フェイズ35「アメリカ参戦」
1942年5月頃、世界の多くの戦域は多少平穏な状態にあった。
いわゆる小康状態もしくは、階段の踊り場状態だ。
連合国を構成する主要国家のイギリス、ソ連は、既に息切れ状態だった。
対する枢軸国側は、ドイツが次の対ソ夏季攻勢を準備中で、イタリアは中東から十分な石油がもたらされる日を一日千秋で待っていた。
日本は、中東まで進撃したところで足を止め、戦力再配置の最中だった。
この時期、世界中ではいくつかの噂が飛び交っていた。
日本がソ連に対して遂に参戦するというものと、アメリカに対して宣戦布告するというものだ。
またスペインやフランスが、全面的に枢軸に参加するという噂も飛び交っていた。
そして大方の床屋談義上では、年内にソ連が崩壊して翌年夏までにブリテン本土が枢軸の占領下となり戦争が枢軸の圧倒的勝利で終了するだろうと予想されていた。
だが、一カ所だけ例外があった。
北大西洋航路だ。
ソ連に対してレンドリースなどの援助物資を大量に送る事が出来るルートは、北大西洋しかなかった。
しかも航空機の送るルートの一つも、北大西洋北端の島嶼を利用していた。
開戦以来敗北を続ける赤いロシア人に何としても戦い続けてもらうためには、心理的な慰めでもよいから援助を続ける必要があった。
味方がいることを教えるため、さらに青臭い言い方だと希望を与えるための支援だった。
イギリスは特にこの事を理解しており、自分たちも非常に困窮しているにも関わらず、貴重な優良船舶を割いて物資をソ連に運び込んだ。
9月末には早くも第一次船団が派遣され、以後アイスランドからムルマンスクやアルハンゲリスクを目指す船団を、行きは「PQ」帰りは「QP」のコードを付けて呼ぶことになる。
船団は3〜4週間に一度ロシア人の北の港に到着し、最初は10隻程度だった船団は、その後拡大して30隻から40隻の船団を編成した。
1隻1万トンの積載量とすると、一日平均で1万トンの物資がロシア人の手に届けられていることになる。
数百万の軍がうごめくロシア戦線を前には焼け石に水のようであるが、あるとないでは大きな違いがあった。
高性能の無線機や真空管、高純度燃料、高性能点火プラグなど、ソ連での製造が難しいものが多かったからだ。
戦車や航空機といった即物的な兵器も、常に激しく消耗するソ連赤軍にとっては、少しでも沢山欲しい兵器だった。
RDFまでが贈られたりした。
一方、ドイツにとっては、ソ連の援助船団は非常に厄介であり、心理的にも鬱陶しい相手だった。
軍事援助という形で、「希望」がロシア人に与えられるからだ。
希望を持つ相手が常に手強い事を、国家なら誰でも知っていた。
そこで、フランスのブレスト軍港で燃料不足とイギリス軍の爆撃により活動できないドイツ海軍主力艦隊という要素が加わって、状況の変化が訪れる。
ドイツは、イギリス軍を欺く「ツェルベルス作戦」によって、ブレスト港などにいた戦艦 《ビスマルク》《シャルンホルスト》《グナイゼナウ》、空母 《グラーフ・ツェペリン》、重巡 《プリンツ・オイゲン》、他駆逐艦6、水雷艇14という北フランスにいた全ての戦力を、一気にドイツ本国へと帰投させた。
完全に裏をかかれたイギリス軍は激しく悔しがったが、インド戦での消耗と各地での敗退のため本国近辺の戦力が不足しており、ドイツ本国に逃げ込んだドイツ海軍を爆撃などで破壊するだけの力はなかった。
そしてキールやヴィルヘルムス・ハーフェンなどに帰投したドイツ艦艇は修理と補修、若干の改装を行い、安全なバルト海で再訓練を行い、ノルウェー沿岸へと再配置されていった。
艦艇は上記したものに加えて、元からドイツ本土にいた戦艦 《テルピッツ》と装甲艦 《アドミラル・シェーア》《リュッツオウ》、重巡 《ヒッパー》があり、全てを合わせると、当時のイギリス本国艦隊に匹敵する主要艦艇数となる。
そしてドイツは再び勢力を盛り返した水上艦隊とUボート、航空機を連携させ、ノルウェー沖を航行する連合軍船団を攻撃しようとした。
戦闘は意外に早く訪れる。
1942年3月6日、戦艦 《ビスマルク》《テルピッツ》《グナイゼナウ》を中心とするドイツ大海艦隊は、連合軍の「PQ-12」船団に対しての攻撃行動に入った。
