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遙かなる坂の上 〜日本帝国繁盛記〜  作者: 扶桑かつみ


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フェイズ33「欧州1941年下半期」

 日本がインドを制圧し、中東へとさらに進撃しようとしている間、世界情勢は大きく動いていた。

 

 日本がインドに攻め込む少し前、ドイツがソ連との全面戦争を始め、アメリカが参戦に向けたステップアップを進めていた。

 しかしイギリスは、依然として叩かれ続けていた。

 


 日本のインド侵攻によりイギリス軍は大打撃を受け、インドを喪失したことで戦争経済上でも大打撃を受けた。

 またインドを巡る戦いで、300万トン以上の船舶と25万トン以上の艦艇を失っているため、イギリスの海洋覇権能力は大きく低下した。

 しかも1941年は、ドイツが年間 280万トンもの船舶被害をイギリスに与えていた。

 累計での損害も590万トンに達する。

 これにドイツと日本が今までに与えた損害を加えると、総量900万トンになる。

 2100万トンで開戦したイギリスの1942年始めの船舶保有量は、アメリカからの貸与を含めても1500万トンを切っていた。

 加えてドイツなどは、1942年には毎月平均30万トンの損害すら与えている。

 同年、日本がイギリスに与える船舶の損害は激減したが、これはインド洋や中東などで運行されるイギリス船舶が激減したからだった。

 それでも最初の半年はインドでの戦いが継続されていたので大きく、最初の半年だけで月平均15万トンの損害を与えていた。

 

 そうしてイギリスは、船舶量に見るように急速に萎んでいた。

 インド防衛を優先したため、地中海では辛うじて航路を維持するのが精一杯で、こちらでもドイツ、イタリアの海空軍の前に大損害を受けていた。

 

 またインド防衛の為に、イギリス本土防衛やドイツへの戦略爆撃に回すべき戦力のかなりをインドへと注いだ。

 だがインドへ注がれたうちの三割は確実に海底へと直行しているので、イギリスが望んだほどの防衛力をインドに与えることが出来なかった。

 しかも船舶、護衛艦艇が時間と共にすり減っていったので、インドに注ぎ込める戦力は時間と共に減少した。

 そして足りない戦力のまま戦い続けたイギリス・インド軍は、優勢な戦力を有する日本軍に次々に撃破されていった。

 インド戦中盤以後になると完全な逐次投入に陥り、半ば感情的にインドに固執しすぎたためイギリスが受けた傷は非常に大きなものとなったのだ。

 

 総数3000機の航空機、1500両の戦車、10万のイギリス本国兵など、初期の航空撃滅戦から足かけ一年続いたインドでの戦いで失われた戦力と物資は莫大なものとなった。

 しかも日本軍に与えた損害は、海に沈んだものを含めてもイギリス軍の失ったものの十分の一程度でしかなかった。

 戦力を常にまとめて突っ込み優位に立ちながら戦う者と、そうでない者の差がくっきりと現れた形だった。

 まさに、ランチェスター・モデル通りだった。

 

 そしてインドに多くを注ぎ込み過ぎたイギリスは、中東と北アフリカを防衛する力を無くしていた。

 

 そうした状況は、早くも1941年5月に現れる。

 


 僅かな数の機械化部隊のみだったドイツ・アフリカ軍団(DAK)が、ロンメル将軍の巧みで大胆の戦術によって、兵力、物資の不足するイギリス軍を粉砕し、一気にエジプト領内へとなだれ込んだ。

 

 これで危機感を覚えたイギリスは、自らの地中海航路の維持と相手海上交通路の破壊を目的として、マルタ島の増援を強化しようとした。

 しかしマルタ島はイタリアのシチリア島に近く、輸送船でゆっくりと航空機を運んでいる余裕がなかった。

 かといって、飛行機を運ぶのに適した空母の数は既に限られていた。

 どうしても増援は中途半端となり、増援する度に輸送船団は大打撃を受け、せっかく補給をしたマルタ島の戦力は破壊された。

 しかもイギリスは、インド防衛を最優先しなければならなかった。

 

