミングは合っていた。

 だが残念な事に、日本艦隊の当時としては世界最高度の早期警戒、迎撃網は完全に機能していた。

 しかもアメリカ軍艦載機発見後の日本艦隊は、まずは徹底した防空戦を企図した布陣を取った。

 

 サモアから飛来する中型機の「B-25」は直援隊の「紫電」の重武装型のカモだったし、数の限られた「B-17E」は水平爆撃しか対艦攻撃手段がないため、日本軍機を引き寄せる役割しかないのが実状だった。

 しかも常時50機以上の戦闘機が、電探と無線の指示を受けながら効率的な迎撃戦を行っているため、五月雨式に襲撃するアメリカ軍機はその都度撃退、そして撃墜されていった。

 艦隊外周に取り付いても、今度は無数の高角砲、大型機関銃が出迎え、中途半端な高度しか取れない陸上機はいい的だった。

 

 都合100機以上の機体がサモア各地から出撃したが、その半数が撃墜もしくは帰投後に破棄されている。

 

 このため日本側も、どこかに本命の攻撃隊がいるのではないかと探してもいたので、電探の網が捉えた編隊は待っていた報告とすら言えた。

 

 予期せぬ方向からの大編隊が接近中という報告を受けて、日本艦隊ではただちに最大級の防空戦闘命令が下り、直援隊は50機から100機体制に増加。

 さらに休養中だった予備の50機も急ぎ準備された。

 また帰投したばかりの攻撃隊随伴の護衛機隊も、緊急の補給の後に迎撃戦に投入されることが決まった。

 艦隊自体も、防空戦闘を行うため陣形を緊密にし、アメリカ軍機の襲来を待ちかまえた。

 一方では、長距離索敵のための機体が多数発進し、敵攻撃隊の向こうにいるであろうアメリカ軍空母機動部隊を追い求めた。

 フィジーからも、多数の大型飛行艇や偵察任務の重爆撃機が飛び立った。

 


 敵の状況をほとんど何も知らないアメリカ軍艦載機群は、太陽の中から急降下してきた「烈風」隊の迎撃によって、自分たちが既に見つかっていた事を初めて知る。

 そして奇襲した筈が空中で奇襲攻撃を受けたという心理的衝撃は大きく、陣形はさらに乱れた。

 

 そうした状況を知った日本艦隊の司令部は、敵機動部隊が見つからない状況を踏まえて、既に攻撃から帰投している急降下爆撃隊も防空戦に投入することを決意。

 各空母では、急ぎ発艦の準備が開始される。

 

 第一波180機、第二波130機のアメリカ軍編隊は、先頭を進んでいた「F4F ワイルドキャット」戦闘機の編隊が「烈風」や「紫電」に自衛すら出来ないほどズタズタ引き裂かれると、後は個別に進撃するようになる。

 戦闘機隊があまりアテにならないのと、戦闘機隊が体を張って敵のインターセプターを止めている間に攻撃しようという意図だった。

 もっとも、あまりにも各個がしゃべって無線が錯綜したため、何が何だか分からないと言う編隊や機体も多く、アメリカ軍側の状況が統制されていたわけでもなかった。

 ここでは無線技術の優位が徒になった形だった。

 

 アメリカ軍の攻撃機には、急降下爆撃機の「ダグラスSBD ドーントレス」と雷撃機の「ダグラスTBD デバステーター」、「グラマンTBF アヴェンジャー」があった。

 新型であるアヴェンジャーの数はまだ少なく、デバステーターは旧式で性能が低いため敢えて数が少なく抑えられていた。

 このため、ドーントレスが攻撃の主体だった。

 偶然ではあるが、空母を黙らせるという点では、優れた選択肢でもあった。

 しかもアメリカ海軍は、当時は急降下爆撃による偵察爆撃も重視していたので、尚更ドーントレスの数が多かった。

 

 だが、襲いかかってくる日本軍防空戦闘機の数は、アメリカ側の予測を大きく上回っていた。

 