既に戦艦戦力が枯渇しつつあるイギリス海軍は、直接の護衛に石炭と重油の双方を燃料とする旧式の《アイアンデューク》を護衛としていたが、準備の整ったドイツ水上艦隊にとっては格好の獲物と捉えられた。
しかしドイツ主力艦隊の出撃の報に接したイギリス海軍も、スカパ・フローから本国艦隊を出撃させる。
ドイツ艦隊主力を撃滅する格好の機会であり、イギリス海軍としても先月の汚名返上を行いたかったからだ。
戦艦が《キングジョージ五世》《プリンス・オブ・ウェールズ》と就役して間のないの《デューク・オブ・ヨーク》の同型艦ばかりが3隻。
ジブラルタルの《レナウン》《レパルス》を除く全ての戦力だった。
旧式戦艦の《ロドネー》《ウォースパイト》《ラミリーズ》は、修理のため当分動かせなかった。
最古参の旧式戦艦についても、再稼働にはまだ時間がかかった。
また双方ともに、空母 《ヴィクトリアス》と《グラーフ・ツェペリン》を出撃させ、いまだ流氷が分厚く見えるような北の海での戦闘へと向かう。
当然だが、ドイツ側は出せるだけのUボートも現場海域に向かわせるか周辺に散っていった。
両軍の基地航空隊も出せる限り出動した。
船団への到達が早かったのはドイツ艦隊で、接近を察知した連合軍側は一網打尽を避けるべく船団の解散と護衛艦隊によるドイツ艦隊の迎撃を決断。
それを見越していたドイツ海軍のUボートが襲いかかった。
その動きは、熊と狼の群の連携だった。
そしてイギリス海軍の巡洋艦と駆逐艦による小規模な艦隊が、接近中のドイツ海軍の主力艦隊に襲いかかった。
無論、自分たちに引きつけるためだ。
彼らは、忠実な牧羊犬達だった。
そしてイギリス艦隊の先に船団がいると考えたドイツ艦隊も、迷うことなく突撃を開始。
波の荒い春先前のノルウェー沖で海戦が勃発する。
この時の戦闘は、実の所ほぼこれだけだった。
トロンヘルムよりもスカパ・フローの方が遠いし、ドイツ艦隊が思わぬといえる苦戦を強いられたからだ。
これはブレストからの撤退間もない艦艇が多く参加していたため、練度が十分に回復していなかったからだった。
そしてイギリス海軍は、数隻の巡洋艦と駆逐艦と引き替えに船舶の多くを守った。
潜水艦により7隻を沈められたが、この頃はドイツ空軍の活躍もまだ低調だったため、それ以上の損害を受けずにバラバラになりながらもムルマンスクへ至ることができた。
海戦の結果に激怒したのは、ドイツ総統ヒトラーだった。
彼は海軍の不甲斐なさを徹底的に罵り、海軍を率いるレーダー元帥に対して、次に失敗すれば大型艦全てを解体するとまで脅した。
そして汚名返上、名誉挽回をかけたドイツ海軍は、出来る限りの訓練を施し空軍に何度も頭を下げてノルウェー北部の航空隊を整備し、北の海で活動できる潜水艦の数も増やした。
そして7月、次の機会が訪れる。
3月の戦闘の後しばらくは、ドイツ側の出方をうかがうような小規模な船団や、戦闘艦艇多数を伴った船団が行き来したため、ノルウェー沖での戦闘は発生しなかった。
しかし6月末に、大規模な「PQ-17」船団が編成される。
船舶数34隻で、これに巡洋艦と駆逐艦を伴った経済効率を重視した船団だった。
船にはイギリスだけでなくアメリカ船籍の船も多数加わるようになっているため、途中まではアメリカの艦艇も何隻か護衛に加わっていた。
大規模船団のため、危険だと考えられたからだ。
イギリス本国艦隊も、警戒態勢を上昇させた。
そしてアメリカ艦艇がアイスランドに引き返す直前、連合軍にとっての悲報が飛び込む。
ノルウェーのドイツ艦隊が再び全力出撃したという情報だった。
出撃したのは、戦艦 《ビスマルク》《テルピッツ》《グナイゼナウ》、装甲艦 《アドミラル・シェーア》《リュッツオウ》、重巡 《ヒッパー》、空母 《グラーフ・ツェペリン》に駆逐艦6隻など稼働艦艇のほぼ全力だった。
艦隊は、トロンヘルムの戦艦を中心としたグループと、ナルヴィクの装甲艦を中心としたグループに分かれ、二方向から襲撃する手はずになっていた。
そして艦載機に「フォッケウルフFw190」の艦載機型を搭載した空母 《グラーフ・ツェペリン》が船団を捕捉。
周辺にいた潜水艦が、直ちに攻撃を開始する。