 このため枢軸側は比較的順調に北アフリカへの補給を行い、それは5月の戦いでトブルクを落とした事で強化された。

 しかもトブルクを新たな策源地としたDAKは、敗走するイギリス軍を追ってそのままエジプト領内深くに入り、イギリスは複雑な地形を持つエルアラメインという場所でようやく踏みとどまった。

 しかし、そこを突破されてしまうとエジプト最大の港湾都市アレキサンドリアはすぐ先で、さらにエジプトの中心都市カイロを守るべき場所はもうなかった。

 その先にあるスエズ運河も、守りに有利な場所などなかった。

 エルアラメインとそこを守る弱体化した兵力を失った時点で、地中海東部とエジプト全土、そしてスエズ運河を失うことを意味していた。

 

 そして10月中頃、日本のインドでの攻勢に呼応したDAKは自らの攻勢を開始し、1個機械化師団と南アフリカ師団1個など合わせて5万人に減少していたイギリス軍に挑んだ。

 

 ロンメル将軍による機甲部隊(装甲師団)の2個師団を中心にした迂回突破作戦は成功し、イギリス軍は包囲されることを恐れてエルアラメイン放棄を決断。

 その撤退の最中にドイツ軍の追撃を受け、撤退から敗走へと姿を変えつつアレキサンドリア方面へと撤退していった。

 

 この戦いでイギリス軍には、地雷、対戦車砲など戦車に対抗する兵器が、ことごとく不足していた。

 インドに投じられた増援や物資のうちの3分の1でもあれば、戦況は全く違っていただろうと言われている。

 だが北アフリカのイギリス軍には兵力も兵器もなく、勝ちに乗じるロンメル軍団を止める手だてがなかった。

 ロンメル将軍は、一部軍事研究者から戦略面での不足を指摘されるが、間違いなく戦術の天才だった。

 

 ドイツ軍は、半月ごとにアレキサンドリア、カイロ、スエズ運河の入り口ポートサイド、スエズと陥落していった。

 そしてロンメル将軍は、ドイツ軍史上最年少の元帥となる。

 


 1941年内には、イギリスはスエズ運河が使えなくなった。

 地中海東部の制海権、制空権もほぼ完全に失われた。

 地中海航路でインドに抜けられなくなった以上、マルタ島の軍事力を無理して支える必要性の半分もなくなった。

 

 しかしイギリスもタダでは下がらず、各港と運河にはばらまけるだけの機雷をばらまき、そこら中に船を沈めていった。

 スエズ運河には、最も船が引き上げにくい場所を選んで、比重の重い軍艦や大型船を沈めていった。

 このため、ドイツ軍がスエズ運河を短期間のうちに使うことはできなかった。

 それ以前の問題として、スエズ運河自体が大きな河のようなものであり、イギリス軍は運河の東側に下がっただけで駆逐出来ていなかったので、スエズ運河の「掃除」もすぐにはかかれなかった。

 

 しかしドイツ軍は、新たな物資がアレキサンドリアに到着して戦力を再編成した1942年2月になると攻勢を再開。

 第二航空艦隊の支援のもとでスエズを渡り、中東への進撃を開始する。

 

 そこは親ドイツ的なヴィシー・フランス政府に従う総督府が多く、イラクにはクーデターで成立した親ドイツ政権が頑張っていた。

 イギリス軍の姿はほとんどなく、ペルシャ湾口のペルシャのアバダン油田を守る部隊以外は、殆どがインド戦線に投入され日本軍と戦っていた。

 

 そしてペルシャ湾に逼塞していたイギリスなど連合軍の船舶の多くが自沈を選ばざるを得ず、一部が日本軍のペルシャ湾の封鎖線突破を試みるも、その8割以上が失敗に終わり、損害ばかりが目立つ結果となった。

 

 維持が不可能となったアバダン油田は可能な限り破壊されたが、時間と爆薬などの不足から徹底しなかった。

 しかも日本は自力で多数の油田を持っていたし、ドイツはバクー油田を開発した事からも分かるように、相応の技術を持ち合わせていた。

 このため枢軸軍は、現地で使う程度の石油は三ヶ月程度で確保するようになり、その後産油量も順調に回復していく事になる。

 