 次々に優位な場所から襲いかかってくる日本軍戦闘機の前に、戦闘機の護衛をほとんど失ったアメリカ軍攻撃機は苦戦を強いられた。

 日本軍は明らかにアメリカ軍の攻撃を予測した位置から攻撃し、しかもアメリカ軍より多数の戦闘機を投入し、その上「ワイルドキャット」は歯が立たず、攻撃機と同じように逃げるしか能がないといえる惨状だった。

 戦闘機隊が体を張って攻撃隊を守っても、多少の時間を稼ぐのが精一杯だった。

 その上、日本艦隊との距離が近づくと、スマートな高速爆撃機までが雷撃機などに目標を絞った攻撃を行ってきた。

 

 日本艦隊が最終的に敵空母艦載機の迎撃に投じた戦闘機の数は約230機、これに約30機の急降下爆撃機が加わっている。

 その上、フィジーからも長距離飛行が可能な「九九式」が30機ほど援軍で飛来して、艦隊上空の一部の防空を担っていた。

 そしてこれだけの機体を投じても、合計300機もの攻撃を全て防ぎきる事はできなかった。

 

 ただこの時、運はやや日本に味方していた。

 

 アメリカ軍が最初に発見したのが、新鋭の装甲空母で編成された第三機動部隊だったからだ。

 同艦隊は新鋭艦が多いため防空能力が高く、しかも空母自身の直接防御力が最も高かった。

 飛行甲板に今まで通り木を張っていたので見た目には単に大きな空母だったが、装甲空母の名に恥じず着陸対策でもある木甲板の下には最大95mmもの装甲が施されていた。

 この防御力は、アメリカ軍の1000ポンド爆弾を防ぐことが出来るだけの防御力だった。

 

 そして日本軍の防空隊を抜け、辛うじて艦隊に突入できたアメリカ軍機は、約100機。

 このうち約20機は、艦隊上空で待ちかまえていた飛びたって間のない戦闘機の迎撃を受けさらに数を減じるか、荷物を棄てて逃走した。

 そして残り80機となるが、ひとかたまりに攻撃したわけではない。

 最大で30機程度の集団で、多くは中隊程度のレベルが散発的に飛来する事になる。

 しかも防空隊の一部は艦隊上空にまで敵を追いかけてきていたので、彼らの攻撃も受けることになった。

 

 あまりの密度のため既に空は大混乱で、日本海軍が苦労して作った航空管制システムも半ば役立たずとなっていた。

 あとは艦隊の弾幕射撃だけが頼りだった。

 既に電探連動射撃を導入している高角砲、大量導入されつつあるボ式40mm機関砲は、今までにないほど濃密な弾幕を形成した。

 空が真っ黒になったと、日米双方の将兵達が証言した戦場だった。

 そして主にこの戦い以後、日米双方の艦艇が多数打ち上げることになる対空砲火の、実質的な始まりでもあった。

 


 そうした混乱の中から、主にドーントレスが日本艦隊を攻撃した。

 目標はもちろん大型空母。

 残念な事に、性能の低いデバステーターは何もできないままほぼ全滅し、アヴェンジャーは数も少ない上に進撃速度が違っていたため連携できなかった。

 

 結局、急降下爆撃だけがある程度まとまった数で行われ、至近弾を含めると10発近くが日本空母に落ちた。

 中には3発の命中弾を受けた空母もあったが、被弾した3隻の装甲空母は損害を耐え抜き、うち1隻が一時発着不能になるも戦闘航行を継続した。

 これこそが、飛行甲板に重装甲を施した重防御空母の威力だった。

 

 だが第一機動部隊にもアメリカ軍は攻撃を行っており、《加賀》《翔鶴》が被弾し、複数の直撃弾を受けた《加賀》は大きな損害を受けた。

 格納庫内で攻撃隊を準備していた事が、損害を大きくしていた。

 日本海軍にとっても、これほど大規模な艦載機による空襲を受けるのは初めてであり、対応が未熟な面が見られた事が、この時の損害につながっていた。

 

 しかし日本海軍の空母機動部隊は、アメリカ軍の強襲を耐え抜く。

 そして午前11時前、待ちに待っていた報告を受ける。

 

 アメリカ空母機動部隊発見の報告だ。

 