ドイツ海軍としては、万全の布陣で「狩り」に臨んだのだった。
そしてスピッツベルゲンのイギリス軍偵察機が、ドイツ海軍の戦艦群が船団を全速力で目指すのを発見。
既に出撃していたイギリス本国艦隊も速度を上げた。
イギリス海軍も艦隊を二手に分け、確実にドイツ艦隊を捉えることを目指していた。
主力が、戦艦 《キングジョージ五世》《デューク・オブ・ヨーク》、空母 《ヴィクトリアス》。
別働隊が、戦艦 《プリンス・オブ・ウェールズ》と巡洋戦艦 《レパルス》だった。
イギリス艦隊出撃を、ドイツ軍もすぐに察知。
ドイツ軍の主力艦隊は進路を変進し、この時最短距離にいたのは偶然と必然の結果、ドイツの主力艦隊とイギリスの別働隊となった。
この戦闘では、《グラーフ・ツェペリン》の艦載機がまずは先制攻撃を実施。
主に足回りを変更した艦載機型の「スツーカ」と小型魚雷を抱えた「フォッケウルフFw190」約30機が、2隻の戦艦を襲撃。
この攻撃で巡洋戦艦 《レパルス》が舵に損傷を受け、戦艦 《プリンス・オブ・ウェールズ》も魚雷と爆弾を1発ずつ被弾。
当たり所が悪かったため、速力低下ばかりか戦闘力までも低下させる。
しかも《レパルス》の被弾によりイギリス側の連携と包囲作戦は完全に崩れ、イギリス海軍別働隊はドイツ海軍主力の猛攻撃を受けることになる。
空襲の時点で既に距離が詰まっていた両者は、ドイツ軍艦載機の誘導によって急速に接近。
空襲から約1時間後には、砲火を交えることになる。
この時点でイギリス側は退避を開始していたが、既に傷ついていた事とドイツ軍機の妨害のため、逃げるに逃げられなかった。
このため視認できるほどの距離となった時点で、イギリス側も砲撃戦を決意。
互いに有利な位置を占めるべく運動を続け、遂に砲火を交えることになる。
「ビスマルク追撃戦」以来のドイツ、イギリス両国の最新鋭戦艦同士、「宰相」と「皇太子」により二度目の砲撃戦であり、両国にとってそれぞれの理由での復讐戦だった。
このため、両国艦隊の戦意は非常に高かったと言われている。
だがこの時、ドイツ海軍の戦力が優位であり、増援を期待したイギリス側の戦闘は成り立たなかった。
会敵から約30分間の砲撃戦の末、イギリスの巡洋戦艦はまたも弾薬庫を打ち抜かれて爆沈し、重装甲の《プリンス・オブ・ウェールズ》はドイツ艦隊から袋叩きとなった。
イギリス側の最終的な損害は、戦艦1隻、巡洋戦艦1隻、駆逐艦3隻。
これに対してドイツ側に大型艦には中破以上の損害はなく、艦隊を撃滅したと判断したので船団追撃へと移った。
完全に雪辱を果たした形といえるだろう。
なおこの時、ドイツ艦隊はイギリス本国艦隊本隊を探すべきだという後世の意見が多いが、洋上での正確な情報の少ないドイツ側としては無為に時間を過ごすよりは正解だったと言えるだろう。
それにドイツ艦艇も無傷ではなく、相手にも空母があることを考えると、戦闘が発生しても不利を強いられた可能性が高いと言われることが多い。
そして「PQ-17」船団の末路だが、海と空、さらには海中からのドイツ軍の総攻撃により既に恐慌状態なところに、イギリス本国艦隊の敗北により焦った連合軍側が全滅を避けるため船団の解散を命令。
既に護衛艦隊とドイツ海軍別働隊の戦闘が始まっている事もあって、船団は散り散りとなった。
そこに潜水艦、航空機が襲いかかる。
その後の戦闘はあしかけ一週間にわたって行われ、多数の船舶が餌食となった。
水上艦もその後戦果を挙げているので、全てを合わせると船団の約八割、27隻もの大型優良船が沈められた事になる。
そしてイギリスは、船団のみならず艦艇も大損害を受けたため、以後援ソ船団派遣の無期延期を宣言。
戦術的にも戦略的にもドイツの圧倒的勝利に終わる。
久々のドイツ艦艇による敵戦艦撃沈に、ヒトラーも大いに満足したと言われる。
しかしこの戦闘は大戦略の面で、大きな変化をもたらしてしまう。
ドイツ軍が沈めた船のうち三分の一ほどがアメリカ船籍の船で、アメリカ人多数が乗り込んでいた。
しかも船団を守る戦闘において、本来なら既に船団を離れている筈のアメリカ海軍駆逐艦がギリギリまで随伴を続けていたため、ドイツ軍は誤ってこれを攻撃。
結果、アメリカ海軍駆逐艦1隻を沈めてしまう。