 なお、最終的に中東のほぼ全域が陥落するのは1942年5月で、インド方面から攻略船団を仕立てた日本軍がペルシャ湾岸に乗り込んで来たことで、ドイツ軍と日本軍は最初の堅い握手に成功している。

 

 さらに数ヶ月後には、ソコトラ島、アデンなどを落とした日本が紅海にも入ったので、ここに枢軸陣営によるユーラシア・リングが完成するに至る。

 

 一方、同時期のロシアでは激しい戦いが続いていた。

 


 1941年6月15日に始まったドイツ軍を中心としたソ連との全面戦争は、当初はドイツ軍の圧倒的優位で進展した。

 

 ソ連の最高指導者であるヨシフ・スターリン書記長が、ドイツが先に仕掛けてくる事はあり得ないと盲信していたからだとも言われているが、少なくともソ連赤軍の初期の動きが鈍かったことは確かである。

 そして大粛清の影響がいまだ色濃く残っていたため、赤軍の能力は数年前とは比べものにならないぐらい低下していた。

 7月9日にはドイツ軍先鋒がスモレンスクに達し、9月23日にキエフ方面での大包囲作戦が終了すると、9月25日にモスクワ攻略のための「タイフーン作戦」が発動される。

 

 この間日本が関わったソ連情勢は、軍事よりも外交においてだった。

 

 日本とソ連の間には通常の国家関係しかなく、満州帝国近辺の国境問題を主な原因として、国家関係は良好とは言い難い状態が慢性的に続いていた。

 日ソの関係悪化は「独ソ不可侵条約」締結されて以後は最悪であり、満州国境、特にザバイカル=満州里方面で日ソ両軍が大軍を積み上げるチキンゲームを続けることになる。

 1941年6月15日時点で、ソ連軍は30個狙撃師団、12個戦車旅団を中心にして約100万の大兵力をシベリアとモンゴル僻地の大草原に展開していた。

 一方日本軍は、満州帝国が歩兵と騎兵を中心にして約50万、関東軍が自動車化以上の師団9個を中心に重武装の部隊ばかり約30万を展開していた。

 ほぼ同じ兵力であり、これは空軍力においても同じで、互いに約1000機の航空機を展開していた。

 満州帝国の中枢部では、日本からの輸入と自国生産の兵器や自動車を用いて、満州帝国初の機械化部隊の編成も進んでいた。

 

 そして大軍を積み上げた状態で、6月17日に満州帝国軍主導による大規模な国境紛争が発生し、両者の緊張は頂点に達した。

 しかも紛争は、モンゴルにも波及。

 満州帝国とモンゴル人民共和国が紛争状態に入るという、ソ連にとって無視したいが無視も出来ないという中途半端に厄介な状態へと陥った。

 

 この緊張状態のため、お互いにシベリアの僻地から大軍を動かすに動かせなくなり、日本はインド戦線に、ソ連はヨーロッパ戦線に影響を受けることになる。

 そしてより大きな影響を受けたのはソ連の方だった。

 

 極東の精鋭部隊を送り込めないため、ドイツ軍に撃破される一方のヨーロッパ方面が弱体化したからだ。

 それでもソ連軍は、対ドイツ戦開始から一週間も経たないうちから、極東の軍備を引き抜き始める。

 多くは中隊単位で、シベリアの精鋭を引き抜いては、中央アジアなど僻地で徴兵した数合わせの兵士を置いた。

 それでもシベリア兵3人に対して中央アジア兵2人程度の割合のため、シベリアの兵力は着実に減少していった。

 戦車、航空機、重砲などの装備も中隊単位で引き抜かれていき、9月を迎えた時点で総兵力70万、重装備(戦車、航空機、重砲)の量は、半分にまで低下する。

 

 しかし満州帝国軍による挑発、銃撃、散発的な越境砲撃、さらにはごく少数による空襲はその後も継続された。

 モンゴルとの紛争も激化した。

 これを日本政府は、満州帝国軍の一部不満分子と馬賊によるものだと説明した。

 現地関東軍がそう報告している以上、日本政府としてはどうにもならなかったので、取りあえず関東軍には一発でも撃てば厳罰に処すると命じるしかなかった。

 