 相手は4隻、これに対して自分たちはその三倍。

 損傷で数は減っていたが、十分に圧倒的優位だった。

 そして第一航空艦隊司令部は、サモアへの次なる攻撃を中止して、既に各艦の格納庫内で対艦攻撃の準備を進めていた事もあり、全力でのアメリカ艦隊攻撃を命令する。

 

 対するアメリカ機動部隊も、帰投した攻撃隊を収容して、次の攻撃隊の準備に入った。

 帰投した機体は驚くほど少なかったが、指揮官のハルゼー提督は引き下がることを良しとせず、そのまま攻撃の続行を命令。

 午後零時頃、双方同じく攻撃隊を放つことになる。

 

 だが放った攻撃機の数が、段違いだった。

 日本側は稼働状態を維持している母艦9隻から、合わせて300機近い攻撃隊を二波に分けて出撃させた。

 これに対してアメリカ側は、防空隊を減らすことも出来なくなったので、先の攻撃隊の生き残りの稼働機70機ほどを送り出せたに過ぎない。

 帰投した機体は半数近かったのだが、被弾している機体が多かったのだ。

 

 しかも、日本側が放った攻撃隊は他にもいた。

 フィジー諸島に進出していた「一式中型攻撃機」隊が、大挙魚雷を抱えて出撃していたのだ。

 これまで彼らは、地上攻撃や精々が輸送船団の攻撃だったため、本来の任務を与えられたとして勇躍稼働全機で出撃していた。

 その数は70機を越える。

 フィジーから護衛が付けられる距離ではなかったが、自らの頑健な機体と速力に自信があり、それに空母部隊の戦闘機隊をアテにしていた。

 


 戦闘の結果については言うまでもないが、アメリカ側の惨敗だった。

 日本機動部隊は、その後さらに2度の攻撃隊を送り込み、既にボロボロになっていたアメリカ軍機動部隊に対して多くの戦果を挙げた。

 

 アメリカ側は空母 《ホーネット》《ヨークタウン》《ワスプ》が沈み、《エンタープライズ》が辛うじて生き残ったに過ぎなかった。

 随伴していた艦艇でも、重巡洋艦1隻、防空巡洋艦1隻、駆逐艦3隻が沈んでいた。

 損傷艦艇も数多く出ていた。

 偶然に集中攻撃を受けた《ワスプ》などは、轟沈といえるほど短時間で沈んだため、死傷者の数も多かった。

 

 これに対して日本側は、再度第一機動部隊が空襲を受け、《加賀》がさらに被弾して、さらに無傷だった《赤城》も被弾した。

 このため稼働空母が一時《瑞鶴》だけとなったので、第一機動部隊は後退を余儀なくされた。

 しかも後退中に、魚雷を受けて浸水が酷くなった《加賀》は、さらに潜水艦の雷撃を受けて沈没した。

 日本軍が初めて受けた、大型艦の撃沈だった。

 格納庫中の機体や燃料、一部爆弾が誘爆した《赤城》も、修理に一年はかかると言われる大損害を受けていた。

 

 だがこれでサモアの制空権、制海権はほぼ日本軍のものとなり、予定通り12月6日に日本軍上陸部隊の第一波が、サモア諸島最大の拠点があるウポル島に上陸した。

 頼みの機動部隊を完全に失ったアメリカ海軍は、もはやサモア近海から後退する以外の手段がなかった。

 日本艦隊は、依然として艦載機500機以上を擁していたからだ。

 


 サモア諸島は、かつて多くがドイツ領だった。

 だが、第一次世界大戦後に全てアメリカ領となり、無条約時代になって軍事拠点化が進められていた島だった。

 何しろアメリカにとっては、グァムと並んで、数少ない太平洋上の領土だったからだ。

 

 その後サモア諸島各地には航空基地や拠点が建設されたが、この時にはサモアの軍事的な中心はサモア諸島のほぼ中心にあるウポル島にあった。

 陸軍部隊の主力もここにいた。

 

 そのウポル島に、約2個師団分の日本軍が圧倒的な支援のもとで敵前上陸作戦を実施。

 対するアメリカ軍もこの島には1個師団を駐留させており、その後熾烈な戦闘が開始されることになる。

 しかし日本側には、制空権、制海権があった。

 上陸前日には、戦艦部隊が昼夜を問わず激しい艦砲射撃を方々で実施していたため、既に飛行場の多くは一時的に機能を喪失し、上陸に適した地域の防御施設も多くが破壊されていた。