その様子は、沈められた駆逐艦によって救われた商船や離脱に成功した他の駆逐艦など多くが目撃しており、そのうち民間から出た話が世界中に知れ渡ることになる。
そして公称「スピッツベルゲン沖海戦」とされた戦闘は、アメリカ人の戦闘意欲に火をともしてしまう。
8隻の商船に乗っていた約400名の船員。
旧式駆逐艦の《ノア》の乗組員150名、合わせて550名という先の世界大戦以来の犠牲を一度に出すことになったからだ。
これまでにも、ドイツ軍のUボートに沈められた船舶や戦闘艦艇も既に出ていたが、どれも単船の場合だったので犠牲者の数は限られており、アメリカ政府が望んだほどの戦意昂揚には役立たなかった。
このためアメリカは、国内世論を原因としてドイツへ戦争を仕掛けられないでいた。
しかしこの時は、流石にアメリカ市民達も怒りを露わにした。
特にこの戦闘が、アメリカ独立記念日である7月4日前後に起きたことが、アメリカ人の怒りを増幅させることになった。
船乗りが民間人の資格で乗っていた事も、危地に赴かせたアメリカ政府ではなく非戦闘員を攻撃したドイツへの怒りを増幅させた。
明らかな戦争行為をしたアメリカが悪いことは、誰も問題にしなかった。
世界征服を企むならず者国家のドイツとその一党に対する戦争を叫ぶ声は、一気に非常に大きなものとなった。
アメリカ議会の積極参戦派議員達は、ルーズベルトに即時開戦を迫った。
大衆新聞に煽られた市民も多くがドイツに対する宣戦布告を肯定し、大都市を中心にデモや運動が行われた。
連邦議会も、一斉に参戦へと動き、議案を提出した。
その動きは、もはや誰も止められなかった。
戦争準備が不十分と考えていた人々は色々と工作を実施したが、それすらが一部露見して糾弾され、今こそアメリカが立つべきだという世論が急速に形成された。
今まで溜まり溜まっていたものが、一気に吹き出した形だった。
かくして議会と世論に押されたルーズベルトは、予想よりも早い段階で議会にアメリカ参戦の是非を問うことになる。
7月18日に行われた議決は、賛成多数。
ここにアメリカ合衆国は、ドイツを始めとする枢軸諸国に対する宣戦布告するに至る。
しかしこの時、アメリカ政府とアメリカ軍は少し焦っていた。
確かに参戦の準備は進めていたが同年秋を予定で、軍自体は多くが準戦時とはいえ平時状態で、即時参戦できる状態ではなかったからだ。
しかも、自分たちから能動的な行動を取る準備を何もしていなかった。
これでは途中参戦の旨味を何ら活用できないことを意味していた。
だが、参戦そのものは政治的に見て千載一遇のチャンスであり、先の大戦同様にじっくり腰を据えて敵を押し潰していくという方針が採用され、短期間での参戦ともなっている。
しかし参戦相手にも問題があった。
ルーズベルト大統領を始めアメリカ中枢部は、規定路線としては日本を挑発して1942年秋頃の参戦を目標としていた。
それでも主戦線はヨーロッパと規定していたので、いわゆる裏口参戦を狙っていた事になる。
しかし戦争は、図らずもヨーロッパ正面から始まり、ドイツに対する宣戦布告をアメリカ国民が是とした。
この場合、ドイツ以外の枢軸国並びに枢軸各国の同盟国をどう扱うのかが問題となった。
市民の多くは、依然としてアジアの事には無関心で、日本の事はほとんど視界の外にあった。
あまり目立たないイタリアも、正直どっちでもよい相手でしかなかった。
他についても同様だった。
戦争を始め、フランスを倒し、イギリスとロシア(ソ連)を追いつめ、ヨーロッパを支配しようとしているナチスドイツこそが、アメリカの敵だというのが主な論調だった。
しかし日本は、既にアジア全土を支配しつつあり、白人の土地であるオーストラリアも蹂躙していた。
イギリスの衰退も、日本の参戦と攻撃がなければなかったという考えは、アメリカ市民の間にも広がりつつあった。
少し前の日本は、チャイナも徹底的に叩いていた事を市民達も忘れていなかった。
このため議案に出されたのは、ドイツを始めとする枢軸国全てに対する宣戦布告であり、7月20日に行われたアメリカ合衆国の宣戦布告もそのように行われた。