 関東軍は命令を守ったのだが、満州帝国は一応独立国家であり、かなりが名目上ではあっても日本政府の命令ではなく満州帝国政府の統制下にあった。

 そして満州帝国政府には、日本政府から強い「要請」の形で国境線での戦闘行為の停止が依頼されたが、満州帝国政府も関東軍と同じ事を繰り返した。

 また、ごく限られた人数で刑も軽かったが、命令違反したものの処罰も行われた。

 

 満州帝国は火事場泥棒による国土拡大を考え、関東軍は謀略に近い形で日本とソ連を戦わせようとしているのは明らかだった。

 しかもこの頃、日本軍の一部と満州帝国軍の多くで千載一遇の機会だという声があがっていた。

 

 しかし当時の日本軍は全力を投入してのインド作戦の直前であり、日本政府も大本営も二正面作戦を行う気はなかった。

 

 日本がインドに進む事をイギリスなどからの情報でおぼろげながら掴んだソ連だったが、ソ連中枢はそれを信じなかった。

 信じるようになったのは日本軍が実際にインドに大挙侵攻した10月に入ってからで、同月半ばにようやくシベリア兵のヨーロッパ・ロシアへの本格的移動が決断される。

 

 しかし大軍の移動には時間がかかり、しかもシベリア鉄道一本でしか運べないため、シベリア兵の移動は遅れた。

 

 ソ連軍の移動がこれほど遅れたのは、米内政権の頃に大規模な共産主義スパイの摘発事件があり、ソ連が日本中枢からの情報収集手段を失っていた事が影響していた。

 


 そしてソ連赤軍のシベリアからの大挙移動は、間に合わなかった。

 もう二週間早ければ違っていたという説も多いし、一ヶ月早くても同じだったとも言われる事はある。

 一方では、ドイツの対ソ開戦がもう一週間か二週間遅ければと言う議論も多い。

 

 しかし全ては仮定の話であり、結果こそが全てだった。

 

 実質的には9月20日頃に開始されたドイツ軍によるモスクワを目指した大攻勢は、特に最初の二週間は各地で大きな成功を収めた。

 ドイツ軍による迅速な前進、ソ連軍の縦割りの命令系統、ソ連指導部の硬直性、ソ連兵の多くの士気低下、熟練兵を多数失った事によるソ連赤軍の作戦能力の低下、死守命令を連発するというスターリンの致命的誤断、その他様々な要素が重なり合った結果、ソ連軍はモスクワ全面を巡る戦いの序盤で、8個軍もの戦力をドイツ軍の包囲により呆気なく失ってしまう。

 これはキエフで失ったよりも大きい戦力であり、モスクワへの道は大きな風穴が空けられた状態となる。

 

 雨期(雪)と共にやって来る泥の海のため移動がどうしようもなくなる10月末までに、ドイツ軍はモスクワ南部の要衝ツーラ市を奪い、北部でもモスクワ運河を見るところまで前進する。

 これでモスクワは半包囲されたようなものだった。

 しかもこの間ソ連赤軍は、さらに2個軍を包囲降伏に追いやられていた。

 同方面のソ連赤軍は、この時までに攻勢前と比べて半減していた。

 

 そしてすっかり冬将軍が到着した11月6日、勝利に乗じるドイツ軍はモスクワ攻略の継続を決定。

 同12日に総攻撃を開始する。

 その日モスクワ前面は最低気温マイナス15度を記録し、翌日にはマイナス22度を記録した。

 その年は、雪が降り始めたのが早かったように、まれにみる厳冬だった。

 

 しかし泥将軍にすっかり足を奪われていたドイツ軍にとっては、最初の時期に限りという但し書きがつくが、冬将軍の方が歓迎すべきものだった。

 何しろこれで地面が固まり、進撃が再開できるのだ。

 