 上陸を阻止するための機雷や障害物の多くも除去されていた。

 空には、既に日本軍機しか飛んでいなかった。

 

 対するアメリカ軍には、何もかもが足りなかった。

 

 また、艦砲射撃や爆撃によるアメリカ軍自身の損害も相当なものだった。

 急ぎ戦列復帰した《大和級》戦艦群による46センチ砲の洗礼は、アメリカ軍の想定を遙かに越えていた。

 16インチ砲弾に耐えられるように地下深くに作られていた弾薬庫も、1.5トン近くある徹甲弾によって粉砕されて高々と黒煙を吹き上げた。

 敵の上陸を防ぐ最後の砦ともいえる沿岸重砲陣地も、ほとんどが想定以上の火力によって破壊された。

 自分たちが得意とする筈の物量戦を、日本軍にされた格好だった。

 

 しかし、サモアのアメリカ軍が簡単に屈したわけではなかった。

 アメリカ軍としては太平洋でほぼ唯一の拠点を殊の外厳重に防衛しており、戦前から蓄えていた大量の食料や弾薬などと共に合わせて5万もの兵力が駐留していた。

 しかもフィジーから後退に成功した1万人以上の兵士達のかなりが臨時に防衛部隊に組み込まれていたので、兵員の総数は6万に達していた。

 

 このため、ウポル島への上陸から一週間後に日本軍が一番西にあるサヴァイイ島に上陸を開始しても、ウポル島での戦いは一進一退を繰り返していた。

 日本側はウポル島に精鋭の機械化師団と上陸戦に慣れた海軍の海兵旅団、さらに長砲身75mm砲(高射砲改造)を搭載した新鋭戦車(百式改)を持つ戦車旅団まで投じていたが、頑強な陣地に籠もるアメリカ兵は非常にねばり強く抵抗した。

 戦史研究家の中には、サモアでの戦いは第二次世界大戦でアメリカ軍将兵が最も頑強に戦った戦いだと評価する者もいるほどだった。

 

 しかし大勢は日本側にあり、しかも激しい攻防戦が続く12月10日にソ連が戦争から脱落したというニュースが世界中を駆けめぐり、日本軍は士気を上げアメリカ軍の士気を低下させた。

 


 その後サモア諸島を巡る攻防戦は、東サモアのトゥトゥイラ島、マヌア諸島を巡っても行われた。

 アメリカ軍はアメリカ本土から懸命に増援を送り込み、日本海軍がそれを海に沈めるのが日常的光景となった。

 それでもアメリカ軍は、日本軍上陸3日目には飛行場を復活させて一部制空権を取り戻したり、トゥトゥイラ島の基地に大量の機体を強引に送り込んで日本軍に挑んだ。

 

 いち早く簡易飛行場が完成したタヒチ諸島の基地にも、投入できるだけの重爆撃機を入れて、航続距離ギリギリとすら言える飛行で「B-24」「B-17」が無理を押して出撃してきた。

 タヒチを足場にして、「P-38」の編隊がサモアに送り込まれたりもした。

 

 しかし戦闘開始から二週間目には、日本軍は最初に上陸したウポル島の多くを占領して、自らの航空隊の展開も始める。

 そうなると日本軍は、それほど空母を使わなくてもよくなった。

 その後は日本軍基地航空隊が続々と送りこまれ、アメリカ軍の苦境は拡大した。

 

 その前後に、アメリカ軍の巡洋艦を中心とした艦隊が、日本軍に占領された飛行場を艦砲射撃しようとしたり、アメリカ本土からの大規模輸送を行ったりしたため、サモア諸島の各所で何度か水上戦も発生した。

 しかし日本側は、サモア諸島に常に戦艦を含む水上艦隊を常駐させ、すぐにもフィジーから空母機動部隊を送り込んだため、アメリカ軍の損害ばかりが増えることになった。

 アメリカ軍が敗者となったのは、基本的に日本軍の戦力が大きく、制空権と制海権を握っていたからだ。

 