それ以外の国、日本などが解放して勝手に独立宣言した国はあえて無視されたが、これで世界を完全に二色に分けた戦争が完全な形に整う事になる。
アメリカ人が望んだ、「世界を二分した正義と悪の戦争」の図式が出来上がったわけだ。
無論正義とは、追いつめられた友邦を助ける自分たちの事だ。
もっとも、アメリカの参戦したその日は、ほとんどの戦線は静かなものだった。
アメリカは枢軸諸国とほとんど接しておらず、枢軸各国もアメリカを攻撃する準備は、計画が若干ある程度で殆どしていなかった。
だが、フィリピン諸島、サモア諸島だけは例外だった。
どちらも日本の領土もしくは占領地と接しており、アメリカを警戒する日本軍も可能な限り配備されていたからだ。
アメリカ軍も、二カ所の植民地には日本軍が激発しない程度の軍備を置いていたが、その戦力は日本軍にとっても無視できないものだった。
中でも「B-17」重爆撃機は日本にとって脅威で、日本軍は各地に防空戦闘機を配備し、高射砲陣地を築いていた。
フィリピン近海を通る船舶も可能な限り護衛が付けられ、尚かつ可能な限りフィリピンから離れて航行していた。
日本軍の護衛艦艇や対潜哨戒機によるアメリカ軍と思われる潜水艦の発見や接近、さらには警告行動も、1941年半ば以後は日常であり、日米両軍は緊張した時間を過ごし続けていた。
しかし戦争は呆気なく始まり、号砲が鳴らされることになる。
アメリカ議会での、参戦したのに何もしないのは良くないという論法で、とにかく攻撃できる戦力で攻撃できる場所を攻め立てる事になった。
ターゲットは、日本領の台湾南部と日本軍占領下のフィジー諸島。
他にも出撃中の全ての潜水艦には、枢軸各国に対する無制限潜水艦作戦が命令され、主に大西洋上ではドイツ潜水艦に対する攻撃が命令された。
この結果は、アメリカにとって好ましいかどうかは微妙だった。
無制限潜水艦作戦の結果が出るのはまだ先だった。
ドイツ潜水艦に対する攻撃は、これまでドイツ側がまともに反撃したことがないため未知数だったし、成果が出ているかどうかは判りにくかった。
これに対して敵地に対する空襲は、判りやすい結果をもたらした。
フィリピンからは2個大隊、サモアからは1個大隊の「B-17」重爆撃機が出撃し、監視船、電探などでアメリカ軍の動きを捉えた日本軍が、各地で迎撃戦を実施。
この爆撃も、とにかく開戦初日に何か目に見える攻撃を行わなくてはならないとして、アメリカ政府が強引に決定したもので、戦後アメリカ国内からですら愚行として語られることになる。
日本軍を舐めきっていたアメリカ軍の「B-17」編隊は中高度で進撃し、日本軍迎撃戦闘機の「鍾馗」「雷電」など多数に迎撃されて大打撃を受けた。
爆撃した部隊には、途中までしか護衛の戦闘機が伴えなかったため撃墜は半数以上にも上り、アメリカ軍は戦争初日で500名以上の戦死者を出す事になる。
しかしアメリカ軍の爆撃も一部成功を収め、その爆撃の一部はそれぞれの市街地や居住区を爆撃。
日本人と日本軍占領下の人々に、アメリカ軍に対する敵意を植え付けてしまう事になる。
日本人としては、アメリカの日本に対する宣戦布告と開戦初日の無差別爆撃は、余りにも理不尽なものだったからだ。
このため、「卑怯な米国」、「高雄を忘れるな」という言葉が、日本人の間で広がることになる。
しかもアメリカが日本に宣戦布告した時、戦争全体で見た場合時期をいささか逸していた。
日本軍事力の総力を挙げたインド洋での作戦は、既に終末段階だった。
主に中規模の艦隊と小規模な上陸部隊が、インド洋南部、西部の島嶼を攻略したり、ヴィシー・フランス政府支配下にあるマダガスカル島の一部に基地を設営しているような状況だった。
当然、それまでインドもしくはインド洋に展開していた100万を越える大軍は、日本へと戻り始めていた。
中には満州の奥地や南洋に再配置されているものもあり、さらに中東に進む部隊もあった。
海軍も主な艦艇は多くが日本本土に戻って、整備と補修、余裕のあるものは休養に入っていた。
太平洋各所への再配置の動きすら出ていた。
また南洋の一部では、工兵部隊が重要島嶼での航空基地の設営や要塞化工事も開始しており、アメリカを太平洋に出さないための努力が本格化しつつあった。