 そしてモスクワの南北の要所をすでに押さえていたドイツ軍に対して、ソ連赤軍は劣勢だった。

 既に10個軍を失っている上に、シベリア軍団の移動も遅れており、まだ一部しかモスクワ後方に到着していなかった。

 このため、予定していた3個軍のうち1個軍しか再編成できていなかった。

 

 それでも14個軍がモスクワを防衛する西方軍に属しており、うち半数強がモスクワの死守のために前線にあった。

 

 しかしソ連軍の最終防衛網が機能するよりも、ドイツ軍の進撃速度の方が早かった。

 11月23日、ソ連首脳部はモスクワからの疎開を決意。

 この事は数日間伏せられることになっていたが、瞬く間にソ連全軍に噂として広がり、全軍が動揺。

 大きな士気の低下にも見舞われ、ソ連軍全体が浮き足立ってしまった。

 

 この間隙を突いて11月26日にはドイツ軍の機甲突破が行われ、グデーリアン将軍率いる第二装甲軍は、北部を迂回突破していた第三、第四装甲軍との握手に成功する。

 これでモスクワはドイツ軍の包囲下になり、その中には7個軍近くのソ連赤軍が閉じこめられていた。

 しかもうち2個は総反撃用の部隊で、モスクワを守るために慌てて投入されたところを、そのまま何も出来ないで包囲下に置かれていた。

 

 その後一週間、モスクワを巡る激しい攻防戦が展開されるが、包囲下に置かれ補給と中央からの命令系統の絶たれたソ連軍は脆く、モスクワ西部で最初から戦っていた部隊から降伏が相次ぎ、遂に12月5日モスクワは陥落する。

 

 大きな破壊を免れたクレムリン宮殿にはハーケンクロイツが翻り、赤いロシアでの戦いは通過点の一つを過ぎることになる。

 

 その後ソ連赤軍による冬季反攻作戦が実施されたが、ソ連指導部と軍中枢、官僚団はクイビシェフへの疎開中の混乱のため的確な命令が出せなかった。

 しかしスターリンからの「断固たる反撃」の命令だけは出されていたため、各赤軍部隊はバラバラで突撃を繰り返してまったく無意味に戦力を消耗してしまう。

 

 一方モスクワを落とした事で補給線と拠点を確保し、防衛線の構築も楽になったドイツ軍だったが、それでも度重なる攻勢で兵力が激減しており、一時は危機的状況にも追い込まれた。

 包囲された都市や地域もあり、非常に厳しい状況だった。

 

 しかしヒトラーは死守命令を出し、モスクワ陥落時に将軍達を褒め称えたことを忘れたかのように叱責し、いかなる犠牲を払おうともモスクワを守るよう命令を発した。

 

 「死守命令」の効果については議論の余地があるが、とにかくモスクワはドイツ軍の手に握られ続け、政治、鉄道網の中心、一大生産拠点の全てを失ったソ連の冬季反抗は失敗した。

 

 モスクワ正面の反攻作戦に投入されたソ連赤軍14個軍のうち、三分の一は編成表から消え、三分の一は半壊し、まともなのは残り三分の一となった。

 この中には「親衛」や「突撃」の名を冠した精鋭部隊も数多く含まれていたが、正面から機関銃の弾幕に突っ込むような戦闘を行っては、精鋭だろうと新兵だろうとあまり関係はなかった。

 それは先の世界大戦の西部戦線初期によく見られた光景に似ていた。

 


 ロシア戦線全体も3月に冬が和らぎ泥の季節が来る頃に小康状態となり、ドイツ軍、ソ連軍共に次の夏の戦いの準備を本格的に進めるようになっていく。

 

 しかし冬の戦いは、ソ連にとってなお厳しいものとなった。

 

 無理な冬季攻勢で多くの戦力が失われ、多数の戦力は士気が低い状態のまま戦闘に入って、多くが無為に倒されていったからだ。

 それもこれも政治の中心であるモスクワが陥落したからで、中央集権的要素が強ければ強いほど、中心地の喪失は失点が大きかった。

 逆に、奪回に対する高い戦意があったという説もあるが、結果としてプラスよりマイナスの方が上回っていた事は明らかだった。

 