 加えて、やはりと言うべきか、アメリカ軍潜水艦は相変わらず振るわなかった。

 日本の艦船に魚雷が当たっても殆どが不発では、活躍のしようがなかった。

 あまりの惨状に、発狂した潜水艦艦長がいたと言われるほどだった。

 

 アメリカ軍がサモアからの全面撤退を決意したのは、年が明けた1月13日。

 それまでに、6万いたアメリカ軍のうち半数は死傷するか日本軍の捕虜となり、残りがサモアの大きな二つの島の山岳部で細々としたゲリラ戦をするまでに追いつめられていた。

 既にアメリカ本土やタヒチなどからサモアに補給も届けることが出来ず、山間部に備蓄した物資や弾薬で辛うじて戦っているに過ぎなかった。

 


 そして1月末、サモアで最後の戦闘が発生する。

 

 アメリカ軍が、生き残りの兵士を撤退させるために起きた戦闘で、今度は日本側もフィジーの教訓からアメリカ軍が逃げようとしていると考え、一網打尽にするべく迎撃の準備を行った。

 

 とはいえ、アメリカ軍の空母は修理を終えたばかりの《サラトガ》1隻だけ。

 戦艦は皆無で、日本側は楽に相手を撃退させ、島に潜むアメリカ軍を降伏に追いやられるだろうと楽観していた。

 

 しかしその慢心を突かれ、日本軍が気付いた時にはアメリカ軍の多数の軍艦に島にいたアメリカ軍将兵が多数乗り込んでいた。

 人を運ぶのは輸送船という固定観念を突かれた形だった。

 

 相手が戦闘艦艇のため、日本側で追撃できる戦力は空母機動部隊だけだが、彼らは迂回接近という欺瞞行動を取っていた《サラトガ》につり上げられてサモアから離れており、軍艦多数による脱出船団を捕捉できる位置にはいなかった。

 

 このため何とか捕捉した《サラトガ》を袋叩きのようにして沈めるには沈めたのだが、「腹いせ」に沈めたような印象が強く、日本軍にとって少しばかり後味の悪いものとなった。

 何しろ機動部隊の総攻撃を受けることになった《サラトガ》と護衛の任務部隊は、駆逐艦数隻を残して壊滅していた。

 そして機動部隊に多くの戦力を割いていた日本艦隊は、逃げるアメリカ艦艇を追撃するだけの水上艦隊をサモア近辺に持っていなかった。

 艦艇が皆無ではないが、万が一の事を考えた現地の防衛部隊を追撃に向けるわけにもいかなかったからだ。

 

 一方のアメリカは、ダンケルク同様にサモアでも希望の火が途絶えることはなかったと、自らの最後の作戦を自画自賛。

 アメリカ軍のサモア撤退をもって、「フィジー=サモア攻防戦」とも言われる南太平洋での一連の戦いに幕が下りる。

 


 その後、2月には日本軍空母機動部隊によるタヒチ諸島、マルキーズ諸島への大規模な空襲が行われ、ようやく稼働状態に入りつつあった両諸島の連合軍の航空基地は呆気なく壊滅。

 マルキーズ諸島では、アメリカ本土から飛来中の爆撃機隊と鉢合わせして、アメリカ側に多くの犠牲が出たりもした。

 一方的だったのは、アメリカ側にまともな洋上機動戦力が無くなっていた事が大きく原因していた。

 

 そして3月には日本軍によるタヒチ諸島への侵攻、同5月に既にアメリカ軍が撤退していたマルキーズ諸島への侵攻があったが、それは南太平洋全体の戦いでいえば既に付け足しでしかなかった。

 敢えて付け加えるなら、太平洋上の橋頭堡の維持に未練を見せたアメリカ軍が、タヒチ諸島でいらぬ損害を積み上げただけに過ぎなかった。

 そしてタヒチを含めた戦いの場合は、フィジー、サモアの戦いと合わせて「南太平洋攻防戦」と呼ぶ。

 

 この戦場では、1942年9月から翌年5月にかけて攻防戦が行われ、初戦で勇み足となったアメリカが最後まで態勢を立て直すことが出来ず、その後の戦争運営にまで大きな影響を与える事になる。

 


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