しかもアメリカに日本への宣戦布告を躊躇させるための部隊配備も進みつつあり、台湾とフィジーへの空襲はそうした状況が進みつつある時に起きていた。
そうした時期にアメリカ参戦の動きが急に具体化したため、日本本土帰投が間に合わない艦隊のために、日本本土から補給と補充のための船団が盛大な護衛艦隊と共に出発。
シンガポールには、戦艦が入渠できる浮きドック複数が持ち込まれたりもした。
対するこの時期のアメリカ軍だが、分りやすくするため海軍について少し見てみたい。
当時アメリカ海軍は、太平洋艦隊、大西洋艦隊、アジア艦隊と三つの艦隊に分けられていた。
うちアジア艦隊は、巡洋艦を中心とした小規模艦隊と潜水艦しか有していないので、主力は太平洋艦隊と大西洋艦隊になる。
このうち最も強力なのは太平洋艦隊で、主要艦艇のおよそ6割が集中されていた。
開戦時のアメリカ海軍全体の主要艦艇数は、戦艦24隻、各種空母8隻、重巡洋艦27隻などとなる。
そして戦時建造艦艇と呼ぶべきヴィンソン計画、両用艦隊法の艦艇が、続々と就役しつつあった。
そうした主要艦艇についてだが、アメリカ西海岸のシアトル、サンフランシスコ、サンディエゴにいた主要艦艇は以下のようになる。
戦艦:(11隻)
新鋭戦艦
《サウスダコタ》《インディアナ》《アラバマ》《マサチューセッツ》
《ノースカロライナ》《ワシントン》
旧式戦艦
《ウェストヴァージニア》《メリーランド》《コロラド》
《カリフォルニア》《テネシー》
空母:(4隻・艦載機約300機)
《レキシントン》《サラトガ》
《エンタープライズ》《ホーネット》
重巡洋艦:14隻 軽巡洋艦:4隻 他、3個水雷戦隊 など
一方で大西洋艦隊に配備されているのは、旧式戦艦 《ニューメキシコ》《ミシシッピ》《アイダホ》《ニューヨーク》《テキサス》と、最も旧式な12インチ砲戦艦 《アーカンソー》《ワイオミング》《フロリダ》《ユタ》の合わせて戦艦が9隻、空母は《ヨークタウン》《ワスプ》《レンジャー》の3隻、その他各地に散っている重巡8隻となる。
フィリピンにも、既に重巡2隻が展開していた。
つまり万が一太平洋艦隊が壊滅した場合、アメリカは数年間艦艇が大いに不足することを現していた。
また、南太平洋の米領サモア諸島には、現地日本軍を牽制するため、旧式戦艦 《ネヴァダ》《オクラホマ》《ペンシルヴァニア》《アリゾナ》と護衛空母 《ラングレー》、ほか重巡3隻を中心とする補助的な艦隊が既に配備されていた。
同艦隊は、オーストラリアのシドニーを主な根城とする日本軍の旧式戦艦部隊と、半年ほど前から静かな睨み合いをしていた。
アメリカとしては日本挑発の一環だったが、日本側は予防的措置以上には反応しなかった。
日本がオーストラリアに旧式戦艦を置いているのも、アメリカに対抗するためというよりは、オーストラリア住民に睨みを利かせるためだった。
そして合わせて15隻の戦艦が太平洋艦隊に属していた事になるが、この当時日本海軍は20隻の戦艦を実戦投入しており、もし全力で戦闘を行った場合は個艦でも優越する日本が圧倒的に優位だった。
しかも高速空母の戦力では、この当時の日本海軍は他国に懸絶していた。
戦闘の結果は戦う前から判っていると、少なくとも日本海軍側は判断していた。
そしてある程度の情報をアメリカも持っている筈なので、安易に参戦してこないだろうと常識的に考えていた。
だからこそ、インド洋で暴れ回ったのだ。
なお上記したアメリカ海軍の新鋭戦艦のうち2隻は、工期と就役を早めて就役しており、アメリカ海軍の日本に対する焦りが見えている。
重巡洋艦についても、アメリカ海軍の総数が27隻なので半数以上が太平洋艦隊に所属しており、日本海軍への対抗を見て取ることができる。
給油船も当時アメリカが有していた4隻全てが太平洋艦隊に属し、民間から徴用した優秀船舶8隻が慌てて海軍に配備されつつあった。
対する日本軍だが、この頃の日本海軍は、対イギリス戦争を決めた頃に予算通過した一大艦隊計画が姿を現そうとしている時期であり、航空部隊もアメリカに比べると非常に充実していた。
さらに日本政府は、1940年秋にイギリスとの戦争を決めると、最悪ヨーロッパにまでイギリスを追いつめて進軍しなければならない事を想定して、長期戦を前提とした艦隊計画を立案していた。