 また、ソ連指導部、ソ連軍中枢は2月頃に何とか正常な機能を回復したが、膨大な数の官僚団の機能回復については十分とは言えなかった。

 何しろモスクワ以外で首都足りうる官僚用の設備と事務区画が存在するのは、旧帝国時代の首都だったレニングラードぐらいしかなかった。

 地方都市のクイビシェフでは何もかも足りず、数多くの国営工場が臨時改造されて倉庫や仮の事務所とされたほどだった。

 また疎開の時に焼き払った資料、引っ越しの混乱でどこに行ったか分からない資料、資料内の情報に詳しい官僚の死亡など無数の困難と混乱が、官僚達の前に山積されていた。

 このため何をどう作り、どこに運び、どう運用するのか、などといった官僚的仕事は常に大きく遅れていた。

 これも冬季反攻を失敗に追いやった原因の一つであり、春になっても混乱は続いていた。

 

 そもそも急の首都疎開には無理があり、ソ連の総力戦遂行能力はソフトの面で大きく低下していた。

 モスクワ陥落以後のソ連は、ウクライナやモスクワなど多くの生産拠点を失ったことよりも、頭脳中枢が正常に機能しない事による国家の機能不全が目立つようになる。

 中央に多くの権力を集中しすぎた弊害とも言えるだろう。

 


 一方、1942年の春になる頃には、日本軍はいよいよインド全土の制圧を完了させ、4月には日本の大艦隊に支援された海兵隊1個旅団と陸軍1個師団が紅海の玄関口に近いソコトラ島に上陸。

 独特の自然を有する島にはイギリス軍の姿はほとんどなく、もはやイギリス海軍に止める力はなかった。

 

 そして翌月には、日本陸軍3個師団が大艦隊と共にペルシャ湾入りし、5月18日に湾奥のバスラでバグダッドから進んできたドイツ軍との握手に成功する。

 

 この結果イギリスは、東地中海から香港もしくはオセアニア地域に至る、殆ど全ての海外領土を失うことになる。

 東アジア、オセアニア、インド、ペルシャ、中東、エジプト、東地中海、全てイギリスが今まで自らの巨大な帝国を形成するために必要とされたパーツであり、その失点は極めて大きかった。

 

 実際、1941年春頃からイギリス本土の守りは手薄になっていた。

 多くの戦力、兵器をインドもしくはオセアニア地域へと注ごうとしたからだ。

 しかしオセアニアは呆気なく降伏し、インドも日本軍の上陸から半年も持たなかった。

 

 その間多くの戦力と船舶が失われ、もはやパックス・ブリタニカは遠い過去の出来事となっていた。

 そしてイギリスの圧力が減ったため、ドイツは心おきなくソ連との戦争にのめり込むことが出来た。

 

 1942年春頃にイギリス本土での戦力が再び上昇を始めたが、これはインド、中東、東地中海などへの兵器や兵力の供給が不要になったからだった。

 にもかかわらずイギリス軍の本土での増強は程度問題で、これはイギリス本土に流れ込む物資の量が大きく減少している事を現していた。

 平均して平時の6割程度だった1940年と違い、1941年は4割程度しかイギリス本土に必要な物資が供給されていなかった。

 食料も、都市部では完全な配給状態で、各家庭の庭先はジャガイモ畑へと姿を変えていた。

 食用の穀物が足りないため、国内での造酒を規制したりもした。

 家畜の多くも、穀物の浪費を押さえるために殺して肉とされた。

 

 この頃の船舶量は総量1500万トンで、ブリテン島を維持するのに必要な最低限を辛うじて維持していたが、大量の優良船舶、大型船を失っているため実状は悪く、戦争の影響による効率の大幅な低下があるため、それが数字になって表れた形だった。

 

 このためイギリスは、アメリカで建造される船を片っ端から購入もしくはレンドリースしてもらっていたが、いまだ平時生産の枠内に止まっているアメリカ産業界の作り出す量では、喪失した分を補充する事すら出来ない状態だった。

 

 そしてイギリスへの援助に見られるように、当時のアメリカは誤算と憂鬱の中にあると言われていた。

 

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