また約一年前には、第二次世界大戦勃発に対応して、臨時の海軍拡張も実施している。
概要を記すと以下のようになる。
・1939年度緊急計画(同年11月に成立)
護衛駆逐艦:36隻 (1400トンクラス)
護衛艦(海防艦):60隻 (800トンクラス)
呂号潜水艦:36隻 (1000トンクラス)
他多数
・1940年度計画(「改第五次補充計画」・同年12月に成立)
改大鳳級航空母艦:6隻
《龍鳳》《天城》《葛城》《笠置》《阿蘇》《生駒》
昇龍級航空母艦:12隻
《昇龍》《天龍》《瑞龍》《大龍》《海龍》《蛟龍》
《辰龍》《播龍》《白龍》《紅龍》《黒龍》《水龍》
改大鷹級航空母艦:(戦標船改装空母):10隻
《飛鷹》《隼鷹》《海鷹》《神鷹》《瑞鷹》
《天鷹》《翔鷹》《影鷹》《熊鷹》《綾鷹》
東海道級航空母艦:(※初期計画では52隻。その後さらに追加)
黒部級軽巡洋艦:20隻
松級駆逐艦:120隻 海防艦:248隻
伊号潜水艦:78隻 呂号潜水艦:158隻
他多数
水上機母艦の空母への改装(※1942年以後に遅延)
《千歳》《千代田》《日進》《瑞穂》《高千穂》《浪速》
・1942年度計画(第六次補充計画)
超巨大戦艦4隻、大型装甲空母4隻 他多数
※対アメリカ戦を念頭とした大規模海軍拡張計画。
以上、一大建艦計画であるが、一つの特徴がある。
39年、40年共に空母の建造数こそ多いが、戦艦や大型の巡洋艦の建造が含まれていない点だ。
これは脆弱な空母の消耗が大きいという事前の予測があった事と、イギリスに対する長距離、長期間の侵攻のためには侵攻する先での制空権が必要で、そのために多数の空母を揃える事が有効だと考えられたからだ。
護衛空母に始まる大量の護衛艦艇と、通商破壊戦に必要な潜水艦が無数に含まれているのは、当然の選択だった。
少しだけ詳細を見て、次に進もう。
《改大鳳級》空母は、その名の通り《大鳳級》空母の改良型となる主力空母だった。
しかし航空機の発展に対応するため2割近くも大きな船体を持ち、排水量も大きくなっている。
その他対空兵装の強化など、様々な改良点も見られている。
それとは逆に、簡易化できる箇所は徹底した簡易化が行われ、見た目の重厚さに反して直線の目立つ姿となっている。
大きさの割に工期も短い。
全長293メートル、基準排水量4万2000トンという当時の空母としては破格の巨体で、建造日数削減を目指し《大鳳級》空母を進水させた造船所を優先的に選んでの建造が行われている。
1944年に入ると、ほぼ隔月の間隔で連続して就役する予定だった。
名称がややちぐはぐなのは、《龍鳳》がもともと《大鳳級》の追加建造案として先に計画が進んでいた事が原因していた。
《龍鳳》の設計も先に進められているため、《大鳳級》と似ている点も多い。
このため《龍鳳》を別扱いして、同級は《天城級》と呼ばれることもある。
《昇龍級》航空母艦は、戦時量産型空母となる。
1937年度、39年度の計画の中で、素案として練られた戦時量産型空母の「G18型」を原型としている。
「G18型」航空母艦は、徹底した簡易構造、ブロック工法採用、3交代24時間建造により、約10ヶ月以内での建造を目標とした超簡易型の戦時建造型航空母艦の「素案」または「研究案」だった。
しかし当時の小型機を想定した船体規模のため、基準排水量が1万5500トンと小さかった。
また工期短縮のためエレベータも1基しかないなど、実際の使用の際の不便が指摘された。
速力も30ノットと高速空母としては控え目で、対空火力も当時の標準程度でしかなかった。
それを実用レベルで改訂したのが、《昇龍級》航空母艦になる。
《昇龍級》航空母艦は、主に《飛龍級》航空母艦など既存空母の構造や概念も取り入れて設計し直されたもので、基準排水量1万7500トンの中型空母だった。
艦形の大型化、昇降機2基、対空砲の大幅増強、油圧カタパルト、電子装備の充実などの改訂点を加え、工期は最短約15ヶ月、標準だと約1年半で完成予定だった。
そして戦争序盤から中盤の消耗に備えるため建造が急がれ、計画が決まるが早いか相次いで建造が開始されていた。
1942年中頃には、建造が先行した2隻が既に就役を始めていた。
《改大鷹級》航空母艦は、39年度計画で建造された《大鷹級》空母の改良型だが、どちらかと言えば簡易建造型の低速軽空母となる。
「4TL型」と呼ばれる戦時標準船の1万トン級高速大型タンカーを船体として使用しており、船団護衛に必要な空母の最低限の能力のみを搭載した仕様で固められていた。
《東海道級》航空母艦も《改大鷹級》航空母艦と同様だが、《改大鷹級》空母がそれなりに「贅沢な」装備や構造を持っていたが、それを徹底的に排除したものになる。
建造費用、工期も前級より短く、建造に慣れた造船所での一括大量建造が予定されていた。
なお《東海道級》の本来の名称は《日本橋級》だが、各艦の名が東海道五十三次から取られているため、誰もが《東海道級》と呼んだのでこの名称を用いている。
《黒部級》巡洋艦も、戦時量産型艦艇だった。
基本的に《大淀級》巡洋艦を利用した《阿賀野級》巡洋艦に近い能力を与えられている。
しかし船体を改設計して若干大型化した上でより簡易構造が採用され、また対空装備が大幅に増強されているのが特徴となる。
やや小振りで戦闘力も少し低いが、アメリカ海軍の《クリーブランド級》軽巡洋艦に相当する艦艇になる。
基準排水量も9000トンを越える。
《松級》駆逐艦は、戦時建造型の量産駆逐艦で、先に建造が始まっていたものの改良型となる。
基準排水量1500トンのブロック構造の簡素な船体に、必要十分の対水上、対空、そして対潜水艦装備を載せられるだけ載せたものになる。
最高速力32ノットながら、安定した機関を搭載しているために速度性能はよく、航続距離もあるため機動部隊の随伴も可能となっている。
護衛駆逐艦と言うよりは、戦時建造の簡易駆逐艦だった。
このため主砲も、5インチ砲4門ながら速射性能の高い簡易砲塔型とされていた。
同級は、その後改良発展型がさらに多数建造されている。
建造に際しては、とにかく消耗が予測される駆逐艦だけに、数と建造日数に注意した仕様で固められていた。
しかし、見た目がゴツゴツした直線ばかりの味気ない姿のため、一部将兵からの評判は悪かった。
同クラスは最短2ヶ月程度で建造出来るため、戦争から一年もすると大量に姿を見せるようになっていた。
そして《松級》駆逐艦以上に量産されていたのが、より小型の海防艦だった。
外洋での対潜水艦戦に特化した、あえて低性能化された艦艇で、それに必要十分の対空戦闘能力を与えたに過ぎなかった。
戦争に際して、イギリスもドイツのような潜水艦戦で日本の進撃の邪魔をしてくると考えられたため、数でそれを押しつぶすべく建造計画が練られたものだ。
そして護衛専門には、海防艦が充てられることになり、こちらも若干排水量を増して航続距離や装備を充実させ、より広範な任務に対応できる仕様となっていた。
潜水艦は、一部の大型潜水艦を除けば、その殆どがドイツの建造技術を大幅に採用した通商破壊用艦艇だった。
しかし潜水艦の中には、補給用、機雷敷設用、そして日本海軍が好む大型で小型水上機を搭載したものなど、ドイツや後のアメリカほど種類の絞り込みに徹底してはいなかった。
1942年度計画では、巨大な「潜水空母」の計画すら動いていたほどだ。
最後に記した「水上機母艦の空母への改装」は、もともと空母予備艦として建造されていた艦を、本来の姿へと変えるためのもので、半年程度の改装で高速軽空母へと変身するというものだった。
ただしインド洋の戦いで意外に必要とされたため、1942年に入ってもまだ2隻しか改装に着手はしていなかった。
なお、「1942年度計画(第六次補充計画)」は参考までに記しただけなので、ここでは割愛したいと思う。
また上記した計画表には書かれていないが、多数の支援艦艇の建造計画が盛り込まれており、日本海軍が外洋海軍としてイギリス戦に挑むための計画だったことがよく分かる。
そして戦争から一年も経過すると、39年度計画を飛び越すように簡易建造艦艇が続々と就役を始め、大量に徴兵された兵士達によって運用されるようになっていた。
日本本土近辺は、そうした出来たばかりの艦艇やそれらを束ねた戦隊が犇めいている状況だった。




